月の舟


空にぽっかりと浮かぶ三日月に、そっと手を伸ばしてみた。
届くわけない事は分かっているけれども。それでも、触れてみたくて。
触れてみたくて手を、伸ばした。

このまま何処かに連れ去られてしまいたい。

綺麗な寝顔だなと、思った。何時も見ているけれども全然見慣れる事がなくて。
その長い睫毛も、筋の通った鼻も。薄い唇も。何時も何時も見ているのに、どうしても胸が高鳴るのを止められないでいる。
「………」
名前を呼ぼうとして、そして寸での所で止めた。今声を出してしまったらこの静けさが破られてしまう気がして。だから、声に出さなかった。
『…如月さん……』
心の中で名前を呼んで、そしてそっと髪に触れてみる。彼の優しい眠りを妨げないように。そっと、そっと触れる。さらさらの、髪。柔らかい感触。極上の手触り。
こんなにも綺麗な人が自分のものだなんて信じられない。こんなにも優しい人が自分だけのものだなんて。何時もこれは夢で目覚めたら貴方は何処にもいないのではないかと、そんな事ばかりを考えてしまう。
…そんな事、ばかり。

夜の海に浮かぶ月の舟。
ふたりでその舟に乗って、永遠という名の川を渡ろう。
指を絡めて。互いの温もりだけを全てにして。
ふたりだけの、月の舟。

そっと目を開けてみる。君が隣で眠るようになってから、僕は睡眠が浅くなった。
元々深く眠る方ではなかったけれども。目を開けたら君が何処にもいなくなってしまうのではないかと、そんな気がして。何となく安心して眠れなくなって。
だから今もこんな風に君の存在を確認する為に、目を開ける。
「…あっ……」
その途端君が驚いて小さく声を上げた。びっくり眼の瞳がひどく可愛くて、僕は無意識に口許に笑みを浮かべる。
「どうしてそんなに驚くんだい?」
僕の髪に触れていたであろう手が宙に止まる。僕は手を伸ばしてそっとそれを包み込んだ。触れ合う体温。その温もりにずっと繋がっていたい。
「あ、いえ…目を覚ますとは思わなかったので…」
「僕が寝ていたほうが、都合が良かった?」
意地悪っぽく尋ねると君はほんのり頬を染めながら、首を横に振った。恥かしがりやの君らしくてひどく愛しさを感じる。
「指、冷たいよ。外に出していたからだね」
重ねた指を自らの口許にもってゆくと、そっと指先に口付けた。冷たかった指先に体温が灯る。ほんのりと。
「貴方の髪に、触れたかったんです」
君の開いている方の手が僕の髪に触れた。そうしていると安心するのか、君は微かに微笑む。儚いくらい綺麗な笑みで。
「僕の髪でよければ幾らでも触れていてくれ。でも」
「でも?」
上目遣いに見上げてくる君の瞳に僕は微笑みかけながら。
「僕も君に、触れていたい」

暗闇の中でも、互いの存在だけは。
互いの吐息だけは、互いの温もりだけは。
分かる、から。
絶対に見逃したりは、しないから。

薄い鎖骨にそっと、歯を立てた。その瞬間にぴくりと、壬生の身体が跳ねた。
「…んっ……」
声を堪えようと唇を噛み締める壬生に、如月はひとつ微笑った。無駄だと分かっていながらも、壬生は何時も初めは声を堪えようとする。
理由を聞くと『…恥かしいから……』と頬を染めながら言うのだ。そんな彼がどうしようもなく可愛くて如月は、この壬生のささやかな抵抗を止めさせようとはしなかった。
「…ふぅ…んっ…」
鎖骨から胸元へと舌を滑らせ、辿り着いた胸の果実を口に含む。軽く歯を立ててやるとついに我慢出来なくなって声を上げた。
「…あっ…ふ…」
指先で摘み上げながら、赤く色づく突起に舌を這わせる。ぴちゃぴちゃとわざと音を立てながら、如月はそこを舐めた。
「…あぁ…ん……」
甘い、声。甘い、吐息。髪に掛かるその熱い息が、如月の快楽をも煽ってゆく。胸から一端唇を離してついばむように口付けてあげると、壬生は戸惑いながらも懸命にそれを返してきた。
「…如月…さん……」
快楽で潤み始めた瞳が、如月を捕らえる。綺麗な漆黒の瞳。この瞳に映るのは何時も、自分だけであってほしい。
「何?紅葉」
「…キス……」
「ん?」
「…もっと…いっぱい…してください……」
最後の方は恥かしさのあまり声になっていなかったが、如月には充分届いた。そう何時だってどんな時だって、如月は壬生の言葉を聞き逃したりはしない。
「いいよ、いっぱいしよう。君が望むだけ」
そう言ってゆっくりと如月は壬生の唇を塞いだ。このまま唇が痺れても構わないから、いっぱい。いっぱいふたりでキスをしよう。数え切れないほどたくさんの、キスを。

