猫/それだけで、嬉しい。




 …多分僕は、雨が嫌いだった。

「…どうしたんだい?そんなにずぶ濡れで」
少しだけ驚愕の表情を浮かべた後、如月は柔らかく微笑った。そしてそのしなやかな指先を壬生の髪へと絡めとる。細くさらさらの髪は濡れたせいで、あいにく如月の指に極上の感触を与えはくれなかったが。それでも微かに、彼特有の涼しげな香りがした。
透明で何物にも汚されていない、哀しいくらい綺麗なその、匂い。
「髪もびしょびしょだ。このままじゃ、風邪をひいてしまう」
指が髪を擦り抜け、輪郭を辿る。そして両手で頬を包み込んだ。
「…顔も…こんなにも、冷たい……」
暖かい、手のひら。何時しかその暖かさだけが、自分の全てになる。身体中の体温がそこに、集中する。
「…如月さん…」
「今、僕が暖めてあげられるのは、その生意気な唇だけだけど」
そう言うと如月は壬生の唇を自らのそれで、掠め取る。それは本当に瞬きする程の時間だったけれど。
…唇は、暖かかった……
「それに」
頬を包み込んでいた手が何時しか壬生のそれに重なり。そして彼の腕の中の物体を奪う。それは、小さな猫だった。
「こいつにも、ミルクを上げないと」
如月はその猫にくすりとひとつ、微笑って。キスをした。

窓ガラスに当たる水滴の音がひどく、壬生の耳の奥に響く。聞きたくなくて、渡されたタオルを頭から被った。
この音が嫌いだ。雨は、嫌いだ。
あの日も、こんな雨だった。母が病気で倒れた時も、外はどしゃぶりの雨だった。
「君も、ミルクを飲むかい?」
ぼんやりと自らの思考に沈んでいたせいで、思いがけず近くにあった彼の顔に驚いた。そんな様子が可笑しいのか、如月は彼特有の綺麗な笑みを浮かべて。
「そんな顔をされると…困ったな…今すぐ君が欲しくなる」
「…バカな事、言わないでください……」
「君の前ではいくらでもバカになれる」
耳元で、囁かれて。冷たくなった身体が、少し暖かくなった。
にゃあ、と猫がひとつ鳴く。ミルクを貰って元気になったせいか、その声はひどく気持ちよさそうだった。
そんな猫の様子に無意識に壬生の口許が優しく微笑った。それは如月が見てきたどんな彼よりも、子供みたいだった。
無邪気で無垢な本当の、彼。一体どれだけの人間が彼の‘本当’を知っているのだろうか?
いつも他人を寄せ付けず、研ぎ澄まされた透明のナイフで自分を護り、独り生きている。でも。でも、本当は。
…自分は、知っている。彼が希望を持たないのは、裏切られる痛みを知っているからだ。初めから何も望まなければ、傷つく事ないと分かっているからだ。でも。でも、本当は誰よりも孤独から逃れたいと思っている。
彼の背中には絶望の翼がはえている。その翼が彼自身を傷つけているとも、気付かずに。
「如月さん?」
頭からすっぽりと被っていたタオルを取り上げると、如月は自ら壬生の身体を拭き始めた。それは壬生にとって、遠い昔の記憶を呼び戻す。そう、あれは。まだ自分が雨を嫌いではなかった頃。
傘も持たずに出かけてびしょ濡れになった自分を、少しだけ困った顔をしながらもこうやって拭いてくれた、母。そして拭き終わると、いつも苦笑しながら。
「今の君は雨の匂いがする」
ぱさりと、タオルが床に落ちる。けれどもそんな事、互いにとってはどうでもいい事だった。
驚愕の瞳で、壬生が如月を見た瞬間。その瞳に映るものを捕らえた瞬間。確かに何かが、弾けた。
「…どうして、そんな事を言うんです?」
それは、母の何時もの台詞だ。何時も優しい苦笑を浮かべながら、母は言う。
『紅葉、今の貴方雨の匂いがするわ』
何時も、何時も。だから自分は雨が好きだった。母の言葉が嬉しくて。何時も傘を持たずに遊びに行った。本当は、好きだった。
あの日、まで。母が倒れるその瞬間まで。
「君の香りが僕に、届いたから」
如月の腕が壬生をそっと抱き寄せる。胸に顔を埋められるとそこから心臓の音が聞こえる。とくん、とくん、と。
「君の心の声が僕に、届いたから」
今、如月は気がついた。さっき弾けたものは。
…壬生の最後の心の、壁だと。

