生まれてきた事の、意味
何故生まれてきたのかなんて…考えた事が無かった。
この世に生を受けて、ただ時間の中に流されて。穏やかに生きてゆくのだとぼんやりと考えていた。けれども。
けれどもそんな考えはいとも簡単に壊された。
『黄龍の器』その一言が、自分を。自分の廻りを取り返しのつかない方向へと流れさせた。突然訪れた逆流が俺達の平凡な日常を飲み込み。そして、そして遠い所へと俺達をさらっていった。
…取り返しのつかない場所へと俺を、さらってゆく。
助けて欲しいと…心で叫んで。叫んだら誰かが助けてくれるのか?
「先生」
呼ばれて振り返った先に、見慣れた村雨の顔があった。この男は何時も、何時も平然としている。どんな時も、どんな事があっても変わらない。
「何見てんだ…先生…」
それが羨ましくもあり、妬ましくもあった。『黄龍の器』その一言がどれだけ俺を縛りつけて、どれだけ俺を苦しめているのか…。
でも口に出す事は、出来ない。もしもそれを一度口にしてしまえば、その言葉の重さに耐えきれずに俺は壊れてしまうのだろうから。
「夕日だよ、村雨」
そう言うと村雨は俺の隣に腰掛けて、俺の視線を辿るように空を見上げた。真っ赤な夕日に照らし出されたその顔は、いやになるくらい落ちついていた。
どんな事が起きても何時も人の輪から少し離れた所で、冷静に状況を静観している彼。まるで何事にも関心がないように。けれども何時も。何時も気付けば必ず、誰よりも危険な位置で戦っている。全てに関心がないように見せ掛けて、けれども誰よりも仲間を思っている。
そんな彼だからこそ…だからこそ、俺は……。
「綺麗だなー。こんな夕日見てるとイヤな事全て忘れられそうだぜ」
「村雨でもイヤな事、あるの?」
…無意識に…いや多分無意識じゃ、ない……。
「そりゃーあるぜ。俺だって人間だからな」
くすりと笑う顔が、ひどく大人の顔に見えて。何故かその事が、胸を締め付けた。
『君は気付いて、いるのだろう?』
あいも変わらず綺麗な顔をひとつ崩さず、あいつは言った。俺は何時もその表情ひとつ崩さない顔が嫌いだった。
『お前に言われるまでもないぜ、如月』
お前の顔が崩れる瞬間があるのだろうか?そんな事を考えつつも、俺はその問いに答えた。お前に言われるまでも無い。俺が一番知っている。
…だって、誰よりも傍にいるのだから……
『だったら早く助けるんだね。壊れる前に…龍麻の無言の声を聴けるのは君だけだ』
『へっ当たり前だ。先生は俺が護る』
言ってみてひどく気恥ずかしくなった。何を俺は言っているのだろうと。本人にすらまだ告げていない言葉をよりによってこいつに言うとは…。
『ならば安心だ。龍麻は君に任せるよ…これで僕は…飛水の呪縛から逃れられる…』
『お前に言われるまでもねーよ。それよりもどういう事だよ、それは?』
『僕にも…無言の声を聴く相手がいるという事だよ……』
その時俺は初めて、この男の『表情』を見た気がした。初めて如月の生身の顔を見た…。
一本の細い糸。その上に俺は立っている。
それは何時切れるのか分からない程不安定で、そして弱い。
その上を俺は一人で渡っている。
…誰か俺がそこから落ちた時に…受け止めてほしい……
そう思う事すら、俺には許されない事なのか?
運命に、押しつぶされそうだ。
ひとが、死にました。たくさんのひとが。
俺の為に、死にました。
俺を護る為に。俺を助ける為に。
たくさんのひとが、死にました。
でも俺は。
俺はそのひとたちの命を奪ってまでも、生きる価値のある人間なのでしょうか?
そのひとたちの人生を奪ってまで。
生きる事が許されるだけの人間でしょうか?
「村雨のイヤなことなんて…想像付かないな」
微笑う顔。でも瞳が泣いている。その事に先生は気付いてはいない。きっと自分では楽しそうに微笑っているつもりだろう。何時ものように楽しそうに。
でも気付いてしまったから。先生は微笑っていない事に。
顔で微笑いながら、瞳で泣いている事に。こころで、泣いている事に。
「ひでーな、先生。これでも俺はナイーブなんだぜ」
「村雨が?信じられないよ」
声に出さずに、先生が叫んでいる言葉を。涙を流さずに、先生が泣いている事を。俺だけが…俺だけが、気付いたから。
「本当だぜ…だから何時も肝心な事が言えない……」
…俺だけが…その声に、気付いたから……
『…声にしなくても、言葉にしなくても…伝わる事はありますよ』
俺にとって彼は鏡だった。表と裏。陽と陰。光と影。でも一番深い部分は一緒だった。
『壬生の心の叫びは…誰かに届いたの?』
だからこそ、分かる事がある。俺達は同じだから。同じ孤独を抱えて、同じ癒しを求めている事を。けれども、俺達の選んだ道は違っていた。
『さあ、どうでしょうか?』
そう言って壬生は微笑った。何時もの消えそうな儚い笑みではなく何処か…何処か満たされた笑みだった。
…ああそうか…壬生の声は誰かに届いたんだね。壬生の無言の哀しみに気付いたひとがいたんだね。独りではないと。独りではないと、分かったんだね。
『龍麻、君が望むものは何?』
自ら選んで闇の中で生きてきたお前と、望まずに光の中に差し出された俺。どちらが幸せで、どちらが不幸なのか?
