…貴方を愛する事だけが、どうしても許されない事だった。
冬の海の水はとても冷たくて、爪先を浸しただけで痺れそうだった。
「……」
何も無い海の向こうは地平線が広がっていて、そこから血のような紅い光が染み込んでいた。まるで、自分の涙みたいだった。
「…ここまで…来ました……」
風がひとつ吹いて、壬生の頭から被っていた黒い布を落とした。ゆっくりと壬生はそれを被りなおすとそのまま俯いた。シルクの布は夕日に反射して光沢を帯びる。その度にそれは微妙に色を変化させていた。身体も心も魂も闇に染まっている自分には…自分にはこの色が一番似合う。
壬生はゆっくりと自らの足を水に浸してゆく。しかし不思議と冷たさを感じたのは最初だけで、後はもう何も感じなかった。足元まである布も、壬生が侵入すると同時に濡れてゆく。それは水分を含んで少しずつ重さを増して行った。
「…僕の世界の最期は…やっぱり水でしたね……」
足元を進めるたびに、ぴしゃりと水が跳ねた。けれども足音は水の中に吸い込まれた。ただ歩く度に飛び跳ねる水飛沫が、纏っている布以外何も身に付けていない壬生の肢体の上に纏い付いた。しかしその冷たさも何も今の壬生には気にならなかった。ただ機械のように先に進む事しか。それしか、なかった。
…もう何も…残されてはいなかった……別に何も望まなかった。それがいけなかったのかもしれないけれども。ただ一言、声に出して言えばよかったのに。自分にはそれから、出来なかった。…何も、自分には出来なかった……
「…一言ぐらい…本当の事を言えば…よかったのでしょうか?…」
後悔など今更だったのだけども。どうして自分は一言ぐらい言えなかったのだろうか?だけどそうすればあのひとを苦しめる事にしかならない。たったひとりの大切なあのひとを…あのひとを、苦しめる事にしか……
「…ごめんなさい…僕はうそつきで……」
本当は自分も、愛していたのに。
本当はたったひとつだけ、自分は望んでいた事があった。けれどもそれを口に出す事が出来なくて。それはすぐ自分の傍にあったのに。手を伸ばせば、答えてくれたのに。…けれどもどうしても…自分はそれを言う事が出来なかった……
何時しか水は腰の辺りまで、壬生を浸していた。髪から水滴が滴りその肢体を濡らす。その雫が光にきらきらと反射して綺麗だった。壬生はそっと手を伸ばして、指先で水を掬った。手のひらの水は少しずつその指の隙間から零れていって、そして何もかも無くなった。
「結局僕には何も、残りませんでしたね」
手で海水を掻き分けた。そこから丸い円が描かれて、広がってゆく。まるで自分の想いのように、ゆっくりと確実に広がっていく。…そうこれは確かに、自分の想い…だった……。
初めに『愛している』と言ったのは、貴方だった。真っ直ぐな視線が強くて優しい瞳が、僕だけを映してくれた。確かにそれは自分が唯一望んだものだった。
…けれども…けれども僕はそれに答える事は出来なかった。何故ならば。…僕の身体は既に他人の物だったから…
僕の身体全てが、あのひとのものだから。僕はあのひとの為だけに生きているから。だから。だから僕があのひとのものでいられなくなったら。いられなくなったら…僕は生きている意味が…ない。
「愛しています、如月さん」
こうして言葉にするのはとても簡単だった。もう、遅いけれども。それでも言いたかった。この気持ちを伝えたかった。…もう、遅いけれども……
僕には永遠に解けない鎖があるから。それから逃れる事は僕には許されないから。だから、こころが裏切ってしまった代償に。永遠の約束としてこの屍を。
…貴方の為にこの身体を捧げるから……
もうすぐ水の中で僕は永遠の眠りにつくだろう。だから、だから許してほしい。
こころがあのひとの元へと、飛び去ってゆくことを。
End