『貴方の、傷ついた瞳がみたい』
紅の華のように開いた唇から零れた言葉は、静かに胸にひとつ棘を刺した。けれどもその痛みすら甘美なものに感じる自分は、やはり何処か狂っているのかもしれない。
足元から浸透する狂気。それに身を委ねたのはどちらが先だったのだろうか?どちらが先、だったのか?
「僕を傷つけられるのは、君だけだよ」
何よりも綺麗で何よりも哀しい、僕の恋人。壊れた瞳で、純粋な瞳で、僕だけを見つめる。僕以外を見つめない…硝子細工の瞳。
「じゃあ、傷ついてよ。僕の為に」
細い腕が伸ばされて、それが首筋に絡み付く。その身体を抱き止めて、むしゃぶる様に口付けた。何度口付けても、その唇は満たされる事がない。
「君が僕から消えたら…傷つけられるよ」
「消えたら、貴方の傷ついた瞳が見られない」
見掛けよりもずっと細い彼の髪を撫でながら、その瞼に額に口付けた。微かに汗の滲んだその肌に、舌を這わしながら。
「ならば僕から離れない事だ」
「…離れるなんて…僕に出来る訳が無いのに……」
「離さないよ。君のここには見えない鎖があるんだから」
彼の細い首に自らの指を絡めた。このまま絞め殺してしまっても、多分彼は抵抗すらしないだろう。口許に鮮やかな紅の笑みを浮かべて、僕の手にかかる。僕の手で死ねる事が彼にって、一番の幸福なのだろうから。そして。そして、そうなるように仕組んだのはこの自分自身。
「僕が繋いだ鎖が、あるんだから」
その言葉に。彼は本当に幸福そうに微笑った。その笑みは哀しい程、綺麗だった。
『君の全てを、壊したい』
貴方に出逢って貴方を愛して、僕は狂った。貴方以外の事を何も考えられなくなった。貴方以外何も見えなくなった。自我すらも失ってしまう程の独占欲。自分自身すら見えなくなって。そして彼だけを欲っした。彼だけを求めた。
「…もっと…キスしてください……」
足りる訳が無い。何度も何度も唇を重ねても、それが満たされる事など永遠に無い。永遠に無いのなら死ぬまで貪り尽くすだけだ。
貪り尽くして、なにもかも溶けてしまうまで。
「…唇の感覚が麻痺するまで?…」
綺麗に微笑う、彼。どうしてこんなに綺麗なのか?僕の穢れた身体を幾ら貫いても、彼は何時も綺麗だ。恐いほどに、そして目が離せない。
「…身体の感覚が無くなるまで…僕を…抱いていて……」
「幾らでも、紅葉。君が壊れるまで、貫いてあげる」
両腕で引き寄せられて、腕の中に閉じ込められた。着ていたワイシャツを剥ぎ取られ、素肌の上に口付けられる。それだけで身体の芯が、疼いた。
「…如月…さん……」
彼のさらさらの細い髪に指を、絡める。手の中から擦り抜けてしまう程の細い髪。柔らかくて極上の感触を指先にくれる、その髪に。
「…あ…っ…」
胸の果実に唇が、触れた。それを舌先でつつかれ、柔らかく歯で噛まれる。じわりと押し寄せる甘美な罠。
「…もっ…と……」
彼の頭を引き寄せて、もつと深い快楽を求める。底無しの欲望と、独占欲。何処までいっても何処へも辿り着けない。何処へもゆけない。
「…もっと…あぁ……」
身体を滑る細くてしなやかな指。その指先に溺れた。その淫らな動きに溺れた。身体を伝う汗すらも彼の舌が掬い取る。その感触に、溺れた……。
『…何処まで、堕ちるの?……』
快楽の為に頬を伝う涙を、指で拭い取った。髪から零れる雫を唇で受け止めた。彼から零れるものならば、全て自分のものだから。
「…あっ…あぁ……」
背中に絡み付く指先が、爪を立てた。その食い込んでくる痛みすら、僕には愛しい。
「…紅葉……」
深く奥まで貫くと、彼は女のように声を上げた。その時だけは、自分を隠したりはしない。ありのままの本能のままの彼を、自分に見せる。