「本当に君は、哀しいくらい綺麗だね」
何時しか如月が自分に言った言葉だった。再びその言葉を聞くとは自分は思わなかった。
「誰より傷つきやすい心を持っているのに、そのプライドで全てを覆ってしまう。傷つく前に心を閉ざしてしまう」
「どうして、如月さんにそんな事、分かるんですか?」
「分かるよ、君が好きだからね」
「…僕の身体が?」
「身体も、好きだよ。その髪とか、瞳、とか。全部、好きだよ」
「……」
「僕が君を抱くのは、君自身が好きだからだよ。それ以外に理由は何もいらない」
壬生の瞳は明らかに、揺れている。最後の壁が崩れた今、彼を覆うものは何もない。今自分の目の前にいるのは‘本当’の彼だ。
「君が僕を傷つけたいのなら、僕はそれで構わない。いいよ、いくらでも傷つけても。でも僕は君を離さない」
「僕は如月さんを傷つけた覚えはありません」
「今だって、充分に僕を傷つけている。分からない?僕の声は、君には届かない?」
好きだよと、何度囁けば信じてもらえる?
「届かない?僕は君にだけは嘘は言わない」
背中にはえるその絶望の翼を、この手でもぎ取りたい。
「…全部、本当だと言うのなら……」
最後に残った壬生の真実の瞳は。
「…僕の事だけ、考えて……」
捨てられた、子猫の瞳、だった。

「昔から、捨て猫とか捨て犬を放っておけなかった。拾ったって飼える訳ないのに、どうしても見捨てられなかった。その方が残酷だって、分かっていても。全てを答えられない優しさがどんなに卑怯か、知っているのに」
「だから、僕の所へ持ってきたのか?」
「如月さんなら…きっと見捨てないと…思ったんだ……」
俯きながらそう言った彼の顔は、見えなかったけど。多分、多分自分には分かっている。
「見捨てないよ」
その言葉に彼は顔を、あげて。そして。
子供みたいに、微笑った。

「それにこいつが居れば、君が僕の所へ来てくれる機会も増えるからね」
「…招き猫も、居ることだし、ね」
「そう、あれは僕のお気に入りなんだ。家の骨董品屋に代々伝わる由緒正しき招き猫なんだ」
「へぇ〜、そうなんだ。でもこいつも、招き猫だよ」
膝の上で眠る子猫に壬生は優しく頭を撫でてやって。そして。
「僕っていう幸運を、手に入れたんだから」
壬生の言葉に。如月は微笑う。壬生だけが許される、何よりも優しい顔で。

……多分、僕は雨が嫌いじゃない。今日から。

 

それだけで、嬉しい。



貴方に、出逢えた事。それだけで嬉しい。

「こいつ、大きくなりましたね」
自分を見上げてくる大きな瞳に微笑みながら、壬生はその柔らかい毛を撫でてやる。その指先が気持ちいいのかその黒猫はひとつ「にゃん」と鳴いた。
「君が連れてきた時は、まだこんなに小さかった」
如月は自らの手で当時の猫の大きさを表現する。まだ手のひらに乗るくらいの小さな子猫だったのに、今はもう両手で抱かなければならない程になっていた。
「貴方がいい物を食べさせているからでしょう?」
少し意地悪っぽい瞳で壬生は言った。そんな壬生に如月はひとつ、微笑うと。微笑うとそっと口付けを落す。
「…君が拾ってきた猫だからね」
目を閉じる暇も無い程素早く触れて、そして離れる唇に。壬生は少しだけ困った表情を浮かべる。
「どうしたの?紅葉」
「…目、閉じる暇がありませんでした…」
「じゃあもう一回してあげるよ」
くすりとまた如月は微笑って壬生の唇を塞いだ。今度は壬生が瞼を閉じるのを、確認してから…。

