秋の気配
あれがあなたの好きな場所 港が見下ろせるこだかい公園
あなたの声が小さくなる 僕はだまって空を見てる
…どうしたら、伝わるのだろうか?
「…泣くなよ、先生…」
涙なんて、流すつもりは無かった。でも彼の顔を見た途端、瞳からぽたりとひとつ、雫が零れ落ちた。
「…村雨…」
その名を、呼んでみる。何度も呼んだ、その名を。それだけで胸が、苦しくなる。
「どうした?先生」
優しく返ってくるその声が、大好きだ。他人には決して聞かせる事のない、優しくて切なくなる、その声。
「…もう…」
自分だけにくれる、痛い程の優しさ。自分だけにくれる、苦しい程の腕の中。その全てが、大好きで。
「…もう…別れよう…」
大好きで、死にたくる。
目を閉じて息を止めて さかのぼるほんのひととき
こんなことは今までなかった
僕があなたから離れてゆく
僕があなたから離れてゆく
『どんなに好きでも。どんなに愛しても。どうにもならない事ってあるのか?』
その問いに自分は答える事が出来なかった。
『僕は、君が分からない。僕だったら…好きな人の手は絶対に離さない』
離したく、ない。村雨の自分を見つめてくれる眼差しも、包み込んでくれるその腕も。全部離したくない。
『僕はもう二度とその手を離さない。やっと見つけた僕だけを救ってくれるその手を』
でも。でも、今離さなければ…もっとこの先、自分が辛くなるから。
『…僕は、あの人を…好きなんだ…それだけじゃ、いけないのか?君だってそうだろう?…』
好きだ。誰よりも、何よりも、好きだ。好きで好きで、どうしようもないから。
『…それでも君は運命を選ぶの?…』
だから、さよならを告げる。大好き、だから。
たそがれは風を止めて、ちぎれた雲はまたひとつになる
「あのうただけはほかの誰にも うたわないでね ただそれだけ」
大いなる河のように 時の流れ戻るすべもない
「…言っている意味が分かんねーな、先生…」
指先が、涙をそっと拭う。その感触は言葉とはうらはらに優しい。またそれが、龍麻の胸を痛くする。
「別れ、よう…村雨…もう…」
上手く嘘が、いえない。声が、震える。瞳から雫が何度も溢れる。村雨にはそれが多分、分かっている。
「…もう、俺を好きじゃねーからか?先生…」
違う…そう首を横に振ろうとして、止めた。でも、そんな簡単な嘘など…見破られているに違いないけれど…。
「俺の事、好きなくせに、どーしてそんな事を言うんだ?」
そう言って抱きしめてくれる腕が、どうしていいのか分からない程優しくて。自分はその腕を拒む事が出来ない。
こんなことは今までなかった
別れの言葉をさがしてる
別れの言葉をさがしてる
ああ 嘘でもいいから ほほえむふりをして
突然言い出した別れの言葉を…本当は自分は予想していた。いや、分かっていた。こいつの性格ならそう、言い出すだろうと。
太古から巡る黄龍の器とそして菩薩眼。
離れる事の出来ない運命。世界を救うその運命。その事実を知ってしまったから、こいつは自分よりも運命を選択するだろうと。
自分の心を犠牲にしてまでも、他人を選ぼうとする優しい心。
この世の中を救うのがふたりの宿命ならば、自分を閉じ込めてもあの女を選ぶだろう。
…でも?
でも自分を偽って掴んだもので、本当に幸せになれるのか?
自分を犠牲にして積み重ねた嘘が、本当の優しさになるのか?
…そんな優しさなら、俺が砕いて、やる。
僕のせいいっぱいのやさしさを
あなたは受けとめるはずもない
こんなことはいままでなかった
僕があなたから離れてゆく
「それじゃあ、誰も救えねーよ、先生」
龍麻の髪を撫でながら、村雨は呟いた。その言葉に腕の中の龍麻の身体がぴくりと、震える。
「俺が好きなくせに別れて…どーするつもりだよ」
「…でも俺は黄龍の器だ…」
「だから俺と別れて、あの女と一緒になるのか?」
「…俺達は共に生きてゆかなければいけない…俺達は運命に選ばれた。だからそれに答えなければならない」
「けっ、運命なんてそんなものくだらねーよ」
「…村雨?……」
「くだらねーもんは、くだらねーんだよ。そんなんに縛られて何が楽しいんだよ」
「でも…世界を救えるのは…」
「世界なんて、どーでもいいんだよ。その前に自分を救わなきゃ、なんねーだろ?」
「自分を救う?…」
「先生を救うのは、俺だけだ」
それは絶対的な言葉、だった。
『…龍麻は、きっと君よりも運命を選ぶだろうね』
あいも変わらず涼しげな微笑を浮かべながら、あの骨董品屋は言った。すかした笑顔が気に入らない。
『君をいくら好きでもね。運命には逆らえないよ、彼の性格からすると』
そんな事は分かっている。そういう奴だ。自分よりも他人を優先する。それだからこそ、自分は惚れたんだから。
『だから君が逆らうしか、ないだろう?』
「先生が泣いていいのは、俺の前でだけだ」
また、雫が零れた。でももう龍麻にはそれを止める術を知らない。
「先生が我が侭を言っていいのも、弱音を吐いていいのも、俺の前でだけだ」
村雨の唇が、涙をそっと拭う。言葉遣いがどんなに乱暴でもぶっきらぼうでも、彼は優しい。とても、優しい。
「先生の背中に世界がかかっているなら、その自分自身を救わなくてどうするんだ?だから、俺がいる」
「…村雨……」
「運命なんて、捨てちまえ。てめーひとり幸せにならない世界ならば、救う価値なんてねーよ」
どうして…どうして、彼は自分が欲しい言葉をくれるのか?胸の奥に必死で閉じ込めて、隠した気持ちを。
どうして、剥き出しに、するのか?
「俺がいる。俺がいてやる。先生がどんなになっても絶対俺が傍にいるから。だから」
「もう二度と、そんな事をいうな」
…愛して、いる。
傍に、いてほしい。その両腕でずっと、抱きしめてほしい。
その声が、聴きたい。その瞳を見ていたい。
ずっと、ずっと、一緒にいたい。
「…傍にいて、いいの?…」
「俺がいいっていってんだ、いいんだよ」
「…運命に、逆らっても?…」
「そんなもん、俺が護ってやんよ。先生。俺が全部」
「…村雨が、好き…」
「…知ってるよ…そんな事…」
「…あい…してる……」
「…ああ……」
もう、言葉なんて、いらない。
なにも、いらない。貴方さえいてくれれば。
「…もう二度と、言わねーな…」
村雨の言葉に。龍麻は頷いた。
その顔は彼が今日初めてみせた、笑顔だった。
End