DON’T ASK ME


TATUMA SIDE



―――少しだけ、自分よりも先に居る人だった。

零れた水が元には戻らないように、失った時間も戻らない。そして、彼の瞳も。
その漆黒の瞳に自分を映し出す事は、もう決して無いのだ。

「―――壬生は、狡い」
それはいつの間にか龍麻の口癖のようになっていた。何度も何度も繰り返される言葉。しかしその答えを決して龍麻は言わない。
「…どうして?……」
壬生が少しだけ困った顔で聞き返しても、決して龍麻は答える事は無いのだ。そしてまた。彼はそれを自分への戒めのように言う。―――壬生は、ずるい、と。

壬生は何時も闇に居た。決して彼は光の人間に届く事は無い。幾ら自分たちが手を差し延べても、彼は決してこの手には落ちないのだ。何時も防戦を張って他人を寄せつけない。それが…彼だった。

「どうして、龍麻は僕にあんな事を言うんですか?」
何も知らない顔で壬生は、尋ねる。それはどうでもいい事のように。本当に彼にはどうでもいい事なのだろうか?村雨はそんな事をぼんやりと考えた。しかし他人を理解しないようにしている壬生に、他人の心の奥など判る筈も無い。臆病な心と言うにはあまりにも、心が閉ざされている。裏を返せば彼は全く他人に、執着しようとしない。誰も、寄せつけようとはしない。その心があまりにも壊れている故に、誰にも染まる事がないのだから。
「―――おめーが、何も知らないからだよ」
きっと壬生は知らない。人の胸の痛みとか、哀しみとか。何も知らない。しかしそれは誰の罪でも無い。壬生にはそれを教えてくれる人が居なかったのだから。けれども。
「壬生おめーな、何も知らないって言うのは時にはとても残酷な事なんだぜ」

戦いの中では、その瞳は確かに自分だけを見つめてくれた。それは自分が『黄龍の器』であり、彼らの主であったのだから。それは当たり前の事かもしれない。けれども。
―――その瞳は確かに自分を見つめてくれたのだ。

「君は、決して誰にも染まろうとはしない。だから染めたくなる」
あの人は、漆黒の柔らかい瞳を持つあの人は、闇に生きている彼にそう言ったのだ。
「僕は…闇に染められていますから……」
そう言った時、壬生はどんな顔をして言ったのだろうか?罪悪感や他人の痛みを知らない彼はどんな顔で、言ったのだろうか?それはひどくぼんやりとしていて龍麻は思い出す事は出来なかった。けれども。
―――そんな壬生に彼は、苦しい程優しい顔で微笑んでいた事だけは覚えている…。

「如月、俺の事好き?」
月の蒼い夜、龍麻は何気なく如月にそう尋ねた。本当は痛い程、苦しかったけれど。
「―――勿論だ」
やっぱり如月はそう答えてくれる。そう、誰がこの質問をしても彼はそう答えてくれるだろう。けれども。
「…じゃあ、壬生は?……」
きっと彼にだけは別の言葉を言うのだろう。そう、彼にだけは。
「―――愛している」
いつも真っ直ぐ前だけを見つめる彼は、俺達の前では決して嘘は付かない。それが彼にとって最高の仲間への敬意だと思っているのだから。でもそれは、残酷だ。
「思いが、届かなくても?」
「―――ああ。僕は別に見返りを望んだ訳じゃない」
「一生、如月に振り向かなくても?」
「僕は生半可な思いで人を愛せる程器用ではないから。その位の覚悟は出来ているよ」
分かっていた、それくらい。言わなくても、分かっていた。彼はそういう男だと。何よりも自分が判っていた筈なのに…。けれども何処かで…期待…してた。どうする事も出来ない想いが、どうする事も出来ずに龍麻を支配していた。
「―――やっぱり、壬生は狡いや……」
龍麻の呟きは決して、如月には届く事が無かった。

