片翼の天使

…君だけは、この手で護りたかった。

片翼の天使。失った翼を求めて。
求めて辿り着いた先の真実が。
その真実が、君と僕を二度と戻れない場所に引き裂いても。
それでも、僕達の翼は互いの背中に生えている。

『生まれる前きっと俺達の魂は、ひとつだったんだね』

…僕の身体が、僕の心が、穢れるから。
だから君だけは、綺麗でいて。
君だけは、何者にも穢れずに無垢なままでいて。
…君だけは永遠に……

その瞬間、俺は死んだのかと…思った。
死の誘惑は何時も背中合わせの存在だった。生きなければと思いながらも、心の何処かで死ねたら楽になるかもしれないと…そんな事を何時も考えていた。
だから目の前にその『死』の瞬間が訪れた時、俺はひどく静かな気持ちでそれを受け入れていた。
『…ああ…これで俺は楽になれる……』
言葉にしようとして、それを押し止めた。楽になれると思う反面俺は瞼の奥に焼き付いている人物の顔を思い浮かべて。
誰よりも何よりも先に。真っ先に思い浮かべたその顔に…俺はひどく泣きたくなった。

『先生、俺のものになれよ』
ひどく自信満々に言い放ったその顔がひどく憎たらしく感じた。けれどもその反面…俺は胸が震えるのを抑えきれなかった。
『…俺だけの、ものになれよ。先生…』
強引に口付けられて、拒めなかった自分。腕の中に抱きしめられて、瞼が震えた自分。
…ああそうか…俺は…俺は村雨が好き、なんだ……
そう思ったらひどく哀しくなった。ひどく苦しくなった。
俺は誰のものにもなってはいけないのに。俺にとっての半身は別にいるのに。それなのに。
…それなのに俺は今、どうしようもない程に…こいつが好きだと思った。

「…むら…さめ……」
死ぬと思ったらやっぱり最後になってお前の名前を呼ぶ事になった自分が…自分が哀しかった。お前の前では何一つ素直になれなかったのに。何一つ俺は本当の気持ちを言えなかったのに。それなのに今になって。今になって俺はお前の名前を呼んだ。
「…龍麻…大丈夫?」
けれども返ってきた声は村雨の声じゃなかった。俺がよく知っている人物の声。俺の半身。俺の…もうひとつの魂。
「…み…ぶ……」
俺の身代わりに穢れた運命を背負ったお前。俺が受けるべき罪も罰も穢れも醜さも全て。全てお前が受け入れた。俺だけに綺麗な未来を与え、お前だけがその手を血に染める。
「俺…死んだのかと…思った…」
「死なせない、君だけは。絶対に僕の全てに懸けて」
壬生の額から背中から血が、零れてきた。俺が受けるべき傷をその身体全てで盾になった彼。
…どうしてお前はそこまでして、俺を護るの?
「僕が村雨の元へ君を帰してあげるから」
ぽたぽたと頬にお前の血が当たる。俺が穢した。俺が傷つけた。俺が壊した。大事なのに。俺にとって何よりも大事なのに。大切な全てを共有出来る唯一の魂。
お前だけが、知っている。俺の哀しみを。俺の痛みを。俺の淋しさを。
…だってそれは全てお前が俺の変わりに引き受けて来たものだから……

僕の身体は、穢れている。僕の手は、血にまみれている。
ひとを殺して。ひとを傷つけて。
あの人に身体を差し出して。あの人の腕に抱かれる。
でも、平気。君を護れるならば。
君がその手を穢すくらいなら、僕の手を血まみれにさせる。
君の身体が誰かのものになるくらいなら、僕がこの身体を差し出す。
僕が望んでしたこと。
拳武館の暗殺者になったのも。館長の愛人になった事も。全部。
全部僕から望んだこと。
…君を護れるならば…君が綺麗なままでいてくれるなら。
僕はどんなことでも、出来るから。

