Femme Fatal ・1


Femme Fatal


―――螺旋階段の、運命。

翼を、ください。
真っ白な翼を。
蒼い空を、飛んでゆける。

…翼を…ください……


『雨の日が、好きなんです』
少しだけ、戸惑いながら。でも君は微笑った。
とても、綺麗に、微笑った。
『全てを、洗い流してくれるから』

僕達は多分、どちらも足りなかったのだろう。
同じように足りなくて同じように求めていた。
足りない部分と求めている部分が同じだったから。
―――だから、全てが埋まった。
ふたりでいると、全てが埋められた。
足りなかったもの、求めていたものが。
互いの背中の翼に生えていると気付いた時。

僕達は、その瞬間。
全てを失って、そしてたったひとつのものを手に入れた。


ACT/1

―――あの空に届く翼が欲しい。


何故、僕は生まれてきたのでしょうか?
何の為に生まれてきたのでしょうか?
ひとを、殺す為?それともあの人の慰み者になる為?
その為だけに、生まれてきたのですか?

ただひとつしかない僕の命は。
ちっぽけに捨てられる為に与えられたのでしょうか?


『手首を切るのは、母親に振り向いて欲しいから』
館長と名乗ったその男は、ただ鏡のような瞳で幼かった僕を見つめた。
『だから自殺行為を繰り返す…哀れなガキだな…』
煙草の匂いがこの白い部屋を満たしてゆく。真っ白な部屋。何もない部屋。そこが閉鎖病棟だと知った時は、僕は何時しかこの場所へ人を送り込む側へとなっていた。
鍵の掛けられた部屋。自分の意思ではここから出る事の出来ない部屋。精神分裂症と烙印を押されれば意思など関係無しに閉じ込められる部屋。
幼い僕は、ここにいた。『館長』が迎えに来るまでは。この白い壁だけが僕の空間だった。
『でもそう言う行為をするガキは別に珍しくない。精神分裂の典型的な例だ。親に甘えたいから、親に自分を振り返って欲しいから、自らを傷つける』
僕はまた手首を切った。痛いと分かっていても、切った。切っちゃダメだと分かっていても切った。頭ではそれはいけない事だと理解しているのに、それでもこの行為を止められない。
『でもお前には手首を切られては困る』
イタイ…イタイヨ…手首ヲキルノハ……デモ…イタガラナイト…オ母サン…抱キシメテクレナイ……。
『傷物を抱くのは俺の趣味じゃない』

こころの、声。
何時も叫んでいた。
『僕に気が付いて』と。
膝を抱えて蹲っている僕に。
道端に捨てられた僕に。
誰か気が付いて…と、そう思っていた。

そして気付いてくれた人は、僕をここから連れ出した。
真っ白な世界から、真っ黒な世界へと。
そこは闇だけが支配する時間。闇以外何もない場所。
そして僕はその闇の中でまた、何度も血を流す。
今度は自分の血ではなく、他人の血を。
でも。でもどうしてかな?
自分の手首を切った時よりも、痛いのは。
自分自身を傷つけるよりも、痛いのは。
―――どうして、なのかな?

『壬生紅葉――それがお前の名前だ』
そう言って大きな手が、僕の頭を一度だけ撫でた。それは僕が知らなかった大人の男の人の手…大きな、手。今思えば僕は、このひとに望んでいたのはこの手だったのかもしれない。
『お前の母親は名前すらつけられなかっただろう?大体精神病の女が子供を産むのは無理がありすぎる』
―――精神病の母親、精神異常の子供。どちらがより救われないのだろうか?
物心ついた時から僕を護ってくれる筈の唯一の母は、僕を傷つけた。僕はいっぱい殴られて、何時も痣だらけになっていた。学校へも行かせてもらえず、気の狂った母親とふたりきりの小さな空間で、食べ物もロクに与えられずに。ただ母に殴られ、蹴られ。ボロ雑巾のように扱われるだけだった。
―――でも。でもね、優しかったの。血を流した時だけは、優しかったの。傷ついてぼろぼろになって僕が血を流した瞬間、母は僕をそっと抱きしめてくれて。
『痛い?痛いの?』
と言っていっぱい泣いてくれたの。僕の為に泣いてくれたの。だから、手首を切った。血を流した。そうしたら母は僕を抱きしめて、くれるから。
いっぱい、抱きしめて、くれるから。
『お前には紅が、似合う。血の匂いがするからな』
―――ミブ…クレハ……それが僕の名前。僕に与えられた名前。僕を識別する言葉。でもそれだけだ。それだけ、だった。
『これからお前は修羅の道を生きる…それに相応しい匂いがするよ』
そう言って何時しか僕の頭を撫でていた手が、僕の衣服を引き裂いた。大人の男の手が、僕の身体を支配した。

