水
…ゆっくりと浸透する、狂気。
足元に広がるのは、無限の水。冷たく凍えた透明な水。
それがゆっくりと浸透して、全身を覆って。そして。
そして自分の身体がその水と同じ冷たさになった時。
その時は、死ねるの、かな?
光りの乱反射が、眩しくて。瞼を開く事が出来なかった。
それでも一瞬見た光の残像が、瞼から消えなくて。消えなくて、切なかった。
このままその光が自分の視界が捕らえた最期のものならば、それはそれで哀しいのかもしれないなと思いながら。
…でも、哀しいって…どう言う事だろう?……
「…哀しい、か…」
壬生はそっと手を水に差し入れる。冷たい水はじんっと指先を覆った。それが全身に浸透して、凍えてしまえたら。身体も心も冷たく凍ってしまえたらと。
そうしたら、心はもう、痛くない?
「痛いのは、貴方のせいですよ。如月さん」
名前を呟いてみて初めて、初めて『泣きたい』とそう思った。今までどんな事があっても泣きたいなんて思った事無かったのに。
人を殺しても、強姦されても、母親が倒れても。ただ自分を覆っている何かが、少しずつ剥がれて削られてゆくだけで。一番奥底にある扉をこじ開けはしなかったのに。
…こじ開けは、しなかったのに……。
「こころが、痛いなんて知らなかった」
胸にそっと手を当ててみる。とくんとくんと、命の音。でもそれは壬生にとってただの『音』としか認識しなかった。これが自分を動かし、自分を支えている源だと言う意識すらなかった。ただの音。それは機械の電子音となんら違いの無い。
でも貴方のことを考えている時だけは、その音が鼓動になる。命の鼓動に。
ぴちゃんっと水がひとつ、跳ねた。それが頬に当たる。それを合図に、壬生はその冷たい水面に口付けた。
ひとを愛するという事は、どういう事なのですか?
傍にいて、喜びも哀しみも分け合って。分け合ってそして。そして。
そしてともにいる事が、愛なのですか?
それならば僕には出来ない。
この人の傍にはいられない。この人の傍だけには。
愛しているから全てを奪って。愛しているから全てを奪われて。
そんな愛し方をすれば破滅しかないとわかっていても。
それでもそんな愛し方を望んでしまう自分には。
…貴方の傍には、いられない……。
僕だけが、壊れるのなら。あのひとを傷つけはしない。
「…壬生…この男を殺せ……」
そう言って差し出された一枚の写真に、僕は口付けた。他の誰でもないあの人の綺麗な顔に。
「やはりお前には、出来ないのだな」
分かっているくせに。僕が如月さんを殺せる訳などないなんて。貴方が一番分かっているくせに。
「自分の命と、この男の命と、どちらを選ぶ?」
バカな質問。そんなの答えは決まっている。決まっているのに貴方は聞く。そこまでして、僕を自分のものにして置きたいのですか?
その手から写真を奪い、僕はそれを抱きしめる。身体は貴方に上げる、僕の抜け殻を。でもこころだけは…あげられないから。
「ならば、死ね。壬生」
僕はその言葉にこくりと頷いた。別に構わなかった、自分の命など。そんなものいらなかった。だから差し出す、彼が地上に存在してくれる為に。
…けれども僕はその晩死ななかった。ただ何時ものように衣服を剥ぎ取られ、そして館長の腕に抱かれた。
何度も何度も貫かれて、器官が麻痺してしまうくらいに。そして意識を失って後の事はもう何も覚えていなかった。
…ただ館長の命令は絶対だから。それを逆らう事は自分には出来ないから。だから。
だから自分は、死ななければいけない。
……だから僕は、死ぬ。この冷たい海の底で………。
水はあのひとだから。あのひとに包まれて、死にたいから。
……水の中で死ねるのは、幸せだなと…そう思った………。
本当ならば僕は、君を引き上げて助けるべきだろう。いや、そうしなければならないのに。なのに、僕は彼を水から引き上げなかった。
ただ落ちてゆくその手を取り、ともに水の中へと包まれた。
彼の目は一瞬だけ驚愕に見開かれ、そして次の瞬間に微笑った。それは初めて自分に見せてくれた、何も覆われていない真実の顔だった。
そしてその身体をそっと引き寄せ、引き寄せ口付けた。最期の息を分け合おうと。
このまま、彼を水の中に埋めてしまいたいと。僕の中に永遠に閉じ込めてしまいたいと。
そんなどうしようもない欲望が僕を支配して、そしてその欲望全てに捕らわれた。
綺麗な未来も、優しい過去も何もかも捨てて。今ここにある現実だけが、僕を捕らえた。
彼が僕の腕の中にいて、そして僕が彼を愛していると言う事に。
指を絡めて、舌を絡めて。そして、落ちてゆく。瞼に残る最後の残像が、紅葉…君のその笑顔ならば僕は何ももう望まない。こんなにも幸せなのに、他に。
他に何を望めばいいのか?
『…如月さん…未来は、いらないの?…』
そう問いたくても、もう問い掛けることは出来なかった。けれども答えは今ここにある。貴方の腕が僕を抱きしめ、貴方の唇が僕を塞いでいるから。
だから、もう。もう何も…何も……。
…この時になって初めて知った。自分がいかに狂っていて、浅ましい生き物かと言う事に。
貴方の命を救いたくてこうしたのに、今。
今自分はその命とともに堕ちようとしている。そして。
そしてその欲望を止めることが出来ないことを…。
「壬生は、死ぬよ。君を護る為にね」
それがあの男の最終警告だった。僕と紅葉の関係に気付いた彼が行った、最期の警告。それでも僕は紅葉をこの男に渡す気などなかった。
紅葉が僕の為に死ぬというのなら、答えは簡単だ。僕も彼の為に死のう。
ただ、それだけだ。それだけが、答えだ。
「構いませんよ。それならば貴方は紅葉の屍でも抱いていればいい」
「君は壬生の命を救いたいとか、思わないのか?」
「救う?どうして?これで永遠に紅葉は僕のものですよ。貴方の好きにはならない。僕だけのものになるのだから」
もう誰も彼に触れる事も、傷つける事もない。永遠に僕だけのものになるのだから。
「こんな幸せなことなんて、ないんですよ」
…紅葉…僕も、壊れているよ……初めから…君に出会ったその時から……
『未来よりも、君が欲しい』
ゆっくりと静かに浸透する水に全てをあずけながら。貴方に全てをあずけながら。
この水底に眠ろう、永遠に。
…誰にも、邪魔されずに……。
End