無限の蝶。無限の蜘蛛の糸。
蝶は蜘蛛の糸に捕らわれ。
そして羽根を千切られながらもがく。
もがいて、もがいて。
そして、そしてボロボロになって死んでゆく。
そこは逃れられない無限地獄。
視界を開いて見える景色は、永遠で。
絵の具を描き殴ったような様々の色が無限に広がる。広がって、広がって円を描く。
そして色同士が溶け合って、幻想の景色を作り出した。
全てが溶けてゆく色彩の中で。
紅い貴方の血だけが、鮮明に視界に捕らえた。
ぽたりと、零れた。
髪の先から、頬から、瞼から。
透明な雫が零れ落ちた。
『生きているのが不思議なくらいだよ』
聞こえてくる声は誰の声?知らない、声だ。僕の知らない声。知りたくもない声。だって僕は、貴方以外の声なんて聴きたくないのだから。
『これだけ大量に麻薬を打たれて…生きている事事態が…』
麻薬…ああクスリの事か…あの人は僕に大量のクスリを打った。拳武館から逃れようとした僕に、逃げられないようにと。いや初めから廃人にするつもりだったのかもしれない。
人を殺せなくなった暗殺者など、貴方には必要のないものなのだろうから。
『でも…精神の方は…ムリだろうね…廃人同然だ』
そうだよ、僕は廃人だ。初めから、貴方に出逢った時から。僕は全てを崩壊させた。今まで生きてきた自分のちっぽけな人生を。今まで築き上げてきた生きる術を。今まで自分を取り巻いていた環境を。その全てを崩壊させた。
だっていらないもの。貴方以外何も。何もいらないんだもの。
『それでも君は彼を引き取ると言うのかい?』
いらない。何も。何も欲しくなんてない。貴方がいてくれれば、他には。
『彼は僕のモノです。もう誰にも渡さない』
…ああ…貴方の、声だ…。聴きたかった、声。聴きたかった貴方の、声。その声さえ聴ければ、僕は何も。何も、望まない。
『彼は君を判別できないかもしれないよ?』
『構いませんよ、だってこれで僕以外誰も紅葉には触れられなくなる』
笑って、いる。貴方が笑っている。何よりも綺麗なその顔で。何よりも、どんなものよりも綺麗なその顔で。
嬉しい、です。嬉しいです、如月さん。貴方の笑顔が見られるのならば。僕は、僕は。
…僕は何よりも…幸せ…です……。
『これで紅葉は、僕だけのものだ』
白い部屋。無機質な小箱。
そこには何もなくて。何も存在しなくて。
生あるモノは僕と貴方以外。
何も、存在しない。
無数の注射針の跡に僕は唇を這わす。
ここから挿入された液体が、君の精神を崩壊させたのならば。
僕はここに別なものを挿入させよう。
僕の血と、僕の想いを。
そうして今度は君の精神を僕だけの色に染めよう。
君の中を僕が支配する。脳も血管も体液も全部。
全部僕が支配する。他に何も考えられないように。何も求められないように。
君の肉に歯を立てて、君の血を啜って。そして。
そして君の身体に僕の体液を流しこむ。
「愛しているよ」
…その言葉以外にもう、何もいらない気がする……。
言葉。言葉を綴りたい。
自らの唇から、言葉を。
ただひとつの言葉を。
それは。
それは、貴方の名前。
ただひとつだけ、覚えていなければならない事。
…それは貴方の…名前……
「き…さらぎ…さ…ん……」
蜘蛛の、糸。無数に僕に絡み付いて、そして。そして僕の羽根を引き千切る糸。
羽根を神経から引き千切って。皮膚までも引き千切って。その奥の肉までも。
血管も体液も何もかも引き千切られ、そして骨すらも噛み砕かれて。
何も残らなくなった『僕』を。
それでも愛してくれるのは、貴方だけ。
暗殺者でもない僕を。娼婦でもない僕を。言葉を綴らない僕を。愛してくれるのは、貴方だけ。
空っぽになった僕を愛してくれるのは、貴方だけ。
「…紅葉…愛しているよ……」
世界、崩壊。精神、崩壊。
現実と言うものが。常識と言うものが。モラルと言うものが。リアルと言うものが。その全てが崩壊した。崩壊して何もかもがなくなった。
なくなって残ったものが僕と君だけで。肉体も精神も及ばない場所で、誰の手も届かない場所で。僕と君だけがそこに、いる。僕と君だけがそこに、ある。
繰り返される無限地獄の中で。
その中で、貴方の声だけが。貴方の血だけが。
それだけが僕を救うもの。それだけが僕を導くもの。
迷彩色の世界の中で。無数の螺旋の世界の中で。
全てが崩れて全てが溶けてゆく世界の中で。
貴方だけが。貴方だけが、ただひとつの『真実』。
鼓膜を破る細くて長い音が繰り返される中で、貴方の声だけが唯一の現実。
貴方だけが僕の、リアル。
このまま、痩せ細って。息も切れ切れになって。
そして何時しか肉体が腐敗して、骨すらも砕けていって。
魂だけになったならば。
そうしたら本当に僕らはひとつになれる?
ひとつに、なれるよ。
だってもう僕らを覆うものは何もないだろう?
僕らを隔てるものは何もないだろう?
もう何もないから。
後はただ。ただ僕らが。
僕らがそこに在るだけ、なんだから。
そこにふたりが『在る』だけだから。
遠ざかる、意識。混沌する、意識。
このままひとつひとつ人間としての僕は無くなっていく。
けれども、それでも僕が地上に留まる事が出来るのは。
貴方の腕と、貴方の声があるから。
それだけが僕と現実を繋ぐ唯一のもの。
…ああ…でももう…現実も…いらない…貴方がいるから…いらない……。
全てを放棄して。全てを崩壊させて。
そして残ったものは唯一の存在だけならば。
もう他のモノなどいらない。
何も、何も、欲しくなんてない。
世界が、崩壊する。
精神が、崩壊する。
けれども。
けれども本当は、狂っているのは僕ら以外のもので。
本当は崩壊しているのはこの現実と、世の中で。
僕らの方が、正常なのかもしれない。
だって、ほら。
僕らの愛には、何一つ嘘がないのだから。
End