「やだっ!!止めてっ!!」

それがここに来て初めて出した僕の声だった。けれどもその願いは叶う事はなかった。僕の身体に圧し掛かり、そして。
―――そして、僕は犯された。
まだその行為の意味すら分からない程に幼かった僕は、ただ覚えているのは身体を真っ二つに引き裂かれるような痛みだけだった。
ただ痛くて、痛くて。それから逃れる事だけが自分を支配して無が夢中で暴れた。けれども暴れれば暴れるほど、身体の中の凶器が僕を傷つける。
何時しか僕は抵抗する気力も失せて、なすがままにされていた。身体の中に埋めこまれていた凶器が何時しか口の中に突っ込まれても、僕は言われるままにそれを舐めた。
『…ほぉ…これはこれは…予想以上だな…まだこんなガキでこの舌使いとはな…末恐ろしいガキだ』
そしてまた後ろにソレが入れられる。血まみれのそこは痛い筈なのに何時しかそれを飲み込んでいた。痛くて引き裂かれそうなのに、そこは男の拡張を受け入れていた。
『ふ、やっぱり初物は何時抱いてもいいな…おい…』
何時しか僕の廻りを知らない男達が囲んでいた。男達は異様な目で僕を見つめる。そうまるで、飢えたオオカミのように。
『こいつを徹底的に仕込んでやれ。どんな男も狂わすほどの娼婦にな』
熱い液体が身体の中に注ぎ込まれたと同時に、圧し掛かっていた男の身体は離れた。けれども次の瞬間、廻りを囲んでいた男達が一斉に僕に圧し掛かってきた。
―――それからのことはあまり覚えていない。
ただ代わる代わる男達が楔を身体に突っ込んで、そして何度も熱い液体を注がれて。そして、そして。何時しか僕は真っ暗な部屋の中にいた。

血、赤い血。
ぽたぽたと流れる血。
そして交じり合う白い液体。
漆黒の部屋の中で。
それだけが。それだけが色だった。

多分僕はその部屋に一ヶ月くらい閉じ込められていたのだろう。その間ただ僕は男達に姦わされるだけだった。ひたすら犯され、ありとあらゆる快楽を教え込まれた。
もう抵抗する気力もない。ただ、ただソコに凶器が埋め込まれるだけ。ただ僕は悲鳴のような声を上げるだけ。
でも。でもそれは僕に相応しいのかもしれない。だって僕はいらない命だもの。
生まれてきちゃいけなかった、捨てられた命なんだもの。
だから拾った人がどう使おうが、どうしようが。それくらいしか僕の命には価値がなかったから。


―――誰モ、僕ノ声ヲ…聴カナイ……


戸籍にすら名前の載っていない子供。
狂った女の生んだ子供。
狂った母親に虐待された子供。
自殺癖のある子供。
狂った子供。
学校にも行った事のない子供。
閉鎖病棟に閉じ込められた子供。
男達の欲望の餌食にされた子供。
―――人殺しを覚えさせられた子供。

それが12歳になった僕の持っている全てだった。


あらゆる快楽を教え込まれ、そして僕は何時しか館長の『養子』になっていた。戸籍すらなかった僕に人間の権利を与えたのはこのひとだった。けれども同時に僕の人間の心を奪っていったのもこのひとだった。
拳武館と言う学校に入れられ、そこで教え込まれた事は人を殺す事。館長の手となり足となり生きる事。そして教え込まれたのは、快楽。男に抱かれる事。その身体を差し出して獲物を捕獲し殺す事。
毎日のように館長の欲望の捌け口にされ、拳武館の幹部らの公衆便所にされた。だけど僕には逆らう権利も、抵抗する権利もない。だって僕は『人形』だから。
館長に買われた、人形だから。
―――そう、人形だから………

そう思えば、辛くなかった。
こころがないと思えば傷つく事も。
こころがないと思えば苦しむ事も。
何もないから。
そう、僕は人形。
ただの人形。館長の手足となって動く人形。
ただ、それだけ。
それだけの、存在。

―――誰カ、僕ノ心ノ声ヲ…聴イテ……


『…紅葉…いい名前だね……』
『―――』
『君にとっても似合っているよ』

『いい、名前だね』


本当は気付いて欲しかった。
誰かにこの声を聴いて欲しかった。
僕は生きていると。
僕は生きているんだと。
誰か助けてと。
僕の存在に気付いてと。
傷ついている僕の心に気が付いてと。

―――僕に、気が付いて…と……。


ACT/2


一番綺麗な道を歩む事。それが僕に決められた、人生。

僕にとって人生はひどく、くだらないものだった。
僕は人がうらやむ物を持っていた。人が欲しがる物を当たり前のように与えられていた。
だけど。だけど僕はそれを欲しいとは一度も思わなかった。
生まれてから、ずっと。
―――本当に欲しいものだけが、手に入らなかった。

綺麗な、道。ゴミひとつない綺麗な道。それが僕に与えられた、モノ。

飛水流の末裔。如月家の跡取。それが僕の決められた運命だった。
僕にはそれ以外の選択肢を与えられなかった。
その道を選べば必ず幸せになれると。人がうらやむもの全てを手に入れられるとそう教え込まれた。
でも。でも人が羨む全ての物って、何だ?
権力?地位?金?女?
残念だけど、僕は。僕はそんなモノは何一つ欲しくはなかったんだ。

―――なにひとつ、欲しくはなかったんだ。


「俺はお前がキライだ」
またか、と思った。何時もこうだ。僕は何もしていない。君達には何もしていない。
「そのお綺麗な顔だ何人の女をたぶらかして来たんだ?」
―――女絡みか…そう思うとため息を付かずにはいられない。別に僕が手を出した訳じゃない。向こうが勝手に寄りついてきただけだ。
「大体貴様はむかつくんだよっ!!!何時も何時も涼しげな顔をしやがって。てめー独りがなんの関係もないって顔をして。何時も何時も何時もっ!」
関係ない、そうだよ。僕には何も関係がないんだ。君達の人生は君達のもので僕にはなんの繋がりも関わりもない。大体、自分自身の人生すらどうでもいいと思っているのだから。
そう、全てがどうでもいい。どうなろうとも構わない。
「僕は男女の痴話げんかには興味がないんだ」
今思えば僕はどうしようもない程に残酷な男だったのかもしれない。全ての事に関心がなく、全ての事を一歩下がった場所で見ていた。
全ての事が僕にとってスクリーンを通して見ているような感覚で。何もかもが、どうでもいい事だった。全てが、どうなろうと僕には関係のない事。
―――僕は何の為に、生きているのだろうか?何の為に、存在しているのか?


