Femme Fatal ・10


ACT/37


ふたりで、遠くまで逃げようか?
このまま誰にも届かない場所まで。
ふたりで、逃げようか?
けれども分かっている。
それ夢でしかないと。夢でしかありえないと。
―――分かっている、から。

それでもこうして指を絡めて。僕らは夜の中へと溶けてゆく。


窓から飛び立つ白い羽根。一枚の、羽根。僕はその軌道を何時しか目で追い掛けていた。
「―――」
夢を、見ていた。長い長い夢を。君の夢だ。あれは君の、夢。君が今まで生きていた、その全てが僕の視界に映される。
―――君が今まで生きてきた、その全てを……。
「…くれ…は?……」
自分が今何処にいて、どんな状況である事よりも。そんな事よりも大切な事がある。それは君が今どうしているのかと言う事。君は今、どうなっているのかと言う事。
「紅葉?」
その名をもう一度口にした時、ノックと同時に扉が開いた。


目が醒めた瞬間、そこは真っ白な部屋だった。
「目が醒めたかい?マリィ」
知らない人だった。マリィの知らない人。この人は誰?ジル様とも『館長』とも違うこの人は誰?
「貴方誰?マリィ、知ラナイ」
マリィは確かジル様に…ジル様にこれから学院に帰って来るまでは『館長』の言う事を聞けと言われた。それだけを、言われた。でもその命令をする『館長』はいないし…ジル様もいない。マリィは…マリィはどうすればいいの?
「――分からないかい?さっき挨拶をしたのだけれども…私は鳴滝冬吾…新しい拳武館の館長だよ」
「…館長?……」
「そうだ。だから君はローゼンクロイツに戻るまでは…私の言う事を聞くんだよ」
「前ノ…マリィヲ命令シテイタ『館長』ハ?…」
「殺したよ、君の同族が…玄武の彼がね」
「…玄武……」
その言葉に記憶が蘇る。『館長』の命令で、マリィは誰かを殺そうとしていた。腕の中にいた人を。この炎で殺そうとして……
「壬生紅葉を護る為に」
―――その前に雨が、降った。一面の雨が降った。そうしてマリィの、腕の中の人間はそこから脱け出して。脱け出して?

『…如月…さんっ……』

必死で、手を伸ばした。
何かを掴もうとするように。
何かを求めるように。
その手は。その手は…。


「…思イ出シタ…貴方マリィヲ…皆ヲ…助ケタ…」
「思い出してくれたかい?」
「雨ノ中ヲ…火ノ中ヲ…皆ヲ…」
「このまま死なせるわけにはいかなかったからね」
「ドウシテ?」
「それは、君達が」

「君達が運命に選ばれたからだよ」


黄龍の器の守護神として。
もう一人の黄龍の器として。
運命がそう、選んだ。
君達を選んだんだ。
この東京を守護する者達として。

―――君達は運命に選ばれた。


「…マリィ…夢…見タ…」
「ん?」
「覚エテナイ…デモ優シイ夢…優シイ夢ダッタ…」
「そうかい…君にとって…」

「あの二人は、優しかったんだね」


二人の夢の中に入った、君は。
君はひどく優しいものを見たんだね。
二人の中でひどく。
ひどく優しい夢を。


「マリィ、これが私からの最後の命令だ」
「ハイ」
「この隣の部屋に眠る玄武の彼の所へ行って伝えてくれ」
「…ハイ…」
「―――タイムリミットは、壬生の薬が切れるまでだと。伝えられるかい?」
「分カリマシタ…館長……」

「…分カリ…マシタ……」


もうひとつの方法。
それは君が狂う事だと言った。
薬が切れて、廃人になる事だと。
―――けれども。
けれども決して彼はそんな事を許しはしないだろう。
そんな事を彼が出来る筈がない。
自分を捨ててまでも壬生紅葉と言う存在を護ろうとしている彼に。
ならば彼はどうするのか。
ふたりで逃げれば壬生の破滅しかない。
拳武館へ壬生を戻せば、また暗殺者の道へと逆戻りだ。
どれにしても。どの選択肢を選んでも。

―――ふたりでしあわせになる道は、ない……

それでも君達は模索するだろう。
それでも君達は諦めないだろう。
ここまで来てしまったふたりに。
ふたり以外のものになるのは無理だと分かったから。
ならば、どうする?
私は非常に興味がある。彼がどんな結論を出すのか。

