最期の楽園

…最期の楽園に神様はいない。


このまま何処にも、還れなくても。このまま何処にも、戻れなくても。……それでも、いい。


ずっとふたりで、いられるのなら。


僕の涙を、貴方だけが気付いてくれた。僕の心を、貴方だけが救ってくれた。だから、なにも。何も欲しくないと、思った。貴方がそばにいてくれるのなら。貴方が手をつないでくれるのなら。なんにも、欲しくない。


このままふたり、指を絡めて眠れるのならば……。


「…行こう……」
そう言って差し出された手を、拒む理由など何も無かった。自分には失うものも、なくすものも何も無いのだから。自分と言う存在以外なにひとつ、持ってはいないのだから。
「何処へ、ですか?」
本当はこんな質問すらどうでも良かった。どうでも、いい。‘ふたり’でいられるのなら。どうなっても…構わない。
「遠くへ、行こう。ずっと遠い所へ」
目的も理由も何もいらない。何も必要ない。ただそばに。そばに、いられるのなら。
「…貴方の、望むままに……」
何も持っていない、自分達。無力な子供達。けれども。けれども…譲れないものは、ある。どんなになっても、護りたいものがある。たとえ全てを引き換えにしても。
「貴方と、一緒に」
その、綺麗な手を取る。冷たくてひんやりとした手。彼の綺麗な顔と同じように、体温を感じさせない手。でもその手が、自分は大好きだ。このしなやかで綺麗な、そして自分を包み込んでくれる指先が。
「…ずっと、一緒に……」
微笑んで、みた。ひどく不器用に。笑う事に慣れていない自分は、こんな時ですら素直に笑う事が出来ない。でも。でも…。
「ああ、一緒にいよう」
そう言って抱きしめてくれた腕が、優しく髪を撫でてくれた指先が。その、全てが。その全てが、自分を分かってくれるから。
「このままふたりだけで、ずっと……」
微かに震えた瞼の先に、柔らかいキスが降りてくる。このままこの腕の中で永遠に眠ってしまいたいと、そう思った。永遠に、閉じ込められて…しまいたいと……。
「世界が閉じられたらいいのにね、紅葉」

このままふたりだけで水を漂う魚みたいに、小さな世界の中に閉じ込められてしまえば。ずっと、ずっとふたりだけでいられたら。
「…如月さん……」
こんなにも愛した人はいない。こんなにも愛された人も。からっぽの自分に暖かい命を吹き込んでくれたひと。人を愛する事を、愛される事を教えてくれたひと。人を愛する痛みも人を愛する喜びも全て、その腕がその瞳がその声が教えてくれた。たったひとりの、大切なひと。貴方さえいてくれたら、何もいらない。
「そうしたら君はもう、独りで泣く事もないのだから……」
「如月さんの前でみっともない所、見せたくないんです」
「でも君が独りで泣いているのを僕は放っておけない」
「知ってます。貴方は何も言わない。言わないけどそばにいてくれるから」
「君が好きだからそばにいる。それだけだ。僕にはそれしかない」
「…僕も、それだけです……」
他に何の理由がいるのだろうか?他にどんな言葉が必要なのだろうか?…これ以上、何もいらない。何も、いらない。このままふたりでいられるのなら。そしてこのまま。このままふたりだけで世界を閉じてしまおう…。


ずっとあなたのそばにいたい


夜の波の中をふたりで、逃げた。確かに僕らは子供だった。それでも必死だった。ただ‘ふたり’でいるために。そのためだけに。大人達から見ればそれは愚かなことだろう。それは馬鹿げたことだろう。それでも僕らは懸命だった。…ただ一生懸命に、生きていた。


初めてふたりを見たのは、あの冬の日。


それはごく自然に、自分の瞳に飛びこんできた。まるで一枚の風景画のように。まるで昔からその場所にあったように。ひどく景色に溶け込んでいた。だから、自分は。その場を去ることがどうしても、出来なかった。