お前の護るべきモノ、それはこの東京。そして黄龍の器。
四神の血を引きし者。お前の護るべきモノは主であるべき黄龍の器。
そして。そして、この東京。
―――その為の、血だ…翡翠……

護る?出会った事もない人間を。
護る?知りもしない人間を?
それが僕の生まれてきた意味だとしたら。

―――随分とつまらない人生じゃないか。


僕は、僕自身で選びたかった。
自分の生きる道を。自分の生きるべき道を。
そして。
そして自分で選びたかった。
―――僕にとって『護るべき者』を。

『貴方の優しさは、無意識に人を傷つける』
『僕は優しくないよ』
『…それは貴方が気付いていないだけ……』

『貴方は、誰よりも優しい人』


子供の頃、小さな猫を拾ってきた。
腕の中にすっぽりと収まる小さな子猫。
がりがりに痩せて今にも死にそうな子猫。
僕はこの腕の中にある小さな命を消したくなくって必死だった。
生まれて初めて『護りたい』と思ったものだった。
生まれて初めて『失いたくない』と思ったものだった。
―――小さな、子猫。小さな、命。
それを護りたくて僕は、必死だった。
雨の中ずぶ濡れになりながら、医者を捜した。
だけど僕の足は小さくて、僕の手は小さくて。
そして僕はただの無力な子供だった。
何も出来ない小さな子供。
何時しか腕の中の子猫は冷たくなっていて。
そして僕は。
僕は生まれて初めて泣いた。

手のひらから、すりぬけてゆく命。
小さくて、そして暖かい命。
誰のものでもない、ただひとつの。
たったひとつの大切な、命。
僕は、見逃したりはしない。
決して見逃しはしない。
―――全ての人が見逃してしまったものでも、僕はこの手に掬いたいんだ。

それが僕の記憶する限りの最期の涙だった。
僕はその時以来泣いた事はない。
―――いや…泣く理由が何もなかったんだ。
失って哀しいと思うものも、どうしようもなく切ないと思った事も。
僕には何もなくなっていた。
気付いたら僕は何時しか心が凍っていた。
どんな事が起きても全てが他人事のように思えて。
ただ僕の上を滑ってゆくだけで。
何時しか僕はひどく、感情が欠乏している子供になっていた。


『貴方の笑顔が、好き。優しい笑顔が』
『………』
『―――貴方の優しさが、好きです……』

『誰もが気付かない物に気付く、そんな貴方の優しさが好きです』


全てを、壊したかった。

僕の持っているもの全てを壊したかった。
与えられたもの全てをなくしたかった。
いらない。いらない、僕には欲しくない。
見掛けだけでよってくる女達も。
金目当てで優しくしてくる大人達も。
皆が羨むモノ全てが、僕にとっては不必要なものでしかなかった。
煩わしいものでしか、なかった。

偽りの幸せ全てを壊して、真実の不幸を手に入れたかった。


「―――翡翠…彼女がお前の未来の妻だ」
与えられた運命。決められた運命。幸せを約束されている運命。
「飛水流の未来に相応しい血を持つ最高の嫁じゃ」
従えば成功は約束されている。受け入れれば綺麗な道を歩める。太陽の、光の中の。綺麗な、綺麗な運命を。
「これで如月家は安泰じゃ」
―――綺麗な、未来を………
「…らない……」
「翡翠?」
「僕はそんなモノを欲しくない」
「翡翠っ?!」
「僕の運命は―――」

「僕だけのものだっ!」

初めて、祖父に逆らった。絶対的な祖父から、僕は。僕は逆らった。
僕は、僕であって誰のものでもない。
僕は飛水流の末裔でも、如月家の跡取でもない。
僕は、ただの。ただの『如月翡翠』だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
それ以外の何者でもない。僕が持っているものは僕自身だけなんだ。
―――僕だけ、なんだ。

「さよなら、おじい様」
「…翡翠?…」
信じられない顔をしている。そうだろう、あれだけ順応だった僕が反抗したのだから。
「待てっ翡翠っ!!」
祖父の声を背に僕はひとつ笑った。多分僕は今何よりも幸福な顔をしているだろう。きっと鏡を見た自分自身が驚く程に。
「さよなら、貴方の操り人形だった僕」
「―――翡翠………」
笑ってあげるよ。僕の笑顔が見たい為だけに何人もの女が寄って来た。けれどもそんな女達に僕は本当に笑っ事はなかった。口許だけで笑って、心で見放していたんだ。
「さようなら」
―――だから、最期に。最期にとびきりの笑顔を見せてあげるよ……。


