幻想
静かに降り積もる雪と。
白い雪と、貴方の瞳。
ずっと貴方だけを、見つめていた。
「…如月…さん……」
声が途切れる前に、貴方の名前を呼んだ。呼びたかったのは、声にしたかったのは貴方の名前だけ。それだけだから。
「…紅葉……」
優しい、瞳。優し過ぎる瞳。貴方は何時でも誰にでも優しいから。そうやって全てを包み込むようにそっと、そっと僕を見つめてくれる。
「…きさらぎ…さ…ん……」
視界が霞む。輪郭がぼやけてくる。それでも。それでも僕は手を伸ばした。貴方に触れたくて。
…貴方の命のあたたかさに、触れたくて……
雪が降り積もる。
肩の上に、髪に、瞼の先に。
そっと、全ての嘘と罪を隠すように。
ふたりの全てを隠すように。
雪が、降り積もる。
「愛しているよ、紅葉」
差し出された手をそっと包み込んだ。冷たい手。冷た過ぎる手。
生まれてから今までずっと、ずっと温もりを知らなかった手。愛を、知らなかった手。
僕はその手をそっと。そっと暖めた。
ひび割れて、傷ついた指。たくさんの人を殺して、血を吸いつづけた指。
それでも。それでもこの指は君の指だから。僕が愛した君の。君だけの、指だから。
「…紅葉……」
名前を呼んで、君の唇にそっと口付けた。愛だけを乗せて。それ以外全てのものを何処かに捨てて。今僕が持っている全ての気持ちを。
その唇に。その唇に乗せて。
雪の白さに、紅が溶ける。
じわりと染みのように。
落ちた雫が、そこからゆっくりと広がって。
広がって、ふたりを埋める。
貴方の声が僕を呼ぶ。貴方の優しい声が、僕だけを呼ぶ。
その声がゆっくりと僕の全てに降り積もる。
…如月さん…と再び名前を呼ぼうとして、呼べなかった。
貴方の唇が僕の唇を塞いで、貴方の愛が僕の心を包んで。
貴方の全てが僕の魂を抱きしめて。
遠ざかる意識の中で。貴方が触れたその暖かさだけが。それだけが。
僕にとっての唯一のものに、なる。
『…愛しています…如月さん……』
何時も、何時も心の中で呟いていた。
声にした事は一度もなかった。
声にしてしまったら、言葉にしてしまったら。
何もかもが壊れてしまうような気がして。
何もかもが嘘になってしまうような気がして。
言葉に出来なかった。
僕の想いが空気に触れてしまった瞬間。
全部、その瞬間に弾けてしまうような気がして。
だからずっと。
ずっと僕の心の中だけで、呟いていた。
臆病な僕。他人を愛する事に、愛される事に怯えている僕。
冷たくなってゆく、身体を。その指先を。
僕はそっと包み込んだ。
君が自分の命と引き換えにしてまでも、僕に伝えたかったこと。
君の存在そのものを捨てても、僕に与えたかったもの。
僕には、分かるから。
他の全ての人間は僕らを否定するだろう。
この世界の全てが僕らを許しはしないだろう。
それでいい。それでも、いい。
誰にも分からなくてもいい。誰にも分かってほしくない。
僕らが、僕達だけが分かっていればいいのだから。
今まで僕はたくさんのひとを殺してきました。
そして僕は、今。
今自分の最も大切なひとを殺してきました。
僕が護らなければならないひとを、殺しました。
…だって僕は。
僕はもう誰も護れない。誰のためにも生きられない。
貴方が好きだから。貴方を愛しているから。
僕には出来ない。大切なものをふたつも抱え切れない。
どちらかを護ろうとすれば、どちらかを失う。
だから。だから僕は両方を抹消する。
護るべきものをこの手で殺めて。そして。
護られたいその腕の中から自らを抹殺する。
それでもね、如月さん。
やっぱり最期には貴方の元へと、辿りついてしまう。
「愛してるよ、紅葉」
誰にも僕らのことなど理解出来ない。誰にもふたりを分かりはしない。
だって僕は死なない。君と共には逝かない。君の為に、死なない。
愛する者を今この両腕から失っても、僕は独りで生き続ける。
「愛している」
君を愛しているから。君だけを愛しているから。
君の残像だけを瞼の裏に残して。君の残り香だけをこの胸に残して。
僕はこれから先を独りで生きて行く。
もう二度と僕は笑わない。もう二度と僕は怒らない。もう二度と僕は哀しまない。
僕が『僕』であるその瞬間は、今この場に君と共に埋めるから。
「…僕だけの…紅葉…」
今ふたりは何よりも幸せだという事など、誰にも分かりはしないのだから。
降り積もる雪。
君の屍を埋める雪。
その瞬間、君は僕だけのものになる。
永遠に僕だけのものに。
そして僕のこころも、今。
今君だけのものに、なる。
…愛しているよ…紅葉……
End