夢で、逢いましょう
空が、みたいね。本物の蒼い空が。
きっと。きっと、綺麗だよ。
君に見せてあげたい、本当の空の蒼を。
空の色すら見る暇のなかった君に。
君にその色を見せてあげたい。
…もうすぐ、夏がくる……。
眩しい太陽の破片。それを拾い上げてこの手で掬えたなら。
「壬生、何しているんだ?」
風が近づいてカーテンをひとつ、揺らした。ふわりと、柔らかな風が部屋に侵入する。柔らかい、風。暖かい太陽の匂い。
「…アルバムの…整理です……」
一枚一枚無造作に写真を拾い上げながら、アルバムに貼ってゆく。写真など滅多に取らない壬生が、それでも取った写真。『自分』が嫌いで『自分』の存在を残したくないと言っていた壬生が、取った写真。
「…あ……」
強い風が吹いて、壬生の手のひらから写真が飛ばされる。ひらひらと、手の中から擦り抜けてゆく。
「何してるんだよ、壬生は」
仕方ないなと、龍麻は苦笑しながら散らばった写真を拾い上げる。壬生はただぼんやりとその様子を見ていた。空っぽの瞳で。
「ほら、これで全部だよな」
「…はい……」
龍麻の手から写真が壬生に渡される。何の変哲も無い写真。写真嫌いな壬生がそれでも取った、写真。それでも取りたかった、写真。
「壬生っ?!」
突然壬生はその写真を真っ二つに引き裂いた。龍麻がその手を抑えるまで、原型が分からなくなるくらいにびりびりに。その写真を引き裂いた。
「止めろっ壬生っ!」
「…離して…ください……」
うなだれるように俯きながら、壬生は聞こえない程の小さな声で呟いた。その声に龍麻は反発するように壬生の顔を自らへと向かせる。空っぽの瞳。何も映さない瞳。
「駄目だ、手を離したらまた写真を破くだろう?」
鏡のように反射してその瞳に映る自分は、瞳に映像として捕らえても壬生の心には届かない。きっと永遠に、届かない。
「そんなのは僕の勝手でしょう?」
瞳に姿が映っていても、今こうして言葉を交わしていても。何処にも、いない。壬生は何処にもいない。それは分かっている。自分が一番、一番分かっている。
魂の双子の片割れ。血よりも深い絆で結ばれたふたり。でもその魂の片一方はもう自分の届かない場所へと旅立ってしまった。それは他の誰よりも自分が、自分が一番知っている事だから。
「そんな瞳をするな、壬生」
自分を映さない瞳で、壬生は自分を見ている。硝子玉のような瞳。そこに命のシルシは見えなくて。
「そんな瞳されると、手を離したくなる」
握り締めた手の力を無意識に龍麻は強めた。このまま離して壬生の思い通りにさせて。させてしまえたら、彼も自分も楽になれる?
…でも何に、楽になれるというのか?……
「でも離したらお前は如月の写真を破くのだろう?」
如月の名前が出た時だけ、その瞬間だけ、壬生の瞳に命のシルシが灯る。その瞳が反応を返す。まるで硝子玉が割れたような、そんな感じだった。
「そんな事をしても何にもならないだろう?」
何も、ならない?言ってみて龍麻は苦笑した。そうだ、何もならない。幾ら物理的に如月に関する事を壬生の目の前から消してしまっても。
「知りません」
「壬生?」
目に見えるものを、消してしまっても。手に届くものを、失くしてしまっても。
「如月さんなんて、知りません」
壬生の口許が微かに歪む。壬生は『笑っ』た。それは昔彼がよくしていた自虐的な笑みだった。笑いながら自らを傷つけるそんな笑みだった。
「僕を置いて何処かにいってしまうような人は、知りません」
笑いながら傷口を広げて。そこから透明な血を流して。誰にも分からないように、誰にも気づかれないように。そして壊れてゆく、お前。
「…壬生……」
壊れてゆく、お前。誰も救う事は出来ない。誰も光ある場所に引き上げることが出来ない。誰も、あいつ以外には。
「知りません」
また壬生は笑った。今度は声を立てながら。
…紅葉、空が見たいって言ってたよね。
僕が連れて行ってあげる。
君に本物の空を見せに連れて行ってあげる。
僕が君に一番の空を見せてあげる。
…約束しよう…紅葉……
指を、絡めて。
初めてしたふたりの約束。
ふたりだけの、約束。初めてした、約束。
これからいっぱい。いっぱい貴方と指を絡められると信じていた。
これからたくさんの約束を貴方と出来ると信じていた。
これから。これからずっとふたりでいられると。
ずっと貴方がそばにいてくれる、と。