―――飛水流の末裔ではない、如月翡翠の結論を出すのが。


「…玄武……」
扉を開けて入ってきた少女に僕ははっきりと確信をした。太古から受け継がれるこの血を持つ者。同じ四神の血を持つ者。
「――君は朱雀か」
あの時、君に初めて出逢った時のひどく近くに感じた想い。血の、惹き合う想い。それの正体が『コレ』だった。そして。そして君は僕の夢の中に現われた。
「…玄武…伝言……」
小さな、女の子として。君は。君は紅葉と同じ孤独な魂を持つ者として。僕の夢の、中に。
「玄武じゃないよ、マリィ。僕は翡翠」
「…エ?……」
「翡翠、だよ。マリィ」
孤独な魂。孤独なこころ。君は紅葉と同じだ。同じように苦しんでそして愛を捜している。
「…ヒ…スイ?……」
「そうだよ、マリィ」
「…ヒスイ…翡翠……」
「うん、そうだよ」
繰り返し僕の名前を呼ぶ君は、夢の記憶などないだろう。そもそもあれは僕が勝手に作り出したものなのかもしれない。それでも。それでもの時の君は、今確かに僕の目の前にいる。こうやって僕の目の前に、いる。
「…翡翠…アノネ…伝言ガアルノ……」
「伝言?」
「ソウ…館長カラノ…伝言……」

「タイムリミットハ、壬生ノ薬ガ切レルマデ」


君が見せた右手首の跡。
新たに付けられた注射針の跡。
『…駄目になったら…貴方が僕を…殺してください……』
君に打たれた薬は、君の人格をも破壊するものなのか。
だとしたら。だとしたら、僕は。
―――だとしたら?

バカだな、何も変わらないじゃないか。
どんなになろうとも。どんなになっても。
僕が君を好きだと言う事実は変わらないのだから。
君を愛していると言うその事実は揺るぎようがないのだから。
どうなろうとも。例えどんな事になろうとも。
僕が。僕が君を愛していると言う事だけは。


「…マリィ、館長に伝えてくれるかい?」
「…翡翠?…」
「僕はどんな事になろうとも」

「紅葉のそばにいる、と」


もしも拳武館が君を連れ戻そうとするならば。
僕は僕の全てを持って戦う。
どんな事になろうとも、君が。
君がもう人を殺したくないと思っている限り。

あの場所に紅葉を二度と、戻しはしない。


「分カッタ…翡翠…デモ後ヒトツ…」
「うん?」
「…紅葉…隣ノ部屋…翡翠…待ッテル……」
「マリィ?」
「…マリィニハ…分カル…待ッテイル…翡翠ヲ……」

何でそんな事を翡翠に言ったのか、マリィには分からない。
けれども、何故か。
何故かマリィのこころの中に。
こころの中に、聴こえた。

―――紅葉ノ声ガ……


「ありがとう、マリィ」
「ウウン、イイノ。早ク…行ッテ…アゲテ…」
「―――ありがとう……」
「ウン…翡翠…」

「…翡翠モ…アリガトウ……」

何に対してありがとうなのか。
何に対してそう言ったのか。
マリィには、分からなかった。分からなかったけれど。
どうしてかひどく、泣きたくなった。


――――それは零れ落ちた夢の、破片。


ACT/38


多分初めから分かっていた事だった。
何が一番大事で。自分にとって何が一番大切か。
それを分かっていれば。
それさえ気付いていれば。
自分が進むべき道などいとも簡単に決まるものだから。
自分自身一番大切なものが何か。
それが分かってさえいれば。


―――逃げようか、ふたりで。
誰にも邪魔されない場所へ。
ふたりだけで、逃げようか?

