ACT/41
本当は、場所なんて何処でもよかった。
ただふたりだけで遠くへと行きたかった。
誰にも邪魔されない遠い場所へと行きたかった。
ここではない、何処かへと。
「…海に、行こうか?……」
君と捜した世界の果ては、一面に広がる蒼い海。終わりのない流れゆく水。
「…如月さん……」
流れて零れてそして。そして遠くへと。誰にも邪魔出来ない場所へと。
「海の見える場所へ」
君とふたりで。君と僕で、逃げようか?
「―――はい……」
こくりと小さく頷く君を。君を僕は抱きしめ、そして腕の中へと閉じ込めた。
夢の先にあるのは現実。
夢の終わりにあるのは今。
分かっている。
夢は必ず醒めると言う事を。
夢は夢でしかないと言う事を。
それでも、こうして。
こうして指を絡めた感触は消えない。
こうして唇を重ねた瞬間は消えない。
たとえそれが本当に『夢のような時間』でも。
夢のような時間でしかなくても。
―――指先を辿る温もりは、真実だから。
このまま抱きしめて、そして。そして全てを奪えたならばいいのにね。
「…紅葉、こんな場所にも火傷がある……」
髪を掻き上げた額に残る赤い跡に、そっと指を這わして。そして唇を落とす。
「顔だけは無事だと思ったんですけど…そうもいかなかったですね」
唇を落とせば、君の瞼が静かに降ろされる。見掛けよりもずっと、ずっと長い睫毛が。柔らかいその睫毛にも、また唇をひとつ落とす。
「駄目だ、我ながら矛盾している」
「如月さん?」
「君の綺麗な顔をこのままで僕のものだと実感したいと思いながら、君の顔がどんな形状になっても僕は君を愛していると言いたいなと…矛盾しているだろう?」
「僕は如月さんが好きだと言ってくれるなら…どんな顔でも構いません」
「君の全てが好きだから、当然顔も好きなんだ。でも君が今の顔をしていなくても、僕は絶対に君が好きだから…やっぱり矛盾している」
「僕だって如月さんが今の顔をしていなくても好きですよ」
背中に廻る君の腕。そのままゆっくりと僕の背中の感触を楽しむように、滑ってゆく。
「如月さんの『入れ物』が違っても…僕は好きです。でも今の如月さんも大好きです」
「…そうだね、紅葉…僕はきっと……」
「君という名の付くもの全てを、愛しているんだ」
君の瞳。君の手。君の唇。
全部、全部。
君が動かしているもの。
君の意思で動いているもの。
その全てが愛しい。
その全てを愛している。
君がこうして自らの意思で、動かしているもの全てが。
「火傷の跡、消えなくてもいいな…って思いました」
「どうして?」
「…消えなければ…貴方は触れてくれる…」
「跡なんてなくても、僕は君に触れるよ」
「…でも…こんな風に跡にキスしてもらえるの…僕は…」
「―――うん?」
「…僕は…凄く…好きだから……」
「キスならば、君が望めば幾らでも…じゃないな」
「如月さん?」
「君が望まなくても、僕がしたくなるから」
「…そんな事…ないですよ……」
「どうして?」
「…だって僕だって……」
「…ずっと貴方と…キスしていたい……」
キスを。
数え切れないほどのキスを。
数え切れないくらい。
貴方と、したい。
貴方といっぱいキスを。
キスを、したい。
―――貴方とだけ、したい。
睫毛が、触れるほどの距離。
睫毛が触れ合う、距離。
息が、重なり合って。
重なり合って、そして。
そして重ね合う唇に。
甘やかに溶けてゆく意識に。
溶け合う鼓動に。
全てを、あずけて。
全てをあずけてそして眠ろう。
抱きあったまま、指を絡めあったまま。
その静寂を破ったのは縁側で小さく鳴いたくーの声だった。
「―――?」
その声に如月は反応をして起き上がる。それに釣られるように壬生も顔を上げた。
「如月、さん?」
心配そうに見上げて来る漆黒の瞳にそっと如月は口付ける。そうする事で壬生は何よりも安心出来るのを知っているから。
「誰かが侵入した気配があった。見てくる」
「待って、如月さん…僕も…」
「紅葉、駄目だよ。何があるか分からない…危ないよ…」
「イヤです、何かあるなら尚更です。僕はもう貴方とは離れたくない」
辛辣とも思える瞳で如月を見つめるその先に。その先に揺るぎ無い意思と見え隠れする淋しさがあった。それを如月は見逃す事など…出来なかった…。
「分かった、一緒に行こう」
差し出した手を、壬生は迷う事なく取る。壬生にとって、取るべき腕は如月のその腕だけだから。その腕だけが、自分を導くたったひとつの道しるべ。
