何も持っていないから、失うものなんて無かった。
手に入れたい物なんてなかったから、奪われる物もなかった。
何も無い自分、から。
……貴方は何を、奪いたいの?
貴方は僕から、何が欲しいの?
幾ら身体を奪っても、心までは奪えない。
「…おめーは、俺よりも如月の方がいいんだろう?…」
言われて素直に頷ける自分ではなかった。穢れきった身体と心で、自分があの人に触れるのを許される訳が無い。この血まみれの両手では。
「本当はあいつに…こうされたいんだろう?」
唇を奪われて、そしてベッドの上に押し倒される。頬に触れたシーツの感触はひんやりと冷たかった。
「でも俺に、抱かれるんだな」
腕を伸ばしてその広い背中に縋り付いた。分かっている、心の通わないセックスはただの排泄行為でしかない事を。それでも。それでもこうして身体を重ねるのは…自分が、淋しいから?
「…村雨さん……」
名前を呼んで自分から口付けた。薄く唇を開いて、舌を迎え入れる。何も、考えたくはなかった。
「いいぜ…壬生…。誰の変わりでも…抱いてやるよ、お前がもっと淋しくなるように」
何も、何も考えたくはなかった。
シーツの波に身体をあずけて、そして快楽の海に溺れた。
溺れて何もかも考えられなくなって、そして。そして自分が壊れてしまえたらと。そう祈りながら。壊れて何も無くなってしまったら、心は何も求めなくなるから。
何も欲しいなんて…思わないから……。
『君にそんな瞳をさせるのは、誰のせいなんだろうね』
誰にも向ける優しい笑みを浮かべながら、貴方はそう言った。そんな貴方を見つめながら、
心の中でそれは貴方のせいですよと…呟いた。
『君の本当の笑顔を見る為に…僕はどうすればいい?』
それは貴方だけには出来ない事。貴方の傍にいる事が望み。けれどもその望みが叶えばもっと自分は苦しくなるから。
貴方が他人に笑いかけるのを、みていたくない。
貴方が他人を愛するのを、みていたくない。
けれどもそれ以上に…貴方だけを瞳に映していたい。その姿をずっと、見つめていたい。
『どうすれば、いい?』
そんな風に、微笑まれたら…苦しくて、泣きたくなる……。
「俺を身体に銜えてるくせに…あいつの事考えているんだろう」
貫かれる痛みすら、慣れた身体は快楽として受け入れる。浅ましい内部はそれを逃さないようにと、村雨を締め付けた。
「…あぁ…あ……」
目尻から零れる快楽の涙を村雨の指が拭う。その指先に溺れられたら、どんなに楽か。
「…村雨…さんっ…もっと……」
「もっと欲しいか?壬生」
「…はぁぁ…あぁ……」
喘ぎで言葉にならない代償に、その背中にしがみ付いた。村雨はそれに答えるようにより深く壬生を抉った。
このまま彼が何も考えられなくなるまで。
別に愛している訳じゃない。ただ捨てられた小猫のような瞳を自分に向けるから。だから放っておけなかった。独りで淋しがるから、抱いてやった。
でも本当は気付いていた。彼の瞳が腕が心が、本当は誰を求めているか。それに気付いたから逆に…手放したくなくなった。
あの男に渡したくないと、そう思った。そしてそう思った時点で気が付いた。
本当は自分がこいつを欲しかった事に。
「いい加減、お前も素直になればいいのに」
「……」
「どうしてあいつの腕に抱かれようとしない?」
「…如月さんに…僕は相応しくない……」
「それは如月が決める事だろーが」
その言葉にまた、捨て猫のような瞳で自分を見つめた。追いつめられた、哀しげな瞳。そこまで自分をぼろぼろにしてもなお、あの男の腕にいかないのは…自分以上に奴を大切に思っているから。
自分が壊れてどうにもならなくなっても、あいつを綺麗なままで護りたいと。それだけを思っているから。
「お前がこのままの状態だと、本当に俺がお前を奪うぞ」
「…奪う?僕には何も、ありませんよ……」
「本当にそう思っているなら、お前はそうとうめでてー奴だよ。もっと自分の価値を信じても罰は当たらねーぞ」
「…僕の価値?…」
「こうやってわざわざ俺自身が相手してるんだぜ」
こんな風にわざわざこいつを慰めて、あの男の元へと行かせようとしている自分は、何処か矛盾している。でも。
「いい加減、目覚ませよ。お前こんな事してても何もならないぞ」
でもこいつを救えるのは、俺じゃない。壊れたこいつを救えるのは。
「…村雨、さん……」
「行けよ、あいつんとこへ」
その言葉に壬生は答え無かった。ただ無言で自分を見つめるだけで。でも答えは…もう出ている筈だった。
何時しか僕は村雨に嫉妬していた。
僕が彼に向ける感情が特別なものだと気付いた時、彼はすでに村雨の腕の中にいた。腕の中で、抱かれていた。
『俺が壬生を抱くのは、あいつが淋しがるからさ』
「…愛して、いないのか?……」
『愛してる?そんな無駄な事はしない』
「どうしてだ?村雨」
『だってあいつはお前を愛してる…気付かないのか、如月』
それならば何故、彼は僕の腕を求めない?どうして僕を…求めない?