…君の綺麗な未来を…護る為ならば……

「…壬生…血が…血が出ているよ…」
手を伸ばしてその額に触れてみた。指先に伝わる生暖かい感触。お前は命さえも俺の身代わりに差し出すとでもいうのか?
「平気だよこんなの…かすり傷だ……」
「ダメだっお前が死んだら…死んだら哀しむ人間がいるだろう?」
その言葉に一瞬だけ壬生の身体がぴくりと反応したが、それは本当に一瞬だった。次の瞬間には何時もの…何時もの淋しい笑顔を俺に向けた。
「君が哀しんでくれれば…いいよ…」
「…壬生……」
「僕は君に『黄龍の器』を押しつけた。こんなに重い立場を君に…だから…僕は永遠に君からは許されない…」
「違うっ…俺は…俺こそ…お前をこんな風にしてしまった…」
…翼…俺のもうひとつの、翼。俺のもうひとつの、魂。引き裂かれた、翼と魂。どちらの運命もふたりで共有すべきもの。どちらの運命もふたりのもの。なのに…なのに何時から俺達はこんなにも遠い場所へ来てしまったのか?
…何時の間に俺達はこんな場所へと辿り着いてしまったのか?
「お前をこんなにしてまで…俺は『黄龍の器』でいるべきなのか?」
なにも知らない子供の頃。俺達はまるで双子の魚のように深い水底で眠っていた。なにも知らずに。なにも分からずに、ただふたりで。静かに、静かに、眠っていた。
信じていた。太陽は永遠に沈まないと。子供の時間は永遠に刻まれてゆくと。
…信じていた。俺達はずっと。ずっと一緒だと……
なのに何時から…何時から…俺達はこの水底から、引き上げられた?
「僕は君を護れれば…それでいいんだ。僕の身体はその為に存在するんだから」
共有していた、時間。共有していた、魂。何時からそれはふたつに引き裂かれた?
表の龍と裏の龍。誰がそれ決めた?誰がそれを押しつけた?
俺達はただずっと子供のまま。このまま静かに眠っていたかっただけなのに。
「君が生きて、幸せならそれでいいんだ。だって君は、僕だから」
「…壬生…」
「君が幸せなら、僕も幸せなんだよ」
「人を殺しても?」
「君の手が、綺麗ならば」
「館長に抱かれても?」
「君の身体が、穢れなければ」
「俺が村雨を…愛していても?……」
「君が幸せでいてくれるのなら」
もう、戻れない。あの頃には、戻れない。
…俺のこころが、村雨を求めていると…気付いたから……そして。そして…
「…壬生…ならば…ならば君の『幸せ』は?…」

差し伸べられた手を、握り返す事は僕には出来なかった。
僕の背中のなくした翼は、貴方の背中にはない。
だって貴方の背中には眩しい程に綺麗な両翼の翼がはえているのだから。
僕が『ひとり』の人間になれない限り、彼も『ひとり』にはなれない。
互いの翼が互いの背中にはえている以上、僕らは離れる事が出来ない。
そして僕は絶対に貴方よりも彼を選んでしまうから。
どんなに僕のこころが貴方を求めても。
僕は貴方よりも彼を選ぶから。それでも。
それでも貴方から手を差し伸べてもらえる程。
…僕は立派な人間じゃない……

「君が幸せでいてくれる事」
それは僕にとっての唯一の真実で、そして唯一の嘘だった。君の幸せ、君の笑顔。僕はそれを護る為だけに生きてきた。それを護る為だけに死ななかった。けれども。
「それは…ムリだよ…壬生…」
けれども僕は何処かで。何処かで。
「だってお前が幸せにならないと、俺も幸せになれない」
何処かで、違う理由を選んでいる。貴方を見つめる事。貴方の声を聞く事。貴方の瞳に映る事。
…心の何処かで思っていた…その為に生きていたいと……
「…壬生…好きだよ…」
「僕もだ、龍麻」
「好きだよ、大事な大事な俺の半身。お前だけが…お前だけが俺の真実を全て知っている」
君が綺麗でいてくれれば、僕は救われる。僕が穢れた分だけ、君が綺麗でいてくれれば。それだけで僕は、救われる。
「だから…お前の真実も…俺にだけは分かるから…だから壬生…もう…」
救われているんだ、龍麻。君は僕にとっての唯一の聖域。神よりも僕は君に跪く。でも、それは。
「…もう…俺に捕らわれないで……」
…ああ、君は…そこまで僕の事を見透かしていたんだね……

