たったひとつの嘘
――――声を届けてください。
死ぬことは怖いとは思わなかった。俺にとって『死』は開放されること。
黄龍の器の宿命から逃れられる唯一の方法。だから何時しか何処かで死を望んでいた。
…死にたかった……
死ねば楽になれると思った。
戦う事も、運命の輪も、全て。
全て、逃れられると思ったから。
宿命からも、運命からも、逃れられると思ったから。
長い髪が俺の頬に掛かる。俺の運命の女。俺が黄龍の器である限り、愛さなければならない女。それは運命が決めた、宿命が決めた。そこに俺自身の意思はない。黄龍の器と言う名を持つ以上、菩薩眼の少女を愛さなければならない。それが歴史。正しい世界の理。
「…龍麻…死なないでっ!」
綺麗な瞳に涙を零しながら言う言葉。それは俺が黄龍の器でなくても、告げられる言葉なのだろうか?告げられる言葉、なのか?
…可愛そうに…お前も…お前も運命に操られている…運命から逃れられないでいる…
俺はお前からそんな言葉も欲しくないし、そんな涙も欲しくなかった。
意識が、遠ざかる。
ああ、死ぬんだな。
やっと死ねるんだな。
やっと開放されるんだな。
―――瞼を閉じて最期に浮かぶのは、太陽のようなお前の笑顔。
…京一……
もしも後悔があるとしたら、それはお前だ。
お前の笑顔が俺を後悔させる。俺を死から遠ざけようとする。
陽だまりの匂いのする髪に触れるのが好きだった。
力強い腕に抱きしめられるのが好きだった。
その前だけを見ている瞳が、ふと俺に振り返るのが。
そんな瞬間が、大好きだった。
俺が…俺自身が唯一宿命に逆らったこと…それはお前を愛したこと……
子供を残すのがおぞましいと思った。
この黄龍の器の血を残す事が。
また俺のような運命に操られし者が生まれ。
そして宿命の為に消費されてゆく命。
そんな命を俺はもう二度と生み出したくはなかった。
…だから俺は誰も愛さないと決めていたのに……
それでも愛してしまった。よりにもよって男のお前を。
そしてお前は俺を愛してくれた。その腕に抱いてくれた。
女のように抱かれ声をあげる事に、何の抵抗感もなかった。
それが他でもないお前だったから。お前、だから。
――――俺はお前に全てをあずけた。
もしも黄龍の器が運命のものならば、緋勇龍麻は全てお前のものだ。
遠ざかる意識。遠ざかる声。
俺は運命の女の腕に抱かれ死ぬのか?
死に場所までも、運命から逃れられないのか?
―――京一…最期にもう一度…逢いたかった……
「…い…ち……」
手を、伸ばす。そこには何もないのに。
それでも俺は手を伸ばす。
見えないお前に手を、伸ばす。
…ああ、京一…俺はこんなにも死を望んでいながらも…お前を捜している……
死んで抜け殻になって、もしも魂だけになれたら。
なれたらその時はお前のそばを漂おう。
「―――龍麻っ!!」
伸ばした手に、何かが触れる。
強い手、大きな手、暖かい手。
…ああ…この手は……
―――この手は俺が…何よりも欲しかった手……
「…京一くん…貴方は最期の最期まで…龍麻を独りいじめするのね」
違う、美里。違うんだ。独りいじめするのは俺のほう。俺が京一を独りいじめするんだ。
「どうして貴方は私の運命を邪魔するの?」
「運命?そんなモノ龍麻は望んではいない。分かるだろう、美里?」
京一…お前だけは…分かってくれる…俺を分かってくれる……
「分からないわ」
「―――分からないか?ならば」
「死ね」
悲鳴が、聴こえる。俺の上に生暖かい液体が落ちてくる。ぽたぽたぽたぽたと。
――――殺したのか、京一?美里を殺したのか?
ああ、別にもうそんな事は俺にはどうでもいい事だ。お前が来てくれたからどうでもいい事だ。
生暖かい液体がそっと拭われて力強い腕に抱きしめられて初めて。初めて俺は、安堵感を覚えた。そして。そして迷う事なく思う―――これで、死ねると……。
声を届けてください。
最期の声を貴方に。
貴方に届けてください。
ただ一言を、貴方に。
「…龍麻…間に合って良かった…お前の声が聴こえたから……」
ただ一言、伝えて。
愛していると。
ずっとずっと愛していると。
死んでも、死んでからも。
貴方のそばを漂うから、と。
「…きょ…い…ち………」
もう視界が真っ暗で何も見えない。
それでも俺は笑った。精一杯笑った、そして。
そしてただ一言お前に告げる。
たったひとつの嘘を、お前に告げる。
「…生き…て……」
このまま俺が死んだなら。
お前にとって俺はただの想い出になるのだろう。
今はこんなにも愛されても月日がたてば色褪せてゆく。
時間の流れにひとは逆らえないのだから。
だからお前は何時しか俺を忘れ、その腕に他の人間を抱くだろう。
俺を見つめてくれた瞳で誰かを見つめ、そして愛していると囁くのだろう。
―――そんなのイヤだ……
イヤだから俺は嘘をつく。
生まれて初めてのそして最期の嘘を。
お前が気付いてくれると信じて。
気付いてくれると、信じて。
ただひとつのうそを、おまえに。
――――たったひとつの嘘を…貴方を信じているから……
「…バカだな龍麻…お前がいないのに俺が生きている意味がないだろう?……」
End