太陽の日差しが眩しくて、目が痛かった。夏が、来る。
きっと夏が来る。もうすぐあの熱い夏がやって来る。
「壬生?」
「…村雨さん……」
歩道に太陽の日差しが掛かる。そこに陰影を作り出した。その影が何だか、怖い。
「久しぶりだな、壬生。あの『戦い』以来じゃねーか」
「ええ」
壬生は村雨の言葉に微かに微笑んだ。儚い笑みだった。昔からこいつは滅多に笑わなかった。やっと笑うようになったと気づいた時には、こいつは他人の腕の中にいた。だからどうと言う訳ではないのだが。
ただ笑う事の知らなかった子供が初めて笑い方を覚えたような、そんな感覚だった。多分本当にこいつは笑い方を知らなかったのだろう。
でも今、今自分に見せた笑いはひどく不自然だった。まるで最初に戻ったような、そんな笑みだった。
「でも海外に旅だった貴方がどうしてこちらにいるのですか?」
「ちょっとした『里帰り』だぜ。それよりも」
村雨は相変わらず人の食えない笑みで笑うと壬生の肩の上に手を置いた。華奢な肩だった。ほんの少し力を入れたら壊れてしまいそうな細い肩、だった。
「立ち話もナンだから店入ろうぜ。どっかいい店教えろよ」
「…はい……」
壬生が案内した店は裏通りにひっそりとある店だった。店内はモノトーンで統一されていて、さりげないセンスの良さが伺える。決して派手さはなく、かと言って地味でもない落ち付いた雰囲気だった。店内は会社帰りのサラリーマンや、レポートを仕上げようとしている女子大生の姿が伺えた。
「ふーん、雰囲気のいい店だな」
壬生の案内によって一番奥の窓際の席にふたりは座る。多分この場所は壬生が愛用していた場所なんだろう。あいつと、一緒に。
「ここはけっこう穴場なんです」
「へーなるほどな。如月の好きそうな店だぜ」
「……」
「あいつが連れてきたんだろう?ここに」
「…如月さんは…関係ありません……」
壬生は村雨の視線から逃れるように、窓へと自らの視線を向けた。太陽がゆっくりと地上へと落ち始める。街が紅く染まる。嫌いな色。大嫌いな紅い、色。
「壬生、痩せたな」
急に降って来た村雨の声に、壬生の視線がこちらへと戻される。けれども。けれども村雨には壬生の瞳はもう『あちら側』へと旅立ってしまったように見えた。
「気のせいですよ」
ここにいるのに、違う場所にいる。ここに身体はあるのに心は別の場所にある。ここではない何処かにある。漠然と村雨はそう感じた。そう、漠然と。
「痩せたぜ、お前。もともと肉のねー奴だとは思ってたけど…そんな細っちい身体で人殺しなんて出来るのかよ」
「…人殺し……」
今日初めて、初めて村雨の視線を壬生が捕らえた。その瞳が大きく見開かれる。何か閉じ込められていたものが、開かれるように。
「…忘れていました……」
「壬生?」
「…そうですね…僕は人を殺さなければならないんだ……」
壬生はまた微笑った。何かに弾かれるように。その笑みは儚くも切なくもなかった。ただ。ただ哀しいだけで。
「壬生、お前?」
…ひとはこんなにも変われるものなのだろうか?否、変わった訳じゃない…元に戻っただけだ。壬生紅葉と言う暗殺者に。孤独だけで生きていた、いや生かされていたただ独りの暗殺者に。
俺達の仲間になる前の…あいつに出会う前の、壬生に。
「壬生」
運ばれていたコーヒーを村雨は一気に飲み干した。喉元を擦り抜ける熱さと、胸に広がる苦味がまるで自分の言い表せない心情のようだった。
「何ですか?村雨さん」
何も、見ていなかった。やっぱり壬生は何も見ていない。一瞬だけ自分を捕らえた視線ですらまるで幻なのではないかと思わせる程に。瞳はからっぽだった。
「如月を忘れろ、と俺が言ってもどうにもならねー事は分かっている。でも言わせてくれ。如月の事は忘れろ。もう少し自分の為に生きるんだ」
「…でも…約束しました…」
その空っぽの瞳に命が宿るのは如月の名前を口にした時だけ。その名前だけが、壬生を『こちら側』へと戻す手段。こちら側へと戻る唯一の方法。
「壬生?」
如月だけが、壬生を救える。如月だけが、壬生を壊せる。
「約束しました。また明日って…約束しました…」
彼を闇から引きあげるのも、彼を闇へと堕とすのも。如月だけが。如月だけが出来る事。
「…壬生…もう少してめー自身の事を考えろよ。今お前がどんな状態だか分かっているのか?」
