…君が傍にいる、日常。
柔らかい日差しが窓から差し込んでくる。その光の眩しさに、思わず壬生は目を細めた。目を閉じると光の残像が、瞼の奥にくっきりと浮かぶ。しばらくその残像を感じていたくて、瞼を閉じたままにする。
「何を、考えているの?」
柔らかい声が耳に、降ってきた。それと同時に優しい腕も。そっと後ろから抱きしめられて、壬生の瞼が微かに震えた。
「…何、も。ただいい天気だなって……」
ゆっくりと瞼を開けて、振り返る。そこには予想と一寸も変わらない優しい笑顔。優しすぎて苦しくなる程の笑顔。
「そうだね、こんな天気のいい日に家に閉じこもっているのも・・・健康に悪いかな?」
「でも…貴方と…いられるなら……」
そこまで言ってみて恥ずかしくなったのか、壬生の目尻がほんのり赤く染まる。そんな仕種が堪らなく可愛くて、如月はその頬にひとつ、キスをした。
「そうだね、僕も。僕も君が傍にいてくれればそれでいい」
頬だけでは物足りなくて、綺麗な額にもキスをした。それでも足りなくて・・・唇に触れた。
「…幸せすぎて、何だか…恐いです……」
胸に顔を埋め、呟くように壬生は言った。それは紛れもなく彼の本当の言葉だった。長い時間を掛けて向き合って、そしてやっと自分だけが手に入れた、彼の剥き出しの本音。本当の、言葉。
「恐い?君は僕の腕の中にいても、まだ脅えるの?」
「今が幸せであればある程、貴方がいなくなったらって…そんな事を考えてしまうのです…」
「考えられないくらい、傍にいると思っていたけど…。もっと近くにいてほしい?」
息がかかる程の距離で。睫が触れる程の距離で。囁かれる優しすぎる言葉。優しすぎる声。この響きに永遠に埋もれていたいと思うのは、贅沢な望みなのだろうか?
「僕にとって君がこの腕の中にいる事が、当たり前になっているのに」
髪を撫でながら、そっとその髪に口付けた。ほのかに香るシャンプーの匂いが、ひどく如月を幸せな気持ちにした。
「…ごめんなさい…こんなに貴方は僕の近くにいてくれるのに…どうしても僕は脅えてしまう……」
今まであまりにも自分は独りだったから。あまりにも自分は愛される事を知らなかったから。だから。こんなにも無償の愛を与えられているのに、こんなにも自分を彼は埋めてくれるのに。それなのにもっと、求めてしまう。貪欲な程に。
「謝らないでいいんだ。君が脅えるのは僕のせいなんだから。君が僕に向けてくれる感情なら、僕は全てを受け止めるから」
「…どんな感情でも?…」
「ああ、君のものならば」
「嫉妬でも、独占欲でも?」
「ああ…幾らでも……愛してるよ、紅葉」
頬に手を掛けて如月は真っ直ぐに壬生を見つめた。その綺麗な瞳には曇りも陰りも何も無い。真実だけを映し出す、強い瞳。
「愛してるよ、足りないと思うなら幾らでも言ってあげる」
「…如月…さん……」
その瞳に何時も、自分は吸い込まれている。何時も全てを奪われている。でもそれは。それは自分が望んだ、事。何も欲しくないと思っていた自分が、唯一欲しかったもの。
「…僕、も…です……」
やっとの事でそれだけを言うと、壬生はそっと瞼を閉じた。それを合図に如月は彼の唇に激しい口付けの雨を降らせた。
身体を重ねる事だけが、気持ちを確かめる全てではないけれど。
それでも互いを求める気持ちが同じなら。
この時程、それを確認出来るものはないと。
そう、思うから。
何度でも、抱きしめあおう。
「本当に、不健康ですね」
乱れたままのシーツの上で、まだ少し上気している頬を覗かせながら壬生は言った。そんな彼に如月はタオルを一つ渡すと。
「何時までも裸のままじゃ、風邪を引くよ」
そのタオルごと、彼の細い身体を抱きしめた。微かに匂う体臭が吐き出した筈の欲望に再び火を付けかけた。
「貴方が脱がせたくせに」
「また身体で、暖めてほしいの?」
「…また…そんな事を言う……」
そっと壬生は手を伸ばし、子供のように如月の身体に抱き付いた。そんな彼を如月は絶対に拒みは、しない。
「汗、たくさんかいてるね。シャワー浴びておいで」
「如月さんだって、べとべとしてる」
「…じゃあ、一緒に浴びようか?」
