てのひら

手のひらから零れるもの。
指の先から零れるもの。
さらさらと、さらさらと。
零れてゆくもの。

―――それを掬い上げる手を、僕は持ってはいなかった。


貴方が拾い上げてくけたものを、僕は全て壊した。
貴方が掬い出してくれたものを、僕は全て捨てた。
そうしなければ。そうしなければ僕は。
僕は壊れて全てを見失うから。

貴方の優しさに、貴方の腕に溺れたら。
きっともう二度と還える事が出来ない。
もう何処にもゆけない。
そこはあまりにも暖かく、あまりにも心地いいから。

指先から滴る、血。
紅い、血。
これから逃れることが出来ないのならば。

出来ないのならば僕は、貴方の腕の中で眠ることは出来ない。


貴方を…穢したくない…から……。


足元に転がる死体を見つめながら、僕は『怖い』と思った。人を殺した事が怖いんじゃない。命を奪った事に何にも自分が感じない事が怖かった。
死体を切り刻み証拠を残さないように、機械的に始末をしてゆく。そこには何の感情も含まれてはいない。ただ、何時もの通り死体をさばくだけ。
―――僕のこころは、凍っている……
痛みがない、苦しみがない、苦痛がない、哀しみがない。僕には何もない。人として当たり前の感情が僕には何ひとつない。僕は…空っぽだ…。
「…ハハ……」
声に出してひとつ笑ってみても、その声は乾いたものでしかない。笑い声ですら乾燥してしまっている僕。乾き切った僕。僕の身体は乾いた砂で出来ているのかもしれない。
「…それとも…砂の方が…マシかな?……」
それでも砂は乾いた死体を隠すだろう。死にゆく心をそっと包み込むだろう。けれども僕は。僕は何もしない。何も、出来ない。
死体を全て解体すると小さくなったソレを袋に入れて何時ものようにコインロッカーへとしまった。後は僕の知らない組織の人間がソレを始末してくれるだろう。後は、僕は証拠が残らないようにすればいい。後始末をするだけでいい。
血の匂いのする手を何度も水で洗った。色はとっくに落ちている筈なのに血の匂いは消えなかった。いや消える筈がない。どんなに洗っても洗っても、皮膚に染みついたその匂いは決して消えることはないのだから。
それでも擦った。指紋が消えるほど僕は夢中で手を擦った。こんな時僕はもしかしたら狂っているのかもしれないと、ふと思う。けれどもそう言う風に考えてしまえると言う事実に、僕はまだ狂えないのだと自覚する。
―――狂えてしまえたら…いいのに。
そうしたらもっときっと楽になれる。痛みを感じない事の痛み。ひどく矛盾したこの想いからも逃れる事が出来る。逃れる事が、出来る。

……何もかもから、逃れたかった……


『…紅葉…』

声が、聴こえる。貴方の声が。
その声に全てを預けられたら僕は楽になれるのだろう。
きっと貴方の腕の中で眠る事が出来るのならば。
貴方の強い腕は僕の全てを護ってくれるだろう。
壊れた僕の心を救ってくれるだけろう。けれども。
―――けれどもそれは、出来ないから……

『君の手が血塗られていると言うなら…僕も同じ場所へ堕ちよう』

綺麗な貴方に、何よりも綺麗な貴方に。
僕と同じ想いをさせられない。僕と同じ場所へと堕とせない。
―――何よりも貴方が、大切だから。
だから僕は貴方の腕を拒否する。貴方の差し出したもの全てを。
僕にはそれしか出来ない、から。

貴方が拾ってくれた。僕が失ったものを。
貴方が見付けてくれた。僕が失くしたものを。

優しさと、暖かさと、そして愛と。
それは貴方だけが見付けてくれた。
貴方だけが僕の目の前に差し出してくれた。


けれども僕は、こうして人を殺している。何の罪悪感もなく殺している。だから駄目なんです。だから貴方のそばにはいられないんです。
僕が『ひと』として生きていると実感するのは貴方のそばにいる時だけ。貴方とともにいる時だけ。貴方がいなければ僕は『ひと』にはなれないから。

―――そんな僕がどうして貴方のそばにいる事が出来ると言うのですか?


大切な、ひと。誰よりも大切な、ひと。
だから貴方を護りたい。貴方を穢したくない。
僕と言う血塗られた人間はそばにいてはいけない。
貴方の近くに血の匂いが存在してはいけない。
…貴方はずっと、綺麗なままでいて……。


『君の淋しさを拾えるのは僕だけだ』

―――はい、如月さん。
貴方だけが僕の淋しさに気付きました。
貴方だけが僕の孤独に気付きました。

―――けれども、如月さん。
貴方のそばにいなければ淋しさも孤独も気付かなかった。
僕は気づく事すら、なかったんです。


貴方のそばにいるしあわせ。
貴方のそばにいる淋しさ。
貴方のそばにいる幸福。
貴方のそばにいる孤独。

僕の中でそれは何時も背中合わせに存在していたから。


「…ふ…ははは………」

笑おうとしたら、涙が零れてきた。
まだ僕の涙は枯れてはいなかった。
まだ僕は泣く事が出来た。
まだ少しだけ僕はひととしてのこころが残っていた。

…でもそれはやっぱり貴方の事を想う時だけ、だから……。


零れてゆく。
手のひらから零れてゆく。
何もかも零れていって、そして。
そして最期に残ったものは。


――――貴方への想い、だった………


End

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