けれどもきっと君は首を縦には振らないだろう。
分かっている、きっと君も同じだから。
僕が君を大切だと思う気持ちと同じだけ。
同じだけ君も僕を大切だと思ってくれているから。

多分僕らは同じ答えを導き出せないだろう。


ただ君が、この世に生きてさえいれば。
「…………」
何かを言葉にしようとして、そして君の唇は止まった。ただその漆黒の瞳が一途に僕を見つめてくれる。その哀しい程綺麗な瞳が、僕にはどうしようもない程愛しい。
「――紅葉……」
先に、僕から名前を呼んだ。口から零れるその言葉の重さに、思いがけずに戸惑うほどに。
―――戸惑う…君の名前を口にするだけで広がるこの胸の痛みに。
「…如月…さん……」
やっぱり君は。君は僕の思ったとおり、少しだけ戸惑いながらそれでも僕の名を呼んでくれる。思った通り、一寸の狂いもなく。
そんな君が。君が僕にとってどんなに大切で、どんなに愛しいか。どんなに、愛しているか。
「…如月さん……」
君の手が伸ばされる。その手は包帯でぐるぐるに巻かれている。多分その下には火傷がまだ残っているのだろう。それでも。それでも僕は君に、触れたい。
「…紅葉……」
伸びてきた手を自らの手で包み込むと、起き上がった上半身を抱きしめた。暖かい、身体。命在る、身体。生きている、身体。
――――よかった…君が、生きていて……
君がこうして息をしている。君がこうして言葉を話している。君がこうして僕を見つめてくれている。それだけで。それだけで、嬉しい。
君がこの地上にこうして存在してくれる事が僕にとって何よりも嬉しいから。
「…君の、髪……」
背中に廻した指先を君の髪へと移動させそっと触れる。柔らかくて細い君の、髪。
「君の、頬。君の、唇」
髪から頬に指を移す。ややこけた頬は、また君を一段と儚く見せて切なかった。どうしたら君は。君のおぼろげなその輪郭を、現実に嵌め込む事が出来るの?
「――唇が、かさかさになってる……」
「薬のせいだと思います…それに点滴ばかりでご飯…食べてなかったし……」
「食べられない状態なのかい?」
「…いいえ…多分食べられると思います…でも……」
「でも?」
「…貴方の顔を見るまでは…物を食べるという行為が…出来なかった……」

「……貴方がこうして生きているのを…僕の目で確認するまでは………」


―――物を食べると言う行為を、教えてくれたのは貴方。
ただ口に無理やりつめ込むのではなく。
食べ物は美味しいものだと。
誰かと食べるご飯は美味しいものだと。
そう教えてくれたのは、貴方。
そう思ったら物を出されても食べたいと思わなかった。
幾ら口に運んでも吐いてしまった。
貴方がいないと言う事実が。
貴方がここにいないと言う事実が。
それが僕の全身を支配して。
―――そして。
そして何時しか僕の身体は食べ物を受け付けなくなっていた。
貴方の無事を確認出来るまで。
貴方が本当に生きているのかを確認出来るまで。
僕は、何時しか『食べる』と言う事を自ら放置していた。


「…もしも…もしも君は…僕が目を醒まさなかったなら…」
「迷う事はありません。僕も目を閉じます」
「――もしも僕が、死んだなら?」
「一緒に、死にます。けれども貴方はその言葉にはいとは、言わないでしょう?」
「ああ、紅葉。僕は君にそんな事を望まない」
「…貴方は僕に生きてほしいって…そう言うでしょうね…」
「勿論だ、紅葉。僕は君に生きて欲しい。この地上に君が存在してくれる事が、僕にとっての何よりの幸せなのだから」
「…僕の幸せは…貴方といる事です…それ以上はありません…だから……」

「だから貴方のいない世界に、僕の生きる場所は何処にもないんです」


一緒に死のうとは、貴方は絶対に言わない。
一緒に、生きようと。一緒に生きていこうと。
貴方は僕に真っ直ぐな瞳でそう言う。
分かっている。それが貴方の強さ。僕にない貴方の強さ。
でも僕は気づいてしまった。
僕は貴方がいないと生きていけない。
貴方のいない世界に僕の存在する場所は何処にもない。
貴方がいない未来なんて、僕はいらない。
貴方のいない世界なんて、僕は必要ない。
それが。それがきっと。
僕と貴方が永遠に重なり合わない部分。
どうしても重ならない部分。
貴方はもし僕が死んでも、生きてゆくでしょう。
その強さで生きてゆくでしょう。
僕を想い出と言う一番綺麗な場所に閉じ込めてくれて。
そして生きてゆく。でもね。
でも僕にはそんな強さがない。
貴方のようなそんな強さが、ない。