『光の中で生きてきたお前に、壬生の気持ちは分からないよ。永遠に』
「…それでも僕は紅葉を愛している……」
『ならばそう言えばいい。お前以外にあいつは救えないよ』
これが夢だと言うならば、夢とはこんなに優しいものなのか?
「…如月、さん?…」
何も無い部屋。がらんとただの空間だけの。ただ眠るためだけの、部屋。
「僕が君に逢いに来るのは…迷惑だったかい?」
必死で首を横に振ってその言葉を否定した。その仕種に如月の口許に無意識に笑みが零れた。
「じゃあ、お邪魔しても良いかい?」
こくりと頷くと壬生は如月を室内へ入れた。その途端、後ろから抱きしめられる。
「…き、如月さんっ?!」
「こんな風に僕にされるのは…嫌かい?」
そのまま覆い被さるように如月は壬生の唇を奪った。その瞬間ぴくりと壬生の身体が震えたが、彼は抵抗しなかった。
「…紅葉……」
「…如月…さん……」
息が全て奪われてしまうような激しい口付けに、壬生の瞳が微かに潤んだ。このまま泣いてしまったら女みたいだから、泣かないけれども。
「僕が、嫌い?」
「いいえ。そんな事ありませんっ」
「僕の事、好き?」
「……はい………」
「僕の事、愛している?」
最後の質問に壬生は、答えられなかった。けれども。けれどもどんなに彼から否定の言葉が零れても。その瞳が雄弁に真実を語っていたから…。
「僕は君を愛している。だからもう…待てない」
「如月さん?」
「君を村雨から奪う」
そのまま彼の腕を掴むと、如月は冷たい床の上に壬生を押し倒した。そして覆い被さるように口付ける。
「僕がずっと君をこうしたかったなんて、考えもしなかった?」
脅えるように見上げてくる壬生に、如月は綺麗に微笑った。この人はどんな時でもどんな瞬間でも、綺麗だと。綺麗だと壬生は思った。
「駄目です…如月さん…貴方が穢れる……」
「君を抱けるなら穢れても構わない」
「貴方に僕は…相応しくない…」
「相応しくなくても良い。僕が君を欲しいんだ」
如月の手が壬生のシャツに係りそのままボタンを外してゆく。その手を止めようと壬生の手が如月のそれに重なるが、その手は思うように力が入らなかった。入る訳が無い…触れているのは他ならぬ如月の指先なのだから。
「…あっ……」
胸の果実を指で摘ままれて、壬生の口からは甘い吐息が零れる。如月に触れられていると言う事実が、壬生の敏感な身体をより、敏感にした。
「…はぁ…あん……」
「キスマークが、ある。村雨が付けたのか?」
身体中に散らばる紅い跡を如月の指が、舌が辿ってゆく。その度に壬生の身体が震え、口からは甘い吐息を零した。
「…駄目…如月…さん……あ…」
口で幾ら否定しても身体が、如月を求めている。その全てを、欲しがっている。どうしようもない程に。
「僕を否定しないでくれ、紅葉」
その声の辛辣な響きに、壬生の夜に濡れた瞳が開かれる。その心臓を貫くような真剣な瞳に見つめられて…壬生の瞳からは快楽以外の涙が、零れ落ちた。
「…否定…なんて…出来る訳がない……」
震えながら、戸惑いながら、壬生の両腕が如月の背中に廻る。その背中の感触は自分が今まで知らなかったもので。そして自分が最も欲しかったものだった。
「…貴方を否定出来るなら…こんなに苦しくない……」
「君の瞳が何時も泣いているのは、僕のせい?」
「…貴方のせいです…貴方がいなければ僕は…こんなにも苦しまなかった…」
まるで堰を切ったかのように壬生の瞳からは涙が零れ落ちる。今まで泣く事が出来なかったのが嘘のように。嘘のように…涙が零れた。
「…貴方が好きでどうしようもなくて…僕は……僕は……」
縋り付いて声を上げて泣く彼が、どうしようもない程愛しくて。そして愛していたから。愛していた、から。
「僕が好きなら…僕に抱かれてくれ。そして…僕のものだけになってくれ」
零れる涙を指で掬いながら、その流れる雫の筋を舌で辿る。瞬きする度に零れるその全ての涙を、如月はその指で舌で受け止める。
「…貴方を…穢したくない……」
「君の運命が血にまみれてるならば…僕も共に落ちよう…」
「貴方に…闇は似合わない…光りだけを見ていて…」
「駄目だよ、もう遅い。僕はもう…君以外見つめない」
背中に廻された壬生の腕に力がこもる。それは大切なものを護る子供のように、必死に。必死にしがみ付いた。
「…君以外…見えない……」
再び如月の唇が壬生のそれに重なる。もう壬生にはそれを拒む事は、出来なかった。
こんなにも、貴方を、愛している。
「ああっ……」
