わがままジュリエット




―――透明な雫が、静かに世界に降ってくる。
「濡れるよ」
いつのまにか雨は透明な線を作り、アスファルトの上に不協和音を奏でる。
「構わないです。だって気持ちいいから」
そう言って、彼は笑う。無邪気な顔で。雨の雫が瞳に入るのも、構わずに。
「しかし未だ寒いよ。風邪を引いてしまう」
「大丈夫ですよ。如月さんは心配症ですね」
如月が止めるのも構わずに、壬生は無人の歩道へと駆け出す。
「―――紅葉っ」
如月の言葉を交わして壬生はすり抜ける。壬生の靴音だけが、この空間を埋め尽くした。
「ほら、最高に気持ちがいいです」
壬生は濡れた髪を掻き上げる。その瞬間、髪から雫がぽたりと落ちた。それが彼の頬を伝い、唇へと落ちる。壬生はそれを舌で器用に舐め取った。
「如月さん、今は夜なんですよ」
歩道の真ん中に立っている壬生を追い掛けて、濡れるのも構わずに如月は彼の元へと歩く夜の海にも霞む事の無い綺麗な如月の瞳が壬生の瞳へと反射する。
「そんな事、言うに及ばすだよ。紅葉」
如月の腕が伸びてきて、壬生の身体を包み込む。彼は抵抗せずに如月の首筋に指を絡めた。
「違いますよ、如月さん。今は夜だからここは立入禁止なんです」
そう言って壬生は、如月に掠めるような口づけをする。それはすぐに触れて離れた。
「大人たちは、立入禁止なんですよ」
子猫のようにくるくると変わる瞳を如月に向けて、壬生は彼の腕からすり抜ける。いつもこうだ。彼は巧みに自分を交わしている。
「だからここは今、僕たちだけのものです」
壬生はまるで雨に抱かれるように、静かに瞳を閉じる。そしてスローステップを刻み始めた。
「…紅葉?……」
不意に踊り始めた壬生を不思議に思って、如月は尋ねる。しかし彼は構う事無く踊り続ける。それは次第に激しくなり、何も見えなくなる程に。
「―――踊るなら、雨に限りますよね」
「―――何故?」
「汗を掻いても心地好いから」
いくら汗を掻いても、この雨が流してくれるから。全てを流し去ってくれるから。不意に壬生のステップが止まって、如月の腕の中へと飛び込んでゆく。如月はそっとその身体を抱きしめた。
「…ずっと…こうしていたいです……」
「…紅葉?……」
「…ずっと…このまま……」
―――君の瞳が濡れているのは、雨のせいだろうか?
如月がそれを確認しようとする前に、彼の瞳は閉じられる。如月はそっと彼の頬に手を添えて、そして口付ける。柔らかい、優しいキスは彼の気持ちをそのまま伝えていて。壬生の胸は苦しくなる。
「…如月…さん……」
キスの合間から零れる言葉はお互いの名前だけで。もう他の言葉ではこの気持ちを言い表せないから。もう言葉では言い尽くせないから。
「…紅葉……」
――――降りしきる雨の中、ふたりはいつまでも口づけを交わす。





「壊れています」
壬生は崩れ掛けた扉を開いて、中へと入室する。如月は無言で彼の後を追った。
「何がだい?」
軋む床をぺたぺたと音を立てて歩く壬生に、如月は尋ねる。すると彼はゆっくりと振り返って。
「この空間、全部がですよ」
「…確かにね……」
壊れた扉、床、時計、ピアノ。ここにある全てのものが、傾き崩れている。
「でも、僕は好きです」
壊れ掛けたピアノの前に立つと、壬生は指先でキーを叩く。音楽とまでは言えないその旋律は、彼の指通り勝手気のままにリズムを刻む。
「古びた家具とか、セピア色の写真とか、情緒が在っていいですよね」
「―――なんだか、君らしくない発言だな」
「…何ですか、それは……」
ピアノに飽きたのか壬生はくるりと振り返って。少しだけ拗ねた瞳を如月に向ける。しかし如月はそんな彼の瞳をいとも簡単に壊してしまう程、綺麗に笑って。
「君はもっと近代的な物が好きだと思っていた」
「―――僕は、壊れたものが好きなんです」
「…え?……」
壬生の以外な言葉に如月の眉が微かに歪む。しかし壬生は全く悪びれずに笑って。
「擦り切れた物とか、そう言うのって物凄く光って見えるから」
「…光って?……」
「それだけその人に使われたんだって思って…」
「なるほどね」
「それだけ、その人にとって大事だったって事なんですよ」
「…でも…僕は大切なものは決して、壊したくない」
不意に如月は壬生を抱きしめる。そして深く口付ける。まるで息を全て奪うかのように。
「―――君を、護りたい」
壊れたピアノで奏でるメロディーは哀しすぎるから。