僕の背中の羽根は、欠けている。
皆が羨ましがり、羨望の中にある僕の羽根は。
ぽっかりと穴が空いている。
それは次第に大きくなって、何時しか。
―――何時しか僕はあの蒼い空を飛べなくなっていた……。

空を、飛びたい。
蒼い空を。
誰も邪魔をしない、誰も傷つけない。
何もないただ蒼いだけの空。
全てを捨てて、全てを置いて。
この空を、飛びたい。


何時しか、空から大粒の雨が落ちていた。ぽたぽたと、髪に、肩に、雨は落ちてゆく。
如月はその雨に濡れた髪をうっとおしそうに掻きあげた。
―――傘を、持ってこればよかったかもな……
口許に浮かぶのは自重の笑み。けれども今更引き返そうとは思わなかった。誰に何を言われようと、自分は今自分の意思で歩いている。
―――にゃあ……
如月の耳にひとつ、小さな声が聴こえてくる。それは今にも死にそうな細い声で。そして。そして、それでも生きようとする、生きたいという生命の鼓動の感じられる声。
―――にゃあっ…にゃあ……
生きたいと、叫んでいる、声。
引寄せられるように如月はその泣き声の方へと向かっていた……。


神様、教えてください。
僕は何の為に生きているのですか?
どうして僕はこの世に生まれてきたのですか?
いらない命なら初めから。
初めから、捨てて欲しかった。

いらない命なんてこの世にあるものか。
生まれて来たからには生きる権利がある。幸せになる権利がある。
どんな理由であろうとも、生まれてきた事を否定しないでくれ。
この世にたったひとつ君だけの命。
他の誰も変わりになれない君だけの命。
君が、生まれてきたことの意味。

この世に生まれてきてはいけない子供なんて、何処にもいないんだ。


雨が、全てを隠してゆく。この景色を、この地上を。全てを、隠してゆく。
「―――独り、なんだね……」
穢れた地上を、こわれた社会を。砂上の楽園を。世界の全てを。
「僕も独りなんだ」
―――ふたり以外全てを、隠した。

髪の隙間、から。
睫毛の先、から。
零れ落ちる雫は。
零れてゆく、その雫は。

―――君の涙を、隠していたね。


そこにいたのは、小さな黒い猫。小さな、小さな、猫。あの時と同じ、死にそうな猫。小さな、小さな命。そして。
そして、その猫の瞳よりも哀しい瞳が、僕を見上げた。
雨に濡れて。全身雨に流されて。小さな子猫を抱きながら。哀しい瞳が僕を、見上げる。

引寄せられるように。
たぐい寄せるように。
細くて今にも切れそうな運命の糸。
ふたりを結ぶ絹の糸。
複雑に絡み合って、今にも千切れそうで。
でも。でも、その糸は。
―――決して千切れることは、ない。

雨は降り続ける。
全ての罪と罰を隠すように。
全ての贖いを浄化するように。
そして。
そして君の瞳から零れ落ちる涙を。

――――涙を、隠す為に………


ACT/3


たとえば、今僕が死んだなら。
貴方は少しでも哀しんでくれますか?
僕が死んだら、哀しんでくれる人はいますか?
貴方は、僕の為に。
僕の為に、泣いてくれますか?

言葉で全てが伝わるのならば、僕らはこんなにも傷つけあわなかった。


降り続ける、雨。全てを隠す、雨。
過去も未来も、現実も空虚も。全てを隠して、ただ。
ただ命あるものだけがここに、在る。
―――泣いているの?
そう声にしようとして、僕は止めた。何故かその言葉を今告げてはいけないような気がして。だから。だから僕は何も言わなかった。
ただそっと彼に近づいて、そして。そして腕の中に抱いている子猫をそっと撫でてやる。
「…猫……」
初めて。初めて彼は言葉を零した。その声は闇に溶けるように、切なくて。見上げてくる瞳の先に映るその闇とそして。そして言葉に出来ない哀しさが、ひどく僕を捕らえた。
「…好きなんですか?……」
「好きだよ、動物は人間ほど嘘吐きじゃない」
もう一度その子猫の頭を撫でた。でも本当は今僕は何故か子猫よりも君の頭を撫でたいと思った。目の前の猫よりも、壊れそうな君を。
「それよりも大分弱っている…病院に連れて行った方がいい」
か弱い声で鳴く、猫。それでもその声からは伝わる―――生きたい、と。
「…でも……」
君はもう一度、僕を見つめた。初めて。初めて、瞳が重なったような気がした。闇よりも深くて、そして哀しい程に綺麗な瞳が。
「でも、生きていてもこれから先…辛いだけかもしれない」
「―――」
「きっとこの猫も生まれてきてはいけない命だったんですよ―――っ!」
驚愕に、見開かれた瞳。そうだろう、見も知らない男からいきなり頬を叩かれたならば。でも。でも、僕はそんなセリフを聴きたくはない。君の口から、聴きたくはない。
「この世に、生まれてはいけない命なんてあるものか」
「………」
「どんな理由であろうとも生まれたからには生きる権利がある。その猫だって、こうやって生まれてきたんだ。どんな理由だろうと今。今ここに小さな命は存在するんだ。生きていても辛いなんて…そんな事は君の判断する事じゃない。君が、決める事じゃない」
「…だけど、この子は誰も気付いていない。誰にも気付かれず…これから先こんな小さな命で独りで生きて行く…それだったなら…それだったならば…」
「―――君が、気付いたじゃないか……」
その言葉に彼ははっとしたように顔を上げる。そして。そして僕を見つめた。その瞳は。その瞳は、ひどく子供のようで。そしてひどく傷ついているように見えた。
「君が見つけたじゃないか。こうやって生きたいと必死で泣いている声に、君が気付いたじゃないか」
「……」
「君が、その声を聴いたんだろう?」
生きたいと。生きたいと小さな声で、それでも必死で叫んでいる声。その声に気付いたのは君だろう?気付いて放っておかなかったのは、君の優しさじゃないのか?