今まで僕は余りにも独りで、余りにも淋しかったから。
この与えられた優しさに。与えられたぬくもりに。

…手を離す事が…出来ない……

―――強く、なりたいのに。
貴方の隣に立てる相応しい人間になりたいのに。
貴方が僕を想ってくれるように。
僕だって貴方を想っていると。
貴方の役に立つ人間になりたいと。
貴方を護れるくらいに強くなりたいと。
そう思っているのに。

そんな思いすら吹き飛ばしてしまう程、貴方は優しいから。


「それでも君に生きて欲しいと言う僕は、残酷なのか?」
「…いいえ…分かるんです…僕だって…僕が死んでも貴方に生きていて欲しいから……」
「―――紅葉……」
「貴方は僕が死んでも、後を追ったりはしないでしょう?」
「…自分は死ぬと言うのに、僕にそれを肯定させるのかい?」

「でも君が望むなら僕はイエスと答える以外にないのだから」


僕がいない世界で、君は。
君は生きてゆけないと言う。
でもそれは。それは僕だって同じだ。
君のいない世界に生きる価値も理由もない。
君がいない現実になんて僕は必要ない。
それでも。
それでも僕は生きて行こう。
生きる理由も意味もなくしても。
それでも君が。
君がそれを望むと言うならば。

―――君だけを思って、生きてゆく……。


「…唇が…かさついてる……」
君の瞳に落ちてくるのは。落ちてくるのは甘い涙。
「…貴方が…潤して…ください……」
君の、綺麗な涙。
「……紅葉………」
その零れ落ちる雫を指先で掬いながら、僕は君の唇を塞いだ。かさかさに荒れた唇を。
それですら。それですら君の一部分だと思うとどうしようもなく愛しくて。
―――愛しくて、そして愛している。


愛と言う名の迷路に迷い込んで。
そして、永遠に抜けられない螺旋の中で。
その中で僕らは。
僕らは何を、見つけ出した?
互いの瞳の中に。互いの心の中に。
一体何を、見つけたのか?

―――羽根。背中にはえている羽根。
君の背中に、そして僕の背中に。
互いの背中に生えている片翼の羽根が。
何時しかひとつに交じり合って。
そして空を飛べたならば。

あの蒼い空をふたりで飛べたならば……


「包帯、何時頃取れるのかい?」
君の細い肩を抱きしめながら、僕は尋ねる。この身体をもう二度とこの腕から離したくはない。君を、離したくない。
「…一週間程で取れるって…言っていました」
「…一週間か……」
―――タイムリミットは、薬が切れるまで……
君の身体に打たれた薬は後どれだけ持つだろうか?君が廃人になるまでどれだけの時間があるだろうか?
君がこうして僕に微笑ってくれる時間は、どれだけあるだろうか?
「紅葉、僕は。僕はもう二度と君を人殺しになんて戻させはしない」
「如月さん?」
「君がイヤだと言う事を僕はさせない」
「………」
「―――僕と、逃げるか?」
「…如月…さん?……」
「ふたりで逃げようか?誰の手も届かない場所へ」


拳武館からも。人殺しからも。
黄龍の器からも。四神からも。
なんのしがらみもない場所へ。
誰の手も届かない場所へ。

でもまた分かっている。
それが不可能だと言う事も。
決して逃げられはしないのだと言う事も。
僕はこの飛水流の血を逃れられない事は分かっている。
これから起こりうる東京の危機にこの血が必要だと言う事も。
―――けれども。
けれども、もしかしたら。

―――君だけは逃げられるかも…しれないから……


「…如月さん…それは……」

それは無理です、と言い掛けて僕は止めた。
このまま。このままふたりで逃げたなら。
そうしたら答えは一つ。
―――僕が廃人になる事……
それは僕が人間でなくなる事。
けれども。けれども最後の瞬間に。

貴方を見つめる事が、出来る。


このままふたりで誰にも届かない場所へと……。


ACT/39


夜の、海に。
ふたりで指を絡めながら。
この波を越えた。
誰にも届かない場所へと。

ただふたりだけの、場所へと。


夢だとは分かっている。
何時かは醒める夢だと。
それでも。それでも。
僕達は選んだ。
もしかしたら、何か違うモノになれるかもしれないと。
もしかしたら、違う場所に行けるかもしれないと。
たった一筋の希望だけを胸に。