―――如月さんは僕のものです、永遠に。
ある日、壬生は龍麻に向かってそう言った。その闇色の瞳は真っ直ぐに龍麻を見つめながら。何も言えずに壬生を見つめる彼に、穏やかとも言える笑みを浮かべながら。
―――壬生は、狡い。
如月の想いを知っていながら、何も知らないふりをする。龍麻の想いを知っていながら。何も知らないと言う顔をする。自分だけが被害者になる。
如月が追い掛ける事を知っているから、壬生は逃げるのだ。如月が自分を諦めないと知っているから、壬生はかわすのだ。利己的で、我が儘で、賢い壬生。
孤独で深い闇の人は、決して自分から堕ちない。深い深すぎる闇の中で、相手が手を差し伸べるのを待っている。けれども。
――――彼は自ら望んで、如月を甘美な罠へと仕掛けてゆく……。

……掴まらない…そう言った壬生の顔は。何よりも幸福な顔をしていたのだから………



KISARAGI SIDE



―――ただずっと、傍にいてやりたかった。

いつも、冷めた瞳で他人を見ていた。防衛線を張って、誰にも心を近づけさせなかった。
他人に執着しない事で自らを護っていた。けれども。自分は見つけてしまった。
――――冷めた視線の裏の苦しいくらい、哀しい彩色を。

「……如月さんはどうして僕を掴まえたいなんて、思うのですか?」
まるで子悪魔のような瞳で、壬生は如月に尋ねる。微妙に変化し続ける瞳は、いつも彼の感情を隠していた。しかし。
「―――君が、逃げるから」
幸か不幸か、自分の瞳は『真実』しか映さない。この飛水流が受け継いだ真実だけを映し出す瞳。
他人には見分ける事の出来ない程の僅かなその心の変化を、如月は手に取るように見つけられた。だから。
「逃げるから、何も理解しようとしないから、僕は君をほってはおけない」
壬生が何を今欲しがっているのか、嫌と言う程分かる。だから如月は、騙され続ける。壬生の仕掛けた甘美な罠へと…自ら堕ちてゆく。
「だからそれを、教えてやりたい」
「くす、如月さんって気長なんですね」
半ば呆れたように言った壬生の瞳の奥に、縋る色を見つけたのは決して如月の錯覚ではない。
―――そう、壬生は確かに自分に縋っていた。

「…全く、どうしようもねーガキだな…おめーは」
床に丸まって眠っている壬生を見つけて、村雨は溜め息ともとれる呟きを洩らした。本当にこうして眠っている顔は天使にすら見えるのに。けれど。このガキはとんでもない悪魔だ。勘のいい村雨には、誰が言う訳でも無く、龍麻の気持ちも如月の気持ちも分かっていた。なのに壬生だけが知らない。何も、知らない。
「知ろうとも、しねーんだから」
それを壬生に望むのは無理なのだろうか?他人を知らない、理解しない壬生にそれを望むのは…。けれども、それでは何の解決にもならない。この永遠とも思われる迷路から誰も抜け出せない。―――壬生が、答えを出さない限り。誰も救われはしないのだ。
「…村雨さん?……」
不意に眠っていたと思われた人の唇から言葉が零れる。夜空を思わせる深い深い瞳が、村雨を捕らえる。
「起きたのか、壬生てめーな…人んち来て勝手に眠んなよ」
彼は時々、思いも寄らない程綺麗な顔をする。それは誰からも認められた…そう、例えば如月のような華やかな美しさとは違う…まるで硝子細工のような美しさなのだ。月の雫を散りばめたようなどこか濡れた、美しさ。
「…ごめんなさい…でも眠れる場所が他に思い当たらなくて……」
そう言って瞳を擦る仕種はとてもあどけないのに。このガキは皆を苦しめる。
「…村雨さん…」
「なんだ?壬生」
「……如月さんは、何処?……」
「―――え?」
きょろきょろと辺りを見渡しながら、壬生は尋ねる。それは壬生にとっては、当たり前の質問のように。そう、当たり前なのだ。壬生にとっては。ここが俺の部屋であろうがなかろーが…自分の傍に如月がいると言う事が。
「…如月は、今日はここにはこねーよ。龍麻に付き合って買い物してんだから」
――――気のせい、じゃない。村雨は今はっきりと確信した。村雨の口から『龍麻』と言う言葉が出た瞬間に、壬生の瞳が一瞬変化したのを。確かに、村雨は、見た。
「…そうですか…じゃあ僕家に帰ります……」
しかし次の瞬間にはいつもの、壬生に戻っていた。誰も近づけさせない何の感情も含まない顔に。けれど……。
―――確かに、壬生は傷ついていた。