如月の言葉に。壬生は小さく、頷いた。
君がいて、僕がいる。
そんな当たり前の事実が、かけがえのないものになる。
何よりも大切な、時間になる。
「くすぐったい、如月さん」
「君が暴れるからだよ」
敏感な彼の肌は、如月がタオルで洗ってやるだけでくすぐったがる。その時の顔が本当に無邪気で、如月はわざと彼を追いつめるのだ。
「自分で洗えますよ。身体くらい」
「いいんだ。僕がそうしたいんだから。君には何でも、してあげたい」
「甘やかしすぎですよ、如月さんは」
「今まで君は甘える事を知らなかった。だからその分、僕に甘えるんだ」
強引な言葉。でも、泣きたくなるくらいに嬉しい。素直になれない自分はその気持ちを上手く表現する事は出来ないけれど。でも。
「僕には幾らでも、甘えてほしいんだ」
でもきっと彼には伝わるから。言葉なんかにしなくても、伝わるから。
「…如月さん……」
「何でもしてあげる。君の望む事なら、僕は幾らでも叶えてあげる」
「何でも?」
「何でも、叶えてあげる」
望みなんてたった一つしかないけれど。でも貴方がそう言ってくれるのならば。
「いっぱい、我が侭言いますよ」
「構わないよ。大歓迎だ」
泡にまみれながら、またキスをした。何回しても足りないと、思いながら。
車の後ろ座席は買い物袋で埋まっていた。壬生と共に暮らすようになってから、買物の量が明らかに増えたなと…如月はぼんやりと思った。
元々自分はあまり物に執着しない。あればあったで便利だが無いからと言って不自由な思いをした事もない。必要最低限のものだけあれば良かった。
食事をするのも、そんな感覚だった。食べ物を美味しいと思いながらじっくりと食べるなんて事は、彼と出会うまで知らなかった。他人の作った物がこんなにも美味しいと思える事が。
壬生はひどくマメな所があった。炊事も洗濯も料理も全て自分でこなす。母親がずっと入院中で今まで独りで生きていたとなれば、まあ当然かもしれないが。
けれども自分が一人暮らしをしてた時を振り返ると、やっぱり普通よりは遥かに彼はマメだと如月は思わずにはいられない。
料理など『男子厨房に入らず』と教えられていたせいで、お世辞にもこなしていたとは言えないせいもあるだろうが…。
「今日は何が食べたいですか?」
そんな台詞を無邪気に言われる事が、こんなにも嬉しい事だとは思わなかった。
「君が作るものならば、何でも」
「じゃあ肉じゃがでいいですか?」
こう言ってる時の彼は本当に無邪気な笑顔を見せる。多分、本人は気づいていないだろう。それで、いい。自分だけが知っていればいい事だから。
「それは楽しみだね」
車内の他愛もない会話と、穏やかに流れる空気。そんな時間が、何よりも大事だ。瞬きをする瞬間ですら、ふたりでいる時間ならば。
…どんな瞬間でも、大切なものだから。
「ねえ…如月さん……」
窓の外に視線をやっていた壬生が、改めて自分に振り返った。それは信号待ちの僅かな時間だった。如月はそんな彼を真っ直ぐに見返す。
「ずっと一緒に、いてください。僕はそれだけでいいですから」
「分かっているよ、紅葉。ずっと一緒だ」
もしも自分が一生を懸けて償わなければならない罪があるとすれば。それは彼を手に入れた引き換えに、彼の全てを奪ってしまった事。
自分以外に頼るものはないと、自分以外に誰もいないと、そう。そう彼に思わせた事。こんなにも彼を弱くしてしまったのは、明らかに自分のせいだ。でも。
「僕が死ぬ時は、一緒に逝こう……」
でも彼自身もそれを望んでいた。自分自身以外の何もかも捨てて、この腕の中へと全てを預けたのは…彼自身の選択。そして。
「…はい、如月さん……」
そして僕は自分の持っているもの全てを、彼に捧げる。命すらも、全て。
君がいる、日常。
それが空気のようにごく自然に。
当たり前の風景になるように。
僕らが自分らしく生きてくための。
それは、欠かせない唯一のもの。
それを護る為ならば。
自分は何だって、出来る。
…何だって、出来るから……。
子供みたいに、手を繋いだ。触れ合った指先の暖かさが、自分達の持っている全てだと。
それが世界の全てだと、確認する為に。
End