太陽の光はまるで海の蒼を奪うように、乱反射してその色を消していた。それは目を細めなければ、見えない程で。きらきらと光の粒子が海一面に散らばっていた。
「…寒い……」
呟いた言葉の先の息の白さに龍麻は苦笑する。人気の全く無い海を独り眺めるなど随分酔狂だなと、思いながら。でもこうしてここにいると、まるで世界中でたった独りになったみたいで。そんな気分がひどく心地よい。このまま目を閉じて、全てを『無』にしてしまえたら。それはもしかしたら幸せなのかもしれない。何もかも放り出して、何もかも捨ててしまって。持っているものが自分だけになれたなら。自分自身以外の属性を全て捨ててしまえたら……。
自分を縛りつける無数の運命と、そして使命。それを全て今、捨ててしまえたら。
「でも、俺は何処にも行けないね」
何処にも、行けない。この身体を流れる黄龍の血が、それを決して許しはしない。だから何処にも行けない。何処へも、行けない。だから遠くへ、ゆきたかった。誰も自分を知らない何処かへ。…何処か遠くへ、いきたかった………。


ピチャン、と。静かな空間に音がひとつ、飛んだ。そして水の音は次々と、この空間を埋めてゆく。その音に龍麻は振りかえる。その瞬間、一面の太陽の光が龍麻の視界を埋めた。眩しくて、目を開けていられない程の、光の洪水。そして。
…一瞬、何もかもが消えた。光の乱反射も。海の蒼も。波の音も。何もかもが。そして。そして、飛びこんできた。それはひどく鮮やかに。そしてひどく自然に。まるで今そこから生まれたかのように。まるでさっきからそこにあったかのように。そのふたりは、自然に龍麻の瞳に、飛びこんできた。冷たい冬の海の中に、ふたりはいた。
凍える程の寒さの中で濡れるのも構わずに、まるで世界中にたったふたりきりになったみたいに。ふたりっきりになったみたいに、抱き合っていた。波の音が邪魔して、何を話しているのか聞こえなかった。
でもその口許から紡ぎ出しているであろう言葉は…きっと幸福なものだろう。何故ならふたりは微笑っていたから。何よりも幸せそうに、微笑んでいたら。冷静に考えれば非常識な光景以外の何物でもない。けれども何故かこの時自分はそれを不自然だとも非常識だとも思わなかった。あまりにも当たり前のように、ふたりがそこにいたから。だから。……ただふたりを見つめる事しか、出来なかった………。


「如月さん、人が見ている」
その腕の中に顔を埋めながら、壬生はくすくすと笑いながら言った。その声はひどく、子供みたいに無邪気だった。
「…構わないよ、君さえ見られなければ……」
そう言うと如月は更に深く壬生を自らへと抱き寄せた。その言葉通り、自分の中へと彼を全て隠してしまうように。誰にも、見せないように。
「でも貴方は振りかえらないで、くださいね」
「どうして?」
「貴方の綺麗な顔を見せたくない。僕だけ見ていて」
「何時も君以外、見ていないよ」
俯いているその頬にそっと手を重ね自らへと向かせると、拒まない唇に口付けた。冷たい唇に、そっと体温を分け与える。
「…キスしてる所…見られてますよ……」
「構わない。君は僕のものだから」
「…じゃあ、もっと…見せつけましょう……」
薄く開いた壬生の唇に、再び如月は口付けた。今度は舌を忍ばせ、より深く。息まで奪うように。全てを、奪うように。
「…紅葉……」
「…きさら…ぎ…さんっ……」
波の音が遠くから聞こえる。足に浸かっている筈の水の冷たさも、何処か遠くに感じる。抱きしめられた腕の中の暖かさと、触れ合った唇の熱さが。自分の感覚の全てを支配して、他の何もかもが消え去った。何もかもが。
「…んっ…ふぅ……」
全てを捨ててきた。哀しみも苦しみも恐怖も何もかも。何もかも置いてきた。残っているものは、この愛しかない。このひとしかいない。このふたりを繋ぐ細い一本の糸しか。
「…きさら…んっ……」
「……紅葉…もう僕から離れないでくれ……」
髪に顔を埋めて囁かれた言葉の、思いのほかの激しさに。壬生は眩暈を覚える程の幸福を憶えた。幸せだと、本当に思った。自分はこんなにも、幸せだと。……泣きたいくらいに、幸せだと………。