「これで全部だな、龍麻」
「うん」
こんな気持ち女みたいで、みっともないと龍麻は思う。だけどこうして如月とふたりっきりで居られる事が今、何よりも嬉しい。今だけは、如月は龍麻のものだから。
「…重く、ない?如月……」
荷物の半分以上を如月が持っている。更にそれは、重い物ばかりで。こんな身近な事でも如月の優しさが痛い程感じられて、龍麻は胸が痛くなる。
「こんな物何でもないよ」
誰にでも優しい如月。それは不公平なく、全ての者へと与えられる。もしも今、如月と一緒に買いだしに行っているのが村雨でも、他の仲間でも…壬生でも、そうするだろう。
―――そう、壬生になら。それこそ壬生を宝物のように大事にするだろう。
これは子供っぽい我が儘だ。如月を誰にも渡したくない。いつも自分だけを見て、自分だけを考えていてほしい。その広い腕と、大きな手はいつも自分だけの為に差し延べてほしい。だけどこれは、自分勝手な思いだ。だって、如月は壬生が好きなのだから。
―――如月さんは僕のものです、永遠に。
壬生は狡い。壬生は意地悪だ。如月の気持ちを本当は知っているくせに。なのに、知らない振りをする。そう、村雨も如月も皆気付かない。壬生がどれだけずる賢く卑怯か。皆、知らない。だけど自分は、知っている。
「―――如月」
「何?龍麻」
そんな壬生に如月を渡したく無い。この人はあんな人間に縛られちゃいけない。騙されしゃ、いけない。早く壬生の正体に気付くべきだ。
「壬生は、如月の気持ち知ってるよ。知ってて、あんな態度をとっているんだ」
あんな悪魔みたいな壬生に。確かに壬生は綺麗だと思う。時々、彼の性別すら疑ってしまうくらいに、綺麗な表情をする。だけども外見の美しさならば到底如月に及ぶものなど居る筈が無い。まして如月は物事の本質を見極める飛水流の末裔だ。そんな如月が壬生の外見だけに騙される訳が無い。それならば、何故。如月は壬生に魅かれているのか?
―――龍麻は、知らない。如月が壬生の何を見てきたのか。
「―――ああ…知っている……」
「…知ってるって…如月……」
「僕はまがりなりにも『飛水流の末裔』だよ。そのくらい、見極められるよ」
「ならば、何故?!」
龍麻は驚愕の表情を半ば怒りにも似た表情に変え、如月に詰め寄った。―――知っている?
知っているのに、如月は何も言わないと言うのか?
「彼は、孤独だから。だから、こうする事でしか人の気持ちを計れないから」
―――そう、壬生は。何も言わないでも自分を求めてくれる、自分を見つめてくれる、変わらない永遠のものを欲している。求めている。
だから如月は答えてやるのだ。無言の肯定で。そうまでしなければ壬生は。自分を護れない程に、弱いから。
「……じゃあ、如月……」
龍麻は微かに震える声で、如月を呼んだ。それならばもう、自分を抑える必要など無いのだ。そう、何も自分は遠慮する事など無い。
「―――俺の、気持ちも分かるだろ?」
「―――」
気付かない訳など無い。壬生を分かっているのなら、自分の気持ちを分からない訳ない。こんなにも如月だけを見ているのだから。
「……済まない……」
しかし如月は、それしか龍麻に伝えられなかった。どう言葉を飾っても、如月には結局最後はこの言葉へと辿り着いてしまうのだから。如月には嘘を付けるだけの優しい弱さを持っていなかった。
「そう、言うと思ったよ。如月は、優しいから…だけど……」
龍麻の手が如月のワイシャツの襟に掛かる。彼は龍麻が顔を上げなれれば、視線が届かない。
「俺は諦めないよ。如月が好きだからね。あんな…壬生なんかに如月を渡したくない」
急に如月の襟首に掛けられた龍麻の手の力が強くなって、そして。
―――一瞬、二人の唇が重なった。

