――――月に抱かれて、眠りたい……
水底から掬った月は、ゆっくりとぼやけて歪んでいった。
そして静かに、手のひらから消えてゆく。
…僕の手のひらから、消えてゆく……
靴を脱ぎ捨てて、足許から水に浸かった。不思議と冷たいとは思わなかった。
「紅葉、寒くないのかい?」
少しだけ離れた場死で貴方は僕を見ている。その瞳は月の光に照らされて、不思議な色をしていた。不思議な瞳の、色を。
「平気です。僕は少しおかしいから…『熱』に関しての感覚が麻痺しているんです」
それは少し嘘だったれど。僕が麻痺しているのは感覚じゃない。感情だから。こころが麻痺しているから。
「嘘だよ、それは」
少しだけ近付く貴方。砂に残るのは貴方の足跡だけ。僕の足跡は海がさらっていってしまったみたいだ。貴方の跡を全て波がさらってゆく。
「君はあんなにも僕の腕の中で感じているのに」
近付いて何時の間にか、抱きしめられていた。貴方は靴も脱がずにそのままで。そのまま僕を、抱きしめる。
「…よくそんな台詞を…こんな場所で言えますね…」
「誰も見ていないよ、それに誰もいない」
耳元にそっと囁かれた言葉。波の音に消える事のない言葉。胸に落ちてゆく、貴方の言葉。
「―――いても…言うけれどね」
それ以上僕に反撃させないように、貴方は僕の唇をそっと塞いだ。
―――背中に、銀色の月が見えた。
それは瞼の裏に残像となって残る。
ぼんやりとした形を取りながら、輪郭はぼやかしながら。
歪んで、崩れてゆく銀の月。
何時しか瞼の裏でそれは溶けて消えていった。
波にさらわれたのは、僕なのだろうか?それとも、貴方の足跡だろうか?
瞼を開いて見つめ返せば、貴方が微笑っていた。何よりも綺麗に、微笑っていた。
「如月さんの髪が、月の光に照らされて…綺麗です」
銀の月。銀色の優しい月。貴方を照らし、僕を包み込むただひとつの淡い光。闇だけが埋めるこの場所でただひとつの光。
―――触れたいと、思った。そのただひとつの光に、貴方の髪に。けれども僕の指先は水に濡れていたから貴方の髪に触れることは出来ない。貴方の髪を濡らしたくはない。
「触れても、いいよ」
表情で分かったのだろうか?貴方は優しく笑いながらそう言った。その笑みに少しだけ僕の戸惑いが消えてゆく。そして髪に触れたいと言う欲望が勝って…そして耐えきれずにそっと触れた。
「顔が笑ってる」
「え?そ、そうですか?」
「うん、嬉しそうだよ」
「…そうかも…しれない……」
子供みたいだって言われるかもしれないけど、僕は貴方に髪に触れている瞬間が一番安心出来る。他のどんな事よりも、どんな時よりもこの瞬間が一番。一番、ほっとするから。
「やっぱり僕笑ってますね」
「うん、笑ってる…可愛いよ」
「……き、如月さん……」
「可愛いよ、紅葉」
そうしてまた僕はそっとキスをされた。甘くて溶ける口付けに、何もかもを奪われてゆくような気がした。奪われたいと、思った。
さらわれるのと、奪われるのは、どっちがしあわせかな?
銀の月にさらわれて、貴方に奪われて。
ふたり波に消されてゆく。
さらさらと零れ落ちる砂と、きらきらと光る水平線と。
静かに零れ落ちる、儚い月の光。
どれもこれも僕等に降り注ぎ、そして零れてゆくもの。
このまま、溶けてゆけたらなと思った。
何もかもを溶けてゆけたら、しあわせなのかなと。
「―――このまま、海にさらわれてしまえたらいいのに」
「…如月さん……」
「君と一緒にこのままずっと。ずっと永遠に」
「そうなれたらいいですね」
「そうだね…このまま…」
「…このまま…もう誰にも邪魔されなければいいのに……」
生きるとか、死ぬとか。
そう言った言葉の境界線が曖昧になる。
何の為に生きるのと。誰の為に死ぬのが。
僕にとって同義語である限り。
貴方が生きているから、僕も生きている。
貴方が死ぬなら、僕も死ぬ。
どちらも同じ事だから。どちらも変わらない事だから。
生に執着した事も、死を渇望した事もない。
執着したのも渇望したのも、貴方だけなのだから。
――――僕にとってはどちらも、同じ事なのだから……
「足元から水が伝わってくる」
「…はい…」
「このまま抱き合っていたら、海に沈むね」
「それもいいかもしれません」
「死ぬのは、怖くないのかい?」
「どうして?」
「貴方がいるのに、どうして?」
そっと目を閉じる。
貴方の腕の中で。暖かい腕の中で。
そして。そして瞼の裏から見えるものは。
瞼の裏に焼き付いているものは。
銀色の月と。その月を映した。
―――貴方の、銀色の瞳。月の色を吸いこんだ、貴方の瞳。
さらさらと、零れてゆく砂。
静かに浸透する水。
柔らかく零れ落ちる月の光。
そして。
そしてゆっくりと降り注ぐ、貴方の声。
――――それが、僕の世界の全てでした。
End