ぴちゃりと雫を跳ねさせながら、ふたりは海からこちら側へと戻ってきた。もう戻ってこない、そう漠然と思っていた龍麻にはひどく不思議な感じがした。一枚の絵から抜け出たふたりはけれども『生身』を感じさせなかった。
「…ふたりは死ぬのかなって、思った……」
目が合った瞬間に、龍麻はそう言った。そして初めてその二人の姿をしっかりと瞳が捉えた。綺麗だと、思った。一人は怖い程の美貌の持ち主だった。一寸の狂いも無い完璧に作られた彫刻のような美貌の持ち主。そしてもう一人は、まるで子猫のようだった。
その漆黒の瞳が、何故かそう思わせた。まるで捨て猫のような、そんな瞳。それがひどく龍麻の心に引っかかった。
「そうだね、死んでもいいと思っていた」
声までも綺麗な彼がそう答えた。そして波で濡れた長めの髪をそっと掻きあげた。その仕草すらひどく、絵になった。
「でも君に見られていたからね。死ぬのは止めた」
「どうして?」
「…紅葉の姿を最期に見るのは、僕だけだ」
「……如月さん………」
初めて聞いたその声は。やっぱり何処か淋しそうに聞こえた。何かに怯えているように。
「二人は死ぬためにこの海に来たの?」
「違うよ、僕らは逃げてきたんだ。全てのものから、逃げ出したんだ」
「逃げ出した?」
「ふたりで、逃げた。もう僕らは何処にも戻れない」
そう言って微笑う彼の顔は、怖い程綺麗だった。それは残酷な程、幸福に…見えた…。
「…如月さん…行きましょう…もう……」
一心に如月を見つめる、瞳。自分の姿など見えていないかのように。いや、見えていないのかもしれない。彼以外の姿は。
「そうだね、紅葉。行こう」
「あ、待ってっ!」
行こうとするふたりを何故呼びとめたのか。何故引きとめたのか。自分には分からない。ただ今呼びとめなければ…もう二度と…ニ度と逢えないような気がして。このまま、消えしまうような気が、して。
「な、名前を…俺は緋勇龍麻…君達は?」
「如月翡翠。そして彼は、紅葉。壬生紅葉だよ」
初めて、壬生はその時自分を見た。捨て猫の瞳のままで。何処か壊れた、瞳で。いや違う。壊れてなんていない。如月を見つめている時は。如月だけを、見つめている時は。
「では、これで。もしかしたらまた、逢えるかもしれないね」
如月はそっと壬生の肩に手を掛けると、一度だけ龍麻に振り返って…そして二度と自分を見る事はなかった。


ふたりを結ぶ一本の糸は、あまりにも細い。


海の見える部屋で、ふたりきりで暮らすのが夢だった。叶うはずのないささやかな夢。でも貴方は叶えてくれた。最期の願いを、叶えてくれた。
「あのまま、死にたかった?」

シャワーを浴びた後の暖かい身体を抱きしめながら、如月は壬生に囁いた。その低く耳に響く声に、瞼を震わせながら。
「駄目ですよ。死ぬ時はふたりだけで、誰にも分からずに死ぬんです」
背中に廻した壬生の腕の力が強くなる。冗談のように言う、本音。それが本当に叶えられるなら、ふたりで逃げたりはしない。それが出来るなら、逃げる理由なんてない。
「でも君は『生きる』と決めた。だから君を殺させはしない。誰にも…僕が護る」
「僕が、壊れても?」
「壊れても、愛してる」
全てを奪う程に激しく、口付けた。息が出来なくなる程強く。それが、幸せで。幸せで…。
「…如月…さん……」
彼の柔らかい髪に指を絡めて。もっと口付けをねだる。彼の前でだけは、剥き出しのままでいると決めたから。剥き出しの魂のまま、真実だけを伝えると。それが、伝えられるうちに。
「…愛して…ます…本当に…僕は……」
後どれだけ自分は正気でいられるのだろうか?心が壊れるのは何時だろうか?その瞬間に怯えながらも、何処か…望んでいる自分がいる。
「…貴方が…いてくれれば……」
そうしたら、こんなにも苦しまなくていいのかな?貴方を好きになりすぎて、苦しいから。貴方を愛しすぎて、哀しいから。でも貴方がいなければ、僕は…。
「言葉なんて、本当に足りないね。紅葉」
僕はひととして生きる事すら、出来なかった。
「何度愛してると囁いても、その半分も伝わらないんだ」
喜びも哀しみも憎しみも愛も全て、貴方だけが教えてくれた事。貴方だけが、与えてくれたもの。
「僕がどれだけ君を愛しているか、何万回伝えても想いの半分も君の心に届いていないんだ」
「それは僕も同じです。僕の気持ちだって、貴方にはきっと全部伝わっていない」
それでも言葉しか、ないのなら。そして、身体を繋ぐ事しかないのなら。
「…抱いて、ください…僕が正気でいられる間に……」
壬生の瞼がそっと閉じられる。如月にはそれを拒む理由など、何もなかった。