「約束しました、僕と。如月さんは絶対に僕との約束を破った事がない。だから絶対に帰ってきます。僕の所に帰ってきます…」
「…壬生……」
「…絶対に…還って来る……」
…君と一日でも離れるのは、淋しいな…
でも君にとって『母親』は何よりも大切なものだから。
久しぶりに親子水入らずで楽しんでおいで。
でも明日は、一日君は僕のものだよ。
前に約束しただろう?君に一番綺麗な空を見せてあげるって。
僕の知っている限り一番綺麗な空は、君と初めて出逢ったあの空だから。
一緒に見に行こう。約束だよ、紅葉。
『…じゃあ…また、明日……』
貴方と初めて出逢った、あの日の空。
突き抜けるほどに眩しい光と。澄んだ蒼。
貴方と僕の瞳に映ったあの空の破片が。
ずっと瞼の裏側に残像として残っているから。
「壬生、何処に行ってた?」
「…龍麻…」
冷たいフローリングの床に壬生は直にぺたりと座っていた。空っぽの部屋。今の壬生と同じ何も無い部屋。人の温もりを、体温を感じさせない部屋。生活を見出せない部屋。
「…龍麻…僕は…」
壬生の手が伸びてくる。その指先を龍麻は自らのそれで包み込んだ。冷たい指先。温もりのしない指。体温を感じさせない指。
「どうした?」
「…人殺し……」
「壬生?」
「…僕は…人を殺さなきゃ…」
ふらりとしながら壬生はその場を立ち上がろうとする。けれどもそれは叶わなかった。龍麻の力強い腕が壬生の身体を閉じ込めてしまったので。
「…離してください…」
「駄目だ、壬生。お前に人を殺させはしない」
もう二度と彼に暗殺をさせないと、その手を穢させないと誓った。
自分の代償に血塗られた運命を背負った。もしかしたら手を汚していたのは自分だったかもしれない。そしてこの地上を救うのは彼だったのかもしれない。
ほんの僅かな運命の糸のもつれで、彼は暗殺者にそして自分は救世主になった。だからこそ。だからこそ、彼を護るのは自分でなればいけない。
あいつがいない以上、この手で自分が護るしか。
「でもそうしないと母の治療代が」
「治療代ならば心配いらない。その事は解決している」
「…でも…僕は人を殺さないと…」
「…殺さないと僕の『存在意義』が無い…」
僕が生きているのは、生かされているのは殺戮マシーンだから。
人を殺す為に生きているから。この手を血に穢す為に。
その為だけに僕の命は存在するのだから。
だから僕が人を殺せなくなったら。
生きている意味が、無い。生かされてる意味が無い。
その為だけに存在する、ちっぽけな命だから。
『僕の為に生きてくれ』
差し出された手。細くて綺麗な指。それに僕はそっと指を絡めた。
『君に生きる意味が無いと言うのなら…僕の為に生きてくれ』
暖かい、指先。伝わる、温もり。その全てが、その全てが大切なものになる。何よりもかけがえのないものになる。
『君がこうして生きて僕の前で笑ってくれるなら、何もいらないから』
ならば僕は。僕は貴方の為に笑う。貴方の為に生きる。大切な貴方の為に。
…大好きな、貴方の為に……
「…壬生…何か、あったのか?…」
腕の中の壬生はひどく大人しかった。龍麻に抗う事もせずに、ただ静かに抱きしめられていた。
「どうして?」
細過ぎるほどの細い肩。痩せた身体。彼が物を食べる姿を見た事は滅多になかった。そして食べていても『美味しい』と言う表情を見せた事も一度もなかった。
「突然人を殺すなんて言うから…お前ずっと…忘れていたのに……」
忘れていた、忘れさせていた。全てを閉じ込めた。一番彼を傷つける真実を、彼は自ら封印した。
「…今日村雨さんに逢いました…」
「え?」
その名を聴いた途端、龍麻の胸がぎゅっと締めつけられた。まるで心を素手で鷲掴みにされたような、そんな感覚。
けれども龍麻は無理やりその気持ちを閉じ込める。今は、今はそんな事を思っている場合じゃない。
「あの人に言われました。こんなんじゃ人を殺せないって」
「…壬生、もう人は殺さなくてもいいんだ。誰もお前を縛ったりはしない」
壬生の全身に架けられていた鎖は、あいつが解いた。あいつが、全てを懸けて解いた。だから。だから壬生の存在意義は『人殺し』なんかじゃない。けれども。
「…如月さんを忘れろとも…言われました……」
けれども今壬生がここに『存在』している理由は?何の為に今、壬生はこんなになってまで生きている?自分の、為に?壬生自身の、為に?