もう、後戻りは、出来ない。

「…君には…分からないだろうね…龍麻……」
唇が離れたと同時に、駆け出して行っ龍麻の後ろ姿を眺めながら如月は呟いた。その瞳はどこか、哀しそうだった。
「―――僕にも分からないのに、君に分かれなどと、ね」
そう、この想いを如月にも上手く説明出来なかった。説明などとうに越えてしまった想いなのだから。理性よりも先に感情が求める。ただ純粋に壬生を護りたい、と。
きっと誰も知らない。壬生がどんなに傷ついた子供なのか。どんなに哀しい子供なのか。それを知っているのは事実として、自分だけ。誰も壬生を救いはしなかった。
冷たい裏に隠された脆く壊れやすい心。始めから絶望に生きるのは、希望を持つと裏切られると知っているから。だからそんな壬生に教えてやりたかった。希望は決して幻想では無いと。自分は永遠を壬生に与える事が出来る。それ程、愛しているのだから。
「結局、僕は紅葉…君に捕らわれているのだから」
―――それだけが、如月の知っている事実だった。



MIBU SIDE



―――本当は、貴方だけを愛していた。

初めて、自分に手を差し延べてくれたひと、だった。例え一時の気まぐれでも構わないと思っていたのに。
―――いつのまにか、貴方なしでは生きられなくなってしまった。

「あれ、先生。如月の旦那は?」
一人きりで村雨の家に来た龍麻に村雨は不思議そうに尋ねる。しかし次の瞬間、龍麻の表情を見て何とも言えなくなってしまう。そんな村雨を察したのか、龍麻は彼から先に事実を述べる。
「―――俺、如月に告白した」
「…先生……」
龍麻の表情を見て、何となく察しが付いていたものの、こうして事実として告げられると少なからず、村雨は言葉を選ばずにはいられない。
「…俺、絶対に諦めない。壬生なんかに如月を渡さない」
真っ直ぐな視線で龍麻は村雨に告げる。それは彼の…黄龍の器を思わせる激しさだった。
「―――先生……」
村雨は何も、言えなかった。もしもさっきのあの壬生の瞳を見なければ、龍麻の言い分も理解出来たかもしれない。けれども。―――壬生は、とても壊れそうだった。
壬生の冷たさはもしかしたら、ぎりぎりの強さなのかもしれない。弱い心を隠そうと必死になっていて、逆にああなってしまったのかもしれない。そして村雨は多分それは当たっているだろうと、確信する。―――そう、今になってなら分かる。多分それに始めに気付いたのは如月だ。如月だけが、壬生の本当の姿に気付いたのだ。
「…先生…先生が思ってる程…壬生は、悪くねーよ……」
だから村雨にはそれだけを言うのが精一杯だった。しかしそれは龍麻に届く事は無かった。
「どうしてだよ?!壬生は如月の気持ちを知っているんだっ!知っていて、如月の気持ちを弄んだんだ。そんなの最低だよっ!!」
「でもそれは、如月も望んだ事だろ?」
村雨の言葉は、事実だった。そんな事龍麻は百も承知している。しかし頭でいくら理解しても感情は止められないのだ。まして自分は直情型の性格故に、走り出したら止まらない。
―――止められない、のだ。
「そんな事ない!如月は、騙されているんだっ!」
「…先生……」
村雨が龍麻を宥めようとその肩に手を掛ける。しかし寸での所で龍麻はそれを振り切った。
「もう、いい。村雨に言ったのが間違いだったんだ。俺が直接壬生に言う」
「先生」
「俺が、如月を救うんだ」