僕らはその手を、取った。


「―――如月さん、この包帯が……」
手を差し出す。この下には爛れた皮膚がある。まだ、まだ貴方に見せたくはない。
「取れるまで…待って…もらえますか?」
「―――君の傷は」
「…あ……」
貴方は僕の腕に巻かれた包帯を解き始めた。僕が抵抗するのも構わずに。
「如月さんっ止めてください」
…ダメ…こんな姿貴方に見せたくはない……。
「止め―――っ」
言葉は唇に塞がれた。柔らかい口付けが。優しい口付けが、僕の心を溶かしてゆく。その間に僕の腕の包帯は、全て…解かれた。
「…紅葉……」
「…如月…さ…ん……」
火傷の跡が残るこの腕に貴方はそっと唇を落とす。もう痛みは消えた筈なのに、貴方が触れた先が焼けるように熱い。
「大丈夫、この傷ならば僕が癒せる」
「―――如月さん?」
「でも僕はこのままでも構わないけれどね」
そのまま僕の身体をそっと抱きしめる腕。優しい腕。貴方の優しい、腕。
「そうしたら君に触れるのは僕だけだ…って自惚れているかい?」
「…いいえ…いいえ…」
僕は堪えきれずに貴方にしがみついた。もうこの腕でも構わないと思った。貴方がそれでいいと言うならば、このまま火傷の残ったこの腕でも。もう、構わない。
「貴方がいいなら僕はこのままでも…いいです……」
「嬉しいよそう言ってくれて。でも紅葉、僕がこの傷を治してあげる。やっぱり君の身体が傷ついているのは…僕も辛いんだ……」
「…如月さん……」
「君の傷は僕が治す。全て治す…身体の傷も、心の傷も」
綺麗な瞳。貴方の綺麗な瞳。その瞳に僕が映っている…それが。それが何よりも、幸せ。
―――貴方のその、瞳に映る事が……。
「…でもこの貴方の傷は……」
貴方の前髪を上げて、そして。そしてその隠された額の傷を暴く。完璧な貴方の顔に唯一付けられたその額の傷が。
「――僕には、消す事が出来ない……」
戸惑いながらその傷に口付けた。唇のが震えているのがきっと。きっと貴方に気付かれてしまった。
―――だって貴方の腕が少しだけ力強くなった、から。
「いいんだ、これは消えなくて」
「如月さん?」
「永遠に、消えなくていい。これが、僕が君を愛しているという証なのだから」

「これが僕の君への愛の証」


この傷が、懺悔。
君を護れなかった事への。
君を護れなかった僕の。
僕の永遠の罪だから。
そして。
そして君の傷を。
君の心の傷を少しでも。
少しでも僕が感じられるように。

―――これが。これが君への僕の罪だから。


「君を愛している、紅葉。それだけが僕の真実」
君の瞳に映るのが。君の瞳に映るのが僕だけならば。
「君だけが、僕の真実」
そのまま瞳を閉じ込めて。閉じ込めて奪い去りたい。
「…僕も…貴方だけが……」
君の全てを、奪い去りたい。
「…貴方がいてくれるのならば……」
僕だけのものに、したい。


足りない。
言葉なんて、足りない。
言葉なんかでは追いつかない。
この激しいまでの君の想いを。
どうしたら。
どうしたら伝えられるのか?
この胸切り裂いて、心臓を見せればいいのか?
このこころを君に見せればいいのか?
それでも。
それでも、足りない。
加速した想いはもう何処にも行けない。
何処にも止まれない。
どうしたら。
どうしたら君に。

君に全てを伝える事が出来るのか?


「…淋しかった…です……」
「紅葉?」
「…貴方がいなくて…目覚めた時貴方がいなくて…僕は…どうしようもなく…」
「―――」
「…淋しくて…不安で…貴方の姿をこの瞳で見るまで僕は…僕は…」
「…紅葉……」
「…貴方が生きていると…言葉で聴かされても僕は……」
「―――僕もだよ、紅葉。君の姿をこうして見るまでは不安で仕方なかった」
「…如月さん…貴方に…触れて…貴方の声を聴いて…僕は…」
「……うん………」
「…初めて…安心出来ました…貴方が…生きている……」
「うん、紅葉」
「…貴方が…生きて…いる………」


