ひとを愛するという、事。

…あのひとに抱かれた後に、貴方に逢うのは嫌だった。

身体中に刻まれた所有の跡が。中に吐き出された白い欲望が。自分の存在を穢れたものだと自覚させられて。自分は彼とは違うと、思い知らされて。
自分の穢れが貴方に移る気がして。綺麗な貴方を穢している気がして。
…だから貴方に、逢いたくなかった……。

何度シャワーを浴びても、決して流す事が出来ない。決して消える事は無い。
「ごめんね、こんな時間に呼び出したりして」
そう言って微笑う貴方の笑顔は、哀しいくらいに優しい。その優しさに触れていたいと思う反面、自分には与えられる資格がないと思う。その優しさに触れる、資格が。
「…いいえ、いいんです。僕が読みたいって我が侭言ったから」
「そう言ってもらって安心した。はい」
そう言って渡された本の表紙をぼんやりと見つめる。最近ではどっちが目的なのか、分からなくなってしまった。このひとの本が読みたいのか。それとも…この本の持ち主に逢いたいのか。
…最初は…この人の家にある沢山の珍しい本に惹かれた。図書館でも見当たらないような本の数々に、忘れていた子供の頃のような好奇心を憶えた。けれども。
けれども、今は。本を借りる事よりも…貴方の顔が見たいと…思っている。
「紅葉、君は今日ご飯は?」
名前を呼ばれるたびに胸の奥が熱くなる。こんな風に優しく自分の名前を呼んでくれるひとは、母以外知らなかったから。そして。そして名前を呼んでくれる筈の母は今、言葉すら発する事が出来ない。
「…あんまり、食べてません……」
正直、食事は出来なかった。元々物を食べると言う行為に無頓着だったが、この頃それに拍車が掛かっている気がする。あの人に奢られても、殆ど口にする事が出来なかった。
「ならば一緒に食事でもしようか?僕が何か奢るから」
「それなら何か、僕が作りましょうか?」
言ってから馬鹿みたいだなと、思った。何だか女みたいだと。それでも自分の作った物をこの人に食べて貰いたいと、そう思って止められなかった。
「え?」
彼にしては珍しい程驚いた顔で自分を見つめた。何時も余裕な笑みで微笑んでる彼には、本当に考えられない程の顔で。でも。
「奢ってもらうのは忍びないですから。僕でよければ何か作りますよ」
そう言った自分に向かって…彼は本当に苦しい程綺麗な笑顔を…くれて。
「君の手料理が食べられるなんて…嬉しいよ……」
切ないくらい優しい言葉を、くれた。

白い鎖骨から見え隠れする紅い所有の跡に、激しい程の嫉妬を憶えた。
君が今まで誰と逢っていたか。君が今まで誰と何をしていたか。
…今君を抱きたいと言ったら…君は僕を拒絶するだろうか?……