貴方の声を聴く事。
貴方の瞳を見つめる事。
それだけで、嬉しい。

あの雨の日を思い出す。ずぶ濡れになった壬生が、小さな黒猫を拾ってきた日を。
『貴方なら見捨てないと思いました』と、
何時も涙を流さず泣いている瞳で、そう言ったあの日の事を。
何時も何処か怯えていた君。何かから必死で堪えていた君。でも今は。
今はこうして、微笑ってくれるから。本当の笑顔の瞳を僕に向けてくれるから。だから。
だから、それだけで。それだけで嬉しい。

「…如月さん、睫毛長い…」
唇が離れてそれでも離れるのが惜しくて、互いの額を合わせて至近距離で見つめあった。少しだけ壬生の頬が赤いのは多分…如月の気のせいじゃないだろう。
「君だって」
如月の手が壬生の頬に触れる。そのままその頬を包み込んで、また口付けた。口付けがこんなにも、こんなにも気持ちのいいものだと知ったのは…ふたりでこうして唇を触れ合わせる事になった時から。
「…んっ…」
薄く唇を開いて壬生は如月の舌を迎え入れた。そしてそのまま舌を絡め合う。恋人同士の深い口付け。眩暈がする程の長い間、ふたりは互いの口内の味を堪能した。
時間を忘れてふたりで。ふたりでずっと互いを求め合った。
「…如月…さん……」
離れるのが名残惜しいかのように、ふたりの離れた唇を唾液の筋が引く。如月はそれを舌で器用に舐め取った。その度にぴくりと壬生の身体が震える。
「紅葉、好きだよ」
「…はい…」
「君だけが、好きだよ」
膝の上に乗っかっていた猫は何時しか気を利かせたのか、部屋のソファーの上で眠っていた。時々喉を鳴らして気持ちよさそうにしながら。
「…僕も…です…」
絶対の自信と真っ直ぐな視線で、貴方は僕にその言葉をくれるから。だから、僕は不安にすらなる暇さえない。
僕が不安になるよりも前に、貴方は言葉をくれる。貴方は抱きしめてくれる。だから。だから僕は何も。何も、怖くはない。
「…僕も如月さんだけが…好き……」
淋しくなる前に、その腕が包み込んでくれる。泣きたくなる前に、その声が言葉をくれる。
何時も僕よりも少しだけ前を歩いて、その手を引っ張ってくれる。
広くて優しいその背中を見つめながら。僕は全ての幸福を手に入れた。
「貴方だけが好き」
一番手に入れるのが怖くて…でも本当は一番欲しかったもの。それを貴方は僕の前に差し出してくれた。当たり前のように皆が持っている筈のもの。でも僕気それを与えられたことはなかった…なかったから。
だからどうしていいのか分からなかった。本当はずっとずっと欲しくて堪らなかったのに。僕はそれをどうやって受け止めればいいのか分からなかったから。どうやってそれを貴方に返せばいいのか分からなかったから。
貴方が僕にくれた愛を、僕はじうやって自分のものにしてゆけばいいのか。どうやって僕の気持ちを貴方に見せればいいのか、分からなかった。
でも貴方はそんな僕にひとつづつ、教えてくれた。人を愛する事、人に愛される事。誰かを愛して慈しむ事。他人に心を開く事。他人との距離を縮める事。その全てを貴方は教えてくれた。
僕が自ら作っていた『拒絶』と言う名の壁を、貴方はその優しさで崩してくれた。
…だからこうして僕は今、貴方の前でこんなにも素直になれる。
「紅葉、愛しているよ」
また唇が降りてくる。それが言葉の証だとするならば、何万回口付けても足りないだろう。それほどまでに僕は欲張りになってしまったから。
貴方が教えてくれた事がいっぱいありすぎて。
それを全部僕が欲しいと思ってしまったから。でも。
…でも貴方はその全てに答えてくれる。僕が欲しいだけ…口付けをくれるから……