彼の身体には何十にもかけられた見えない鎖が、ある。それを無理やり引き千切って、自分が彼を連れ出した。その綺麗な身体に消える事のない傷を切り刻みながら。それでも、連れ出した。あの狭い箱の中から。
「…あぁ…っ……」
壬生の喉元が綺麗に仰け反る。それに如月はきつく、口付けた。その度に彼の唇から甘い悲鳴が零れる。
「…きさらぎ…さんっ…あっ……」
細い腰を抱かえながら、より深く貫いた。壬生のシーツを握り締める爪が白く変色する。それでも如月は行為を続けた。限界までその楔を打ち込む。
「君を抱いてると何時も思う。人間の欲望にはきりがないとね」
「…ふぅ…あぁ…ん……」
「どうしてだろうね。どうしてこんなに君を愛しているんだろう」
「…きさら……ああ……」
シーツを握り締めていた壬生の手が如月の背中に廻ると、そのままその背中に縋る。それはまるで救いを求めている子供のように。
「…愛しているのに…君を救えないのか?……」
どうして自分はこんなにも無力なのか。力も地位も何も持っていない、ただの子供。彼の心を魂を救いたいのに…何も出来ない。ただあそこから連れ出しただけ。拳武館と言う鎖を、無理やり引き千切っただけ。そして、その代償は。
「…そんな事…いわないで…ください……」
「……紅葉………」
「僕は貴方の存在それだけで…それだけで……」
瞳から零れた涙は、快楽の為だったのか?それとも……。
「…僕が…『人』に戻れたのは…貴方のおかげだから……」
……それとも、僕のせい?
縋りつく壬生の手を取ると、そっとその手首に口付けた。そこには無数の注射針の跡が、残っていた……。


『これは、俺のものだ。身体も心も全て。私が作り上げた最高の暗殺者だ』
支配者の絶対的な瞳で、あの男は言った。拳武館の最高責任者、そして絶対的な力を持つ男。…拳武館の『館長』。
『君みたいな子供に何が出来る?これは俺のものだ。君は悪いが手を退いてもらおう』
そう言うとあの男は自分の目の前で壬生の唇を強引に奪った。彼が絶対に抵抗出来ないと知っていて。
『愛だの恋などままごとなどにうつつを抜かすな。お前は人殺しなのだ。それだけをしていればいい』
その言葉が許せなくて…彼をひとりの人間として扱わないのが許せなくて…その腕から、彼を奪った。それがどんな結果を生もうとも、構わなかった。
『…僕は、人として生きたいんです……』
彼はそれだけを、言った。そしてそれが事実上の拳武館への決別の言葉だった。それがどんな意味を持つか、彼自身が一番よく分かっていた。分かっていたのに、自分の手を選んでくれた。
『…裏切り者には…‘死’だ…壬生……』
『如月さんと死ねるなら、僕は幸せです』
『そこが子供なのだ。壬生』
『…僕は子供です。でも子供だって考える事は出来ます。何が自分に必要か、そして自分が何を欲しがっているか』
『…まぁ、いい。その‘子供’が何処まで通用するか…見ててやろう。お前を私の手元に置くための時間なら幾らでも取る価値があるからな』
『…さよなら、館長……』
『お前は俺からは離れられない、永遠に。お前の身体がいずれ私を求める。そんな男じゃあ、満足なんて出来ないだろう?』
その言葉に。彼は予想に反して、微笑った。それは華のように鮮やかで、そして艶やかだった。
『貴方は可愛そうな人だ。知らないんですか?愛する人とするセックスほど、気持ちいいものはないんですよ』
『…随分と、言うようになったな……。でもお前は俺から離れられないよ…分かっているだろう?』
その言葉の真実の意味に自分が気付いたのは、それから暫く経ってからだった……。


