天使の羽


「この子にはね、天使の羽がないの」

それだけを呟いて微笑った母の顔が、哀しくて。哀しくて、泣きたくなった。
でも今泣いてしまったら、母はもっと哀しむから。
だから必死で堪えた。無理に笑ってみた。
けれどもやっぱり、僕の顔は泣いていたんだろう。
そんな僕を抱きしめた母の腕が、微かに震えていたから…。

子供はね、生まれながら誰もが天使の羽を持っているの。
その羽がね、貴方を幸せにしてくれるのよ。

…ならば羽のない僕は、幸せにはなれないのですか?

目覚めた瞬間に、貴方の瞳があるのが不思議だった。
「…如月、さん?……」
手を伸ばしてそっと、その髪に触れてみる。さらさらの細い髪は、壬生の指先を擦り抜けてゆく。
「目が醒めた?」
聞こえてくる心地よい響きの声に、無意識に睫毛が震えた。そのまま瞼を閉じてその声を全身で感じる。優しく降って来るその声を。
「どうして、ここに?」
「憶えていない?」
再び睫毛を開いて、その綺麗な顔を見つめた。漆黒のその瞳に、全てを吸い込まれてしまいたいと…そう思いながら。
ゆっくりと記憶を辿ってみる。今日は何時ものように仕事をしに出掛けて、そして…。
「あ、僕…貧血起こして……」
「君まともに食事、していないだろう?」
如月の手が壬生の手首を掴んだ。それは如月の手でも掴みきれるほどに、細くて。それがひどく、哀しかった。
「…最近あんまり物を食べたいって…思わないんです……」
「何故?」
「分からない…ただ…ただなんとなく……」
不意に如月の手が壬生の手首から離れると、そのままその細い指先を自らの指で包み込んだ。一瞬ぴくりと壬生の身体が揺れたが、そのまま彼は抵抗しなかった。
「…なんとなく……」
繋がった指先がひどく熱い。何だか自分の指先じゃない気がして、どうしようもなかった。それでも如月はその手を離さない。そしてそのまま自分の口許に引き寄せて。
「そんなんだと僕が、君を連れ去るよ」
その指先にひとつ、口付けた。そこから広がる熱が、壬生の瞼を震わせる。
「連れ去るよ、紅葉」
「…如月、さん…」
ゆっくりと上半身を起こした壬生の身体を、如月はそのままそっと抱きしめる。哀しいくらいに軽い身体を包み込みながら、その暖かさと存在を如月は手探りで確認した。
「君は僕が触れるのを、拒まない。それは、淋しいから?」
壬生の髪を撫でる如月の手は、どうしようもない程に優しい。その優しさに全てを預けられたなら。全てを、受け止めてもらえたら。
「…淋しいだけなら…誰だって構わないんです……」
「…僕で…なくても?……」
「貴方でなければ、イヤなんです」
顔を上げて見上げた先の。その眼差しの真剣さに。真剣さに、心が震える。
「…貴方以外の人に…触れられたくない……」
「……紅葉……」
如月の手がそっと壬生の頬に触れた。その滑らかな感触を楽しむように指が戯れる。そしてそのまま自分の方へと引き寄せて。
「もっと君に、触れてもいい?」
それだけを言うと如月は、拒まない唇にそっと口付けた。

天使の、羽。僕だけが持っていない、幸せのシルシ。
他の子はみーんな持っているのに…僕だけが無いの。僕だけが持っていないの。
ねえ、お母さん…天使の羽は何処にあるの?

触れられた唇の暖かさが、冷たく凍えていた自分の心までも暖めてくれる気がした。心、までその暖かさが包んでくれる気がした。
「…このまま……」
声が何処か掠れているのが、自分でも分かる。それが何だか可笑しかった。
「このまま?紅葉」
「…このまま、貴方が傍にいてくれたらいいなーって…バカなこと考えてました」
「君が望むなら、幾らでも」
自分の腕の中にいる彼の重みの無い身体が、如月には哀しかった。彼をここまで追い詰めたものは何だろうと…そう考えると。そして。そして、自分がその答えを知らないもどかしさがイヤになる。気持ちだけで、何も出来ない自分に。
「望んでもいいのですか?」
「いいよ、僕は初めから君だけのものだ」
その言葉に答える変わりに壬生の両腕が如月の背中に廻る。そしてそのまま必死にしがみ付いた。
「痛いよ、紅葉」
「だって…離したら…全てが嘘になりそうで……」
苦笑混じりに言う如月に、けれども壬生の瞳は真剣だった。怖い程に、真剣だった。
「僕の言葉が、信じられない?」
「…信じたいです…僕が初めて…初めて好きになったひとだから……」
「ならば信じてくれ、紅葉。僕が君だけのものだと言う事を」
「…如月…さん……」
壬生はそれ以上何も、言わなかった。ただ哀しい程に痩せた身体を如月に預けて、そしてその命の鼓動を感じる事だけを全てにして。そしてそっと、目を閉じた。