背中に廻された君の腕が微かに震えている。
僕はその震えを閉じ込めるように君を。
君をきつく抱きしめた。
君の暖かい身体を。君の生きている身体を。

―――君の、命の鼓動を……


「…貴方の髪……」
指先を擦り抜ける、さらさらの髪。細くてそして柔らかい貴方の髪。
「…貴方の傷……」
そこから覗く隠された傷。ばっくりと額を割ったその傷。
「…貴方の…頬……」
触れると冷たいのに、何時しか僕に温もりを与えてくれる頬。
「…あなたの…唇………」
触れる、指先で。触れた、指先で。貴方の唇に、触れた。

生きて、いる。
貴方は、生きている。
―――よかった。
よかった、貴方が生きていてくれて。
貴方がこうして僕を見つめてくれて。
貴方がこうして僕を抱きしめてくれて。

…よかった…貴方が…僕の前に存在してくれて……


―――ねえ、如月さん。
うん?
―――不思議です。
何が、不思議なんだい?
―――何故僕は今まで生きて来れたのでしょう?
何故そんな事を?
―――だって…貴方がいないとこんなにも僕は駄目なのに。
僕も君がいないと駄目だよ。
―――それなのに貴方に出逢う前は独りで生きてきた。
僕だって君に出逢う前は独りで生きてきたよ。
―――でも今は…今は…貴方に出逢う前の僕が想い出せない。
…紅葉…それは僕も、同じだよ……
―――どうやって生きてきたのか、思い出せません。
……それは僕のセリフだよ……
―――想い出せないんです。

「どうやって独りを乗り越えてきたのか…想い出せないんです」


「貴方に出逢って僕は、こんなにも弱くなってしまった」
「弱くなんてない。そんな事はない」
「けれども…貴方の姿が見えないだけでこんなに…こんなに不安になるのは…」
「違うよ、紅葉。それは」

「それは君にこころが、生まれたから」

今まであらゆる感情を閉じ込めて。
閉じ込めてそして。
そして全てを閉鎖する事で、均衡を保ってきた君。
希望を持てば絶望しかないと。
助けを求めても誰も助けてくれないと。
そうやって。そうやって君は未来を閉じ込めた。
自分の心を護るために。
自分の魂を護る為に、君は。
君はありとあらゆる感情を抹殺して。
こころに膜を貼って、傷つく事から護ろうとしたんだ。
けれども、紅葉。
君の硝子のように壊れやすくて、そして何よりも綺麗なこころは。
それでもその膜を破って。破って傷ついてゆく。
ひび割れた箇所から透明な血を流し。
君の無意識の間に壊れてゆく。
―――けれども、紅葉。
ひとは生きている限り、再生が出来るんだ。
どんなに傷ついた心でも、癒す事は出来るんだ。
どんなに壊れた心でも、生まれ変わる事が出来るんだ。
君は。君は僕と出逢って、生まれ変わったと。
僕はそう信じたい。
僕の腕の中で『君』と言う存在が生まれたのだと。
そう、信じたい。

―――それは僕の独りよがりではないと…そう思っている……。


貴方の腕の中で生まれた僕の本当の命。
貴方が命を吹き込んでくれた。
貴方、だけが。

その限りない優しさで僕を、生まれ変わらせてくれた。


ACT/40


海が、見える場所へ行きたい。
昔見た絵本の中にあった、蒼い海。
絵本の中でしか知らない海。
一度でいいからこの瞳で。
この瞳で海を、見てみたい。

―――空よりも蒼い、海を………


窓から零れる風が、全てをさらってくれたのならば。何処よりも遠い場所へ僕らをさらってくれたならば。
誰も知らない場所へ、僕らを連れさってくれたならば……。
「…ご飯……」
腕の中。貴方の腕の中。世界中のどの場所よりも安心出来る貴方の腕の中。ずっと。ずっとこうしていられたならば。
「うん?」
「…貴方とご飯、食べたいです……」
「うん、食べよう。家に帰って食べよう」
貴方の言葉に僕は小さく頷いて。そして。そして手を、取った。貴方の手を、取った。
―――逃げられるわけはない……
それは互いには分かり過ぎる程分かっている事だった。逃げると言う選択肢は初めからムリだと言う事は。それでも。それでも、僕らは。

―――何かを信じて、その選択肢を選んだ。

何を信じているのだろう?
何を選んだのだろう?
分からない。多分答えなんて一生出ないだろう。
それでも僕らは、互いの瞳の先の。
瞳の先の真実だけを追い掛けて。
そして、その選択肢を選んだ。


