月に、さらわれる。
水面に浮かぶ月は、何時しか波にさらわれた。
柔らかく光るその淡い色は。
そっと、貴方の手の中に広がって。
そして静かに、消えた。
「まだ水が、冷たいね」
貴方はそう言って僕に微笑った。柔らかい、笑み。穏やかな笑み。この月の淡さと同じだけの優しい笑み。
「如月さん、風邪引いてしまう」
水の中の月を手のひらで掬って、貴方は僕に両手を広げた。僕はその手の中の月を見つめながら、そっと自らの指を水に浸してゆく。
凍えそうに冷たい、水だった。けれども貴方は何の躊躇いもなくその手を水に浸す。
「だってこんなにも、冷たい」
僕の手を、貴方はそっと自らの手で包み込んでくれた。冷たい水の中で、そこだけが。そこだけがほんのりと暖かくなる。
「でも今は君の手が僕を暖めてくれるからね」
くすりと笑うとそっと。そっと貴方は僕に口付けを、くれた。
それは月の柔らかさの中に溶けてしまう程の、甘さだった。
さらわれるのならば。
貴方とともに、さらわれたい。
月の光を道しるべに。
二度と抜けられない森の中へとふたり。
ふたりだけで、そっと。
そっと手を取り合って。
誰にも知らないふたりだけの森へと。
月だけが、知っている秘密の場所へと。
「君が風邪を引いたら僕が困るからね」
貴方はそう言って僕の手を水から引き上げた。そして自らの手も。そうして指を絡めたままで、波際からゆっくりと歩き出す。
僕らの足跡だけが、砂浜に付いた唯一の傷だった。
「こうやって誰もいない海でふたりきりってのも、悪くないね紅葉」
貴方は立ち止まって僕に振り返った。月の光の下でも綺麗に輝く貴方の瞳。僕が知っているものの中で一番、世界一綺麗な貴方の瞳。
「…如月さんったら……」
吸い込まれたくなる漆黒の瞳。このままこの綺麗な瞳に映るのは僕でありますようにと。そっと心の中で願ってみた。それは本当に小さな祈りでしかなかったけれども。それでも、僕にとっては懸命の願いだったから。
「この海と、この月と…そして君を独りいじめしているみたいだ」
とっくに僕は貴方のものなのに、と心の中で呟きながら僕は曖昧に笑ってみた。こんな時にどんな顔をしていいのか僕には分からなかったから。けれども。
けれどもそんな僕に貴方はやっぱり何よりも優しい笑顔をくれて、。そして。
「独りいじめ、してもいいね。紅葉」
そしてそっと僕を抱きしめた。優しい、腕で。優し過ぎるその腕で。
水面に浮かぶ月。
ゆらゆらと揺れながら。
その手で掬ったら消えてしまう月。
危うい、月。儚い、月。それでも。
それでも月は、輝いている。
きらきらと、綺麗に。
輝いて、いる。
目を閉じれば聴こえるのは波の音だけ。そして。
そして瞼の残像は、月の光に照らされた貴方の綺麗な笑顔。
「心臓の音…聴こえます…」
「どんな音だい?」
「命の、音。貴方の心の音。とても、とても、優しい」
「君を抱きしめているから、優しい気持ちになれるんだ」
「ならば」
「ん?」
「…僕の心臓の音も…優しい音をしていると…思います……」
だって今僕が考えているのは、貴方の事だけだから。
たったひとりの、貴方の事だけを。
「うん、紅葉。君は…君は誰よりも優しいよ……」
月に溶けてしまう程。それは僕にとって甘い囁きだった。
ふたりを照らす頭上の月。
本物の、月。
けれども僕は水面に映る月の方が、好き。
優しい色だから。優しい色をしているから。
淡くて、ふんわりと。そして。
そして全てを包み込む優しさが。
優しさが零れている、から。
だから波にさらわれる月が、好き。
「このまま、さらわれてしまいたいね」
――――月に。月に、さらわれたい。
「君とふたりきりで」
――――貴方と。貴方と、一緒に。
「誰もいないふたりだけの場所へと」
――――さらわれ、たい。
透明な何もない場所に、ふたりで。
ただふたりだけで、閉じ込められたならば。
きらきらと光の破片だけが零れるその場所に。
月だけが知っている、二度と抜けられない森の中へと。
それは小さな、夢。淡い幻想。
「…はい…如月さん……」
夢だと、幻想だと分かっていても。
それでも僕はこくりと頷いた。
誰かが聞いたらきっと笑ってしまうだろう。飽きれてしまうだろう。
それでも、いい。それでも、構わない。
だってそれは。
それは僕の小さな祈りだから。
波が、さらってゆく。
再び月をさらってゆく。
きらきらと小さな破片を水面に広げながら。
広げながら、ふたりを。
ふたりを月が、さらってゆく。
End