硝子の瞳

睫毛の先に零れる光が、世界の全てだったらいいのにね。

指を、絡めて。冷たい指先を、絡めて。
そして眠った夜。
何もかもがなくなってしまえばいいと、思った。
今まで作ってきたモノ全てが。
僕を取り巻く全てのモノがなくなってしまえたらと。
そう、思った。

これが夢ならば、現実は残酷だ。

声だけが降り積もる、冷たい月の下に。
「愛しているよ、紅葉」
その言葉を聴くのにどれだけ僕は遠回りしていたのだろう。手を伸ばせばそこに、そこに差し出されていたものなのに。
僕は目を閉じた。僕は耳を塞いだ。全てのものを拒絶した。僕に差し出されたもの全てを。それを受け入れるには僕はまだ、まだ他人を信じる事が出来なくなっていた。
人の言葉の真実を信じられずに絶望と言う甘い自虐に身を任せて。全てのものに絶望をすれば裏切られる事はないと、そう思う事で自分を護っていた。
…自分を…護っていた……。
「愛して、いる」
見上げれば貴方の綺麗な瞳。曇り一つない、ただ真っ直ぐな瞳。そこには誰にも穢せない強い光が存在する。僕の手で触れるには、綺麗過ぎるほどの光が。
「…如月…さん……」
名前を、呼んだ。呼んでみて口に蕩ける甘さに瞼が震える。ただ名前を呼ぶだけなのに。それだけなのに、こんなにも。こんなにも胸が、熱くなる。
「僕の言葉、信じてくれる?」
その一言に僕は小さく頷いた。信じられなかった、人間の言葉など。けれども。けれども僕は。僕は今、貴方の言葉だけは信じたい。信じている。貴方だけは、信じている。
「愛しているよ…僕だけの…紅葉……」
その言葉に目を閉じて、貴方の胸に顔を埋めた。その瞬間、降りて来るのは貴方の優しい腕。その腕だけが僕の。僕の世界の全てになる。

膝を抱えてうずくまる子供。
差し出した手を絶望の瞳で拒絶する子供。
でもその瞳の先に見えるのは小さな哀しみ。
全てを拒絶しながらも訴えている。
…タスケテ…と。
独りはいやだと。誰かに愛して欲しいと。誰かに愛されたいと。
硝子の瞳に小さくひびが割れる。
それが君の哀しみ。絶望する事で全てを拒絶しようとして。
けれどもそれでも拒絶しきれなかった君の。
君の本当の小さな孤独。小さな心。小さな涙。
僕はその全てを。
その全てをこの手で掬ってあげたいとそう思ったから。

それが僕の思い上がりだとしても、構わない。
僕が君を愛していると言う事実だけは、変わらないのだから。

「言葉よりも確かなものは、この世に他にもあるよ。でも今君に必要なのは、沢山の言葉だから」
貴方はそう言うと少しだけ抱きしめる腕の力を強くする。その強さが今の僕にとっては何よりも嬉しい。何よりも、どんな事よりを。それが、嬉しい。
「必要ですか?」
「ああ、君が他人の言葉を信じられるまで。僕はずっと君に伝え続けるよ」
それならば…それならば言葉なんて信じられなくても、いい。ずっと信じられなくても。そうすれば貴方はずっと僕に言葉を与えてくれるのでしょう?
そんな事を思いながら、僕はそっと瞼を開いて貴方を見つめた。綺麗な、顔。綺麗な、瞳。
僕は貴方よりも綺麗な人を他に知らない。姿も、心も、魂も。
血塗られ穢れきった僕には、どうしようもない程に眩しい存在。
「だからまず僕を、信じてくれ」
それでも貴方は僕を受け入れてくれた。僕の穢れた血すらも浄化する眩しさで。僕の全てを抱きしめてくれた。
僕自身を。穢い僕を。穢れた僕を。血塗られた僕を。他人を傷つける事しか出来ない僕を。
僕の醜い部分も、僕の欲望も、僕の真実も。貴方はありのままの『今』の僕を受けいれてくれた。
…人殺しでも、いいと…。
そう、貴方は言って、くれた。