君のことを考えていれば。
他の事を考えなくてすむから。何も考えなくてすむから。
君のことだけを考えていれば。
この胸の奥底から来る痛みや傷に、目を閉じることが出来るから。
君の為に生きていれば。
ひとを殺す事も、あのひとに抱かれる事も、苦しくないから。

…君の為だけに…生きていれば……

俺達はずっと。ずっと共有していたから。
互いの哀しみを。想いを、傷を。
共有していたから。
だから分かるんだ。お前のことは。お前が俺のことを分かるように。
俺が村雨を求めたように、お前が違う者を求めている事を。
俺達が『真実』に気付いた時。
…俺達はもう二度と戻れない場所まで来ていたんだ……

「生きろ、壬生。俺は村雨にもう一度逢う為に死なない。だからお前も…お前も生きるんだ」
「…龍麻……」
「生きろ、壬生。逢いたい人がいるだろう?」
その言葉を僕は否定出来ない。こんなになってまでも、心の片隅でやっぱり貴方を求めてしまう。追いかけてしまう。それがどんなに愚かな事か分かっていても。
「…逢いたい…僕は…」

「…あのひとに…逢いたい…」

『紅葉』
綺麗に微笑う、貴方。何よりも優しい笑顔で微笑うから。だから僕は何時も。何時も貴方を真っ直ぐに見れない。
『紅葉、僕は君が好きだよ』
真っ直ぐに見れなくて俯くと、貴方はそっとその指先で髪を撫でてくれた。そして。そしてゆっくりと抱きしめてくれる。
『君が誰のものでも、君が誰を想っていても。僕は君が好きだから』
抱きしめてそして、口付けをくれる。優しい触れるだけの口付けを。何度も、何度も僕に。
…僕に、くれるから…
『君だけが好きだよ、紅葉』

…僕も…如月さん…貴方が…好き……

「生まれる前きっと俺達の魂は、ひとつだったんだね」
差し出した君の手を僕はそっと握った。そこから広がる互いの温もりが、何よりも愛しい。
「…うん…龍麻…」
それはこころよりも魂よりも、もっと奥底に眠る本能のようなものが自分達に伝えた。
「僕達は…ひとつだったんだね…」
愛よりも恋よりも情よりももっと深い、深い絆。それは誰にも切り裂く事は出来ないもの。
「でも俺達はもう、子供じゃない。子供のままではいられない」
無邪気な何も知らなかった、ただ幸せな子供の時間。ふたりで何もかもがひとつだった、ひとつだったその時間。
「うん、そうだね。もう僕らは戻れない」
でも太陽は沈む。時間は流れてゆく。あの時と背の高さが違う、指の形が違う。そして僕らは。
「さよなら、龍麻」
「…壬生……」
僕らの『子供』は、殺される。大人になる為に。引き裂かれた魂が『ひとり』の人間になる為に。
「ああ、壬生…さよならだ…」
僕らは一度だけ。一度だけ、口付けた。それは最初で最期のキス。子供の時間に終わりを告げる為に。僕らが大人になる為に。
……僕らが『ひとり』になる為に………。

片翼の、天使。
僕らの背中には片一方羽根が無い。
それは互いの背中にはえているから。だから。
だから僕らは違う道を歩んでも。
もう二度と戻る所が出来ない場所に辿り着いても。
それでも、僕らは。

…魂の奥底は、繋がっているから……

「…さよなら…子供だった俺達……」




End

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