…自虐的な自己陶酔と、破滅への幻想。
ホテルの最上階から見下ろす夜景は、まるで玩具のようだった。そんな景色をぼんやりと眺めながら、壬生は言葉だけを彼に与える。
「…珍しいですね、ホテルで逢うなんて……」
壬生の言葉に彼はくすりと大人の笑みを口許に浮かべると、手元にあったライターで煙草に火を付けた。
「たまには、いいだろう?壬生」
薄暗い部屋の中でライターの火だけが、妙に壬生の瞳に鮮明に映る。いつも壬生の記憶にあるこの人の印象は、ライターの火だった。
「…お前は、どんどん綺麗になるな……」
「母さんに、似てきましたか?」
「いや、似ていない」
煙草の煙が一つ彼の口から零れて、消えた。灰皿に吸殻を捨てると、ゆっくりと彼は立ち上がる。そして窓に立つ壬生の背後に立った。
「あの人は、お前ほど壊れてはいない。それにお前ほど‘雄’の欲を誘わない」
力強い腕が、壬生の細い肢体を包み込む。慣れてしまった煙草の香りが、壬生に纏い付いた。
「お前は男に抱かれるたびに、綺麗になってゆくな」
「そうさせたのは…貴方です…館長…貴方が僕を強姦した……」
「……許せないか?」
館長の言葉に、壬生は口許だけで…微笑って。
「いいえ、僕は貴方の‘もの’ですから」
そう言って彼に、口付けた。口付けは、煙草の味がした。
どこかへ行ってしまった、自分のこころ。
何時しか神経が麻痺して何もかも分からなくなった。
モラルとか倫理観とか、そんなものが。
みなごちゃごちゃに混じりあって、溶けてしまって。
…何もかもが、分からなくなった……。
「…あっ…あぁ…」
壬生の白い喉がのけぞって、襲ってきた快楽の深さを物語る。耐え切れずにその広い背中に、食いこむほどに爪を立てた。
「…俺に逢うまでの間、何人の男と寝ていた?」
快楽で霞む頭の中で、その言葉だけが鮮明に壬生の胸に響いてきた。そして胸に、心臓に、何か鋭いものが突き刺さる。
『…君は僕と寝る事に何の抵抗もないんだね…』
何よりも綺麗な笑顔で、けれども何故か哀しげな瞳で。あのひとは、そう言った。
『君は誰とでもこんな事が出来るの?』
そう彼に言われて無意識に首を横に振っている自分がいた。そんな事は、無い。貴方だから…僕は、貴方だから……。
『今の君に愛してると告げても、伝わらないだろうね』
愛している?…この僕を?愛しているから、抱いたの?
セックスをするのは、淋しいからだ。ひとりでいるのが嫌だからだ。それだけだ。それだけのはずだ。なのに…なのに自分は……。
『それでも言わずには、いられないよ。紅葉』
自分はこころの何処かで、なくした筈のこころの何処かで。その言葉を…その言葉を求めて、いた…。
『…愛している……』
そしてその言葉を告げてくれるひとは。この人以外は嫌だと。このひとから、言われたいと。そう。そう、思ったから……。
「言わないのか?それとも言えないのか?」
「…あぁっ…そんな…事っ……」
「あの男は、飛水流の末裔だそうだな」
館長の言葉に明らかに壬生に動揺の色が見える。そんな壬生が許せなくて、館長は彼をより深く抉った。
「あああっ……」
「お前がそんな風な態度を取るとは思わなかったよ。あの男が好きなのか?」
「…あっ…あぁ……」
好き…ああ、そうだ。僕はあのひとが好きだ。優しく髪を撫でてくれる指先も。全てを包みこんでくれる腕も。穏やかで綺麗な瞳も。全部、全部好きだ。
…そして、愛して、いる……
「お前は渡さない。俺だけのものだ。俺が育てた。俺がお前に快楽の全てを教え込んだ」
「…あぁ…きさら…あ…」
愛している、あのひとを。僕はあのひとを。こんなにも心が苦しくて、こんなにも胸が痛いのは、僕があのひとを愛しているから。だから。
「…きさらぎ…さん…あ…はぁ…ん…」
「俺に抱かれながら、あの男の名を呼ぶのか」
だからもう、この人に抱かれるのが嫌だ。この人の腕の中にいるのが。
前はただただ安心出来た。大きな腕に抱かれるのが。こうして傍にいてくれることが。でも今は…今、僕は……。
「…きさらぎ……さん………」
僕はあのひとの腕の中にいたいと。あのひとに抱かれたいと。それだけを…思っている…。
「お前は俺の‘もの’だ」
行為の後いつも通りにライターに火を付ける彼を見ながら、壬生は何時もと違う居心地を感じていた。
何も変わらないのに。何時も通りこの人に抱かれて、いつも通り煙草に火を付けるのを見ているのに。明らかに、違う。
「…はい、館長…僕は貴方の‘もの’です……」
いつも通りのセリフ。いつも通りの答え。でも。でも…。
「…そうだ、分かっていればいい……」
もう、戻ることは出来なかった。
自分と壬生が‘似ている’事は分かっていた。
他人を愛さない自分達が身体を重ねるのはただの、自己陶酔。
けれども‘違う’事も分かっていた。
壬生が他人を愛せないのは、他人を愛する事に怯えていたからだ。
他人を愛せない自分とは、違う。
だからこそ、こんな日が来る事も分かっていた。
それでも。
それでもお前は俺のものだと、そう言う。
その言葉に自分がどれだけ傷つけられているのか、気付かずに。
眩暈がするほどの自己陶酔と、優しすぎる破滅。
何時しか真実に向き合った時に、壊れるのは俺かお前か…どちらなのだろうか?
End