…ひとつだけ、聴いてみたい事が、あった。
月の光だけが、室内を埋める。
その光が見たくて、京一は重たくなってる瞼を無理やり開いた。
その途端、自分の瞳に飛びこんできたその横顔に、京一は少しだけ目尻を赤く染めた。
隣で眠る犬神の規則正しい寝息を聞きながら、ふと京一は思った。
いつも自分が先に眠ってしまうので、犬神の寝顔を見るなんて事なかったのだ。
こうして改めて見てみると、何だか妙な気持ちになってくる。
他人の目を惹く程の美形という訳じゃない。でも、自分は不覚にもこの顔に目が離せない。
ちゃんと剃らないそのヒゲも。口付けられるとあたる牙も。眼鏡の下にある夜の闇に溶ける瞳も。全部ずっと、見ていたい。
そしてずっと、触れていて欲しい。
「…何、考えてんだ…俺……」
自分が考えた事のあまりの恥かしさに、京一は照れ隠しの為に頭をぽりぽりと掻いた。
別に誰が見ているという訳じゃ、ないけれども。
それにしてもこうして自分が改めて犬神の事を考えているという事実が、ひどく不思議な気分だった。
いつも考える暇など無い程、犬神は自分の全てを奪ってゆく。心も、身体も。
そして全てが溶かされて、何も考えられなくなってしまう。
「…俺の事、好きか?…なんて…今更聞けねーよな……」
言葉にされた事など、一度も無い。そして自分が言葉にした事も。
気付いた時にはその腕の中に閉じ込められて、そして自分は何時しかその腕の中が心地よいと感じていた。
……この腕の中が…他のどんな場所よりも…暖かいと……。
そっと手を伸ばして、その髪に触れてみた。見かけよりも細くて指に馴染む髪。
違う、馴染むのはこの指がその感触に慣れたからだ。慣れた、からだ。
「………」
月の光よりも。ずっと、見ていたいと…思った。
ひとを愛するという、こと。
瞼を開いたら、自分を見つめている京一の瞳にかち合った。
その途端びっくりしたように瞳を見開くその顔が可笑しくて、犬神はくすりとひとつ、微笑った。
「どうした?蓬莱寺」
「なっ、なんでもねーよっ」
髪の毛から手をぱっと離すと、ぷいっと京一はそっぽを向いてしまう。
その目尻が赤いのが犬神の口許に柔らかい笑みを浮かばせる。
「何でもないのならばこっちを向け」
そう言って強引に自分へと向かせると、その唇を掠め取った。触れただけなのに、びくりと京一の身体が震えた。
それすらも、犬神には愛しい。
「これで目が醒めた」
「何だよっそれはっ!目覚まし代わりにそんな事すんなっ」
余程腹が立ったのか、京一は手元にあった枕を犬神に投げつけた。しかしそれを犬神は易々と受け止める。
その余裕が京一には気に入らないらしい。彼の顔が益々不機嫌になる。
「どうせ目を醒ますなら、お前の唇がいい」
「お前のって…俺以外にも……こんな事してるのかよ……」
「しているように見えるか?」
答えを聞く前に、そっと自分へと抱き寄せた。聞いてきた京一の瞳が、ひどく淋しそうに見えて。
そんな瞳は見たくなかったから。
「……見える……。だって俺はただのガキだし…お前に言い寄る女なんて…いっぱいいるだろう?……」
「ただのガキ相手にこんな事するほど、俺は暇じゃないつもりだが」
「……本当かよ?……」
「俺を信じられない?」
「大人は信じられねーよ」
「困ったな…信じてもらうには…どうすればいい?」
そう聞いた犬神に京一は。唇を開きかけて…そして。何故か困ったような顔をして、その唇を閉じてしまった。
ひとつだけ、聴きたかった、こと。
こんな時の犬神は卑怯な程に、優しい。
自分よりも何倍も人生経験を積んでいるせいか、それともこんなガキの扱いにはよっぽど慣れているのか。
「…どうした?蓬莱寺?」