叩かれた頬がひどく、熱かった。
だけど。だけど、どうして?
ひどく、泣きたくなったのは?

―――にゃあ…
腕の中の猫が鳴く。気が付いた。僕だけが、気が付いた。ずぶ濡れの雨の中で、今にも死にそうな声で。それでも鳴いた猫の声を。
―――同じだねと、思ったから。
同じだねって、思ったから。生まれてきてはいけない命。生きる意味もない命。それでも生きたいと願っている命。誰かに気付いて必死で鳴いている姿が。その姿が僕に…重なったから。だから僕は。
「……僕は……」
―――僕は……その先の言葉が続かない。僕は、何が言いいたのか。この目の前の人に何を、言いいたいのか。何を、伝えたいのか。
言葉にしようとして、でも言葉にならなくて。ただ僕は貴方のその綺麗な瞳を見つめた。綺麗な、瞳。僕はこんな綺麗な瞳を生まれて初めて見た。
真っ直ぐで、強くて揺るぎ無い瞳。そこには欲望も惰性も何もない。ただ綺麗で。綺麗、過ぎて。
僕の周りにこんな瞳をした人は何処にもいなかった。僕の廻りには欲望にまみれた、ただ僕を支配して残酷に笑う瞳しか。僕を犯して欲望を満たした瞳しか。
―――だから。だから僕は、知らない。こんな瞳を、知らない。
「―――そう言えば…君も……」
僕と同じように、貴方の唇が止まった。その先を告げるのを、躊躇うように。でも何故かそれは貴方には相応しくないように思った。貴方には戸惑ったり躊躇ったりするのは似合わない気がするから。
「…君も…泣いていたね……」

―――気が付いて、と。
僕は生きたいんだと。僕に気が付いてと。
声なき、声で、君は。

そっと手が伸びて、貴方はひとつ僕の頭を撫でた。その暖かさが、その大きな手が。僕は、僕はひどく苦しくなって。
暖かい、手。大きな、手。一度だけ頭を撫でてくれた手。
けれども次の瞬間、あの大きな手は僕に襲いかかった。服を引き裂いて、そして。そして僕に圧し掛かって。凶器を僕の身体に埋め込んで…。
「行こう」
けれども今僕に与えられた手は、僕を傷つけはしなかった。そっと頭を撫でた手はゆっくりと頬に触れる。雨のせいで冷え切った頬は。けれども貴方の手には暖かく感じたでしょうね。だって僕は雨に涙を隠していたのだから。
貴方の手はそれに気付いていたのか、僕の涙を手のひらで拭った。そしてそっと僕の腕から子猫を取り上げて。取り上げて僕の手を、引く。
「このままだと君も風邪を引いてしまう。取りあえず病院へ」
貴方だって雨でびしょ濡れなのに。それなのに僕のことを先に、心配してくれるんですね。


もしもあの時貴方と出逢わなかったならば。
僕はどうなっていたのかな?
どうなっていたのかすら考えられないほどに。
貴方の存在で、僕は。
―――僕は、埋められてゆく。

今までの僕が、思い出せない程に……。


「肺炎を起こし掛けてますが…何とかなるでしょう」
獣医の言葉にほっとしたように一息ついて、貴方はソファーに座った。こうして光の下で改めて見つめると、怖い程に綺麗な顔がひどく僕の瞳に焼きついた。綺麗な、ひと。今まで僕が見てきた中でどんな物よりも綺麗な人。僕とは別世界で生きているような。そんな。そんな、ひと。
「君は大丈夫なのか?」
渡されたタオルで髪を拭きながら、貴方は僕に尋ねてきた。自分の方こそずぶ濡れなのに、僕や子猫の心配ばかりしている。
「貴方こそ、大丈夫ですか?」
「平気だよ水は僕を傷つける事は出来ない」
「…変な事…言うんですね……」
「ふ、そうだね。確かに変な事を言っている」
「…あ……」
自ら拭いていた筈のタオルを僕の頭に掛けて、そのまま雫を拭き取ってくれた。布越しに感じる手の暖かさがひどく。ひどく優しく感じられて。僕は…。
「君が風邪を引いたら大変だ」
こんな風に僕に何かをしてくれる人は必ず見返りを求める。何かをしてくれる人は、必ず。
僕に住む場所を、生きる場所を与えてくれた人は。今でも僕の身体を求め続ける。僕を産んでくれた人は、僕を傷つける事でしか生きられなかった。
―――貴方は僕に、何を望むのですか?何を、欲しがるのですか?
「これで大丈夫だ。ここは暖かいからきっとすぐに乾くよ」
タオルを髪から離してそして貴方は微笑う。柔らかい、笑顔。全てを包み込んでくれるようなそんな笑顔。僕は。僕はこんな笑顔を、知らない。
「…あ、あの…」
「ん?」

「…ありがとう…ございます……」


僕は、微笑っていた。
自分でも驚く程に。
君の言葉を聴いて。君を見つめていて。
僕は、微笑っていた。
それは無意識に口許に浮かんできて。
こんな風に優しい気持ちで笑えたのは。
『人間』に対して笑えたのは。
一体、どれだけ前の事だったのだろうか?