「僕にそんな事が出来る訳ないのに言うんです」
壬生自身の為に生きているとしたら、それは嘘だ。それは、嘘だ。
「あの人だけが僕を『人間』として認めてくれた。あの人だけが僕を人殺しじゃないって言ってくれた。あの人だけが僕に生きる意味を教えてくれた」
「…壬生……」
綺麗だと、思った。とても綺麗だと。こんなに血塗られた運命を辿ってきても、彼は綺麗だ。哀しいくらいに綺麗だ。
…これが、如月が壬生に与えたもの……
ただの人形だった壬生に命を吹き込んだ如月が、如月が作り出したもの。如月だけが、気がついた。壬生の中に閉じ込められた純粋さを、彼の細くとも確かに存在する光を。如月だけが気づいて、そしてそれを引き出した。壬生の心の奥に閉じ込められた鍵を開けた。
…その手を掴んで光ある場所に、引き上げた……
他に誰も変わりになんてなれない。他に誰も彼を救えはしない。他の誰も、彼を。
「…如月さん…逢いたい……」
救うのが如月だけならば、壊すのもまた如月だけだ。誰にも入りこむ事の出来ない透明で美しいふたりだけの世界。その強過ぎる絆は廻りを傷つけずにはいられない。廻りをどんなに傷つけても『ふたり』である事を選んだのだから。
もう誰も、救う事は出来ない。誰も手を、差し伸べる事は出来ない。
「…早く帰って来てください…如月さん……」
…もう誰も…『ふたり』に割り込む事は…出来ない……
今日は身体が、焼けてしまうほどに熱い。
このじりじりと焼け付く太陽の視線に、この身を焦がしてしまえたらと。そんな事を思った。
身体を、動かした。ずっと忘れていたような気がする。こうして汗を流す事を。こうして息を乱す事を。
人を殺す為に、何時でも身体は鍛えていた。何時でも隙を見せないようにと。ずっとそうしてきた筈なのに。
何時しかその事を忘れていた。まるでぽっかりとこころに空洞が出来たように。そこだけが抜けていってしまったように。全てを忘れていた。
「…僕は何の為に…生きている?……」
しばらく動かしていなかった身体は、体力の低下とともに思うように動いてはくれなかった。以前よりも体力も肉もない身体になっている。こんなに簡単に息を乱す事になった自分がひどく情けなく思えた。
「…何の為に?……」
こんなんで人を再び殺せるとは到底思えなかった。人を殺せない暗殺者。それならば自分は何の為に生きている?何の為に存在している?何の、為に?