「ごちそうさま、美味しかったよ」
同じ一人暮らしとはいえこんなにも家庭環境が違うと、差が出るものなんだと如月は関心せずにはいられなかった。壬生の料理はお世辞抜きにして本当に美味しかった。
「…貴方の口に合って…良かったです……」
一瞬、ほんの一瞬壬生は子供みたいに無邪気な顔をした。その瞬間の顔を如月は永遠に瞼の奥に閉じ込めたいと…そう思った。
「自分の為に作る料理は楽しいと思わないですけど…他人の為に作る料理は、楽しいですね」
冷たいフローリングの床の上に、壬生はじかに座り込んだ。ソファーに座る如月は彼を見下ろす状態になる。
「だったら毎日でも作りに来て欲しい」
…多分、わざとだろう。わざと見えるか見えないかの場所に、キスマークを付けたのは。そしてそれを自分が見つけるのを、計算済みで。
「毎日、ですか?」
あの男が自分と彼がこんな風に逢っているのを、気づいていない訳がない。そして自分がどんな気持ちで、彼と逢っているのか。だからこそ。
「そうしたら僕は、余計な事を考えなくて済む」
だからこそ、自分は。それを見過ごすなんて事は…出来ない……。
「如月さん?」
「君が僕の知らない所で誰と逢って、何をしているのか…考えなくてすむ…」
彼の身体が明らかに、震えた。それは如月でなくても分かる程に。でももう、後に引く事は出来ない。
「…何を…言っているんですか?……」
震えそうになる声と身体を必死に押さえて、壬生は言った。しかしそれを如月が見逃す事は、絶対にありえない。
「君が、好きだよ」
如月はソファーから立ち上がると、座ったまま動けない壬生の身体を強引に抱き寄せた。
「如月さんっ?!」
驚愕に見開かれた瞳を残像にして、壬生の唇に口付けた。彼の腕が自分を引き剥がそうと背中に廻る。しかし構わずに如月はその唇を奪った。
「…やっ…んっ……」
激しく、そしてひどく優しく。そして、蕩ける程甘く。何時しか壬生の腕はすがるように如月の背に抱きついていた。
「…んっ…ふぅ……」
舌で唇をなぞり口を開かせると、その中に如月は自らの舌を忍び込ませた。そして脅えて逃げる壬生の舌を捕らえると、それを絡ませる。
「…ふ…んんっ……」
意識が溶かされてゆく。こんなに甘い口付けを壬生は、知らない。あのひとは…館長は、自分に口付ける時は何時も義務的だから。ただ快楽を貪る為の儀式でしかないから。でも。でもこのひとのキスは、こんなにも甘くて、こんなにも激しい。
「…はぁっ……」
やっと唇が開放される。その瞬間に唾液が糸を引いて、壬生の首筋に流れた。それを如月の舌が丁寧に辿る。
「…あ…やめっ…如月さん…」
舌が口許から顎そして首筋へと流れてゆく。そこまで辿り着いて、壬生は必死に如月を引き剥がそうとした。しかし如月はその行為を止めない。
「…止めてっ…お願い……」
それ以上は…それ以上は…あの人が刻んだ所有の証が暴かれてしまうから。だから。
「止めてほしいのは、僕が相手だから?それとも‘これ’を見られたくないから?」
「…あっ…」
先ほどから見え隠れしていた紅の跡に、如月は軽く歯を立てた。そこから広がる甘い痛みが、壬生の身体を震わせる。
「あの男には身体を差し出すのに…僕と寝るのは嫌なのか?…」
…その言葉に…彼はひどく傷ついた瞳を、向けた……。分かっているこれは卑怯な言葉だと。でも止められなかった。胸に渦巻く嫉妬の炎を止める事が出来なくて。
「やだっ…如月さん…やめてっ!」
如月は自らの制服のネクタイを外すと、それを壬生の両腕に縛り付けた。そうして動きを封じる。
「あの男には好きにさせるのに…どうして僕は駄目なんだ?」
「…やぁっ……」
如月の手が強引に壬生のワイシャツを引き裂いた。その途端ボタンが弾けて如月の頬に当たって血が流れたが、構わず行為を続けた。
「…駄目…如月さん…血が……」
縛られて外せない手首を無理に動かして、壬生は如月の頬に触れようとした。けれども不自由な腕ではそれは、叶わなかったが。
「…貴方の顔に…傷が……」
それでも、触れようとする指先。その指先に堪らずに如月は口付けた。
「…君が…好きなんだ…どうしようもない程…あの男に君を渡したくない」
「…如月…さん……」
「誰も君に、触れてほしくない……」
如月はそのまま壬生に再び口付けると、そのまま彼の身体を抱き上げてベッドへと運んだ…。壬生はもう、抵抗しなかった。

