君に触りたい ここには望むものはない ああ何も
君を奪いたい全てを 誰にも邪魔させない ああ誰にも
白い壁。無機質な空間。
何も無い部屋で音もしない部屋で、君とふたりきり。
君と僕だけの、閉鎖された空間。
透明な空気に閉じ込められた、時間。
「…紅葉……」
君の名前を呼べばからっぽの瞳が僕を見返す。硝子玉のように透明でそして透き通った瞳。
僕の内側の物語までも見透かしてしまう、その透明な瞳。
「おいで」
手を差し伸べれば、その手に指を絡めてくる。白い指先。肉の匂いのしない、その透き通る程に白い肌。
「…如月…さ…ん……」
君が知っている唯一の言葉は僕の名前だけだった。全てを失って全てを忘却してそして残ったものは僕の名前だけだった。
「もっと僕の名前を呼んで、紅葉」
何もかもを失った君が、縋るものも。何もかもを捨てた君が、頼るものも。全部、僕だけだから。
「…如月、さん……」
紅い唇が綻ぶように微笑った。その笑顔は唇の色とは正反対に無邪気な笑みだった。
たとえ嫌われ口もきかない ああそれでも君が要れば
君の痛み知り僕の喜びは君に そうして傍にいて微笑んで
小さな四角い空間から覗くのは蒼い空。僕らには眩し過ぎる蒼い空。
君の背中越しに見えるその小さな空間だけが、この部屋と現実とを繋ぐ唯一のものだった。
「如月さん」
僕の名前しか口に出来ない、哀しい僕の恋人。他の言語を全て失ってしまった。だから僕はその声に答えるようにそっと唇を塞いだ。
睫毛の先に光の粒子が零れ落ちる。それを瞼の裏に焼きつけながら、君の唇を深く奪った。
「…んっ…はぁ…」
拒む事なく開かれる唇に舌を忍ばせる。そしてそのまま絡め取ると、淫らに吸い取った。それだけで君の肩がぴくりと震える。
「…んっ…んん……」
静かな室内に生まれる音。それは淫らに絡め合う舌と乱れる吐息が刻む音だけだった。
「…紅葉…僕を見てくれ……」
その冷たい頬に手を当てて、そっとなぞる。滑らかな感触が指先に伝わる。まるで生まれたての子供のような透明さで。
「…如月…さ…ん…」
乱れる息の合間から君は僕の名前を呼ぶ。僕が呼びかければ必ず君は答える。その仕草でその瞳で、その全てで。
こんな風に君をしてしまったのは僕のせいなのか?それとも。
…それとも互いが望んだ事なのか?……
君の傷口に僕の溢れ出す愛を だから此処にいて泣かないで
背中に廻された腕に答えるように、僕はその素肌に指を絡める。そして唇を落としてゆく。
体温のしない身体に熱が灯る。触れた瞬間にその箇所が熱くなる。
白い肌に紅い所有の跡を刻みながら、君の口から零れる甘い吐息を自らの唇で奪う。
「…あっ…ん……」
胸の果実に指を這わせ、そっと歯を立てた。それだけで敏感なそこは紅く色付く。きつく噛んでやると背中に廻した腕に力がこもる。
「…あぁ…はっ……」
君を鳴かせて、泣かせたい。君の涙を僕の腕の中以外で見た事は無い。君が他人に涙を見せた事など一度も無い。見せたくは、ない。
誰にも見せたくない、君の涙を。君の零すその綺麗な雫を。だから今。
今僕の腕の中だけで、見ていたい。
僕だけが、見たい。
あなたは僕だけのものでいて
『貴方を僕だけのものにしたい』
口癖のように君は、そう言った。とっくに僕は君に心を捕らわれているのに。とっくに君だけに全てを捧げているのに、どうしてそんな事を君は聴くのか?
『誰にも貴方を渡したくは無い。貴方が他人を見つめるのがイヤ。貴方が他人を気にかけるのがイヤ。貴方が他人を思うのがイヤ…』
その言葉を僕はそっくりそのまま君に返したい。僕は君の身体を他人が触れられるのはイヤだ。君があの男のもとへと帰ってゆくのがイヤだ。
…君が…僕の傍にいないのは…イヤだ……
『何もかもがイヤなんです、如月さん。もう生きているのすら辛くなる』
ならば死ぬかい?そう言えば君は首を横に振るだろう。僕だってそうだ。
死ぬことは簡単だ。死んでしまえば全てを終わらせる事が出来る。けれどもその死すらも超える程の執着を互いが持ってしまったならば?