―――ずっと遠い昔、こうやって誰かをずっと待っていた事があった。
すみっこで小さく膝を抱えて、時計の音だけが響く部屋で。ずっと、待っていた。
けれどもその人は自分の元へと決して帰ってくる事は無くて。
自分はいつしか、待つ事を忘れてしまった。でも今はこうして、待っている。
彼はきっと自分の元へと帰ってくるから。
「…如月さん……」
だから、待っている。まだ如月は自分を見つめていてくれるから。まだ、自分を好きでいてくれるから。だから、帰ってくる。壬生の元へと……。

「…壬生……」
「…龍麻……」
突然訪れた訪問者は、壬生の望んでいた人とは違っていた。一瞬、ほんの一瞬だけ嬉しそうな顔になった壬生を無論龍麻は気付かなかった。そして壬生自身も、気付きはしなかった。
「―――何か、用ですか?」
相変わらず他人行儀とも言える表情が龍麻を貫く。初めて出会った時から、この壬生の表情が嫌いだった。一歩距離を置いて、客観的に自分を見つめる闇の瞳が。
「……あるよ、壬生。お前には」
龍麻はぐっと堪えて、後ろでに在ったドアのノブに手を掛けて扉を閉めた。これで二人は、隔離された。
「…ずっと…ずっと…言いたい事があった…もう、潮時だ」
真剣な龍麻の漆黒の瞳。その瞳を見ているだけで、彼の言いたい事など分かってしまう。そう…龍麻が自分に話があるのならそれはたったひとつ。
「―――如月さんの事、ですか?」
だから壬生は、告げた。いつもの無表情の何の感情も含まない声で。しかしその闇の瞳の色彩だけが微妙に変化していた。
「そうだよ、壬生。単刀直入に言う。もう如月を騙さないでくれ」
「僕が如月さんを騙してる?随分な言い掛かりですね、龍麻」
「しらばっくれるなっ!如月の気持ちを知ってるくせに、知らないふりして如月の気持ちを弄んで楽しんでるくせにっ!」
―――弄ぶ?楽しむ?如月さんの気持ちを?
「そんなに人の心が面白いのか?壬生は。人を傷つけるのはそんなに楽しいのか?」
―――人の心が面白い?人を傷つけるのが楽しい?
「お前はそうやって鷹を括ってるけれど…如月が、俺たちがどんな気持ちでいるのか、知っているのか?!」
―――面白い訳なんてない。楽しい訳なんてない。そんな事自分が一番知っている。他の誰よりも自分が一番傷ついてきたのだから。なのに。
「…君は…何にも…知らないくせに……」
何故自分が責められなければいけない?誰にも手を差し延べられずに、母親の温もりすら知らずに育った自分に。他人の愛情を真っ直ぐに受け取った龍麻に。どうして?
「何にも、知らないくせにっ!!」
「…壬生……」
それは龍麻が初めて見た、壬生の感情だった。いつでもどんな時でも動じずに冷めた瞳の彼が見せた熱い苦しい感情、だった。
「君になんかに分かるもんか!僕がどんなに傷ついているか、僕がどんなに苦しい思いをしているか…君になんかには分からない。分かるもんか!!」
片親だから暗殺者だから、本当の友達が出来ない事など。大人達が自分をどういう目で見ていたかなど。甘え方すら知らない自分を。
「…如月さんだけだから…僕を分かってくれるのは…あの人だけだ……」
「―――壬生……」
「…あのひと…だけだ……」
気付いた時には、壬生の漆黒の瞳から止めども無く涙が溢れ出していた。泣く事すら許されなかった、出来なかった壬生のそれは初めての涙かも、しれない。
「誰にも渡さない。如月さんは僕のものだ。僕だけのものだ。誰にも…渡さない……」
壬生の涙は止まる事無く後から後から流れ出す。その為に自然と語尾が滲んでゆくのを、止められなかった。
「……そうだよ…如月さんの気持ち…知ってました…。だけど…僕は言えなかった…。だってそうでしょう?!何時如月さんが僕を捨てるか分からないのに。それなのに認めてしまったら…僕は、絶対にあのひとを殺してしまう……」
「…壬生……」
「…不安で不安で…如月さんを殺してしまう……」
これしか壬生は確認する術を知らない。自分がどんなに無視をしても付いてきてくれるだけの気持ちを計る術を。壬生は知らない。
「…お願いです…もう…誰も僕から如月さんを取り上げないで…ください…お願いだから……」
やっとやっと見つけた安息の地。ここだけが自分が居てもいい場所。自分を必要としてくれる場所。これだけが、やっと壬生が手に入れた何よりも誰よりも大切なもの。もう、離す事など出来はしない。
―――壬生は、何も知らない子供だった。龍麻はこの時初めてそれを実感した。皆が思っていた事は嘘でも偽りでも無かった。壬生は本当に子供なのだ。自分の感情の処理すら知らない。哀れな哀れな子供。
今思えば納得出来る。あの時龍麻に壬生が言った言葉
―――如月さんは僕のものです。永遠に。
あれは一種の不安の裏返しなのだ。自分が壬生から如月をいつか取り上げるのではないかと言う、不安。それをどうしていいのか分からずに壬生はそう言った。龍麻に。そう、それは壬生の罪じゃない。壬生は何も知らなかったのだから。何も教えられなかったのだから。
今なら分かる。あの時如月が幸せそうに笑っていたのも。そんな壬生の気持ちを知っていたから。だから笑ったのだ。ひどく幸福な顔で。如月は、壬生に。
「……壬生は、狡い……」
「……龍麻……」
「そんなに哀しそうな瞳されたら俺は何も言えなくなるじゃないか」
捨て猫のような哀しそうな瞳。それが壬生の隠された本当の顔だった。そしてそれは如月の存在が引き出した……言い換えれば如月が、暴き出した…壬生の顔だった。
「……狡いよ…それじゃあ壬生から如月を奪えない……」
―――壬生は、狡い。利己的で自分勝手で我が儘で、だけど。
「……壬生は、狡い……」
――――何よりも純粋な心を持っている。