「…如月さん……」
風がひとつ、壬生の耳元を擦り抜けて行った。ぽたりと汗が零れた髪を拭うように、その風は擦り抜けてゆく。
「何処に、いるのですか?」
生きている、意味。貴方がいるから。貴方が僕のそばにいるから。だから、生きた。どうでもいいと思っていた自分の命に、初めて価値を見出せた。
貴方のそばにいる事が、貴方の瞳に映る事が、それが僕の全てになる。僕の生きる意味になる。それだけが、僕の。
「…僕を置いて…何処に行ってしまったのですか……」
僕の存在価値になる。貴方がそう言ったから。貴方の為に生きると、決めた。
「…僕は…何時まで貴方を待てば…いいんですか?……」
貴方に逢う為だけに、生まれてきたと。
「…もう…待てないです……」
何時しか地面に壬生はしゃがみ込むと、ぽたりと一滴の涙を零した。それは土に染み込んでじわりと広がった。
「…もぉ……」
何時も僕を包み込んでくれた、腕。耳元で囁いてくれる、優しい言葉。
…紅葉、愛している…
そして何度も。何度も繰り返されるその言葉。
…何よりも大切だよ、紅葉…
小波のように、呪文のように。ゆっくりと僕を溶かしてゆく言葉。
…大切な…紅葉…僕だけの……
その、言葉。
「…捜しに、いこう…」
だってもう待てない。
これ以上如月さんを待てない。
逢いたい。逢いたい。逢いたい。
…何処に居るの?如月さん……
ならば捜しに行こう。
逢いたいならば、逢いにいこう。
…貴方を、捜しに行こう……
夢で、逢おうね。
僕は君と一瞬だって離れられないから。
こんな夜は、君と夢で逢いたい。
だから君も僕の夢を見てくれ。
…紅葉…夢で逢おう……
「壬生?」
空っぽの部屋は、益々空っぽだった。何もない。何もかもがない部屋だった。
目覚めたら壬生の姿は消えていた。何処にもいない。部屋中何処を捜しても見つからなかった。
「…一体…何処へ?……」
龍麻は一瞬よぎった不安を打ち消すかのようにして、外へと飛び出した。
君の夢を見るから。
何時でも君が僕のそばに居るように。
君の夢だけを、見るから。
「先生?」
家を出て駆け出したその瞬間に懐かしい声に呼び止められる。振り返った先には自分がよく知っている男の姿があった。よく知っている。自分が何度も心の中で密かに描いていたその顔。それは一寸の狂いもなく自分の目の前に今、存在している。
「…村雨……」
自然と声が震えるのを押さえ切れなかった。閉じ込めていた日々の想いが、歳月が吹き出しそうになって。それを抑えるのに精一杯で。
「…どうして、ここに?……」
「いや別に…大した用はねーんだが…昨日の壬生が気になって…」
変わっていないな、と思った。何時でもどんな時でもさりげなく気を使う所が。そんな村雨を自分はとても好きだった。とても、好きだった。大好きだった。でもそれは言えない想い。伝えられない想い。
「…村雨…壬生はどうだった?…」
本当はお前について行きたかった。お前の傍に居たかった。全てを捨てて、お前の元へと。
一緒について行きたかった。
「…どうって…変わったと言うよりも、戻ったって感じだな…」
もしも。もしも俺が黄龍の器でなかったら、ただの『緋勇 龍麻』だったなら。そう思っても、もう遅いのかもしれないけれども。
「…やっぱり…お前にもそう見えるんだ……」
俺がお前よりも黄龍の器である事を選んだ時から。そして自分の代わりに穢れた壬生を見捨てられないと気付いた時から。
ふたりの運命が交わる事は、永遠に無くなった。
「…壬生は一体、どうなったんだ?…」
「……壬生は………」
ふたりの運命が、交わることが。
…祈れば、願いは叶うのだろうか?……
「おいっ危ねーよ、兄ちゃん」
…何処を、捜せばいいのだろう?
「何シカトこんてんだよ、人にぶつかっておいて」
…何処を捜せば、貴方に逢えるのだろう?