「…はい、如月さん……」
―――その腕だけが、僕を導くたったひとつのもの。
―――カサリと小さな音がした。
その音は決して自らの存在を隠そうとはしていなかった。
忍び込む訳でもなく、逃げようとしている訳でもなく。
ただ。ただ真っ直ぐに。
真っ直ぐにその瞳は僕らを見上げた。
その縁側の茂みから現われた人物を。その人物を僕はある意味最も意外だと思った。最も予想から遠い場所にいた相手に。
「にゃあ」
くーはまたひとつ鳴いた。そしてその人物の差し出された手の方へと向うと、そのままぺろぺろと舐めた。そして抱き上げる腕にすんなりと収まった。
「…可愛イ……」
「―――マリィ」
抱き上げたくーをそのまま優しく抱きしめる少女。人形のような少女。でも今。今くーを抱きしめている少女の瞳は人形ではなかった。
「可愛イ…翡翠ノ猫?…」
「僕と、紅葉の猫だよ」
「…紅葉……」
その言葉にマリィは僕の隣にいる紅葉を見上げた。覚えているのだろうか?マリィ君が、君が自らの火で殺そうとしていた相手を。
「…紅葉…イイ名前……」
「…あ、…ありがとう……」
マリィの言葉に戸惑ったように答える君。何時しか繋いでいた君の手に力がこもる。ぎゅうっと、ひとつ。
「でもこんな時間にどうしたの?マリィ」
「――逢イニ、来タノ…翡翠…病院カラ消エタカラ…マリィ……」
淋しそうに、今にも泣きそうな瞳で僕を見上げるマリィ。ごめんね、僕は君の大切な人にはなれない。君を独りぼっちから助ける事は出来ないんだ。
僕の選んだ相手は。僕が唯一選んだ相手は…今こうしてここに存在する限り。
「ごめんね、マリィ。さよならを言えなくて」
「…サヨナラ?…翡翠何処カへ…行ッチャウノ?…」
「うん、ごめんね。僕らは遠い所へゆく。遠い所へ、行くんだ」
「…マリィ…淋シイ……」
「ごめんね、マリィ。けれども僕は……」
その先を言おうとして、そして止めた。マリィの視線が僕の隣にいる紅葉に移って、そして。そしてひとつ笑ったからだ。
「…紅葉…翡翠ノ大切ナ人……」
「…マリィ……」
「分カッテル…マリィ…分カッテル…デモ…淋シイ…」
ぽつりと言ったマリィの言葉に、君は僕の手をそっと離して。離してマリィの前にしゃがみ込んだ。こうやって君は、その視線を同じ位置まで合わせる。
「マリィ、ごめんなさい。如月さんを独りいじめして」
「…イイノ…マリィ…紅葉…好キダカラ…」
「僕を、好き?」
「…ウン…ダッテ…ダッテ…紅葉…マリィト同ジ…同ジクライ…淋シイ…」
「そうだね…僕もマリィと同じくらい…淋しいね……」
君とマリィが似ていると思ったのは、君達の瞳が同じだったから。同じように人形のように無機質で、でも何処か淋しげで。淋しげな瞳をしていたから。
「…マリィ…あのね…」
「何?紅葉」
「…如月さんは…ごめんなさい…僕のものだから…上げられないです……」
「ウン、分カッテルヨ。分カッテル、紅葉」
「けれども…マリィ…よかったら…」
「くーをもらってください。如月さんの変わりに…くーも同じ…同じ、如月さんが助けた命です…僕らと同じ…如月さんが…生きる事を与えてくれた……」
小さな、命。
暖かい命。
生きている、小さな。
小さな命。
僕らのように、懸命に生きている命。
「…淋シクナイ……」
ぽつりと呟いたマリィと、そしてそんな彼女を見つめる君。多分そこには僕にも入る事の出来ない何かがあるのだろう。
―――同じ哀しみと、そして同じ淋しさを持つものとしての。
「…ウン…マリィ…淋シクナイ……」
「ありがとう、マリィ。くーを大切にしてくれる?」
「ウン、紅葉。大切ニスル…デモネ…」
「でも?」
「名前…変エテモ、イイ?…ダッテくーハ…紅葉ノくーデショ?」
「…何で分かったんだい?マリィ」
その言葉に思わず僕は会話に入ってしまう。なんかズバリと言われて、ひどくバツが悪い気がして。
「ダッテ、翡翠ナラソウシソウ」
「くすくす言われてしまいましたね、如月さん」
「…その通りだよ…マリィ…でも君が笑わなくても…」
「ダカラ、変エテモイイ?翡翠ニ悪イカラ」
「…この場合悪いって事になるのかい?……」
「みたいですね、如月さん」
「まあいい…マリィがそうしたいなら、そうしても。で、名前はどうするんだい?」
「メフィスト」
「メフィストニスルノ。マリィガ動物ヲ飼ッタラズット…ソノ名前ニシタカッタカラ……」
「いい名前だね」
何時しか、ふたたび僕らが出逢った時に。
「ありがとう翡翠。紅葉は、どう?」