「…先生……」
壬生の家から出てきた龍麻を、村雨は何も言わずに見つめる。そんな村雨に龍麻は微かに笑って。
「―――負けちゃった。壬生、くやしいくらい可愛い」
「…先生?……」
「壬生は、可愛いよ」
如月の為にならあんなにも泣けるのだ、壬生は。意地を張ってばかりで全然可愛げの無い彼は。唯一の人の為にあんなにも可愛くなれるのだ。
「…あーあ…失恋しちゃった…村雨…慰めろよ……」
龍麻の大きな漆黒の瞳がゆっくりと潤み始める。それを見守って村雨は。
「―――幾らでも、先生の望む限り」
そう言って、彼の見掛けよりも細い肩を、抱きしめた。

―――初めての、願いだった。
如月を失わないようにと。それが壬生の初めての願いだった。希望すら捨ててしまった壬生の唯一の希望がそれ、だった。
ただ如月を失わないようにと。壬生はそれだけを切実に思っていた。

そしてその祈りは決して夢や幻で無い事を、壬生は知らなかった。



AFTER


――――ずっと、待っていた。

一度溢れてしまった涙は、もう止まらなくて。後から後から壬生の頬を伝った。
「…何で…僕…泣いているだろう……」
自分自身を護る為に封印した筈の涙。なのにそれはいとも簡単に、壊れてしまう。
―――壊れて、しまう。
「…バカかな……僕……」
壬生はゆっくりと瞳を閉じる。そのせいで瞼に張り付いた雫がぽろりと落ちる。もう、瞳を閉じてないとどうにかなってしまいそうだった。本当に、自分は弱い。こんな些細な事でも、身動きも出来ないくらいに。―――弱くなって、しまう。

