愛
…全てを失ってもいい。僕はこのひとを愛している。
「…俺にはお前が分からないよ……」
何も無い真っ白な狭い空間。その中に彼はいた。
世界中の深い闇の色だけを切り取り閉じ込めた漆黒の瞳が、穢れを知らない子供の無邪気さで自分を見つめていた。
「…どうして…こんな事を?……」
声が驚愕で震えているのが自分でも分かった。けれどもそんな自分を気にも止めないかのようにただ、ただ彼は柔らかい笑みを浮かべているだけだった。
それは見た者をひどく惹きつける、綺麗で幸福な笑み。
「…どうして、泣くんですか?」
彼の白く細い指が、俺の頬に当たる。それはぞくりとする程、冷たい指だった。その指先に俺の熱い涙が一筋零れ落ちる。ぽたりと、そこだけが生命の証のように。
「…壬生のせいだ…」
「僕の、せいですか?」
その無邪気とも思える瞳は心底不思議そうに、俺を見ていた。本当に何も知らない子供のような瞳で。それは痛い程、純粋だった。
…これが本当の壬生の、瞳。今まで彼を覆っていた『拒絶』と言う名の壁が崩れた先の。剥き出しになった彼の真実の、瞳。
「お前がこんな事をするから」
自分で言った言葉が引き金となって、俺はその場に崩れ落ちた。耐えきれずに後から後から涙が零れてくる。…もうそれを止める術を俺には分からなかった……
「ごめんなさい、龍麻」
壬生は俺が泣いた本当の理由を分かってはいない。それでも謝罪の言葉は心底俺に詫びていた。事実、彼の表情は傷ついた子供の顔だった。
「…お前は純粋過ぎて、残酷だ…」
その傷ついた顔はひどく胸を締め付ける。誰もが、彼を庇いたくなる…そんな表情をした。
「そんな顔で、そんな剥き出しの心で…お前は無意識に人を傷つける」
きっと彼には永遠に分からない。何もかもの俗世を捨ててしまった壬生は今。今ただの純粋で綺麗な生まれたての魂でしかない。
「…僕は…残酷な人間…ですか?……」
天使と悪魔は表裏一体だと言ったのは誰だっただろうか?けれども少しその言葉は違っている。何故ならば天使と悪魔は同一人物だからだ。無垢な瞳と純粋な心を持った彼はその心故に。その心故に、この世で最も残酷な事をやってのけた。
…そう…最も残酷な事を……
「僕は…穢ないですか?…」
しかし俺はこんな残酷な場面を見たとしても、どうしても彼を心底憎みきれない。どうしても。どうしても…。
「…穢なく…ないよ……」
俺は、知っているから。彼の優しさも、弱さも。だから。
…だからこれがどんなに狂った事でも…全てを憎めない……
その何も無い筈の白い空間を見た瞬間、龍麻の視界に真っ先に入ったのは一面の‘紅’だった。そしてその紅と反発しながらも混ざり合う、漆黒の瞳。
…無意識に身体が、震えた。
それは純粋に恐怖から来るものだっただろうか?龍麻には分からない。いや、分かりたくは…なかった……。
…綺麗だと…思った…。純粋に、綺麗だと。綺麗だと、思った。恐怖の後に訪れた感情はそれだけだった。
闇よりも深く、夜よりも高い、漆黒の瞳。全く肉の匂いのしない、身体。そして何よりもその表情。まるで快楽に溺れているかのようで。それのどれもこれもが夢へと誘っている。
…幻想の世界へと誘う……
ぺろりと指先にこびり付いた血を舐める姿が。その血と同色の紅の舌先が。その全ての紅が妙にリアルに映って。
その瞳にリアルに残って何時までも残像となって、龍麻の瞳の奥へと焼き付いた。そして。
「どうしたのですか?」
龍麻に気付いて見上げた瞳の、綺麗さに。その怖い程の綺麗さに、再び龍麻は驚愕を憶えた。
…これは?……と、言いかけて。言いかけて龍麻はその言葉を止めた。壬生に聴くだけ無駄と言うものだろう。彼の細い腕に抱えられたさらさらの髪を見た時、龍麻はその全てを悟ってしまった。
……それは…彼が最も愛したひとと、同じもの…だった………