海が、見たいな。
空よりも蒼い海を。
蒼い海を。
貴方と、見たいな。

―――ふたりで、見たいな。


「……逃げるのか………」
何時しか空は深い闇に包まれていた。月すらも隠された深い闇へと。深くて、暗い闇へと。
「手に手を取って逃げる…逃げ切れないと分かっていても……」
時間がない事も、ふたりには分かっているだろう。壬生の身体の薬が切れるのも時間の問題だ。それでも。それでもふたりが逃げると言う選択肢を選んだと言う事は。
「―――死を…選ぶ、のか?……」
口にしてみてその言葉を否定した。そんな筈はない。ふたりで生きたいと願って逃げ出すのに、死を容易く選ぶ筈はない。けれども。
けれども、と思った。もしかしたら彼らにとって生と死は同義語なのかもしれないと。どんなになろうともふたりでいたいと願うのなら、生きて引き離されるならば死をもって共にいる事を望むかもしれないと。
―――違う、それだけは絶対にありえない。
壬生にとっての最大の願いが『如月が生きている事』ならば。それは絶対にありえない。彼は壬生の願いだけは絶対に叶えるだろうから。
「だとすれば、ただひとつ。ああそうだね…彼ならこれを選ぶ……」
最も危険で、そして最も危うい懸け。それでも互いの想いを信じているから出る答え。そう、たったひとつふたりが引き離されずにいられる方法がある。
―――廃人になった壬生をそれでも愛するという事。
壊れてしまえば暗殺者としてはどうにもならない。追いかける事も連れ戻す事も出来ない。そうすれば確かに『ふたり』でいられる。けれども。けれども彼がそんな状態に壬生をしておくのだろうか?
……一体…一体彼は何を考えているのか?………
「やはり私は君だけは敵に廻したくなかったよ」
子供特有の強さと、大人の冷静さを持ち合わす彼。その彼が選んだ答えとは?
「―――それでも私は…君から壬生を取り返さない訳にはいかない…そして。そして君を四神として光臨させなければならない……」
どうして運命の糸はこんなにも複雑に絡み合ってしまうのか?


誰も間違ってはいなかった。
ただ。ただ誰かを愛して。
そして必死になっていただけだった。
自分の護るべき者を護ろうと。
自分が愛した人の幸せを。
ただそれだけを願って。
願って生きていた。
ただ、それだけなのに。
どうして?

どうして、運命は戻れない場所まで僕らを押し流すの?


そばに、いて。
キスをして。
そして。
そして、抱き合って。
指を絡めて眠れれば。


扉を開けた途端、足元にくーが擦り寄ってきた。そんな愛しく小さな身体を、僕はそっと抱き上げる。
「ごめんね、くー。独りにしてしまって」
腕の中のくーは小さくにゃーと鳴いた。その声が僕の口許に柔らかい笑みを浮かばせる。
「…淋しかった?……」
僕の隣で君はひどく淋しそうにくーに尋ねた。淋しい?と聴く君の顔の方が淋しいのは…君がそれだけ優しいからなんだね。
「取りあえずくーにご飯あげないとね。君は疲れているだろう?座っていてくれ」
「いいえ、如月さん…僕も……」
「紅葉?」
「…僕も…一緒に……」
その言葉と表情に僕はひとつ頷いた。そうだね、君の方がくーよりも、淋しかったのだから。
「うんじゃあ一緒にご飯をあげようね。そして僕らも何か食べないと」
「はい」
はにかむように笑って頷く君の顔に、僕は永遠に消えない罪をまたひとつ胸に抱く。それは。それはこんなにも君に淋しい想いをさせてしまったと言う事に。
―――何時も、君のことだけを考えている。君のしあわせだけを願っている。
それなのにどうして僕はそれを君の為に実行できないのだろうか?本当に君の全てから不安や哀しみを取り除く事が出来るようになるのだろうか?
君の全てを護れるだけの力がほしい。君の哀しみを消せるだけの優しさが欲しい。君を不安にさせない為の強さが欲しい。
―――どうして僕はこんなにも無力なのだろうか?