少しだけ開いた隙間から、細い肩が覗く。それは微かに震えていて、とても哀しかった。
だから、如月は。躊躇いもせずにそのドアを開ける。彼を、抱きしめる為に。

「…紅葉……」
ゆっくりと雪みたいに如月の声は壬生に降り積もった。それはとても、優しくて。壬生は瞳を開ける事が、出来なかった。あまりにも優しすぎて、これが夢みたいに思えたから。
「…紅葉……」
もう一度、如月は彼の名を呼ぶ。それは自分が夢では無いと、壬生に伝えるように。そしてそれを実証するように広い腕が壬生の細い身体を包み込んだ。
「―――やっと、掴まえた。紅葉」
声を上げる事も出来ずに泣き続ける壬生の髪をそっと撫でてやりながら、如月は囁いた。低く微かに掠れた声で。それは確かに、如月の声だった。
「………」
震える瞼が静かに開かれ、濡れた瞳が如月の前に現れる。子猫みたいな壬生の瞳。気まぐれで我が儘で自分勝手で淋しがりやの、如月の大切な大切な人の瞳が。
「…如月さん……」
やっとの思いで壬生はそれだけを言うと、そのまま彼の広い胸に顔を埋めてしまう。確かにこの場所は壬生だけのものだった。壬生だけに与えられるもの、だった。
「…僕…如月さんを…弄んでなんて…いないよ……」
「―――分かっている」
「…僕…人を…傷つけたいなんて…思ってない……」
「―――分かっているよ、紅葉」
自ら壬生の仕掛けた罠に嵌まったのは他でも無い如月だから。この他人の愛情を信じる事の出来ない子供は、こうやってでしか確認する術を知らなかったのだから。如月はそれに答えただけだ。如月には分かっている。壬生が不安に脅える事が出来ないくらいに、彼を見つめていたのだから。
「…僕が、分かっているから……」
ゆっくりと如月の大きな手が壬生の頬に掛かる。そしてそれを自分に向かせると、閉じた瞼へと口付けた。
「君は何も心配しなくていい。何も、脅える事は無い」
瞼から額そして頬へと、如月の唇は当麻の顔を滑っていく。それはただただ優しさだけを伝えるもので。
「僕が居る。君の傍にずっと…君が望むかぎり永遠に。だから」
壬生の瞳が再び開かれる。その先にかち合ったのは―――痛い程真剣な如月の視線。
「―――僕を、信じろ」
「…如月さん……」
「僕だけを信じていればいい。僕だけの事を考えていればいい」
その真っ直ぐな瞳は、嘘も偽りも無かった。いや、彼は今まで決して嘘を付いた事が無かった。どんな時でも真っ直ぐに壬生を見つめて。彼の言葉は必ず実証される。
「…人の気持ちが分からないのなら、僕が教えてあげる。甘え方を知らないのならば、僕が君を甘えさせてあげる。―――だから、紅葉」
「…如月さん……」
「――――僕を、好きになれ」
如月は自らの言葉を実証するように、無防備になっている壬生の唇を塞ぐ。一瞬、壬生の身体がピクッと震えて、そして静かに彼は瞳を閉じた。

―――これは、始まり。僕は今、貴方の腕の中でうまれる。

「…好きになれば…僕から…離れないですか?……」
唇を離した後も、ふたりは離れる事が無かった。如月は壬生を抱きしめて。壬生は戸惑いながらも如月の背中に腕を廻して。まるで、今までの無くした時間を埋めるように。
「もう必要ない」
「…え?……」
少しだけ戸惑いながら自分を見つめる壬生に、如月はとても綺麗に笑って。
「君はもう僕に捕らわれているのだから」
再び如月は壬生の唇を塞ぐ。今度は、壬生は驚かない。もうその必要も無いのだから。
だから僕は。瞼を閉じて貴方を待てば、いい。それだけで。

―――もう、何も脅える事は無い。貴方が傍にいてくれるから。

「……ずっと、待っていた…紅葉。君が僕の腕を求めるのを………」




End

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