AQUA
人魚姫は愛する王子に逢う為に声と引き換えに足を手に入れた。
言葉を喋れずに、自分が助けたと言えずに。
それでも愛する人の為に、全てを捨てて傍にいた。
…貴方の海に…なりたい……
水平線が太陽の日差しに反射してきらきらと輝いていた。その眩しさに目を細めれば、遠くから潮騒が聞えてくる。
その潮騒に言葉の破片は静かに飲まれていった。
「…紅葉……」
風にその髪を靡かせながら、ただ水平線をぼんやりと見つめる瞳。その瞳がひどく遠くに感じて如月はそっと名前を呼んだ。
「如月、さん」
その声に壬生は迷わず振りかえる。逆光になった瞳が硝子玉のようにきらきらと輝く。きらきらと、光の粒子を纏った瞳で。
「何を見ていたんだい?」
その細い髪先にも光の粒子が散らばって、ひどく。ひどく壬生を切なく見せた。その切なさが如月の胸に水滴のようにひとつ、落ちる。
「海を見ていました。貴方の海ですね」
「何故僕の海なの?」
白く細い腕が如月の首筋に絡まるとそのままそっと胸に耳を当てた。そこから聞こえる命の音を、壬生はそっと目を閉じて感じる。
「貴方の瞳に、海が映っているから」
「…君の瞳には…光が零れているよ……」
そっと壬生の髪を撫でながら如月はその細い顎に手を当てた。そしてそのまま自分の方へと向かせると、瞼にひとつ唇を落とす。
「…目…開けて…紅葉……」
「…如月…さ…ん……」
如月の言葉に弾かれるように壬生は瞼を開く。ほんのりと目尻を赤らめながら、それでもその瞳は如月だけを捕らえている。如月、だけを。
「今君の瞳に映ってるのは、僕だけだよ」
「…貴方の瞳も……」
「ん?」
「貴方の瞳も今…映っているのは僕だけです……」
「じゃあ今君は、僕だけのものだ」
愛する人に気付いてもらえず海の泡になった可愛そうな人魚姫。
王子を助けたのは君なのに。
気付いてもらえずに…伝える事が出来ずに。
海に消えた、人魚姫。
「何時も貴方だけのもの、なのに?」
くすりと小さく、壬生は微笑った。柔らかい笑顔。穏やかで優しいその笑顔。それは如月が時間をかけてやっと。やっと壬生に覚えさせた自然な笑み。
「可愛い事を言ってくれるね、紅葉」
耳元でそっと如月は囁くと、そのまま柔らかい耳たぶを軽く噛んだ。そこから広がる甘い痛みに、壬生の瞼が微かに震える。
「可愛い紅葉。僕だけの」
「…如月さん……」
壬生の両腕が何時しか如月の背中に廻る。見掛けよりもずっと広いその背中の感触に、言葉にならない安心感を覚える。
…この背中は…ずっと僕を護って…くれると……
父親の広い背中もやさしい母の手のひらも知らなかった自分だけど。今はそれよりももっと大切なものが、暖かいものが自分に与えられているから。だから。
だからもう。もうなにも、こわくは、ない。
「僕だけの、紅葉」
如月の綺麗な瞳だけを瞼の裏に閉じ込めながら、壬生は降りて来る唇の感触を待った。
もしも僕ならば。
足なんて望まない。声なんていらない。
陸に上がれなくても、貴方と言葉を交わせなくても。
僕は貴方を追いかける。
ただ一度の運命を決して諦めたりしない。
水に、なりたい。
「…キス……」
水になりたい。透明な水に。
「…紅葉?…」
綺麗で、壊れる事のない水に。
「…もっと……」
水になって、貴方の中に溶けたい。
「…もっと…してください…」
貴方の中に浸透する水になりたい。
もしも僕が王子ならば。
君を必ず見つけ出す。どんな事になろうとも。
君に足がなくても、君に声がなくても。
僕は必ず見つけ出す。
ただ一度の巡り合いを決して見逃したりはしない。
「幾らでも、紅葉」
額に、睫毛に。瞼に、鼻筋に。
頬に、顎先に。そして。
そして、唇に。
そっと。そっと唇を落とす。
「…如月…さん……」
言葉にして名前を呼ぶ前に、貴方の唇が言葉を閉じ込めた。
まるで全ての言葉をその唇が掬い取るように。
言葉が貴方の口の中で、溶けてゆく。
甘く、甘く溶けてゆく。
「もっといっぱい、キスしてもいいかい?」
「今更そんな事、聞くんですか?如月さんらしくない」
「僕らしくない?」
「…らしくないです…だって…」
「ん?」
「僕の答えを聞く前に何時も押し倒しているくせに」
「合意の上だと思っていたけれど?」
「……………」
「紅葉?」
「…そう言う事は声に出して…言わないで…ください……」
「くす、君は何時までたっても恥かしがりやだね」
「如月さんが羞恥心なさ過ぎるんです」
「羞恥心よりも君を愛しているからね」
「…何ですか…それは…」
「言葉通りだよ、君を愛している」
「……如月さん……」
「君だけを、愛している」
貴方を包み込む、水になりたい。
透明な水になって。透き通った水になって。
貴方の海に溶けたい。
…貴方に…溶けたい……
「…紅葉……」
身体を滑る指先。余すとこなく全身に降って来る唇。溶けて、溶かされて。
「…はぁ…んっ……」
身体も、心も。全て全て溶かされて。貴方の声に指に唇に。
「愛しているよ、紅葉」
「…ぁっ……」
背中に腕を廻して、そして爪を立てた。綺麗な肌に爪跡を傷つけたくないと思いながら。
傷つけて自分だけのものだと証を付けたいと思いながら。
この綺麗なひとは、僕だけを見ていてくれると言う…どうしようもない程の幸せな想いを噛み締めながら。
「…あぁ…あ……」
「爪、立てていいよ。傷を付けてもいいよ」
「…で…も…」
「だって僕は君のものなんだろう?」
何時も、何時も貴方は僕の欲しい言葉をくれるから。何時だって、どんな時だって。だから。
だから僕は、溶けてゆく。貴方の海の中に。
僕らには声も足もいらない。
哀しみも、嘘もいらない。
瞳を交し合えば。それだけで。
それだけで互いの気持ちが、伝わるから。
瞳を、交わすだけで。
何時しか水平線から太陽は消えていた。優しい闇が静かにふたりを包み込む。
けれどもそんな静寂は嫌いではなかった。ふたりで過ごすようになってから夜は孤独な時間ではなく、穏やかな瞬間へと変化していた。
「如月さん」
指を、絡めあって。そして互いの瞳を見つめる。反らす事なく、真っ直ぐに。そんな時間が壬生にとっては少しだけくすぐったい時間だった。
「ん?どうしたの、紅葉」
「何でもないんです。ただ貴方の名前を呼びたかっただけ」
「君の声で呼ばれるならずっと聞いていたいね」
「…でも如月さん…」
「何?」
「…僕は…声なんて出さなくても……」
『何時もこころで貴方の名前を呼んでいるんです』
声には、しなかった。言葉には、しなかった。けれども。
けれども貴方には伝わるから。きっと、伝わるから。
「紅葉、愛してるよ」
だから貴方は僕の大好きな何よりも綺麗な顔で微笑って。そして。
そして優しいキスを、くれる。
みつめあうだけで、つたわる、から。
『僕も、大好きですよ。如月さん』
End