耳元に囁かれて、京一の瞼が微かに震えた。耳から心に響いてきそうな程の深い、声。
そんな声で囁かれたら、意識すら溶かされてしまいそうになる。
「…お前…何で…俺を抱くの?……」
やっとの事で出た言葉は、京一にとって精一杯の勇気だった。
直接聞けばいいのにこうも婉曲な表現になってしまうのは、自分が素直じゃないからだ。
本当に何でこんなに思った事を素直に言えないんだろう。
「何故って、分からないか?」
「…分かんねーよっ…だから聞いてんだろう……」
これ以上言うのが恥かしくて、京一は犬神の胸に深く顔を埋めた。そんな京一の髪をそっと、撫でてやる。
「お前は本当にバカだな。そんな事も分からんか」
「バカって言うなっ!!バカってっ!!!」
反射的に顔を上げた京一に、犬神はその唇を奪う。今度は全てを奪うように…深く……。
犬神の牙が、当たる。不意にそれを噛みきってしまいたい衝動に駈られた。出来る訳はないけれども。
ただ何となく、悔しくて。
いつもこんな風に丸め込まれてしまうのが、悔しくて。どうやっても同じ所にまで行けないのが、哀しくて。
……どうしたら、追いつける?
「…お前なんか…嫌いだ……」
「それは、困る」
「困ってなんかねーくせに」
「困る、お前に嫌われるのは何よりも」
「……だったら………」
優しい、瞳。普段の犬神からは絶対に想像出来ない程の。優しい、声。多分その声を聴ける人間は…限られている。
そしてその中に自分が含まれている時間は、何時まで続いてくれるのだろうか?
何時までその瞳を、声を、自分に向けてくれる?
「…だったら……」
「俺を好きだって…言えよ……」
たったひとつ、聴きたかった、こと。
言葉だけでは全てを伝えることが出来なくても。
気持ちを伝える術が、言葉だけしかないのなら。
それしかないのなら。
……一度だけでいいから、本当の声を聴かせてほしい。
「…言わないと…分からないのか…お前は……」
苦笑混じりに犬神は言うと、真っ直ぐに京一を見つめた。その漆黒の瞳の深さに、京一は呑まれてしまいそうになる。
その瞳の底に映っているものは、自分だろうか?
「…分かんね…よ……」
俯きそうになるその顔を捕らえ。犬神は逸らすことのない視線を向ける。その瞳は痛い程真剣で。全てを貫く程、尖っていて。
全身に、突き刺さる。
「ならば、言ってやる。言わない方が…お前の為だと、思っていたがな……」
「何で俺のためになんねーんだよ」
「…言葉にしてしまったら…もう二度とお前を手放せなくなる……それでも…いいか?……」
その言葉は京一の予想外の言葉だった。いや、そんな事を言われるとは夢にも思わなかった。夢にも、思わない…。
「いいよ、言えよ。俺は……」
…ずっと一緒にいたいと…何時しか、思うようになっていた。でもそう思っているのは自分だけで。
自分だけが独り、そんな風に思っていると。だから。
「…俺はお前と…いたいんだから……」
ただ一度だけの、永遠。
無限の闇の中で見つけた、たったひとつの。
たったひとつの、大切な命。
それを護る為に今まで無駄に生き延びてきたと、そう思えるほどの。
生きる意味すら見失いかけてた自分の。
『約束』だけがこの生を地上に繋ぎとめていた自分の。
……たったひとつの永遠。
こんなにも自分から『生きていたい』と、そう思った事はなかった。
「…愛している……」
それ以上、犬神は何も言わなかった。そして京一もそれ以上聴きはしなかった。
聴きたかった事は、たったひとつ。
それだけが聴ければ、よかったから……。
ただ一度だけの、永遠。
それは夢よりも優しくて、約束よりも儚いもの。
そして哀しいほどに、愛しいもの。
End