誰にも邪魔されずに、ふたりだけで。
ずっとふたりだけの世界で。
優しく甘い時間だけが、過ぎていけたなら。
ふたりだけの、時間。

「…ああっ!……」
貫かれた痛みに一瞬、壬生の形よい眉が歪む。けれどもそれはすぐに甘い喘ぎへと摩り替わった。如月の指によって。
「…はぁ…あぁ……」
壬生の掴んでいた部分のシーツに雛が広がってゆく。爪が白くなる程にきつく掴んだ指を、如月はゆっくりと外させた。
「紅葉、シーツよりも僕を掴んで」
「…でも…僕は爪を…立ててしまう…」
「構わないから、そのくらい」
その言葉に壬生はゆっくりと如月の背中に腕を廻した。広い、背中。何よりも誰よりも安心出来る場所。ここだけが、唯一壬生の安息の地。
「僕の背中を傷つけてもいいから」
壬生の腰を掴んでいた如月の腕がゆっくりと動き始める。そうなるともう壬生は如月の背中にしがみつくしか術はなかった。綺麗な背中を傷つけたくないと思う反面、この背中だけが自分の唯一縋れる場所だと言う思いが重なって、結局後者の思いの方が勝った。
「…あぁ…あ…」
背中に爪を、立てた。爪が白くなる程に。やっぱり自分にはここだけだから。このひとの背中だけが自分が、自分が無条件で心を許せる場所。なんの見返りもなしに、縋れる場所。
…この広い、背中だけが……
「…ああ…あ……」
如月の作り出すリズムに何時しか壬生も合わせていた。腰を妖しくくねらせ、快楽のリズムを刻んでゆく。
「…あぁ…如月さん…もぉ…」
「もう?」
「…もぉ…イッちゃう……」
「くす、分かった紅葉。一緒にイコう」
そう言って如月はそっと壬生の額に口付けて。そして。そして互いに昇りつめる為に、壬生の身体を最奥まで抉った。

夜空に浮かぶ三日月は決してこの手には届かないけれども。
この手で掬う事は出来ないけれども。
でも、こうして。こうして貴方に触れる事は、出来るから。

「月の、舟」
如月の胸元に顔を預けながら壬生はぽつりと呟いた。耳元に伝わる心臓の鼓動を聴きながら。命の音を、聴きながら。
「どうしたんだい?紅葉」
恋人の柔らかい髪を撫でながら、如月は優しく尋ねた。髪にそっと顔を埋めると、そこから彼の匂いがする。微かな、匂いが。
「いえ、三日月って舟みたいだなって」
「そうだね。じゃあ何時かふたりであの月の舟に乗ろうか?」
現実にそんな事はありえないのだけれども。それでもこのベッドの上での睦言に、壬生は甘えたかった。如月に、甘えたかった。
「乗せてくれますか?」
「ああ、約束しよう。何時かあの舟に乗って…」

「…永遠になろう……」

その言葉を聴いて壬生は小さく頷いた。如月の言葉は嘘じゃない。虚言でもない。そう、彼は絶対に自分にだけは嘘は付かない。
「死ぬ時は一緒、ですか?」
「いやかい?紅葉」
如月の言葉に壬生は首を横に振った。死ぬ時も、死んでからも。ずっとずっと一緒にいたいと思うのは貴方だけだから。貴方だけ、だから。
「僕も貴方とともにいたいです」

…永遠に……
そう言葉にしようとして壬生は、止めた。
言葉にしなくても彼には伝わるから。
声に出さなくても、伝わるから。だから。

「何時かあの舟に、乗りましょう」

月の、舟。
夜の海にぽっかりと浮かぶ月の舟。
何時しかふたりであの舟に乗って。そして。
そして『永遠』に、なろう。


End

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