「―――さよなら、如月さん」
月の無い蒼い夜は、無意識に人を哀しくさせる。本当は笑っていたいのに。
「――――」
それでも月の無い蒼い夜は、壬生を救う。これならば自分の表情は隠されるから。
「…『また』では無いのかい?……」
いつもの別れの言葉では無い事に、勘のいい如月はすぐに気付く。いくら壬生の表情を隠してくれていても。
「僕は、気まぐれですから」
こんな誤魔化しなんてすぐに如月にはばれてしまうだろう。しかし壬生は言わなければならない。少しでも永く、彼と居たいから。
「…違う…君は、我が儘なんだよ」
表情は隠れても、如月には見通せてしまう。壬生の顔など、手に取るように分かる。だから。――――如月の腕は壬生の肢体を閉じ込めてしまう。
「我が儘で、どこかピントが外れてて…でも……」
力強い両腕は決して、壬生を開放してはくれない。本当は開放などしてほしくは、無いのだけれども。
「…でも…愛している……」
傷つくだけの夢しか持てなくても。脅える恋しか出来なくても。でも。
「…愛してる…紅葉……」
「……知っています…だから……」
壬生の顔がゆっくりと上がって、如月を見上げる。壬生の瞳は決して闇に溶ける事は無かった。如月といれば…彼をその瞳に映していれば…溶ける事はない。
「…さよならです……」
本当に、壬生はピントが外れていると思う。泣き顔で、笑うのだから。瞳いっぱいに涙を溜めて、自分に微笑むのだから。
「…ああ…そうだね……」
如月の唇が壬生の頬に触れて、涙を掬い取る。しかし彼の涙は止まる事が無かった。
「…さよならだね…そして……」
「…如月さん?……」
不意に如月の瞳が優しくなる。それは苦しい程、優しくて。優しすぎて。
「…また……出逢おうね……」
「…如月…さん……」
さよならをしたらまた、出逢えばいい。また、初めから恋を始めればいい。
「…僕…もう帰ってこないかも…しれませんよ……」
「帰ってくるよ、君は。いつでも僕の元へ」
「…何で、そんな事…言えるんですか?……」
「―――君が、僕を愛しているから」
だから今、ここで別れても平気。ふたりはまた、逢えるから。必ず、愛し合えるから。
「…自信満々ですね……」
「でも、事実だろう?」
壬生はまた、笑った。泣き顔のままで。でもこの笑顔は、さっきのものとは違うから。




光の乱反射が、海を染める。きらきらと反射して、目を細めなくてはその蒼を見る事が出来ないくらいに。
「…紅葉……」
如月は柔らかい声でその名を呼ぶ。いつも彼はそうやって、大切にこの人の名を呼ぶ。何よりも、大切に。何よりも。
「……やっと、帰ってきたね……」
海の見える小高い丘の上に、如月は立って。誰よりも優しい笑顔を向ける。
「…ずっと…待っていたよ……」
「…如月さん……」
また、壬生は泣いている。笑顔で。全く変わらない壬生。あの頃のままの、誰よりも大切な。何よりも、大事な。
「…僕を、待っていてくれたのですか?……」
「ああ。僕は待つのは得意だからね」
「……僕を好きで…いてくれたの?……」
「――――愛しているよ、紅葉」
あの頃のままの広い腕が、あの頃のままの優しさで、壬生の全てを包み込む。それは言葉で語るよりも雄弁に如月の気持ちを伝えていた。だから。
「……僕も…ずっと…この日を…待っていました……」
ずっとずっと、待っていた。再び彼と巡り合える日を。彼と再び愛し合える日を。
「もう、何処にも行かないでくれ」
「…僕が帰ってこれるのは、ここだけです…如月さん……」
この腕の中だけが、自分を迎えてくれる場所だから。
「…貴方…だけです……」