「おいっ何とか言えよっ!!」
胸倉を掴まれる。それと同時に頬が殴られた。けれども。けれどもその痛みすら何処か遠くに感じた。何処か、遠くに。
「キャアーっ!」
後ろから聞こえる女の声で初めて壬生は反応を寄越した。その男を何もない瞳で見返す。
「てめー何ガン付けてんだよっ」
それが気に入らなかったのか、その男は思いっきり足で腹を蹴り上げた。けれども壬生は一切抵抗しなかった。ただ一度だけ口許に流れた血を袖口で拭っただけで。後はただなすがままに殴られ続けた。
廻りの視線が突き刺さる。好奇心と同情と不信感の入り混じった視線。そしてそれを浴びせるだけ浴びせて何もなかったかのように過ぎ去って行く人々。
…どうでも良かった…どうでもいい。廻りがどう思うが、廻りにどう見られようが。
自分には今ただひとつの事しか考えられなかった。ただ、ひとつのことだけ。
貴方の、居場所。それだけ。
「精神分裂症?」
村雨が繰り返した言葉に龍麻はこくりと頷いた。受け止めなければならない真実と、自分が犯した罪と。その両方を確認する為に。
「壬生が、か?」
「ああ、だから俺はあいつから離れられない」
本当はお前についてゆきたかった。あの日お前の手を取って、俺は。俺は…
「…先生……」
村雨の手が不意に龍麻の頬に掛かる。そして。そして初めて気がついた。自分が、自分が泣いていた事に。
「…お前に壬生を救う事が出来ないと…分かっていてもか?」
優しい指。見掛けからは想像も付かない優しくて、そして繊細な指。そっと涙を拭う指。
「…それでも俺達は…離れられない…俺が壬生を闇に堕とした……」
魂の片割れ。もうひとりの黄龍の器。もしもふたりの運命がほんの少しずれていたら、手を穢すのは自分だったかもしれない。闇に堕ちるのは自分だったかもしれない。
「でも暗殺者の道を選んだのは壬生自身だ。選ばない道もあったのに、それを選んだのは他でもないあいつ自身だ。先生が闇にあいつを堕とした訳じゃない」
「それでも、村雨…俺は壬生を…見捨てられない…」
壊れてしまった、彼。全ての真実を閉じ込めて壊れた彼。たった独りになってしまった彼。ならば俺が、俺が傍にいるしか出来ないから。
「…しゃーねーな…先生は…そこに惚れちまったんだけど…」
涙を拭っていた村雨の手が、不意に龍麻を抱きしめた。そして愛しそうに髪に顔を埋める。
「村雨っ?!」
「…壬生の様子が気になったなんて方便だ。本当は先生に逢いたかった…」
分かっていた。俺が海外に一緒について来てくれとそう言った時、お前は笑いながら泣いていた。顔に笑顔を浮かべながら、瞳は泣けない涙を零していた。
お前は壬生を見捨てられない。自分だけが幸せにはなれない。そう言う奴だから。そう言う奴だからこそ…俺はお前に惚れたんだ、先生……
「…でも俺はお前の誘いを断った……」
「壬生の為だろう?分かってんよ、それくらい。それでいいんだ、先生。先生が決めた事なんだから。そしてそんな先生を置いてまで俺は海外へと旅だった。だから」
だから、今度は。今度は俺が先生を追い駆ける番だと。先生を待つ番だと。
「だから帰ってきた。今度は俺が先生を待つ為に。帰ってきた」
「…村雨……」
「先生が壬生を捨てられないように、俺の先生への気持ちも捨てられねーんだ」
「…俺は…村雨……」
それ以上何も言えなくなってしまった龍麻に、村雨はひとつ口付けた。それは苦しい程に優しい口付け、だった。
「壬生を捜しに行こう。な、先生」
村雨の言葉に、龍麻はこくりと頷いた。今自分に出来るのは、それだけだから。
身体中に痛みが走る。でも、もう。もうそれさえも気にはならなかった。
まるで遠い所で身体が軋んだ悲鳴を上げているみたいだった。
「………」
一体どのくらい歩いたのだろう?もう感覚すらなかった。
ただ自分は足を動かしているという意識しか。それしかなかった。
「…如月さん……」
足がもつれる。もう歩く事すらままならないのかもしれなかった。ふらついた足を支えるように近くにあった壁に凭れ掛かる。ひんやりとした感触がひどく心地よかった。
…紅葉、約束しよう……
目を閉じて降り注ぐのは、貴方の声。優しい貴方の、声。
僕の全てを包み込む、優し過ぎるその囁き。
…本物の空を、見に行こう……
約束。初めてした約束。『ふたり』になって初めて、初めて交わした約束。
「…そうですね……」
指を絡めて、そして。そして見つめあいながらした約束。たったひとつの、果たされていない約束。
「そうですね、僕達約束しました」
壬生は、微笑った。初めて本当の笑顔を見せた時のように。無防備にまるで子供のように笑った。心の底から、笑った。
「約束しました、貴方と。貴方はそこにいるんですね」