「君がセックスの時絶対に服を脱がなかったのは、これを隠すためだったね」
手首の針の跡に何度も舌を這わしながら、如月は囁いた。彼を館長から奪ったあの日。初めて彼は服を全て脱ぎ捨てて、自分に抱かれた。そして気が付いた。彼の身体には無数の小さな傷がある。それは表には見えない所に、巧妙に隠されていた。そしてその最たるのが、この注射針の跡。何時も時計を外さないのは、何時でも仕事に行ける為だと自分に言った。でも本当は。本当は『これ』を隠す為。
「…騙されたと、思いました?……」
繋がったまま、身体を離さなかった。そのせいで、彼の声は甘く掠れる。それでも構わなかった。
「いや、何でもっと早く気付けなかったのか…後悔ばかりしてた……」
「…貴方に後悔なんて…似合わない……」
「前だけを見てくださいって…何度も君に言われたね」
「…だって…貴方には…光が似合う……」
微笑う、彼。儚く哀しく、そして綺麗に。それが堪らなくて、深く抱きしめた。そのせいで、彼の中に埋め込んだ自身が動いて彼の綺麗な眉を歪めさせた。
「…如月…さん……」
自分を再び求める為に、壬生の舌が自分の舌に絡んできた。ぴちゃぴちゃと音を立てながら、それを絡め合った。……後どれだけ…自分は持つのだろうか?……
熱い如月の舌を感じながら、壬生はぼんやりと考えた。薬付けにされた、身体。穢れた、身体。多分もう、長くは持たない。薬なしでは、いられない身体。切れたら狂うしかない。それでも、逃げた。このひとの傍にいたいから。このひとを自分だけのものにしたいから。幾らあの人が僕を逃がさないと言って、こうやって薬で縛りつけても。それでも心までは縛れないから。こころは、自分だけの、ものだから。
「…紅葉……」
このひとが、好き。どうしようもないほど、愛している。こうして自分を優しく呼んでくれる声が。こうして自分の全てを包みこんでくれる腕が。全部、大好き。
……ずっと貴方のそばに、いたい。それだけが、唯一の望み。それだけが、唯一の祈り。このひとをずっと、見つめていたい。嬉しい時に一緒に笑いたい。哀しい時に一緒に泣きたい。ただ、それだけ。ただ、それだけが望み。痛みも喜びも何もかも全部、ひとりじゃ抱えきれないものがあるのなら、ふたりで分け合いたい。何もかも。それだけが、自分の願いなのに。
それすらも叶えられないのですか?このひとを愛した事が罪なのですか?このひとの綺麗な未来を奪った罪なのですか?
太陽の光の下で、生きている人。眩しい光が何よりも似合う人。闇すらも弾いてしまう程、輝いている人。闇に染まった自分が決して手にはいれてはいけない人。それでもどうしても、欲しくて。その瞳を声を眼差しを全部、全部自分だけのものにしたくて。自分だけのものに、したくて。
「…泣かないで、紅葉……」
「…きさらぎ…さん…」
「……泣かない、で……」
泣いてこの罪が許されるのなら、幾らでも泣けるのに。でもそれすらも、貴方は包みこんでくれるんですね……。
「…紅葉……」
貴方の指先が、頬に触れる。そっと包み込んで僕の涙を指で掬ってくれた。このひとは、こんなにも優しい。優しすぎて、苦しくなる程。
「…貴方が…好きです……」
「僕もだよ、紅葉」
「…ずっと…ずっと、好きです……」
「……愛してるよ……」
「…たとえどんな事が起きても…貴方を…愛している……」
何よりも綺麗な、瞳。何よりも優しい、笑顔。その全てを。その全てを、自分の記憶に心に魂に、刻んでおきたいから。
「…貴方だけを…愛している……」
どんな瞬間でも、貴方だけを見ている……。