たくさんの星がきらめく夜。ふたりして、ベッドから抜け出して外へと飛び出す。
「わぁ、凄いですね。東京じゃあ絶対に見られないです」
たくさんの星の群れが夜空と言う壁に敷き詰められて。思い思いに輝いている。
「そうだね、紅葉」
如月の腕がそっと壬生の細い肩に廻り、そして抱き寄せる。ここは誰も居ないから。二人は何をしても許される。
「でも、如月さん」
「何?」
「東京には東京しか手に入れられない星もあるんですよ」
「それは、どんな星なんだい?」
如月の問いに壬生は、彼に負けないくらいに綺麗に笑って。
「貴方、ですよ」
「…僕かい?……」
壬生の髪の匂いが如月の鼻梁を掠める。それは殆どの人には分からない程の僅かなものだけど、自分にはすぐに分かる。それは永い間時間を掛けて、自分が染み込ませたものだから。
「貴方と初めて出逢った時、僕は東京で星を見つけたって思いました」
真っ直ぐな瞳を、彼は自分に向ける。その瞳は夜空のどんな星よりも綺麗だと、思う。
「だから…絶対に手に入れたいって、そう思いました」
「―――それは、初耳だよ」
壬生の言葉に如月は驚愕の表情を見せる。それはされた壬生の方が驚いてしまう程。
「僕の独りよがりだと、思っていた」
「何ですか、それは。僕が貴方の事好きじゃないとでも思っていたのですか?」
「…違うよ、ただ…」
「ただ?」
「僕だけが、君に一目惚れしたのかと思っていたから」
「……一目惚れ…じゃないです……」
如月のストレートな言葉に壬生の頬がほんのりと赤く染まる。そして少しだけ戸惑って。
「…ただ、手に入れたいって…思ったんです……」
「それならば、一目惚れだろう?」
「違います。僕が星を見つけたんです。ずっと、捜していた」
「―――相変わらず、君は我が儘だね。でも」
「…でも?……」
「そんな君だから、目が離せない」
――――君の瞳は、確かにずっと僕が捜していた星だから。




「…ずっと、一緒にいてください……」
「…ああ…紅葉。ずっと、一緒にいよう……」
傷つくだけの夢も。脅えるだけの恋も。もう、必要が無いから。雨の音だけが埋め尽くす部屋の中で。ふたりは遠い夢を見ていた。未だ子供だった自分たちの、許された我が儘を。子供だけが持っていたその強さを。
「ずっと、夢を見ていたいです」
それでも壬生はここに止まっていたい。未だ、子供でいたい。そうしないと、約束も夢も信じる事が出来なくなってしまうから。
「―――僕が、見せてあげる」
如月は自分の全てを楯にしても、彼の瞳を護り続けるから。もしも壬生がそれを望むなら、自分は全てを懸けてもそれを成し遂げるだろう。
「だから、紅葉。君は何も心配しなくていい」
「…はい…如月さん……」
いつのまにか、雨は上がっていた。そして空には綺麗な蒼が広がっている。壬生はゆっくりと立ち上がると、テーブルの上のオルゴールに手を掛けた。
「…ねえ、如月さん……」
少しだけ遠い瞳をして、壬生は如月に問い掛ける。それは、今はセピア色になった思い出のひとつ。
「何だい?」
「このオルゴールの曲のタイトル、知っています?」
「いや、知らないけれど」
「知らないのに、僕にくれたんですか?」
予想どおりだと分かっていても、少しだけ壬生は苦笑を浮かべる。初めて如月から贈られたプレゼントはこの、小さなオルゴールだった。
「…知らないけど…君にぴったりの曲だったから……」
「この曲のタイトルは、ね」
壬生の瞳が如月の瞳を捕らえて。そして無邪気に、笑って。
「――――『わがままジュリエット』って言うんですよ」
壬生の言葉に如月は、優しく笑った。――――君に、ピッタリだねと。



End

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