貴方の背中には真っ白な翼がある。天使の羽が、無数に。僕が幾ら望んでも与えられないその羽が。この人の背中にはあふれんばかりに広がっている。
…でもね…貴方にはそれが何よりも似合う…何よりも、貴方に似合う…。

「僕には羽がないんです、如月さん」

不意に呟いた壬生の言葉に、如月はそっと彼の顔を覗きこむ。その表情はまるで、大切なおもちゃを無くした子供のようだった。
「…羽?…」
「幸せになれる天使の羽が。僕にはないんです」
「何故、無いと分かる?」
「…母親に言われました…僕にはないって…だから幸せにはなれないよって…子供の頃の話ですけどね…急に思い出したんです」
可愛そうな、子供。当たり前の与えられるべき愛を知らずに育った、可愛そうな子供。そして気が付けばその手を血に染める事でしか、自分の生きる道が与えられなかったかわいそうな、子供。
「…確かに…そうだなーって…思いました……」
「……紅葉…君に何があった?……」
尋常ではないやつれ方と、その不安定な瞳。仕事の後で倒れるなど…絶対に普段の彼では考えられない事だ。
「聞いたら貴方…軽蔑しますよ…」
「軽蔑なんてしない、だから話してくれ。僕は君を救えない自分を今、軽蔑している」
「優しいですね、如月さん。だから僕は勘違いしてしまう」
「勘違い?」
「貴方が僕と同じような気持ちでいてくれると」
「同じじゃないよ…紅葉…」

「僕の方がずっと…ずっと君を想っている……」

今貴方の翼からひとつ、天使の羽が僕の元へと落ちてきた。
…それを拾えば僕は…幸せに…なれるのかな?
でも拾ったら…全てを失ってしまうのかもしれない…それでも。
それでも?
僕はこの人のものならば例え髪の毛ひとつですら、欲しい。

「人を殺しました。仕事ではなく…僕は…」
「壬生?」
「…僕は…人を殺しました……」
ぽつりぽつりと話し始める壬生の言葉を全て漏らすまいと、如月は必死で言葉を拾った。
「…やつらは…束になって…無理やり僕を犯しました…何人もの男たちに輪されて…何時しか僕は…堪えきれなくなって…この力を使いました…決められた殺人以外は命令された殺人以外は使ってはならない…のに……」
震える壬生の身体をそっと如月は包み込む。泣けない瞳で彼が泣いているのがイヤというほど、如月には伝わったから。
「…僕は…本当の人殺しです……」
「構わないよ」
「…如月、さん?……」
「構わないよ、紅葉」

「もしも僕がその場にいたら、間違えなく僕が全て殺してやるから」

…白い、羽。天使の羽。
どうしてだろう?この人はどんなになっても、綺麗だ。
こんな言葉を吐いても。
この人の背中の翼は無限に白い。
…幸せの…天使の羽……

僕が手に入れても、いいものなのですか?

「…君に羽がないなんて…そんなの嘘だよ」
天使の羽のない子供。哀しい子供。でも。でも、その代わりに。
「君には翼がある。どこまでも飛んで行ける自由な翼が」
「…そんなもの何処にもないですよ…だって僕は何処へも行けない。永遠に『拳武館』という鎖に繋がれている」
「それでも僕の腕から擦り抜けてゆく、翼がある」
「…如月、さん?…」
「本当は分かっている筈だろう?紅葉。君が望めば『拳武館』の鎖は切れる…僕が切ってあげる」
そうそんな事は簡単だ。君が望めば、僕は幾らでも君の望みを叶えてやれる。
「でも…切ってしまえば…君は全てのものから自由になる…僕からも…」
「…貴方から自由になんてなりたくない…」
壬生の手が如月の頬に掛かるとそのまま口付けた。不器用な、キス。それでも想いだけは伝わる筈だから…。
「もしも本当にそんな翼があるのなら、僕が貴方の目の前で自らもぎ取ってみせる」
「…紅葉……」
「そうしたら貴方は、僕を見捨てはしないでしょう?」
「その前に僕がもぎ取るよ…君の翼を…そして…」

「君を僕だけの天使に、する」

…お母さん…もう、泣かないで…僕はもう天使の羽を手に入れたから。
だからもう…そんな顔をしないで…。
僕は哀しい子供じゃ、ないのだから…。

この羽は僕が手にしても、いいものなのですね。

「…僕の、天使…」
産まれたての君の背中の羽は、まだか弱いけれど。それでも。
「…如月さん……」
それでも、輝いている。何者にも染まっていない、透明な輝きで…。

たったひとつだけ護りたい、小さな小さな命。
今確かにその命が、産声を上げた。

「僕だけの天使」

如月が呟いたその言葉に。壬生は笑った。大げさだねと。
その顔は生まれたての天使のように、無邪気だった。

End

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