「…あぁ…ぁ…んっ……」
伸びてきた舌を絡めとり、望み通りに唇を奪う。唇が痺れるまで、口付けた。
「…んっ…ふぅ…んん……」
艶やかな紅の華。その花弁を噛み砕きたいと、そう思った。そのままその、紅の唇を。
「…如月…さんっ…んっ…いた…い…」
歯を立てて、噛んでみた。すると唇と同じ色の血が、一筋零れ落ちた。
「…痛い?紅葉……」
零れた血を指先で辿りながら尋ねると、濡れた瞳が自分を見上げる。夜に濡れた、瞳が。
「…いたく…ない……」
再び彼の爪が僕の背中に食い込んだ。白く変色する程に強く。多分今、そこからは彼の唇と同様に紅く染まってるだろう。
「…貴方にされるなら…どんな事だって…」
「どんな事だって?」
「…気もち…いい……」
『僕が奪い取った。君の背中の翼を』
もう言葉を言葉として発する事が出来なかった。口から零れるのは意味の無い甘い悲鳴だけで。気違いのように、声をあげるだけで。
熱い楔が何度も体内に打ち付けられる。その痛みと激しさに。食い込む衝撃に。目眩すら憶える程の幸福を感じて。
「…あぁ…もぅ……」
「もう?」
指先に生暖かい血が、滴る。彼の背中に食い込んだ爪が、その皮膚を引き裂いた。
「…もぉ…壊れ……」
「壊れたいんだろう?」
耳元に響く少しだけ掠れた低い声。その声に、僕の身体は再び反応する。僕の身体は心は魂は、彼の全てに反応しそして取り込まれる。
「僕に壊されたいんだろう?」
「…はぁ…あぁ…あ……」
喉の渇きに似た餓えと、満たされる事のない欲望と。後何がある?何が、残っている?
「…こわし…て…くださ…い……」
何も残っていない。なんにも、無い。繋がった部分の熱さと、永遠の想いだけだ。それ以外何も何も、無い。
「…全部…壊し…て……」
「…紅葉…愛してるよ……」
なんにも、無いから。全てを懸けて、彼を愛している。
『貴方の綺麗な未来を、僕が奪った』
「何時も思っている。君を抱いたまま死ねたらと」
気を失って崩れ落ちた彼の髪を撫でながら、僕は答える筈の無い彼に呟く。それは紛れも無い、自分自身の本音。
「そして、何時も思っている。もっと君を抱きたいから、死ねないと」
僕が君を壊した。君の背中の翼を剥ぎ取り、僕の腕の中へと閉じ込めた。僕だけの君にする為に。…でも、君は言う……貴方の未来を奪った、と。
確かに君に奪われたのかもしれない。僕には確かに違う未来があった。でもそれは、僕自身が選んだ事だ。僕が君を、選んだんだ。
君の純粋な魂に気づいたのが、僕だけだから。君の無垢な瞳に気づいたのが、僕だけだから。だから、隠した。誰にも見せないように、誰にも奪われないように。
「愛し合ったらその先が無いなんて、そんなの嘘だね」
愛し合って満たされたら、終わりなんて。そんなの嘘だ。幾ら愛しても幾ら愛されても満たされる事なんてない。何も、満たされない。
「終わりなんて、無いんだ。少なくとも僕らには」
でもそれが唯一の幸福とすら思える僕らは、もしかしたら幸せなのかもしれない。
『僕だけが手に入れた。綺麗な堕天使』
彼の髪を撫でてくれる指先を感じながら、その指先だけが世界の全てだと思いながら。僕はぼんやりとする意識の中、思っていた。
…このひとを、誰にも渡したくないと……
誰にも渡さない。僕だけのひと。僕だけの恋人。僕の翼を貴方がもぎ取ったなら、僕の片翼は貴方の背中にある。
僕の翼が闇に濡れていても、貴方の背中の翼は光で溢れている。それでも。
それでもその背中の翼は、僕のものだから。
…僕だけのもの、だから……
幸せだと、心から、思った。
End