…遠くへ、行きたいとずっと思っていた。ここではない何処かへ……


月が全てをさらっていってしまう。何も、かも。またここに来るとは自分でも思わなかった。もう二度とここには来るつもりはなかったのに。なのに、来てしまった。
夜の海は全てを呑みこんでしまうほど暗くて、そしてひどく魅惑的だった。見つめていると海に、同化されそうになる。このまま海の闇にさらわれて、溶けてしまったらと…衝動的にそう思った。
「…また逢いたいなんて…バカな事を考えてる……」
呟いた言葉があまりにも馬鹿げてて龍麻はつい、苦笑してしまった。本当に、馬鹿げてる。あの時、あの瞬間。確かにあれは現実だった。でも、幻のようにも思える。あの瞳が。淋しそうな捨て猫のような瞳が。強く、夢へと誘う。その瞳の先にある‘何か’に強く惹かれた。
それが何なのか龍麻には分からなかったけれど。ただひどくその瞳が夢へと誘う。それはとても甘美な誘惑に思えた。甘くて切ない何かを呼び起こす、その瞳にもう一度逢いたくて。それだけの為に、自分は…。そして再び自分は、幻を見る。それは月が見せてくれた最期の奇跡なのだろうか?


…月に、さらわれた…全てが……


「見つけたよ、壬生」
月の光に照らされて微笑った唇の紅の色だけが、鮮やかに闇に浮かぶ。話している相手は見えなかったが、後姿だけで何となくその雰囲気が読み取れた。広く大きな背中と、全身に纏い付く鋭い刃物のような気。その背中だけで龍麻は威圧されそうになる。
「…僕は戻りませんよ、館長……」
そう言って微笑う顔はこの間の彼とは似ても似つかない別人だった。まるで世界の全てを拒絶したような、冷たい瞳と表情。でもそれは何処か硝子細工のようだった。
「戻らなければお前は廃人になるぞ。薬が持つのは多分今日までだ」
「構いません、それでも僕はあの人の傍にいたいんです」
‘あの人’とそう言った瞬間だけ、彼はあの瞳を覗かせた。強く夢へと誘うあの透明な瞳を。
「今までの全てを‘無’にしてもあいつを取るのか?」
「貴方には感謝している。暗殺者としての僕を作ってくれたのは貴方だ。こんな僕でも生きる道を与えてくれた。でも…」
「でもその道すら捨てて、あいつの腕を取るのか?」
「僕は‘暗殺者’としてでなく‘人’として生きたい」
「薬が切れればお前は廃人だ。それでも人として生きたいのか?」
「最期の瞬間に、あのひとが見れればそれでいい」
綺麗な笑顔。迷いも何も無い真っ直ぐな。そして淋しい瞳。そのアンバランスさが、その不安定さが。それが…哀しいと…そう思った。
「壊れた自分をあいつが愛しつづけると思うのか?愛なんてそんな安っぽいものにお前は縋るのか?」
「…捨てても、いいんですよ。あの人に捨てられても。それでもあの人は知っている。最期になってやっと‘人’へと戻れた僕をあの人だけが知っているから。僕はそれだけでいいんです」
「廃人になってぼろぼろになって、そして捨てられてもか…。健気だな、壬生。そんなにもあいつが、いいのか?何も無い子供でも、あいつがいいのか?」
「…あのひとだけが僕を愛していると言ってくれた。あのひとだけが僕を必要だと、そう言ってくれた」
「愛しているよ、壬生」
「その言葉は嘘だ。貴方は誰も愛してはいない。貴方が僕に執着するのは、僕を通して自分を見ているから。貴方が好きなのは自分だけだ。そして僕は…貴方の思い通りに作られた、ただの機械だ…」
「…確かに…お前の言う通りだ…でも俺にはお前が必要だ……」
「必要?暗殺者として?それともベッドの相手として?」
「両方だ、壬生」
彼の細い腕が掴まれ、その広い胸に抱きしめられた。彼は抵抗しなかった。抵抗せずに、一度だけその唇を重ねて。
「さよなら、館長。貴方の事好きでした。それは嘘ではありません」
「壊れてもあいつを選ぶんだな」
「愛していますから。あのひとだけを」
やっぱり彼は微笑っていた。何よりも綺麗に。月にさらわれそうな程儚げに。
「…分かった、壬生。さよならだな……」
そう言って彼の身体を腕の中から離すと、ゆっくりとその男は歩き始めた。その視線は二度と彼に振り返る事なく、真っ直ぐに。
「…さよなら……」
その最期の彼の呟きは、あの男に届いているのだろうか?


