KissInTheMoonlight

凍える想いは月夜にくちづけよう


ガラスの向こうのざわめきは、この室内までは届かない。このふたりだけの、透明な時間だけが漂うこの室内では。ここに存在するのは、ふたりの声だけだから。部屋の、灯りを消した。ムダな光など必要ないから。そして月明かりだけを頼りに。それだけを頼りにふたりで見つめあった。


「…泣かないで…紅葉……」
月明かりに照らされる君の頬から零れるのは、透明な雫。世界で一番綺麗で、そして哀しいもの。僕はそっと手を伸ばして、その頬に触れた。――――この手のひらで、君の涙を受け止めたいから……。
「泣かないで、くれ」
ぽろぽろと零れ落ちる、雫。ゆっくりと僕はこの手のひらで掬った。そしてそっと、舌でその涙の跡を辿る。
「…ごめんなさい……」
やっとの事で声にした言葉は、君の謝罪の声。僕は君の口からそんな言葉を聴きたくはない。君が謝る理由など何一つ無いのだから。もしも謝らなければならないとしたら、それは僕の方だから。君をこんな風に泣かせてしまう、僕の方なのだから。―――だから、紅葉…君が謝る事なんてなにひとつ無いんだ……
「…ごめんなさい…如月さん…貴方が、優し過ぎるから……」
僕を見上げる濡れた瞳。瞬きをするたびに、零れ落ちる雫。それをそっと。そっと口付けた。
「優しくなんてないよ、紅葉。僕は君が想うほどに」
もしも僕が君の言う通り本当に『優しい』男ならば、それならば君の淋しさに着け込んだりはしない。君の、こころの淋しさに。君が独りでいた事を僕は知っている。誰も君に手を差し伸べなかった事も。誰よりも他人への愛情に飢えていながら、それを必死に隠して独りで生きてきた君。そんな君のこころに僕は着け込んだ。君に僕は絶対に揺るぎない愛情を与えた。―――そう…僕は本当は卑怯なんだ……。
「…いいえ…貴方は優し過ぎます…こんな僕を…貴方だけが気付いてくれた…」
君が欲しがっていたものを与える事で、君をこの腕の中に手に入れた。まだ君の僕への想いが象る前に僕は。僕は、君をこの腕に抱いた。君が僕へと向けてくれる想いが、僕が向ける想いとは違うものかもしれないのに。
「…貴方だけが僕を…見つけてくれた……」
君が拒否できないのを分かっていて。無償の愛を、初めて与えられる愛情を拒めないと分かっていたから。だから僕は、君をこうやって手に入れた。―――君が、考える暇も無い程に与えた愛情。
「それでも、紅葉。僕は優しい男なんかじゃないよ」
愛していると言う想いを君はまだ理解していないのかも、しれないのに。


僕の『優しさ』は君を苦しめているのかも、しれない。


ガラスの向こうに映る夜の街。僕が今まで生きてきた場所。生かされて来た場所。でも貴方はそんな僕を見つけ出してくれた。夜の街で膝を抱え蹲る僕を。貴方が光ある場所へと、導いてくれた。――――貴方だけが僕に、気付いてくれた……。


「…淋しかったんです…僕は…」
こんな言葉が素直に言えるようになったのは、貴方のお蔭。貴方がこうして僕の傍にいてくれたから、だからこうして言葉にする事が出来るようになった。自分の気持ちを、自分のこころを。貴方がこうして全てを受け止めてくれるから。
「…独りでいる事が…独りで生きて行く事に疲れて…けれど今更…今更それを誰かに告げたとしても、しょうがないからって…ずっと諦めていました」
ただ館長の言葉通りに人を殺して。殺し続けて。そうする事でしか『生きている』と言う事を実感出来ない哀しい自分。――――人を殺す事で、僕は生きているんだと。
「…僕は卑怯です…自分から言い出せないから…誰かが気付いてくれるのを待っていたんです…傷つくのが…怖かったから…」
「…紅葉…」
「怖かったんです。誰もこんな僕を受け入れてはくれないとそう思って。だから、だから僕は誰からもこころを閉ざしました。そうしたら傷つく事は…ないんだって…でも…」
臆病で卑怯でそしてどうしようもない僕。生きている価値を見出せずに、ただ生かされているだけの自分。そんな自分が僕は大嫌いだった。
「…でも…貴方は…そんな僕を受け入れてくれました……」
大嫌いだった自分。でも今は。今は自分自身を嫌いじゃない。貴方の傍にいる、僕は。
「…貴方だけが……」
貴方の傍で笑う僕が。貴方の傍で泣く僕が。貴方の傍で生きる僕が。そんな僕自身を、今好きになり始めている。
「―――君の淋しさに付け込んだのは、僕の方だよ…それでも君はそんな事を言ってくれるのかい?」
「…僕も貴方の優しさに…付け込みました……」
貴方の優しさ。優し過ぎるほどの優しさ。貴方がどんな僕でも受け入れてくれる事をいい事に、僕は貴方にたくさんのわがままを言った。たくさんの、わがままを。
「そんな事一度も僕は感じたことはないのに?」
「…でも僕は……」