『…俺は…』
何を言おうとしたのか。その先の言葉を…。でも言えない。言ってしまったら俺はきっと崩れてしまう。壊れてしまう。
『一度壊れてみるのもいいかもしれませんよ。それでも人は【再生】出来るのだから。そして必ず君に手を差し伸べてくれる人は…いますよ……』
差し伸べられる手。それを思った時、俺の脳裏に浮かんだのは…たったひとりだけだった。
瞼の裏に浮かぶのは…たったひとりだけ。
それに気がついた時、俺はどうしようもない程悔しかった。
悔しくて、悔しくて、悔しくて。
そして、そして本当に泣きたいとそう思った。
今までの『自分』が全て崩壊してしまう程の恐怖。そして、壊れたいと思う誘惑。
「肝心な、事?」
見つめ返した先の思いがけず真剣な村雨の瞳に、逆に俺の方が戸惑った。その真剣過ぎる瞳が、俺の全身を貫いてゆく。
貫いて心臓の一番深い部分に突き刺さった。
「肝心な事だよ、先生」
突き刺さった心臓から透明な血が、流れたような気がした。ズキズキと開いた傷口が痛みを伴って全身に広がって、どうしようもない程に疼いた。
「肝心な事だ。俺が何時も言おうとして言えなかった言葉だ」
その言葉を聴きたいような聴きたくないような、どうしようもないもどかしさが自分を襲う。どうにも出来ない…想いが……。
「聴いてくれるか?先生」
…イタイと、思った……
胸が心臓が心が貫かれて。痛いと思った。ただそれだけを、思った。
「…好きだぜ、先生……」
ひとは独りでは生きられないのだから。
だからこそ、手を差し伸べる。
ひとりで出来ない事でもふたりでなら出来るから。
だから手を、差し伸べる。
それは決して恥かしい事じゃない。
「…う、そ?……」
無数の屍の上に成立している俺の命。
こんな命でもお前は必要としてくれるのか?
こんな俺、でも?
「俺は嘘だけは言わねーよ。特に先生にはな」
差し出される大きな手。広い腕。何時しか俺の身体はその腕の中に閉じ込められる。
「先生だけには…嘘は…言わねーよ…」
優しい、腕の中。優し過ぎる腕の中。何よりも広くてそして暖かい場所。
「だから先生…俺の前でだけは…強がらないでくれ……」
…ここは……ここは、俺の場所…なのか?
無言の、叫び。心の声。
俺には何時も聴こえていたから。
『…助けて…』と。
俺には、聴こえていたから。
お前が運命に押しつぶされそうになった時、その手を引き上げるのは俺だけだ。
本当は、怖かった。
怖くて怖くて、どうしようもなかった。
何時しか『黄龍の器』は『俺自身』を越えて一人歩き始めた。
『俺自身』の心は何処かに置き去りにされて。
誰もが望む救世主へと、その姿を変貌させていた。
皆が望む、自分。皆が求める、自分。
俺は何時しかそれを演じなければならなかった。演じ続けなければならなかった。
怖いとか、辛いとか、哀しいとか。そんな言葉を言う事は許されない。
俺の為に集まってくれた仲間達の期待を裏切れない。心配を掛けられない。俺は誰よりも先に出て、誰よりも強くなければならない。身体も、こころも。
でもそうあろうとすればするほど。そうしなければならないと思いこむほど。
俺の心は、こわれてゆく。
『俺自身』のこころが、壊れてゆく。
助けて欲しかった。
誰かに助けて欲しかった。『俺自身』のこころを助けてほしかった。
俺だってひとりの人間だから。
…本当は臆病で弱くて脆い…ただの人間、だから……。
羨ましかったのは、妬ましかったのは。本当は。
本当はお前を好きだったから。
好きだったから、反発していた。本当は。
…本当はずっと…お前の腕を…求めていた……
『…助けてほしい…』と。
こころの底から求めていたのは、お前だけだった。
「ごめんな…もっと早く言えばよかった…」
誰よりも傍でお前を見つめていたのに。
誰よりも近くでお前を。お前だけを見つめていたのに。
どうしても最期の一言を言い出せなくて…
言い出せなくて、ごめんな。
でも俺だって少しは不安だったんだぜ。
この俺に向けてくれる想いがもしかしたら俺の思い込みなんじゃないかって。
バカみたいだけど…そう思っちまったんだ。
だってお前は全ての人に愛されているから。
「…先生…先生に触れても、いいか?」
「…村雨……」
「…祇孔って呼んでくれよ…先生…」
「…し…こう……」
村雨の大きな手が龍麻の頬を包み込む。そしてそのまま拒まない唇をそっと塞いだ。
生まれて初めて口付けをしたように、龍麻の瞼が震えた。
生まれてきた事の、意味。
例え俺が『黄龍の器』として、この地を護る為に生を受けたとしても。
『俺自身』のこころは。
俺自身が生まれてきた事の、意味は。
お前に出逢う為だったと、信じたい。
「…祇孔……」
この腕があるかぎり。この人がいるかぎり。俺はもう。もう何も怖くはない。何一つ怖いものは、ない。
「ん?先生」
もう何も、怖くはないから。
「好きだ、祇孔」
「ああ俺も。俺も先生だけを…愛しているぜ……」
この腕の中が俺の、居場所だから。『俺自身』の場所だから。
「そーいや今日って…」
「どうしたの?」
「俺の誕生日だった」
「えっ?!そうなのおめでとう、祇孔」
「ありがとうな、先生」
「あ、でも俺何もプレゼント用意してない」
「プレゼントならもう、貰ったぜ」
「え?」
「…『先生』って言う大きなプレゼントを…貰ったからな…」
End