貴方が僕にくれたもの。
それは両手で抱えきれないくらいの愛情。
貴方の愛だけが。
僕を捕らえていた『孤独』という名の鎖から、解き放ってくれた。

貴方だけが僕に、教えてくれた。

「にゃあ」
お腹が空いて目が醒めたのか、ソファーの上の黒猫がひとつ鳴いた。
「おいで‘くー’」
如月の綺麗な指先が伸びてきて猫を手招きする。利口な猫は主人の意図する通りに傍に寄って来た。
そしてそのまま抱き上げると如月は自らの膝の上に猫を乗せた。
「やっぱりお腹が空いているみたいだな」
「じゃあミルクでも持ってきますね」
壬生は立ちあがるとと台所へと向かった。その後姿を見つめながら如月は膝の上の猫の喉を撫でた。
「紅葉も君みたいに…素直になったよ…」
初めて出逢った時はその自らを覆っている壁の厚さに驚かされた。この世の全てを遮断している厚くて鋭い壁。そして刃物のように尖ったそれは壬生自身を傷つけていた。
…初めはその壁を取り払いたいと思っていた。
自らを傷つける壁を、取ってやりたいと。けれども何時しかそれは、その気持ちは違うものへと変化していた。その壁にある剥き出しの魂に触れたいと。何物にも穢されていない綺麗なその魂に…触れたいと。触れて、そして。そしてそっと…包み込んでやりたいと。
それが愛だと気付くのに大した時間を要しなかった。ひどく簡単に気がついた。ああ僕は君を愛しているのだと。君がこんなにも気になるのも。君からこんなに目が離せないのも。全部。
全部君を愛しているからだと。
…君だけを…愛しているからだと……
「僕もやっと人並みの…いや人並み以上の幸せを手に入れたみたいだ」
僕も君と同じだ。『宿命』という名の呪縛に縛られて何も出来なかった。その為だけに生きて、その為だけに死ぬ。それが当たり前だと思っていたから。
だから君に出逢って初めて僕は『ひと』として、生きているから。
泣いたり笑ったり怒ったり…そんな当たり前のことがかけがえのないものだと、ふたりでいる事で初めて知ったから。
「如月さん、くー、お待たせしました」
微笑う、君。柔らかくそして子供のような透明な笑顔で。君が、微笑むから。
「ほらくー、餌だよ。行っておいで」
君が、微笑むから。それだけで…それだけで僕は幸せだと思った。

一緒に微笑えあえるだけで。
一緒に言葉を交わせるだけで。
一緒にいられるだけで。
それだけで。それだけで、嬉しい。

他には何も、いらないから。

「やっぱお腹空いていたんですね。よく飲んでいる」
「そうだね。でもそれだけ僕らが長い間キスしてたからだろ?」
「………」
「どうした?紅葉」
「…貴方は…どうしてそんな恥ずかしい事を…平気で言うんですか?……」
「だって本当の事だろう?」
「…もう…如月さんったら……」

瞳が合って、そして君が瞼を閉じるから。
だから僕はまた、口付けた。
飽きることなんてきっと永遠に無い、その口付けを。
僕らはこれからどれだけ交わすのだろうか?
数え切れない程の愛の言葉とともに。

「君とならずっと、キスしていたいんだ」

それだけで、幸せ。それだけで、嬉しい。

 


End

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