「貴方の顔に一生消えない傷を付けてしまった」


長めに降りた貴方のその前髪を僕はそっと掻き上げた。綺麗な貴方の額に、残る消える事の無い傷。くっきりと刃物で抉られたその傷。
「君を手に入れる為ならば、こんなもの安い代償だよ」
僕を拳武館から…館長から解き放ってくれた代償に貴方が負ったこの傷。貴方の綺麗な顔に付けてしまった傷。
「それに、僕も卑怯だからね…紅葉…」


「この傷がある限り、君は僕から離れられないと思っている」


君を手に入れる為ならばこんな代償安いものだよ。ただ君がこの顔を好きだというのならば、少しは惜しいけれどね。


「…如月…さん……」
君の唇が震えながらそっと。そっと僕の額の傷口に触れる。労わるように慈しむように傷口に舌が這わされる。
「…如月さん…好きです…」
睫毛が触れ合う程の距離。君の涙が僕の頬に落ちる程の距離。息が掛かる程の距離で君が僕に告げてくれた言葉。
「僕も好きだよ、紅葉」
たとえそれがどんな想いから来る言葉でも構わない。何故なら僕を見つめる君の瞳に嘘は何一つ無いのだから。だから、僕は。
「…本当に…貴方が好きです…」
僕は、もうこれ以上君に何も望まない。どんな理由であろうとも君は僕を好きだと言ってくれたのだから。
「…如月さん…僕を…」
「ん?」
「…僕を…抱いて…ください……」
搾り出されるように、告げた言葉に。震える唇で、告げた言葉に。僕は拒否する理由などなにひとつなかった。


抱きしめて支えてあげるふたりを見つめているのは、この月明かりだけ。柔らかく照らされるこの光だけ。
「…んっ…はぁ……」
口付けを繰り返しながら、君の身体に指を滑らせる。そのたびに、ぴくんっと腕の中の君が跳ねた。小さな魚の、ように。
「…きさら…ぎ…さん…」
口付けの合間に零れる僕の名前。君が零すその名前を。僕は自らの唇で掬い上げる。そっと。そっと…。
「…紅葉…愛しているよ…」
「…如月…さん…僕も…」
背中に廻した君の腕に力がこもる。その痛みが僕には心地よい。君がどんな理由であろうとも僕を求めてくれる事に。
「…僕も…貴方…だけ……」
「―――紅葉……」
君の瞳を僕の瞳に焼き付けながら、僕はその細い身体を貫いた。


くちづけて。月夜に全てを。君が抱えていた孤独と。君が怯えていた過去。その全てを、くちづけよう。この月明かりの下で、全てを。


君がもう独りで泣いたりしないように。


貴方が、好き。この想いになにひとつ嘘はない。多分初めてだから。他人を愛した事は初めてだから。僕はどうしていいのか分からなくて。どうしたら貴方にこの想いを伝えられるのか。何時も戸惑ってばかりで。何時も上手くいえなくて。
それでも。それでもこうして抱き合っている時なら。伝える事が、出来るかな?僕がどれだけ貴方を愛しているかと言う事を。こうして伝えられたならば。


愛しています、如月さん。


このまま貴方の腕の中で眠りたいと、思った。優しい腕の中で。僕が唯一安心出来るこの場所で。でも。でもその前に伝えたい事があるから。
「…如月さん…」
貴方に、ただ一言を。
「ん?」


「貴方を、誰よりも愛しています」


そっと手を伸ばして、貴方の額の傷に触れる。この傷に誓う。僕がどれだけ貴方を愛しているのかを。
「―――紅葉……」
「嘘じゃないです…如月さん…信じてください…」
僕の全てが、貴方に向かっている事を。


「信じるよ、紅葉」


始まりがどうであろうとも。どんな理由であろうとも。その先に見えたものが。その先にふたりが築き上げたものが。それが互いへの愛ならば。それが互いへの想いならば。


―――ふたりの未来が、重なったのならば……。



生きてゆく事。ふたりで未来を、光の中を生きてゆく事。それがどんなに大事で。それがどんなに大切か。ふたりで、気づいた事だから。他の誰でもない、どちらからでもない。ふたりが。ふたりが気付いた事だから。


ふたりで気付いた想い、だから。


「幸せになろう」


それが、始まり。これからのふたりの。


―――ふたりの、はじまり。


End

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