「賞味期限はまだ大丈夫だよね」
「ええ、平気ですよ」
冷蔵庫の前に立って取り出した牛乳を、小さな器に移す。そしてそのまま床に降ろしてくーに与えた。小さな猫は嬉しそうにそのミルクをぺろぺろと舐める。
「ミルクだけじゃ、足りないかな?」
「そうですね、じゃあこれも」
君は小袋に入っていた煮干を取り出して、くーに与える。くーは君から与えられるが嬉しいのか素直にそれを食べた。
このまま時が止まったらいいのにね。無理だと分かっていてもそう願わずにはいられない。こんなふとした日常の小さな出来事こそが、きっと君には一番必要な事なのに。君の心の傷を癒してゆくのはこんな。こんな小さな出来事の積み重ねなのに。
それなのに。それなのにどうして僕らには限られた時間しか与えられないのか?
「じゃあ僕らも何か食べようか?」
「そうですね、如月さん」
笑う、君。子供のように笑う君の笑顔。本当にどうしてこのまま時間を止める事が出来ないのだろうか。どうしてこのまま。このまま君の廻りに優しい時間を流すことが出来ないのか。
僕が君の為にしてあげられることは、どうしてこんなに限られているのか?
「僕は本当に料理はした事がないんだ…だから紅葉、君が教えてくれるかい?」
「如月さん作るんですか?いいですよ僕が作りますよ」
「いいんだ、君の身体は本調子じゃない。そして。そして何よりも僕が自分の作った料理を君に食べて欲しいと思ったから」
「…如月さん……」
「教えて、くれるかい?」
「…はい……」
こんなママゴトみたいな時間でも、僕らにはかけがえのないものなんだ。


自分以外の人間が庖丁を叩く音。
僕の廻りには今までない音だった。
トントントンと、小刻みに叩かれる音。
少しだけ困った顔で貴方が僕に尋ねて来る。
そんな貴方に答える瞬間。
本当に、今このまま。
このまま時が止まったらいいなと思った。

―――この優しい時間のままで……。


ふたりで食べる食事。
ふたりで作って、食べるご飯。
味とか出来具合とかそんな事は些細な問題で。
ふたりで一緒に食べると言う事が。
それが何よりも意味のある事だから。
ふたりで一緒に、食事をする事が。

―――それが何より、大切な事だから。


「少し、染みるかもしれない」
焼け爛れた腕を僕は貴方に差し出した。身体にも同じような焼け跡が数カ所残っている。けれどももうこの跡を見せる事に僕は何の躊躇いもなかった。
―――貴方はそれでもいいと、言ってくれたから。
「でも火傷の跡なら2、3日で治せるよ。飛水流代々から伝わるこの薬なら」
「凄いですね…如月さん……」
「水を操る一族だからなのかもしれない。火に関しては昔から徹底的に対抗出来るようになっていた。だからこんな物も持っていたりする」
くすりとひとつ笑って言う貴方に、僕も釣られて笑った。水を操る一族…確かに火に包まれた僕から救ってくれたのは貴方が降らした雨だった。
「まあそれで君のコレが直るなら、少しは飛水流の血に感謝してもいいかもね」
「如月さんったら」
目が合って、そしてくすくすとふたりで笑った。驚くほどの穏やかな時間はそれが終わる事を知っているから。知っているからこそ、僕らは今この瞬間を大切にしたい。何よりも、大切にしたい。
貴方の指が僕の身体を滑るように薬を塗ってゆく。確かに痛みで染みるが、それ以上に触れて来る指の優しさが痛みを忘れさせた。優しい貴方の指先が。
「薬塗っている筈なのに、君に変な事をしてしまいそうだよ」
「…もう何言って……」
「それだけ僕が、君が好きだって言う事だよ」
「…僕も、好きですよ…」
そう言った僕の唇を、あなたは自らのそれでそっと塞いだ。触れるだけのキスでも、貴方からならば全てが満たされてゆく。満たされて、ゆく。


ぱらぱらと、音がした。
何かと思って振り返ったら。
振り返ったら僕が貴方からもらった絵本のページがめくれていた。
そして、風が止まって。
止まってページが開かれたままになって。
そこには蒼い海が、広がっていた。


「…海……」
「うん?」
「…いえ僕…海って一度も見た事がなかったから……」
「見たいの?」
「…見たい、です…だって……」

「…だって海は…貴方だから……」


水。貴方の水。
広がる水。
それをこの瞳で、見てみたい。
みて、みたい。


「そうだね…じゃあ…海へ、行こうか?」


空よりも、蒼い。
一面に広がる蒼い。
蒼い、海へ。

 


End

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