残像

―――瞼の奥に浮かぶのは、花びらの残像。

その薄い桜色の花びらを追い掛けて。
追い掛けて瞳の裏の闇を辿った。
その先にあるきらきらとした光と、広がる優しさが見たくて。
見たくて、追い掛けた。

……その先には何も…何もないのに………

夜の海に浮かぶ、一面の桜。
見上げれば夜の闇から、闇の染みから零れてくる。
零れてそして。そして僕を埋めてゆく。
手のひらから、つま先から、そして瞼から。
僕の全てを埋めて、隠してくれる。
全ての善意と全ての悪意と、人間の欲望と願望から。
俗世と言う名の人間の住む世界から僕を。
僕を遠くまで、連れ去ってくれる。

―――連れ去られたかった、全ての『世界』から。

手首を切って、みた。そこからじわりと広がる紅い血だけが妙にリアルに映った。
別に死にたいと思った訳じゃない。ただ生きていたいと思わなかっただけだ。
生きている事の意味を見出せずに、かと言って死ぬ事も出来ずにただ。
ただその場に立ち尽くす事しか出来ない自分。それ以外何も、出来ない自分。
何も出来ないから、何もしなかった。ただ流されるままに漂っていた。
現実と言う名の灰色の海をただ漂っていた。

―――貴方に逢うまでは。

灰色の世界の中で、モノトーンの街の中で、貴方だけが。
貴方だけが、鮮やかに色付く。
貴方の声だけが、耳に響く。
貴方の瞳だけが、僕を捕らえる。
貴方の腕だけが、僕の安息の地になる。
貴方だけが、楽園になる。

「…如月さん……」

貴方の名前を呼ぶ時だけ。その瞬間だけ『生きている』とそう思えた。
貴方の瞳を見つめている時だけ『死にたい』とそう思えた。
どちらも僕にとっての唯一の真実だった。どちらも嘘じゃなかった。
貴方といる時だけ、僕は全てから逃れられた。僕を取り巻く現実から。灰色の世界から。
他人の欲望から。他人の願望から。何もかもから、逃れられた。
どろどろとした人間の欲望。金と権力と性欲と、そんなものになんの意味があるの?
うざったいほどの人間の希望。平和と愛と幸せと、そんな理想だけ述べて何かが生まれるの?
本能のまま欲を貪りながら、その一方で清廉な理想を述べる。そんな厚顔無知な人間どもに何が分かると言うの?
何も、分からない。世界の果てなんて誰にも分からないのだから。
だから僕は貴方の名前を呼んだ。その瞬間だけは、誰にも邪魔させない。誰にも邪魔出来ない透明な、空間。

―――桜の下で死にたいね。

不意に呟いた、貴方の言葉。
今でも僕の耳の奥に漂い続ける貴方の言葉。
穏やかな瞳で僕を見つめながら。
綺麗なものしか映さない、貴方の瞳を見つめながら。

―――そうして桜になって、君の全てを埋めたい。

ならば埋めてください。僕は何処にもいかないから。
貴方の腕の中以外行く場所なんて何処にもないのだから。だから、僕を。
……僕の全てを、埋めてください………。

ぽたりと血が、零れた。
零れた血は花びらに落ちて。
そして、花びらに溶けた。

―――貴方に僕が、溶けてゆく。

死にたいなと、今初めて思った。
生きていたいという気持ちと死にたいと言う気持ちは、何時も同時進行で僕の中に存在していた。けれども。
けれども今この瞬間初めて『死にたい』と言う気持ちだけが全身を支配した。
僕の全てを支配した。

「…如月さん…分かっていたのですか?……」

桜の下で死にたいと言った貴方。桜になって僕を埋めたいと言った貴方。
そのどちらも、貴方の予言だった。
その言葉通りに貴方が実行すれば、僕が答えるだろうと言う確信。
貴方には分かっていたのでしょう?
生きたいとも死にたいとも思う事すら出来なかった僕。
全ての感覚が麻痺してどうでもいいと思っていた僕。
全ての事に意味を持てなかった僕。
でも貴方は僕に意識を与えた。感覚を与えた。意味を、教えた。
そして貴方は僕から全てを奪っていった。
貴方がいるから生きている意味を見出せた。
貴方がいたから自分の存在意義を見つけられた。
貴方が存在するから人を愛する事を知った。
そんな僕から貴方は自分自身を消す事で、全てを奪っていった。
貴方がいないと生きられない。
貴方がいないと生きている意味が無い。
貴方がいないと誰も愛せない。

…バカだと…思いますか?……こんな恋愛小説のような想い。
でも。でもね、如月さん。これが僕の気持ちなんです。
僕の嘘偽りない、気持ちなんです。

桜の下で、貴方は冷たくなってゆく。
自らの命が長くないと知っていながら。
知っていながら僕を愛した貴方。
貴方を愛した、僕。

―――君は僕の分まで生きてくれ……

その貴方の言葉は嘘だと。
貴方が僕に付いた最初で最期の嘘だと。
僕だけは、気が付いたから。
貴方が付いた、嘘だと。

「…桜…綺麗ですよ……」

目を、閉じる。瞼の裏に浮かぶのは花びらの残像だけ。
でもそれは。
それは貴方だと、信じている。

僕を埋める桜の花びら。
全てを埋める花びら。
ひらひらと、ひらひらと。
僕の全身に降り注ぐ花びら。

ああ、これで。これで本当に全てから逃れられる。
醜いだけの現世から。貴方のいない現実から。

そして、そして魂だけになったなら。
ふたりで行きたいですね、世界の果てへ。
ふたりだけの、世界の果てへ。

誰にも穢す事の出来ない、その世界へと。

           

End

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