冷たいシーツの感触に一瞬壬生の身体が竦んだが、その上に覆い被さってきた如月の体温が、すぐに壬生を暖めた。
「…電気…消して…ください……」
「どうして?」
「…あの人の付けた跡を…貴方に見られたくない……」
壬生の腕を縛っていたネクタイはすぐに解かれた。その途端、壬生は如月にしがみ付いた。今はただこの人を離したくないと。それだけが自分の思考の全てになっていた。この広い背中を、この優しい腕を。その全てを離したくなくて。
「駄目だよ、紅葉。電気は消さない。その跡を全部、僕が辿るから」
「…如月、さん……」
「君を僕だけのものにするから」
その言葉を実証するように如月の指が、舌が、その跡を辿る。まるであの男の残像を消し去ろうとでも言うように。全てを洗い流そうとでも…言うように……。
「…あ…ぁ……」
如月に触れられるだけで、こんなにも身体の芯は疼いた。そのしなやかな指が自分の身体に触れるだけで、それだけで背中からざわざわと快楽が押し寄せてくる。
「…はぁ…如月…さん……」
全身に降り注ぐ口付けの雨と、それを辿るように触れる指先の感触が、壬生の凍っていた何かをじわりと溶かしてゆく。あのひとに初めて抱かれた時に、凍らせて閉じ込めたそれを。そっと、溶かしてゆく。
「どうしたの?紅葉」
見つめる瞳の優しさと、真剣な眼差しに。その全てに壬生は溶かされてゆく。溶かされて、そして…そして?
「…きさら…ぎ…さん……」
そして、自分は剥き出しにされる。裸の心を魂をこのひとによって暴かれる。一番弱くて脆いその部分を。
「…僕を抱いたら…貴方が後悔する……」
「どうして?」
「…僕を抱いたら…貴方が……」
…抱いて、欲しいと…思う。このひとの腕の中に抱かれ、そして。そして眠りたい。けれどもそれは自分が望んではいけないもの。この人の腕を、心を望む事は許されない事。
「…貴方を失いたくない……」
それだけが自分の、望みだった。どんな形でもいい、このひとを見ていられるのならば。自分がどうなっても構わなかった。自分なんてどうなったって。
だから想いを告げずにいた。館長に身体を差し出す事を止めなかった。それがこのひとを愛した自分の、償い。それだけが自分に、出来る事。だから。
「僕は、貴方を失いたくない」
ただ貴方を好きなだけで。それだけで、貴方を危険にさらしてしまうから。
「…紅葉……」
「…貴方を護るためなら僕は何だって出来る…あの人の命令で人を殺す事も…あの人に抱かれる事も…僕にとっては…同じだから…」
…貴方を愛した事が…僕の罪だから……
「貴方が生きてさえくれれば…貴方が幸せでいてくれれば……」
「…でも、紅葉……」

「僕の幸せは、君以外に叶える事は出来ないよ」

どうして、かな?
ただ僕は貴方を好きなだけなのに。
それだけなのに。
どうして?
こんなにも貴方を苦しめてしまう。
ただ好きなだけなのに。
ただ貴方の笑顔が見たいだけなのに。
そんな望みすら。
僕には願ってはいけないものなのですか?

「…どうして…貴方をこんなにも好き…なんだろう……」
何時しか壬生の瞳からは一筋の涙が零れ落ちた。それを如月はそっと指で辿る。そしてそっと唇で、辿る。
「…僕は…貴方を苦しめるだけなのに……」
「君が僕を苦しめるのは、君が僕を拒むからだ。どうしてもっと…僕を信じてくれない?」
「…如月、さん?…」
「そんなに僕は頼りないか?君がそこまでしなければならない程。僕は君の苦しみを受け止める気持ちも、君をあの男から奪う自信もある。それなのに僕が信じられない?」
「違うっ!」
「どう違う、紅葉。僕は君のためなら命すら欲しくないのに。君のためなら何だってするのに」
「違う…僕はただ……貴方の手を汚したくないだけ……」
「…紅葉?……」
「…貴方が…」

「…貴方が綺麗なままでいて欲しいだけ……」

止められない涙がぽろぽろと壬生の頬に伝う。それを如月は全て自らの舌で受け止めた。そしてそっと抱き寄せて、その髪を撫でる。
「…あなたを…穢したくない…だけ……」
「……紅葉…君の愛し方は…哀しすぎるね……」
「…如月…さ…ん……」
「もっと違う愛し方を、教えたい」
「…いいんです…僕には…これしか…出来ない……」
たとえこの身がぼろぼろになっても。自分がどんなに血にまみれても、このひとが綺麗なままでいてくれる、なら。
「駄目だよ、紅葉。幸せになろう」
「…如月さん?…」

「僕と、幸せになろう」

その言葉は自分にとってどれほど甘美な言葉か。どれほど望んだ言葉か。でも。でもそれを受け入れてしまったら自分は…いや、このひとは?
「君がそれでも僕を拒むなら、僕は君を鎖で縛って閉じ込めるよ。永遠に」
「そんな事をしたら…拳武館の人間に……」
「構わないよ。あの男に渡すくらいなら君を閉じ込めて、そして僕だけのものにして、そして一緒に死のう。それでも駄目かい?」
自分を見つめるその真剣な眼差しに。その強い光に。眩しいその輝きに全てを奪われて。
「それでも、僕を拒む?」
全てを、奪われて…。
「…拒め…ない……」
初めから…無理だった。いくら心を閉ざしても、いくら瞳を閉じても。瞳はこのひとを追い駆け、心はこのひとを求めている。
…このひとだけを…ずっと……
「…拒めるわけがない…こんなにも…貴方が好きなのに……」
「ならば、拒まないで。紅葉」
降りてくる唇に、そっと壬生は唇を開いて受け入れた。忍び込んでくる舌に自らのそれを絡めて。自分から、彼を、求めた。

