月
こうして髪を撫でられて、柔らかく口付けられて。そして。
そして、抱きしめられて。
その腕の中で死んでしまえたらと。
何度、思っただろう。
どうして、こんなに好き、なのか?
「…如月、さん…」
そっと名前を呼んで、みる。ひどく小さな声で。でも彼は、ちゃんと自分を見つめ返してくれる。
「どうした?紅葉」
優しい、声。耳の奥まで響いてくる、柔らかく自分を包み込んでくれる声。その声に永遠に抱かれていたい。
「何でもないです…ただ、呼んでみたかっただけ」
俯き加減にそう言うと、彼はゆっくりと自分に近づいて、そっと髪を撫でてくれた。まるで小さな子供にするみたいに。
「僕の名前を呼びたいなら、いくらでも呼ぶがいい。僕は君の声は絶対に聞き逃さない」
「…聞き逃さない?…」
「絶対に、君の声だけは」
子供みたいな、我が侭を。何時もその笑顔で包み込んでくれる。どんなに無理強いな願いを言っても、絶対に叶えてくれる。
…叶えて、くれる。
「魔法使いみたいですね、如月さんは」
そんな自分の言葉に彼は少しだけ、苦笑して。
「僕は君のナイトのつもりなのだがな」
その言葉を実証するように、手の甲にひとつ、キスをくれた。
その華奢な身体をこの腕に抱きしめて。
独りじゃないと、何度も囁いて。
君が安心して眠れるように。君が夢に怯えないように。
その為に僕がいると。それだけを伝えたくて。
…君の裸の声が、聴きたい。
そっと抱きしめると、微かな香りが鼻腔に届く。風呂上りの石鹸の香りだった。
「君の身体は何時も暖かいね。子供みたいに体温が高い」
その言葉に彼の目尻はほんのりと赤く染まる。体温が高いのは体質だけではないと、言うように。
「如月さんの、せいですよ」
それだけを言うと再び彼は俯いた。その髪に唇を絡めながら、細い身体を強く抱き寄せた。一瞬、彼の身体が堅くなる。
「こんなに僕は君が好きなのに。何時も君はこうすると、怯えるね」
「…慣れて、ないんです…他人に抱きしめられるのは…」
哀しい、子供。父親の力強い腕も知らず、母親の優しい手も知らない。可愛そうな、子供。淋しさだけを引きずって愛を知らずに、今まで独りで生きてきた。たった独りで、かけがえの無いものを護るために。
「慣れなくてもいい。ただ…」
甘える事を知らずに、無垢なままの心を置き去りにして。今まで独りぼっちで生きてきたから。
「ただ、僕の腕の中でだけは…怯えないでくれ…」
自分の前でだけは、生まれたままの子供に戻ってほしい。
全てを預けてしまえば、どんなに楽になるか分かっている。
でも、それは出来ない。
彼が自分を大切にしてくれるように。自分だって彼が大切だ。
彼が自分を護ってくれるように。
自分だって彼を護りたい。全てのものから、護りたい。
……護り、たい。
泣きたくなる程、貴方は優しい。
「紅葉」
名前を呼ばれて見上げれば、そこには苦しい程のやさしい眼差し。その瞳に吸い込まれてしまいたいと、思う。
「君にはそんな瞳をさせたくないのに」
言葉を裏付けるように瞼に口付けられて。思わず瞳を、閉じた。
「何時になったら、君の瞳から‘淋しさ’が消えるのだろうね」
貴方がそんな瞳で見つめてくれるのなら、一生消えなくても構わない。淋しい自分を放っておけないのなら…淋しいままでいい。
「僕が如月さんを、嫌いになるまでですよ」
「困ったな…君に嫌われたら僕は生きて行けない」
「…嘘、ばっかり…」
口許だけで、笑ってみる。多分敏感な彼はそれに気付くだろう。そして益々、優しく抱き寄せてくれる。でも。
でも彼は生きてゆく。自分がいなくても。それすらも乗り越えられる強さを持っている、ひとだから。
そしてそんな強さを持ったひとだから。
…自分はこんなにも、彼が好き……。
「そうだね、きっと僕は君がいなくても生きてゆく。そうしなければならない。でも…心はその瞬間に死ぬよ」
「…如月さん?…」
「君がいなくても息をして、食事をする。君がいなくても朝眼が醒めて、夜には眠る。当たり前の変わらない日常を過ごすだろう。でも…」
彼の吐息が瞼に掛かる。それは静かに語る言葉とは、うらはらに熱い。
「…でも、それだけだ。何も無くなる。僕が心から笑うのも、心から哀しむのも、君が居るからだ。僕から君を取ったら、ただのからっぽの人形になるよ」
「それは、困るね」
「困る。だから君は僕の傍にいなきゃ、いけない」
吐息と同じ熱さで口付けられて。もう何もいらないと。
なにも、ほしくないと。そう、思った。
ただこうして、そっと抱きしめて。
指を絡めて、眠るだけで。それだけで、いい。
もしも今、全ての災いが僕らに降りかかっても。
抱きしめた腕も。絡めた指先も。
決して僕は、離しはしないから。
…こんなにも君を、愛している。
無意識に寄り添ってきた彼の身体を抱き寄せながら、窓の外に浮かぶ月を見つめた。
四角く区切られた空間から覗く淡い光が、そっと彼の顔を照らした。
「僕には君のその無意識が嬉しくて、哀しいよ」
長い睫毛は閉じられ、規則正しい寝息が聞こえてくる。自分に身体を預け、安心して眠りについている。でも。
…でも、彼の指はしっかりと自分の手を握り締めている。
それはまるで小さな子供が大切なものを必死で護っているようで。それが。それが、嬉しくもあり、そして哀しい。
こんなにも自分が必要とされている事が嬉しいと思う。けれどもそれ以上に…そうしなければ安心して眠れない彼が、哀しい。
「…もしも僕が死んだら…君は一緒に死ぬかい?…」
不意に呟いた言葉に、自分自身が驚いた。それは身勝手な自分の願望に過ぎないのに。でも。
でも、もしも。本当に自分が涸れりも先に逝ってしまったら……
彼はどうするのだろうか?
それは今の自分にはあまりにも、甘美な誘惑だった。
…本当は彼よりも、自分の方が何倍も。我が侭、だ。
「…嘘でもいい…一緒に死ぬといってくれないか?…」
そう呟いてみて、如月は微かに微笑った。
…それを月だけが、見ていた。
End