見上げた先に映るのは灰色の空間。ただの灰色の空間。空じゃない。本物の空の色じゃない。
「…行きましょう……」
行きましょう、空へ。本物の空へ。蒼い空へ。
「…如月さん……」
ひどく幸福な声で。壬生は如月の名を呼んだ。
…知っているかい?紅葉……
死にゆく子供の心は空に還るんだ。
でも君は永遠に還らないね。
僕の子供の心は穢い大人になってしまったから、空へと還ってしまったけれども。
君のこころはずっと。ずっと子供のまま綺麗なこころだから。
だから君は空には還らないね。
ずっとこのままで、ここに居るんだね。
ならばここにいて見つめていて。
死にゆく子供である僕を見ていて。
…ここで、死にゆくこども『僕ら』を見ていて……
空が高い。高過ぎて、届かない。
「…見つけた……」
消え入りそうな声で壬生は呟いた。さ迷い続けてやっと辿り着いた場所。
そこは、初めてふたりが出逢った場所。ふたりの瞳に蒼い空が映し出された場所。
「…如月さん…」
それだけを大事そうに呟くと壬生はその場に崩れ落ちた。萌える緑の上に紅い血が散らばる。その色合いがひどく不自然だった。
「…あ……」
その飛び散った血を見て初めて壬生は、自分が頭から血を流している事に気がついた。
「…どうりで痛い訳ですね…」
苦笑混じりに壬生は笑ってみた。その途端口許に鋭い痛みが走る。その痛みに壬生は笑う事が出来なかった。
「こんなに僕殴られていたっけ?」
改めて壬生は全身を見渡した。自分の身体につけられた無数の傷を。相当自分は殴られたらしい。でももう、どうでもいい事だったけれども。
どうでもいい事だった。自分の身体が傷つこうが、痛めつけられようが。どうでもいい事だったのだ。
…貴方に…逢えるのならば……
「如月さん」
貴方に逢う為ならば、何だって。何だって出来るから。
「約束の空です」
両手を空へと伸ばす。そして何かを掴むように握られた。けれども。
けれども何も掴む事は、出来ない。
「貴方と約束をした空を見に来ました。だから、如月さん」
もう一度壬生の手が掴むように握られた。あの空を。高い空を。この手に届かない空を。
「…だから…早く……」
でも何も、ない。何もその手には掴めていない。自分は何も、持ってはいない。
「…僕の所へ……」
何も手に入れる事は出来なかった。貴方への想い以外、何も。何も手に入れられなかった。
「…早く、迎えに来てください……」
なにひとつ、手に入れられなかった。
覚えているのは、車道を染めた真っ赤な血。
ざわめく、人込み。
そして僕を見ていた哀しい瞳。
どうしてそんな瞳をするの?
僕はここにいるのに。貴方のそばにいるのに。
どうして、哀しいの?どうして僕は泣いているの?
…どうして?……
分からないです、如月さん。
僕達は離れる事が出来ないって知っているのに。
どうして?
どうして僕の前から、消えるの?
夢で、逢いましょう。
君の夢で、そして僕の夢で。
誰にも邪魔される事のない、誰にも引き離される事のない。
ふたりだけの世界で。
ふたりだけの、夢の中で。
『夢で、逢いましょう』
「…壬生…」
聞き覚えのある声。僕が良く知っているその、声。
…誰?……
「壬生っ!」
その声に弾かれるように呼び戻されるように僕は目を開いた。
「よかった壬生…目を開けなかったら俺どうしようかと…」
……目?………
「心配したぜ、壬生。先生が壬生は死んでんじゃないかって言うからよ」
……死ぬ?………
「とにかく帰ろう、壬生。傷の手当てしないと」
……還る?………
「さあ、壬生」
龍麻の手が、僕に差し伸べられる。僕はただぼんやりとそれを見つめていた。ただぼんやりと、その手を見ていた。
…僕が差し伸べられる手はこの手じゃないと思いながら……
「壬生」
まるで反応のない壬生にじれたように龍麻はその上半身を起こさせた。それでも壬生の視線は宙を浮いたままだった。何処も見ては、いなかった。
「…夢……」
「え?」
不意に壬生は呟いた。死人のようなその顔に初めて感情が灯る。そして自分を掴んでいた手を振り払った。
「夢だ…」
「壬生っ?!」
そして壬生は自分の足元にあった草を掴むと思いっきりそれを引き千切る。その途端、鮮やかな緑の上に紅い色が重なった。
「夢だっ!!」
「止めろっ壬生っ!血が出てる!!」
「夢だっ!夢だっ!!」
何度も何度も壬生は草を毟り取った。その手が血まみれになるまで、いや血まみれになっても。壬生はその動きを止める事はなかった。見かねた村雨がその動きを止めるまで。
「壬生…」
強靭な村雨の腕に掴まれては壬生に振り切れるだけの力は残ってはいなかった。このやせ細った腕の何処にそんな力が残っていると言うのだろうか?