――僕自身が忘れてしまう程、昔だったかもしれない……。


「お礼なんていいよ。それよりもあの子猫をどうするか…」
見返りを僕から求めなかったひと。僕の身体を求めなかったひと。
母親のように僕の頬を叩いたのに、僕を傷つけなかったひと。
館長のように僕の頭を撫でたのに、僕の身体を犯さなかったひと。
―――僕に、無償で優しくしてくれたひと……
「僕の家に連れてゆくか…」
「え?」
「何故そんなに驚くの?」
「…だって…助けたら…それきりだって…思ってたから…」
「酷いな。君には僕がそんなに無責任な男に見えるのかい?」
「い、いえそんな事ありません…ただ…」
「―――ただ?」
「…そこまで見ず知らずの貴方がする事にビックリして……」
「別に普通だろう?捨てられて死にそうな猫がいた。その猫が助けを求めて鳴いていた。だからこうやって助けた。別に、普通じゃないか」
「…でも…猫は貴方に何もしない…何もしてくれないのに、助けるのですか?」
「そんな事、関係ないだろう?何かをして欲しくて助けるなんてそれはただの偽善じゃないか。助けるのに理由なんていらない。ただ助けたいという気持ちだけだよ」
「―――」
「君だってそうだろう?猫を放っておけなかったんだろう?」
―――優しい、ひと。小さな命を放っておけないひと。小さな叫びを見逃さないひと。捨てられた命を、見捨てないひと。その優しさは。その優しさは、誰にでも向けられるものなのですか?貴方は誰にでも、こんなに優しいのですか?
「…放っておけなかったのは…僕に似ていたから…それだけです…」
―――誰にでも、優しいのですか?

腕の中で消えていった、小さな命。
腕の中で冷たくなった子猫。
初めて泣いた日。最後に泣いた日。
僕はもう二度とあんな想いをしたくはない。
ただそれだけだった。でも君は。

―――君はあの時の猫に、似ている……

「似ている?そうだね…似ているかもしれないね」
淋しげな瞳。哀しげな瞳。全てを拒絶していてけれどもその先に見え隠れする、生きたいと願う瞳。
「でも、君はあの猫とは違う」
―――生きたいと、願う瞳。
「君には『言葉』がある。君は思いを言葉にして伝える事が出来るだろう?」
小さな、叫び。声にならない、叫び。でも君には言葉がある。ならばその口で。その声で、思いを伝えることが出来るだろう?今君が思っている事を、その唇に乗せる事が。
「僕は…」
「言葉にして、伝えればいいんだよ。言いたい事は我慢しなくていいんだよ」

「君の言葉で、君の声で伝えればいいんだよ」


声に、して。言葉に、して。
もしも伝える事が出来たならば。
声に出して言う事が出来たならば。
僕の運命は。
僕の運命は少しは変わって、いたのかな?
でも、ね。
でも今僕が自分の思いを口にしたら。
口にしたらもう…僕は壊れてしまう。
壊れて、しまうの。
人形だって言い聞かせて来た事全てを、口にしてしまったならば。

―――僕はその存在すら、崩壊させてしまう……。


「ふ、何を言っているんだろうね。僕は君を何も知らないのに勝手な事を言っている」
「…いいえ……」
「君には君の事情があるのかもしれないのに、僕の勝手な理想論ばかり述べている」
「そんな事ありません。貴方の言葉は僕に届きました」

「僕のこころに、届きました」

凍っていた心に。閉ざされていた心に。
なくなった筈の、閉じ込めた筈の心に。
貴方の声は、届いたから。
―――届いた、から…

「…そう言えば名前…聞いていなかったね…僕は如月翡翠。君は?」
「……壬生 紅葉です……」
「紅葉変わった名前だね。どう言う字を書くんだい?」
「もみじって、書きます」
「…紅葉…いい名前だね……」
「―――」
「君にとっても似合っているよ」

