…永遠を、願うのなら……
指先が、その唇に触れた。
そっと触れて。そして。
そしてそのまま、触れた指先を噛んだ。
そこから零れる紅の血がひどく、鮮やかだった。
そのまま唇を、奪った。
「…如月さん……」
舌を自ら忍ばせ、貪るように貴方の口内を求めた。何度も、何度も。
足りないから。幾ら求めても、求めても足りないから。
何時も喉に渇きを覚えているように。
僕は『貴方』を求めて、乾いている。どうしようもない程に。
「…んっ…はぁ…」
貴方の指が僕の髪をそっと撫でる。僕が噛み切った指先から、紅の血を零しながら。それが僕の髪を染めてゆく。
「紅葉」
「…如月…さん……」
名前を呼ばれてその顔を見上げた。一寸の狂いもないその美貌。綺麗で、綺麗過ぎて怖い程に。怖いのかも、しれない。
僕は何時もその顔に視線を奪われている。
僕は何時もその声に耳を奪われている。
…僕は、貴方に全てを奪われている。
何時しか『僕』の存在自体が意味を成さなくなってしまうのではないかと思える程に。
「君は僕から何が欲しいの?」
ぽたりと紅の血、白いシーツに零れた。そこから広がる染みがじわりと僕の心に埋もれてゆく。
「…貴方が欲しい…」
「何時も僕は君だけのものなのに。それでももっと欲しいの?」
「…もっと…欲しいです…」
背中に腕を廻して、そのままワイシャツを握り締めた。貴方はそれに答える変わりに、僕をシーツの波へと攫ってゆく。もう戻れないとでも言うように。
…何処にも戻りたくは無いと…思いながら……
窓から覗くのは怖い程に綺麗な蒼い月。
まるで貴方のようだと、そう思った。
見つめずにはいられずに。焦がれずにはいられずに。
けれども。けれども、手を伸ばしても。
手を伸ばしても、届く事の無い。冷たい、月。
貴方の瞳のようだと、思った。
ぽたりと髪先から零れる汗が頬に掛かった。
ほんのりと蒸気する頬。快楽に濡れる瞳。綺麗だと、思った。ただそれだけを思った。
手を伸ばして、その熱い頬に触れる。するとぴくりと君の肩が揺れた。
「…あぁ……」
喉を仰け反らせて、僕に快楽を知らせる。その綺麗なカーブに僕は軽く歯を立てた。君の瞼が震えるのを確認しながら。
その震える睫毛を、見つめながら。
「…如月さん…あっ……」
喉から鎖骨へと舌を滑らせて、その窪みにきつく口付ける。僕のものだと、確認する為に。この身体も心も、僕だけのものだと。
君の滑らかな白い肌が好きだ。君の柔らかい髪が好きだ。君の壊れかけた瞳が好きだ。
どれもこれも、愛している。
愛し過ぎて、全てをこの腕で護りたい程に。
愛し過ぎて、全てを壊してしまいたい程に。
愛しているから全てを懸けて護りたくて。愛しているから全てを懸けて壊したくて。
どちらも僕の唯一の真実なのに、それは鏡のように反射する矛盾。
「…ああ…もぉ…」
ねだるように媚びるように、腰を揺らし君は僕を欲しがる。快楽に溺れた時だけ、君は素直に僕を求めるから。だから、僕は。
「もうどうして欲しいの?」
耳元に唇を当てて、そのまま軽く耳たぶを噛んだ。君の吐息が熱く零れる。甘くて、蕩けそうなその吐息。
「…もぉ…僕は……」
「言葉にしないと分からないよ、紅葉」
「…ダメ…如月さんが……」
「僕が?」
「…欲しい……」
その一言を確認して、僕は君の細い腰を掴むとそのまま一気に貫いた。
蒼い月だけが、僕らを見ていた。
この穢れた罪を、月だけが見ていた。
血の匂いのする運命。むせかえる程の甘い匂いのする運命。
僕らの結ばれた絆が、その色に染められているとしたら。
…僕らの堕ちる場所はただひとつしかない。
「…ああっ!」
貫かれた痛みと悦びで、背中が痛い程に反り返る。それでも浅ましい媚肉は快楽を求め、それを逃さないようにと締め付けた。
「…はぁ…あぁ……」
背中に爪を、立てる。深く、深く。そこから零れる血の紅さに、神経までもが痺れてしまいそうになりながら。
「…紅葉……」
飛びそうになる意識を呼びとめるのは、貴方の声だけ。心も魂も縛り付けた貴方の声だけ。その声に弾かれるように瞼を開いた。
「綺麗だね、紅葉」
貴方の方が、綺麗だ。そうやって僕に微笑む貴方の方が、ずっとずっと。僕はこんなに綺麗なひとを他には知らない。こんなに綺麗なものを、僕は他に知らない。
…それはどんなに幸せな事か……
「…如月…さ…ん…」
綺麗な、ひと。心も身体も全て。全てが、綺麗なひと。僕の闇すらも弾いてしまう程の。血塗られ闇に堕ちた僕の身体を幾ら抱いても、貴方は綺麗。ずっとずっと、綺麗。
「愛しているよ」
貴方以外何も要らない。貴方だけが欲しい。他に何一つ欲しい物なんて無い。
貴方だけを知っていればいい。僕の瞳に映すのは貴方だけでいい。
他のどんな綺麗なものでも、貴方の前では霞んでしまうから。
朝の強い太陽の日差しも、柔らかく萌える緑も、突き抜ける澄みきった空も。全部、全部。
…貴方の前では…儚いものに思えてしまうから……
「…僕も…貴方だけが……」
「僕を愛している?」
「…愛して…ます……」
こんなにもこんなにも、貴方だけを愛している。どうしたらその想いは尽きるのだろうか?どうしたらその想いは終わるのだろうか?