「…いや……」
がくがくと壬生が震え出す。村雨の腕にその振動が伝わるほどに。そして龍麻が見ただけで分かる程に。
「…いやっ…こっちが…夢です…」
…夢で、逢おう……
「…こっちが…夢だ……」
…夢で、逢おう。紅葉……
「…こっちが夢ですよね…如月さん……」
「壬生っ!」
…紅葉……
「夢じゃないですよね、如月さん。貴方は夢なんかじゃないっ」
…愛しているよ……
「如月さんっ!!」
…愛しているよ、紅葉。僕がずっと君を護るから。
「…あ……」
…ずっとずっと、君のそばにいるから……
村雨の手から壬生の手が滑り落ちる。
それと同時にせきを切ったように壬生の瞳から涙が零れ出した。
「…あ…あ……」
…だから、紅葉……
「ああーーっ!!!」
…泣かないで、くれ……
壬生の口から細い悲鳴が零れたと同時に、その身体はその場に崩れ落ちる。
その身体を間一髪の所で村雨は受け止めたが、その叫びは…涙は止まる事はなかった。
「…如月さん…如月さん……」
腕の中に抱きとめて、髪を撫でてやっても。その腕は彼の望んでいる腕ではない。その指先は彼が望んでいるものではない。代償にもならない行為。それでもせずにはいられなかった。
何度も何度も、その名を呼び続けるから。
まるでその言葉しか知らないとでも言うように。
…壬生はただひたすらに如月の名を呼び続けた……
…愛しているよ、紅葉……
…あの日。
もしも僕が車道に飛び出した猫を助けようとしなければ。
貴方は『向こう側』に行く事もなかった。
そうしたら。そうしたら貴方は。
赤い車に轢かれる事もなくて。
あの日交わした約束も。何度も囁いた言葉も。
…嘘じゃ、なかった……
みんな、夢じゃなかった。
また、夏が来る。
「先生」
暑い夏が、やって来る。
「…祇孔……」
何時しか俺は村雨を名前で呼ぶようになっていた。
何もない日常の繰り返しで、それでも変わった事。それでも前に進んだ事。
「もう一年もたったんだな」
灼熱の太陽は容赦なくその肌を突き刺してゆく。その熱さに身を焦がしながら、俺はただ過ぎて行く時間を思い出していた。
「そうだな、祇孔」
狂うほどに激しい夏。ひとを愛して狂った彼。俺にそこまで出来るのかと言われたら、素直に頷く事は出来なかった。追い駆けなかった、俺。多分彼ならば迷わずに追い駆けたのだろう。それこそ全てを捨てて。
「…壬生は…」
苦し過ぎる、季節。俺と壬生のどちらの愛し方が正しいかなんて、それは誰にも言えない。いやどちらも正しくて、どちらも間違っているのだろう。ひとを愛する事に答えなんてないのだから。
「相変わらずだよ」
聴くまでもなく、答えるまでもない回答。それでも村雨は逢うたびにその言葉を俺に聞く。誰も、誰も悪くはなかった。ただひとを愛して、愛されただけだ。それなのに。
「…病院か…あの狭い空間はあいつにはあわねーよな」
こうして俺達は生きている。互いの視線をみつめあって、そして愛し合う。永遠に結ばれる事がなくても、それでもそばにいる。ずっと俺達は。
「夢を、見ているよ」
そしてあのふたりは、互いの視線をみつめあう事は出来ない。愛し合う事は出来ない。でも永遠に結ばれている。そばにいなくても。あのふたりは。
「そうか」
見上げた先の太陽の日差しが目に痛かった。そして。そして蒼い空は、哀しかった。
俺はそっと村雨の指に自らのそれを絡めた。
その手が生きていると、命あるものだと確認する為に。
これが夢ではないと確認する為に。
「永遠に醒める事のない、幸福な夢を」
夢を、見てる。
誰にも傷つけられる事のない自分だけの。
自分だけの世界で。
誰にも触れられる事の出来ない、ふたりだけの世界で。
…夢を、みている……
End