初めて抱かれる時のように、身体が硬くなっているのが分かった。初めて受け入れる瞬間のように、どうしようもない程の緊張が走った。けれども。
「…如月…さん…あぁ……」
けれども貫かれた瞬間、それはどうしようもない程の悦びに変わった。自分の中にあるこの存在が他でもない、このひとだと言う事実に。
「紅葉…君の中は熱いね」
如月が耳元で囁いたその台詞に、壬生の身体がさぁっと朱に染まる。それが如月にとって堪らなく嬉しくて。
「…あぁ…ん……」
暫く動きを止めて、彼の内部の感触を味わう。自分の肉を受け入れているのが彼だと言う事実が、如月自身を満足させてゆく。
「このまま溶けてしまったら、幸せかもしれないね」
「…きさら…ぎ…さん……」
「動いても、いい?紅葉」
如月の言葉に。壬生は答える代わりに背中に廻した腕に力を込めた。それが、合図だった。
「あああっ!」
壬生の硝子のような喘ぎ声と共に、ふたりは同時に達した。
…もうこのまま死んでしまいたいと、思いながら。
壬生の指先が如月の髪に絡まる。そのままその柔らかい髪の感触に、指が溺れた。
「…如月…さん…」
身体は繋いだまま離れなかった。離したくないと、そう互いが心の底から思ったから。
「何?紅葉」
「…僕で、いいの?…」
やっぱり壬生の瞳は哀しそうだった。今にも泣きそうな、そして泣けない瞳で、如月を見つめる。
「貴方なら幾らでも相手を選べる…貴方を幸せにしてくれる人を…それなのに…僕で、いいの?」
「君が、いいんだ。いや、僕は君以外いらない」
そっと瞼に唇が降りてきた。壬生の哀しい瞳が見たくなくて。思いの丈を込めて、限りなく優しく。
「違うだれかと幸せになるくらいなら、僕は君と不幸になりたい」
「僕の未来は、闇しかないですよ。それでも?」
「…君の未来が闇でしかないとしたら……」
「僕がこの手で君を、その闇から引きずり出す」
自らの運命を代償にして。そして、君をその永遠に繋がれた鎖をひきちぎる。
君の囚われた闇を、血を。この腕で。
この身体を引き裂いて、全てを見せたい。どれだけ僕が君を愛しているのか。
「だから、僕だけのものに…なってくれ……」
心は全て貴方に奪われている。初めから自分自身の名の付くもの全てが。だから、これ以上。これ以上貴方に何を上げられるの?
……僕は貴方に何を、してあげられるの?
「もう僕が貴方に上げられるものは、この身体しかないです。それでもいいですか?」
「君の心は?」
「とっくに貴方に奪われている」
「君の瞳は?」
「貴方だけを見つめている」
「…君の…魂は?……」
「…貴方に…繋がっている…」
「もう僕以外の人間を君に触れさせないでくれ」
「…如月さんが…望むなら……」
何も、何も、ないから。だから貴方の望みは全て叶えたい。僕に出来る事なら、全てを。
「…愛して…います……」
「…紅葉……」
「…貴方だけを、愛しています……」
「こうなる事は、初めから分かっていたさ。如月」
「ならばどうして、紅葉を抱いた?」
「前にも言っただろう、あいつが淋しそうだったから」
「…それだけか?」
真実だけを映し出す如月の瞳。その瞳に射抜かれて、村雨は内心でため息を付いた。…こいつに嘘は…付けない。
「御想像にお任せするぜ」
豪快に笑う村雨を見つめながら、それ以上如月は問う事をしなかった。いやそれ以上の質問は無意味だと、如月は悟ったから。
「まあ、せいぜい大事にしてやるんだな」
「君に言われるまでもない」
不適に笑う如月を見ながら、こいつだけは敵に廻したくないと村雨は思った。
本当は奪ってしまいたかったのかも、しれない。
でも壊してしまって、人形のような彼を奪っても。それで自分の心は満たされない。
生きて動いて考えている彼を、この男から奪ってみたかった。
それは多分生まれながらのこのギャンブラーな体質とそして…ほんの少しの……。
…ほんの少しの『想い』が、そうさせたのだろう…。
「如月、さん」
彼が、微笑う。まだ何処か淋しさが消えない瞳で。それを消す事は僕には永遠に出来ないのかもしれない。それでも。
「紅葉、愛してるよ」
それでもその瞳の原因は他でもない自分だと。自分だけがその瞳をさせるのだと、気付いたから。
「…僕も…です……」
俯き加減にほんのり頬を赤らめながら答える彼は、本当に生まれたての子供みたいで。それがどうしようもなく愛しくて。だから。
「…僕も…貴方だけが……」
だから想いの全てを込めて、抱きしめる。彼が淋しくないように。
もう二度と、泣かせはしない。
End