「盗み聞きなんて、貴方も人が悪いですね」
月明かりに照らされた彼の顔はとても、綺麗。何もかもを捨てて何もかも無くなって、たったひとつの想いだけに支配されて。それが何よりも幸せだというように微笑って。
「そんなつもりは…なかった…ただ入りこめなかった……」
「…昔の男の別れ話なんて…聞いてもつまらないものでしょう?…」
‘昔の男’と言った時だけ、彼は自虐的な笑みを浮かべた。それはひどく慣れた笑みで。彼は多分昔からこういった笑いを、無意識に身につけていたんだろう。それが、哀しい。
「薬が切れるって、言っていた」
また、あの瞳をした。夢へと強く誘う瞳。そしてその先には、こことは違う何処かがある。それが何処へゆくものなのか。それが何処へ辿りつくものなのか。自分には分からない。分からないけれど…瞳の奥のその場所に、強く惹かれた。
「…薬って…もしかして麻薬かなんかなのかっ?!」
「貴方は知らない方が幸せです。貴方は僕とは違う世界に生きている人だ」
「知らないですまされないよっ!!」
耐え切れずに彼の細い肩を掴むと、力任せに揺すった。けれども彼は顔色ひとつ変えずに、自分を見つめる。その、瞳で。その夢に誘う瞳で。
「僕に構わないでください。それが貴方のためです」
「そんな言葉じゃ納得出来ないっ!俺にも分かるように説明してくれっ!!」
「…強情な人ですね…ならば話しましょう…僕がこうしてまともに話せるのも今日が最期だ…ならば…誰かに聞いてもらうのも……」
「聞くよ、だから俺に話してくれ」
その時何故こんなにも彼の話を聞きたかったのか…それは、自分が……。この瞳に、さらわれてしまいたかったからだ。


何故自分は彼に全てを話したのか、自分でも良く分からなかった。ただ…ただ、誰かに。聞いて欲しかっただけなのかも…しれない。
「僕は人殺しなんです」
その言葉を告げた時も彼は真っ直ぐに自分を見ていた。視線を逸らす事なく真っ直ぐに。それがひどく。ひどく、苦しかった。
「あの人は僕を暗殺者として育ててくれた人です…僕には家族がいない。病気の母が独り居たけれど…母は…亡くなりました……」
たったひとりの大切な母親が居なくなって、逆に自分は自由を手に入れた。最愛の母親が居なくなって初めて、あの人の手を取る事が出来た。矛盾した想い。矛盾した気持ち。哀しいはずなのに、苦しいはずなのに。それなのに。
…あの人の手を取った瞬間、自分は生まれて初めて‘幸せ’を手に入れた……
「僕には何もなくなった。だから逃げた。暗殺者として生きてきたのは…母を救うためだったから……」
それしか出来ない自分。それしかなれない自分。こんな子供が大金を稼ぐにはそれしかない。だから迷わずこの手を血に染めた。そしてあの人に抱かれる事を拒まなかった。でも。
「僕の身体には大量のクスリが打ち込まれてます。僕を逃がさない為に組織は僕を麻薬中毒にしたんです」
「そんなっ?!そんな事って許されるのかっ?!!」
真っ直ぐな、瞳。その瞳はあの人に似ている。真っ直ぐ前だけを見つめて。振り返る事のない、強い意思の瞳。それがひどく、羨ましい。
「…でも僕は、逃げました…あの人の…如月さんの傍にいたかったから……」
その手を取って、逃げた。何処までも、何処までも。何時まで自分は正気でいられるだろうと、怯えながら。何時自分は狂えるのだろうかと、その瞬間を待ちわびながら。
「でもこのままじゃ、君は薬が切れて…」
「いいんです、これで。これ以上如月さんに迷惑を掛けたくない。僕が廃人にでもなれば、組織も諦めるでしょう…そして…如月さんも……」
その先を言葉にする事は、出来なかった。本当は自分はどちらを望んでいるのか?狂った自分を見捨ててほしいのか?それともそんな自分でも傍に居て欲しいのか?あの人の負担にこれ以上なりたくない。でもそれ以上に…あの人の傍に置いてほしい。
「…でも…本当は…どんな形でも生きていて…あの人をずっと…見ていたい……」