この手が人を殺めるのならば僕はそれでも構わない。
この心が他人を拒絶するのならばそれでも構わない。
君が何者で君がどんな事をしていても構わない。
だって僕が好きになったのは『君自身』なのだから。
君に付属するもの全てがどうでもいい。
君の持っているもの全てがどうでもいい。
僕が欲しいのは、君だけ。
壬生紅葉と名の付く全てが。
その全てが僕を捉えて離さないのだから。
だから、他は何も要らない。どうでもいい。
今ここに君がいる事が。
僕の腕の中にいる君が、僕にとっての全てだから。
僕にとっての全て、だから。

…全てを受け入れる事もまた…愛だと僕は思う……。

「信じています、如月さん」
少しだけ戸惑いながら、でも必死に貴方の背中に腕を廻した。広い、背中。強い、背中。
全ての宿命と血を受け入れ、何かもかもを心に沈めた貴方。自分に圧し掛かる重たい運命をただ静かに受け入れ、そして跳ね返した貴方。飛水流の血も、四神の血も、全て。全て受け入れて、それでも乗り越えた貴方。
…乗り越えて僕を、選んでくれた…貴方……。
「信じていますだから…」
「だから?」
「…僕に…言葉を…ください……」
我が侭だろうか?それでも。それでも貴方の言葉が欲しい。空っぽの僕の心を埋めてくれるのは貴方の言葉だけだから。今は、それしかないから。
「うん、紅葉。君が望むだけ」
「…好きだって…言ってください……」
空っぽの僕に命を吹き込んでくれるのは、貴方の言葉だけだから。
「好きだよ、紅葉」
「…愛してますか…?」
「愛しているよ」
貴方だけが僕に生きる意味を教えてくれた。

人に頼る事は無駄だと思っていた。
所詮人は独りだから。
生まれてくるのも独りならば死ぬのも独りだ。
他人は所詮他人だ。
信じても裏切られるだけならば初めから信じなければいい。
初めから誰も愛さなければ傷つく事はないのだから。
けれども。
けれども貴方と出逢ってから僕は知った。
人に頼る事は決して無駄ではないと。
人は決して独りではないと。独りでは生きられないと。
生きられないと、分かったから。
今まで僕は『生きて』はいなかった。
ただ呼吸をして、ただ動いているだけだった。
ただそこに『存在』しているだけだった。
こんなにも、簡単な事だったのに。
ああ、こんなにも簡単な事だったのに。
どうして僕は今まで気付かずにいた?
貴方に触れて、貴方の温もりを知って、貴方に愛されて。
そしてそして僕『生まれ』た。
言葉を人と交わす事。ほんの少し他人を気にかける事。
小さな優しさを他人に差し伸べる事。
それは決して無駄ではない。決して無駄なんかじゃない。
他人に傷つけられたくないからと全てを拒絶する事は、それは僕自身に対しての裏切りだと分かったから。
僕と言う存在がこの世に生を受けて、生きる権利があるという事を僕は拒絶していた。
僕は笑っても、いいんだ。僕は哀しんでも、いいんだ。
僕は苦しんでも、いいんだ。僕は傷ついても、いいんだ。
…僕は泣いても…いいんだ……。
そう教えてくれたのは、貴方。貴方だけが僕に教えてくれた。
当たり前の事すら拒絶していた僕に。僕に貴方が最初に教えてくれた事。
泣きたい時は、泣いてもいいんだと。

『…生まれてきて…よかった……』

君のその一言が。
君のその一言が、僕にとっての全てだから。
君が生まれてきた事。君が命を受けた事。
君が生きている事。その全てが。
全てが僕にとって何よりもかけがえのないものだから。
だから、紅葉。
ともに生きてゆこう。

ふたりで、生きてゆこう。

口付けを、する。
震える瞼に、冷たい唇に。
僕は君の全てに口付ける。
君の空っぽの部分を全て埋めるように。
余す所なく、君に口付ける。

「…僕も…如月さん…貴方だけ……」

愛しているの言葉はその唇の中に閉じ込められる。それで、いい。
貴方に伝われば。貴方だけに伝われば。僕はそれで幸せだから。
それだけで、幸せだから。

目を開ける。そこに貴方がいる。
触れ合った指先からは伝わる温もり。そして暖かさ。
これは、夢なんかじゃない。
夢じゃない。
僕が『生き』て、そして貴方も『生き』ている。
それが、大切。
何よりも、大切なこと。
ふたりでこうして生きて、触れ合う事が。

何よりも、どんな事よりも、大切だから。


End

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