…こんなにも、こんなにも、貴方が好き、なのに………。

背中に廻した指先に力がこもる。爪が白くなる程強く。強くその背中にしがみ付いた。
「…ん…ふぅ……」
唇が離れたと同時に一筋の唾液が糸を引く。それすらももどかしくて、壬生は再び如月に口付けた。もう一瞬でも離れたくないというように。
「…んっ……」
壬生の髪を撫でながら、再び如月の指先がその身体を滑る。微かに赤味の差した身体は、確実に如月の指によってその熱を変化させていた。
「…あっ……」
ズボンを下着事剥ぎ取られ、その快楽のしるしを如月の前に曝け出す。もう壬生には堪える事など出来なかった。
「…あぁっ…」
そこに触れられるだけで、身体が鮮魚のように跳ねる。柔らかく包み込まれ先端に軽く爪を立てられた。
「…はぁっ…ぁぁ…」
「…紅葉……」
「…あぁ…きさらぎ…さん……」
喘ぎで乱れる声を必死に堪えて、壬生はその名を呼んだ。自分にとって唯一のひとの名を。
たったひとりの人の名を…。
「…もぅ…駄目……」
「イキたいなら、このままイッてもいいよ」
目尻に快楽の涙を浮かべながら、それでも壬生は首を横に振ってそれを否定した。もう限界はすぐに来ているのに。
「…やだ…一緒に……」
「…紅葉?……」
「…一緒に…如月…さん……」
壬生のしがみ付く腕がよりいっそう強くなる。それに答える変わりに如月はその舌で涙の跡を辿って、そして。
「…分かった、紅葉。一緒にイこう……」

「ああっ!!」
白い喉が綺麗に仰け反る。如月はそっとその喉元に口付けた。そして更に奥深くまで身を進める。
「…あぁ…あ……」
自分の中にいるのが他でもないこのひとだと言う事が、何よりも壬生の熱を高めてゆく。身体中全てが性感帯になったみたいな、そんな激しい熱さだった。
「…もぉ…如月…さ…ん…」
「そうだね、僕も限界だ」
くすりとひとつ、如月は微笑うと。その形良い額にそっと口付けて。そして。
それを合図にして、最奥まで彼を貫いた。

あれから何回抱き合ったのか、憶えていない。ただ、ただこのひとが欲しかったから。自分すらも忘れて何度も求めた。そしてそれに彼は答えてくれた。
浅ましいただの獣になって、女のように声を上げて。そしてその全身でこのひとを求めた。何もかもを忘れて、ただ。ただ裸の心のまま、このひとを欲しがった。

このまま貫かれたまま、死んでしまえたら。

もう何処にも行けなくても、それでもいいと思った。
何処へも帰れなくても。何処にも辿りつけなくても。
…このまま…この場所に閉じ込められても。
それでもいいと。そう、思った。

「君を閉じ込めたら、僕から逃げるかい?」
「どうして、そんな事を聞くの?答えはもう決まっているのに」
「…そうだね…ならば閉じ込める…君を僕の腕の中に…永遠に……」
「閉じ込めてください。そしてもう僕を誰にも触れさせないで」
「ああ、もう誰にも君を触れさせない。あの男には渡さない」
「…渡さないで…如月さん……」

「渡さない、僕だけのものだ。紅葉」

それがベッドの上での睦言だとしても構わなかった。それがひとときの夢だとしても。その約束がどんなに細くてどんなに脆いものでも、構わなかった。

「…愛しています…如月さん……」

そこにあるその真実さえあれば。それさえあれば、いいのだから。何も残らなくても、何もかも失っても。それでも。それでも今ここにたったひとつの真実があるのだから。
それだけで、いいと。それだけで幸せだと、そう思った。

…もう、何処へも…戻れなくても……



End

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