まるで無限地獄に陥ったように、満たされる事の無いこの想い。
どうしたら、どうしたら埋められる?この貴方に対する飢えにも似た渇望は。どうしたら、満たされる?
「…如月さん…貴方…だけ…」
また貴方は、微笑った。その笑顔を瞼の奥に焼き付けながら死ねたら。
そうしたら僕の想いは満たされるのだろうか?
最期の瞬間を迎えた時、一面に蒼い闇が広がった。
それは窓から覗く月だった。
ふたりの罪を静かに見下ろす蒼い月、だった。
いっその事、貴方を憎めればよかった。
そうしたら少しは楽になれるかもしれない。そうしたら少しは救われるのかもしれない。
こんなにも愛してしまって。こんなにも激しい想いが支配して。
ここまで自分を捕らえてがんじがらめにした貴方を憎めれば。でも。
でもそれ以上に僕は。
僕は貴方を愛している。
貴方の見えない鎖に縛られて、幸せ。
貴方の腕に捕らえられて、幸せ。
心も身体も魂も、悲鳴をあげながら。血を、流しながら。それでも。それでも貴方の全てに捕らえられることが。
僕にとって何よりの幸福、だった。
シーツに散らばる紅の華が貴方の指先から零れる血だと気付くのに、しばらくの時間を要した。
「…死にたいな…」
君が僕の腕の中でぽつりと呟いた。その呟きは君の真意でもあり、また君の哀しい嘘だった。
「死んで僕から逃れたいの?」
「…逃れる為に死ぬならば、とっくに死んでいます」
闇色の瞳。深い漆黒の闇。君の瞳は何時も闇に堕ちている。僕が引き上げたくても、それは永遠に叶う事が無い。
僕が君の闇に堕ちたくても、君がそれを許さない。
君が僕の光に届かないと言うのならば、僕は君の闇に堕ちてゆく事が出来ない。
それが永遠のふたりの、距離。
「…今死んだら…貴方を永遠に縛れるかもしれない」
その距離を埋めるには。その距離を無くすには、ふたりは。
「僕が今死んだら、貴方は僕を憎むでしょう?」
「そうしたら僕のことだけ、考えてくれるでしょう?」
その距離を埋める手段が『死』しか無いとしたら。
もしもそれ以外に手段が無いとしたら。僕らは死を選ぶのか?
「今でも君のことだけを考えているのに」
それでも生きて君と共に堕ちる道を選ぼうとするのは。
「君だけを想っているのに?それでも君はもっと僕が欲しいの?」
この胸の痛みも、この哀しいまでの想いも全て。
「貴方への想いが尽きる事なんてないんです。欲しくて、欲しくて、どうしようもなくて。どうにも出来ないくらいに」
全てが、君に通じているから。生きていようとも死んでしまっても、どちらを選んでも僕の君への想いは変わらないのだから。
「だったら共に堕ちよう」
「如月さん?」
「どうせ僕にもどうにも出来ない。君への想いを僕にはもうどうする事も出来ない。ならば堕ちるだけだよ」
「君と共に、もう何処にも戻れなくなるまで」
「何時かこの想いが貴方を殺してしまうかもしれない。それでも共に堕ちてくれますか?」
「堕ちよう、何処までも」
「何処にも戻れなくても…いいのですか?…」
「君を手に入れようと思った時から、僕は何処にも戻る気など無かった。君を道連れにして何処までも堕ちるつもりだった」
「そこに見える未来に何も無くても?」
「未来なんて、いらないよ」
未来なんて、いらない。
今そこに、君がいればいい。
君が僕の腕の中にいれば。
いれば、それでいい。
この想いを罪だというのなら、幾らでも罰してくれても構わない。
永遠を願った。
共にいられる未来を願った。
ふたりでいられる未来を想った。
けれども。
ふたりの進む道はそんな綺麗なものじゃない。
だったら堕ちるだけ。
未来も永遠も届かない場所にふたりで、堕ちてゆくだけ。
それはもしかしたら、何よりも幸せなのかもしれない。
蒼い月に華が浮かぶ。
綺麗な紅の華。
それはふたりがこころで流した紅の血、だった。
End