「いい、名前だね」

僕は今までこの名前が嫌いだった。
あのひとの付けた名前が。紅い色を意味するこの名前が。でも。
でも、今。

―――僕はこの名前が好きに、なった。


ACT/4


―――声に出して、伝える事。
言葉にして、告げる事。
それがどんなに大切な事か。
貴方に逢うまで、気付かなかった。

言葉にして初めて、初めて貴方の場所に辿り着いた。


―――何時しか雨は、上がっていた。
「子猫は、もう引き取れますか?」
「うーん取りあえず一日は安静としてうちで預かっておくよ。それでいいかい?」
獣医の言葉に如月はこくりと頷いた。その姿勢がひどく綺麗で、彼の育ちのよさを伺わせた。何処へ出ても、恥じないようにと。如月家の跡取として。それが。それが、如月が歩んできた道。
「じゃあ明日もう一度伺わせていただきます」
もう一度頭を下げて、如月は病院を後にする。その後ろを少しだけ戸惑いながら、壬生は付いて行った。真っ直ぐなその背中を見つめながら。
―――自分とは、違う……
何時も俯いて生きてきた自分とは違う。彼は真っ直ぐに前だけを見ている。真っ直ぐ前だけを見据えて、そして。そして反らされることのない視線。全てが自分とは対照的だった。
俯き闇の中だけに生きてきた自分。けれども彼の廻りには眩しい程の光で溢れている。
「――紅葉」
不意にその名を呼ばれ、壬生の肩がぴくりと震えた。けれども如月は構わずに彼を真っ直ぐに見つめて、そして。そしてそっとひとつ、微笑う。
「と呼んでもいいかい?」
「…あ、はい……」
名前を呼ばれるのは、初めてだった。母親は自分に名前すら付けてくれなかった。そしてあの人は名前すら呼ばない…だって自分は『所有物』だから。
「よかった。嫌がられるかと思った」
「どうしてですか?」
「君は自分のテリトリーに他人が入るのを嫌がる人間だと思ったから…僕もそうだけど」
「如月さんは、他人が嫌いなのですか?」
「―――いや、違う。興味がないだけだ。僕の廻りには欲と金目当ての人間しかいなかったから。僕はそんな輩に興味すら持てなかった」
―――それなら僕も同じです…そう言いたくて、壬生は止めた。自分がどんな人間でそしてどんな風に生きてきたかなんて、今目の前のこの人には関係ないのだから。
…関係、ない…。でも、そう思うと何故かひどく胸が痛む。
「何時しか人間不信になっていたのかも、しれないね」
そう言って自重気味に笑う、この人は。それでも。それでもきっと真の闇を知らない。それでもやはり光だけの道を生きている。
「紅葉」
「あ、はい」
「やっぱりいい名前だ。こうして声にするのが心地いい」
柔らかく微笑いながら、如月は言った。それは彼自身も気付いていない、誰にも見せたことのない笑み。―――人間に対して、見せたことのない笑顔。
「…如月さん……」
「なんだい?」
「明日もここに来ますか?」
「ああ、猫を迎えに行かなければいけない」
「だったらあの……」
戸惑いながら言いかけて、その先を止めてしまった壬生に、如月はそっと微笑う。
―――そうか、と思った。そうなんだと。君はひどく気持ちを言葉に出すのが苦手なんだと。
だからこうして間が空く。言葉を選ぼうとしているから、言葉を考えているから。思った事をそのまま伝える事が出来ないのは、そうした環境で育ったせいなのか?
「君も来るかい?」
ならば先に僕が言おう。君が戸惑ってしまう言葉を、僕が先に。
「いいのですか?」
「だって君が見つけた猫だ。君に逢いたがっているよ、きっと」
「そうだったらいいですね」
壬生はそっとひとつ微笑う。でもそれはぎこちなかった。口許を一生懸命に意識して笑おうとしているのが、如月には手に取るように分かったから。
「逢いたいと思っているよ」
笑い方を知らない可愛そうな子供。誰もが持っている筈の当たり前のことを知らない君。君がどんな経緯でこうなってしまったのかは知らない。だけれども。だけれどもひどく胸が、痛んだ。
「それに、名前を決めないと。どんな名前がいい?」
「え?僕が決めるんですか?」
「君が拾ったんだ。君に決めてもらいたい」
「…で、でも……」
「思いつかないのかい?」
「―――はい」
「じゃあ」
くすっと、如月はひとつ笑った。それは先ほど見せてくれた優しい笑みとはちょっと違ったけれども。それでも、壬生の心にひどく刻まれる。
「紅葉のくを取って『クー』にしよう」
「えっ?!」
その言葉に壬生の瞳が驚愕に見開かれる。その顔を見て如月はまた、微笑った。それはさっき見せてくれた優しい笑顔だった。
「君もそんな顔が出来るんだね」
「…え?…」
「安心したよ。君と出会ってからまだ数時間だけど…君は表情ひとつ変えずに、ただ。ただ哀しそうな顔をしていたから。もしかして僕といるのが迷惑なのかと思っていた」
「そ、そんな事ありません……」
迷惑だったならばその場で去っている。何時ものように誰にも踏み込まれないように心の結界を張って、そして。そして何時ものように、全てを遮断して。
なのに。なのに、どうして?どうして貴方にはこんなにも。こんなにも僕は、近づこうとしているの?
―――近づいてはいけないと、僕の心は言っている。自分は闇に生きるモノだ、世界が違いすぎると。穢れ過ぎている自分には、あまりにも遠い人だと。
―――近づきたいと、僕の心は言っている。初めて無償の優しさを与えてくれたこの人に。初めて僕を『人』として扱ってくれるこの人に。初めて僕に、優しくしてくれたひとに。
「よかった、紅葉」
眩しい、ひと。僕には眩し過ぎるひと。世界があまりにも違いすぎる人。もしも近づいたとしてもきっと。きっと、傷つくのは僕だけ。僕の闇の手が、貴方の光に溶かされるだけ。
それでも。それでも、近づきたいとそう思うのは。
おかしいですね、僕の心はとっくになくなっている筈なのに。僕はただの『人形』なのに。それなのにこうして考えてしまうのは。
…貴方のことを、考えてしまうのは……
「じゃあ紅葉、また明日」
そう言って差し出された如月の手を、壬生は戸惑いながらも握り返した。大きな手、優しい手。自分とは明らかに違う、手。綺麗な、手。血に塗れていない、手。
「―――はい、如月さん…」
この手をずっと。ずっと握っていたいと思った。