彼は口許に慈愛とも思える優しい笑みを浮かべて、その髪を指でそっと撫でる。その血まみれの指先で。しかしその髪は決して血の色に染まる事は無かった。
「…愛してます…誰よりも……」
冷たくなった身体を暖めるように、彼は何度も何度もその冷たい唇に口付ける。
…それは見ていてとても、辛い。
「何故、殺したんだ?」
龍麻は再び尋ねた。本当は心の何処かで分かっていたけれども。それでも、尋ねた。尋ねずにはいられなかった。
「…愛している、から……」
予想通りの答え。分かっていた、彼がそう答えるのを。本当は分かっていた。この部屋に入った瞬間から。彼の想いは綺麗過ぎた。だから残酷だった。そんな事ずっと前から知っていた。知っていたから…何時しかそこから目を逸らしていた。
「僕だけのものです。誰にも…渡さない……」
これを人は独占欲と呼ぶのだろう。けれども彼の想いはもっと深く、重い。そんな言葉では片付けられない程に。
「…永遠に…僕だけの……」
彼はそう言って再び抱きしめると、床に落ちた銀色の物体を拾い上げた。
「…僕だけの……」
その鋭い刃物が再び死体へと降りかかる。もう、龍麻には壬生を止める事が出来なかった。
彼は再び流れ出す血を全て飲み干そうとするかのように、何度も何度もそれを舐め取る。
…人間は、最も愛した者を食らい尽くしたいという。
その血と肉を食い千切って、自分の器官全てと同化させる…それが最も理想の愛だと言う。
狂愛。人間は肉体がある限り、ひとつになる事は出来ない。
幾ら愛し合っても、幾ら求め合っても。決して。
決して、ひとつになれる事はない。
それならば全てを同化してしまおう。全てをひとつに。
刻む心臓の鼓動も、身体を流れる血も、全て。全てひとつになって。そして、ふたりだけの世界へ。
「知っていますか?人間は肉体がある限り、決して本当に触れ合えない。幾ら僕らが愛し合っても…」
彼は至上の笑みを浮かべ、その鋭い刃物を自分の心臓へと向ける。
「幾ら信頼しても、幾ら愛し合っても、その真実の姿に触れ合う事は出来ないんです」
「…どうして?」
「…身体が、枷になっているから。この肉体が壁になっているから。僕達の真実の姿は、この肉体の中に隠れているんです」
その言葉に…龍麻は、微笑んだ。それは不思議と口許に浮かんだ笑みだった。何故笑ったのか、未だに分からない。でもその時自分は確かに、笑ったのだ。
「…壬生…もしかしてお前らは…」
ゆっくりとナイフが、壬生の心臓へと落とされてゆく。龍麻はそれを何処かぼんやりと見つめていた。
まるで映画のワンシーンを見ているかのように。遠くから、見つめていた。
「…互いが…望んで……」
龍麻の言葉が言い終える前に、壬生の心臓をナイフが抉った。白いシャツに殊更その紅は、鮮やかに浮かび上がる。
「…これで僕達は…触れ合える…ひとつに…なれる……」
途切れ途切れになる声とは裏腹にその表情は。その表情は龍麻が今まで見た事が無い程に幸福に満ちた顔だった。
「…如月…さん……」
やっと真実の貴方に出逢う事が、出来る。
お互いが、絆よりも深く。
深く愛し合ってしまったから。
求めても、求めても、尽きる事の無い互いへの欲望。
言葉でも、足りない。
身体でも、心でも、足りない。
欲しいものはたったひとつ。
お互いの存在だけ、それだけだった。
欲しいのは、互い、だけ。
身体よりも心よりも魂よりも深い。
もっと深い場所で交じり合いたいから。
交じり合いたいから、僕らは。
僕らは『死』を選ぶ。
最も高貴で、そして残酷な死を。
でもそれは。互いが望んだ事、だった。
「…やっぱりお前は残酷だ…」
龍麻の口許に何とも言えない曖昧な笑みが浮かぶ。それを形容する言葉はまだ。まだ、見つからなかった。
「それならば俺達は一体何を信じればいいの?」
…人間は身体がある限り、触れ合えないと言うのなら。
「…俺達は何を愛せば…いいの?……」
End