その瞬間、月と波にさらわれた…。


「…今、分かった……」
今にも泣きそうな瞳で。泣けない瞳でそう告げた壬生を見つめながら、龍麻は気が付いた。
「何がですか?」
気が、付いた。その夢へと強く誘う瞳が。その先に見えるものが何なのか。そして、どうし自分がそこへと行きたかったのか。今、気がついた。
「君の瞳が見せているものが」
「…僕の…瞳?……」
その先に見えるものは、人が無意識に望んでいるもの。そして決して手を出してはいけないもの。そう彼の瞳には‘死’が映っている。不安定な瞳。何処か怯えた瞳。そして何時もその先に見えているものは‘死’だ。彼の瞳に無償に惹かれる自分は、心の底で死を求めていた。
こことは違う何処かへ行きたいという願望は、その瞳の先に映る何も無い場所へゆきたかったから。‘自分’という廻りから固められたそれから逃れたかったから。自分が背負う運命から…黄龍の器から……。…自分を取り巻く全てから、逃げたかったから……。
「でも俺は俺でしかない。そして、何処へも行けない」
そうだ、何処にもゆけない。自分は自分以外のものになれない。もしもそれを望んでしまったら後は‘死’しかない。そして。そして、それを何処か望んでいながらも‘生きたい’と言った彼。どんな形でも生きたいと望んだ彼は、完全に自分達をあちら側へとは導けない。‘死’へとは、導かない。
「君の瞳が映す世界へ行ってみたいと思った。でも、それは出来ない。俺はやっぱりどうあがいても俺でしかないから」
「…僕の瞳が映す世界は…魅力的でしたか?……」
そう言って微笑った顔は月明かりに照らされて、とても綺麗。本当に、綺麗だとそれだけを思った。
「ああ、凄く…魅力的だ……」
現に今でもその綺麗な瞳に吸いこまれたいと…思う程に。


「もう二度と貴方とも逢う事はないでしょう。さようなら」
龍麻はその言葉にさようならとは、言わなかった。もう二度と逢えない。奇跡は二度は起こらない。分かっている。分かっていながらも、さよならとは言えなかった。自分は、断ち切った。甘く優しい死への誘惑から。どんな形でも自分は自分以外にはなれないと分かったから。でも、でも彼は。…これから彼が見る世界は……
自分にはただ、祈ることしか出来なかった。彼がこれから背負う運命に。


…幸せになってほしいと…祈ることしか……


…最期の楽園に、神様はいない……


「…紅葉……」
名前を呼ばれて振り返れば、そこには貴方の柔らかい笑顔。それを見ていられるだけで、自分は何よりも幸せ。
「おいで、外は寒かっただろう?」
伸ばされた腕を取り、そっと抱きしめられる。何よりも安心出来る腕の中。何よりも暖かい腕の中。自分が一番大好きな場所。
「…如月さん…暖ったかい……」
「もっと暖めてあげるよ」
そう言って彼は、額に瞼に頬に…そして唇に口付けてくれた。
「…如月…さん……」
「ずっとこうしていてあげる。君が壊れても、全部拾えるように」


窓から差し込む光が、朝を告げる。けれどももうふたりには、その光すらも目に入らなかった。互いの存在以外に、なにひとつ。


「君が壊れても、狂っても…絶対に離さない。君は僕だけのものだ……」



最期の楽園に、神様はいない。最期にいるのは…貴方だけ………貴方だけが…いればいい……



「…僕だけの…紅葉……」


僕の正常な記憶が映し出した最期のものは…貴方の優しい笑顔、だった。




End

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