『それでも貴方をずっと見ていたいと思う自分が…嫌いです…』
そうしたらもう、僕らには破滅以外の選択肢は無いんじゃないのか?
君を閉じ込めておきたい この胸にずっと あああなたを
夜に濡れた瞳が僕を媚びるように見つめる。その先の望む答えを僕は知り尽くしている。君の瞳の先に望むものを、僕は。
「―――ああっ!」
望み通りに君の身体を貫いた。一瞬拒むかのように硬直した身体は、けれども次の瞬間に望んでいたモノを迎え入れた悦びできつく僕自身を締めつけてきた。
「…ああっ…はぁ…あ……」
仰け反る喉に唇を落とし、軽く噛み付く。うっすらと紅く充血した部分が広がってゆく。
まるで僕らの犯しつづけた罪のように。
「…きさ…らぎ…さ…ん…あぁ……」
それでも君は僕の名を呼ぶ。最後に残った一本の糸のように。今にも切れそうな細い糸のように。ただひたすらに僕の名前だけを。
「…紅葉…愛しているよ……」
「……ああ…あ……」
「愛している」
「…如月…さん……」
…僕の、名前…だけを……。
いつか解るさ僕の気持ちが ああこんなにも君のことを
抱き合って、愛し合って。貪って、絡め合って。
そして。そしてその先に。
その先には、何があるの?その先には何が、見えるの?
本当は何も、見えないでしょう?
本当は何も、ないんだよ。
指先を噛み切った。そこから血が流れた。
紅い、血。僕の、血。
他人の血を吸い続けた僕の血は、それでも紅い色をしていた。
綺麗な紅の色をしていた。
…如月さんの血の色も紅いかな、と思った……
僕と同じ色をしていたらいいなと。僕と同じ紅い色をしていたらと。
そうしたら僕達は同じになれるかもしれないと。
そんな事を思いながら、僕は自らの身体を切り刻んでいた。
君の痛みを知り僕の喜びは君に そうして傍にいて微笑んで
君の傷口に僕の溢れ出す愛を だから此処にいて泣かないで
一面そこは血の海だった。
その中で君は微笑う。何よりも綺麗な笑顔で。
君は僕だけを見つめて、そして微笑む。
その笑顔に魅せられた。その笑顔に全てを捨てた。
今まで『僕』が『僕』として築き上げたもの全てを。そして。
そして君は。君は全てを失った。
自らの身体を切り刻み、君は身体に掛けられた無数の鎖を外した。
自らの血を流して、君はその穢れた身体を清めた。
そして君はただの『君』になる。
あなたは僕だけのもので要て
僕は何も欲しくなんて無かった。何も望んではいなかった。
ただ、ただ僕は。
僕は真っ白なままで貴方と向き合いたかった。
暗殺者として血まみれの手なんて、いらない。
生きる為に無数の男に差し出した身体なんて、いらない。
入れ物も肩書きも何もいらない。
ただ僕は『僕』だけになって。
貴方を愛したかったの。貴方に愛されたかっただけなの。
だから言葉も、記憶もいらない。
僕は醜さにいつも哀れみの歌を そうして傍にいて微笑んで
僕の醜さにいつも溢れだす愛を だから此処にいて泣かないで
「…如月さん……」
やっぱり君は、微笑う。何も持たない無邪気な顔で。でもそれは多分、君の本当の笑顔。
嘘偽りない真実の君の姿。
「愛しているよ、紅葉」
「如月さん」
「愛している、君だけを」
誰にも分からなくて、いい。誰にも気付かれなくて、いい。誰にも許されなくても、いい。
もう、誰にも何もかも。
『如月さん』
君が僕を呼ぶその声だけが。この世界の全てになればいい。
君が見つめるその瞳だけが。この世界の果てになればいい。
あなたは僕だけのもので要て
この閉鎖された空間だけが、ふたりの全てになる。
ああ何もない ああ何も望まない
End