貴方が僕の名前を呼ぶだけで。
それだけで、僕は。
どうしようもない程に胸が震える。
おかしいですね。
僕のこころは何処にもなくなった筈なのに。
こころに鍵を掛けた筈なのに。
貴方に名前を呼ばれるだけで。

―――こんなにもこころが、満たされてゆく……


何時も通りの事なのに何故か今日は胸が痛んだ。
何時も通り人を殺して、そして何時も通りこの人に犯される。
それが日常、僕の日常。
それなのにどうして。どうしてこんなにも苦しいの?
身体の中に精液が注がれる。それも何時もの事。
何度も何度も、抉られて。そして汚される。それも何時もの事。
―――でも、でも。
貴方の事を考えると胸が苦しい。
貴方の事を考えるとどうしようもない程に。
頭を空っぽにして。言われるままに身体を差し出して。
そして、そして許されるまで精液を注がれて。
何時も通りなのに。それなのに。
こうして喘いでいる唇が貴方の名前を呼んでしまわないかと。
快楽に溺れさせられながらも、貴方の事を考えてしまわないかと。
今、貴方の事を考えていたくない。
こんな汚されている瞬間に、貴方の事を。
それでも、それでも。
目を閉じれば浮かんでくるのは貴方の優しい笑顔。
そして貴方の優しい声。
今僕は。僕は初めて。

―――死にたいと、そう思った。


不思議ですね。
これだけの目に合っていながら。
僕の中に『死』という選択肢はなかった。
だって僕は『生きて』いないから。
ただこの場所に存在しているだけ。
ただこの場所で息をしているだけ。
自分の意思で何も考えていない。
自分の意思で何一つ動いてはいない。
だから『死』と言う選択肢は僕にはなかった。
でも。でも、今。
僕は初めて死にたいとそう思った。

―――そうしたら、貴方は少しでも哀しんでくれるでしょうか?


何時しか僕はあの猫のことを思い出していた。
幼い頃、自分が護れなかった猫の事を。
死なせてしまった小さな命を。無力だった子供の自分を。
―――紅葉……
君を見ていると何故かあの時の猫を思い出す。
小さくて痩せてて、そして。そして今にも死にそうで。
それでも生きようと懸命に鳴いた猫。
護りたかった大切な命。護れなかった小さな命。
―――初めて、泣いたあの日。
君があの時の猫と重なる。
小さくて、そして鳴いていたあの猫と。
君が、重なる。
君はどうして泣いていたの?
あの雨の中で、涙を隠していたの?
君には泣く場所が何処にもないのか?
君には泣ける場所が何処にもないのか?
それならば。
それならば僕が君の泣く場所を与えてやりたい。

……与えて?……

何故そんな事を思うのか。
出会ったばかりの相手に。何も知らない相手に。
何故、そこまで自分は思ったのか。
大体自分は今まで全ての人間を切り捨ててきたのではなかったのか?
近寄ってくる人間全てを、必要以上に踏み込ませないように。
煩わしくないように。なのに。
なのに彼だけは、受け入れようとしている?
それも自ら近づこうとしているのか?

「――僕は……」

今まで他人に関心を持った事などなかった。
全ての事は所詮『他人』の事で。自分とはなんの関係もなかった。
自分にとって他人は所詮他人でしかなかった。
なのに。
なのに何故、こんなにも君を気にしている?

「…君の…笑った顔が見たい……」

雨の中独り泣いていた君の。
思いを言葉に出来ない君の。
何処か怯えている君の。
笑い方を知らない君の。
ぎこちなく笑顔を作ろうとする君の。

―――君の本当の笑顔が見たい。

そうだ、僕は。
僕は君の笑った顔がみたいんだ。
作り笑いじゃなく。
ムリな笑顔じゃなく。
本当の。本当の笑顔が。
淋しそうな君の。
悲しげな瞳を。

笑わせて、あげたいんだ。


「ハハ、これじゃあまるで恋する男みたいじゃないか」

言葉にしたら尚更可笑しかった。
恋?そんなモノ僕に存在するのか?
近寄ってくる女はただの欲望の捌け口でしかなかった。
好きだなんて言葉一度も告げた事がない。
向こうが勝手に寄って来るから、退屈凌ぎで相手にしただけだ。
なのに、今更僕は何を言っているのか?
一度しか逢った事のない相手に。それも同性に対して何を考えているのか。
でも。でもそれ以上に上手く説明の出来る言葉が見つからない。

「恋か…それもいいかもな。如月家の跡取が、飛水流の末裔が男に恋したと知ったら…僕に近づこうとするブタどもはどう思うだろうか?」

そんな事を考えると、無償に可笑しかった。


紅葉。
君を、僕は。
僕はそんな醜い輩に巻き込みたくない。
君だけは、僕にとって。
僕にとっての別世界だから。
欲と金と権力に塗れたブタどもとは、君は違う。
君だけが僕にとっての、真実の場所。

―――君だけが、唯一の穢れなき場所。

End

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