「素敵な名前だと思います」
その時には、またこうして。
「アリガトウ、紅葉」
こうして笑い合えたらいいな、と思った。
―――こうして、また……。
ACT/42
―――最期の楽園に、神様はいない。
辿りついたその場所が。
もしも地上の果てだとしたら。
もしも世界の終わりだとしたら。
そこが未来の終わりだとしたら。
そこにいるのが僕と貴方だけならば。
ふたりだけがその場所に存在するならば。
最期に辿りついた場所に『ふたり』以外何もなかったならば。
そこが、最期の楽園。
そこが、最期の場所。
最期の楽園に神様はいない。存在するのは、愛する貴方だけ。
巡りあい、そして傷つけあい。
惹かれあい、そして愛しあい。
その全てがただひとつの。
ただひとつの糸で結ばれる。
―――真っ紅な、糸。
運命の赤い糸よりももっと紅い。
そんな綺麗な赤い色じゃない。
それでも。それでも、ずっと。
ずっと深いその紅い色。
その糸が僕らの身体に無数に巻き付いて。
巻き付いて、絡み合って。
そして、結ばれる。
決して解ける事のない、紅い運命の中で。
たったひとつ、結ばれる。
手を、取る。貴方の手を。
「…行こうか?……」
何処へとは、貴方は言わない。僕も何処へとは聴かない。そんなものを僕らは必要としないから。
「――はい、如月さん」
僕はただ。ただ貴方の手を取って。その手を取って、一緒に。一緒に行けばいい。貴方が導く場所へと。
「…一緒に…連れて行って…ください……」
何処にも、戻れなくてもいい。何処にも、帰れなくてもいい。ただ僕にとって必要なのは貴方がいる事。貴方が存在する事。
この広い地球で、この広い世界の中で。僕は貴方に出逢えた。貴方と同じ時間を刻めた。貴方と同じ運命の中にいる。それは。それはどんな奇跡よりも、凄い事だから。
―――どんな運命よりも、宿命よりも凄いことだから……
「もしも、紅葉」
「はい?」
「…取り返しのつかない場所へ行ってしまうかもしれないよ…それでもいい?」
「どうしてそんな事を聴くのですか?貴方がいるのに」
「僕は貴方さえいれば…それだけでいいのに……」
取り返しのつかないならそれでもいい。
戻れないのならばそれでもいい。
……一層戻れなければ…いい…。
誰にも手の届かない場所へと行きたい。
誰にも分からない場所へと辿りつきたい。
それが例え夢でしかないと。
それが例え幻でしかないと。
分かっていても…分かっているからこそ。
今この瞬間を、夢見ていたい。
貴方とこうしていられる事。
貴方とこうして指を絡める事。
貴方とこうして瞳を合わせる事。
もしかしたら、もう。
もう二度と出来ないかもしれないのならば。
今。今この瞬間を。
この瞬間を、永遠の瞼に閉じ込めて。
永遠に、閉じ込めて。
誰にも見せずに、誰にも渡さずに、永遠に。
―――永遠にこころの、中に……。
「…紅葉…これだけは…覚えていてくれ…」
「如月さん?」
「僕は、どんな事になろうとも。これからどんな事になろうとも、紅葉」
「はい」
「君だけを愛している」
「…如月…さん……」
「どんな事があろうとも」
「如月翡翠のこころは、君だけのものだ」
例え運命がふたりを押しつぶそうとしても。
例え運命がふたりを引き裂こうとしても。
変えられないものが、ある。
変える事なんて出来ないものが、ある。
もしも黄龍の器が僕を…玄武を呼んだとしても…僕のこころは、如月翡翠のこころは、君だけのものだから……。
運命に流されないだけの、強さ。
「…行こうか……」
運命に押しつぶされないだけの、強さ。
「…はい…その前に…一緒に行って欲しい場所が…あります…」
運命に負けないだけの、強さ。
「――いいよ、君が望むなら…一緒に行こう…何処までも…」
それを信じるものは、この絡めた指先だけだった。
一面の、金木犀の香り。何処までも続くその、香り。
「―――紅葉、ここは?……」
何本か電車を乗り継いで辿りついた頃には、もう太陽は頭上に輝いていた。夜が開ける前に乗った筈の電車なのに、気付いたらその日差しは僕らに降り注いでいる。
「…病院です…母のいる……」
まるで現実から置き去りにされたようにひっそりと立つ白い建物。確かにそこは『病院』と呼ぶには相応しい物だろう。けれども。けれども何処か、淋しい。
「精神病棟ですから…こういった静かな場所にあるんですよ…こうした閉じ込められたような場所に…」
その言葉を告げた君の表情の方が淋しそうだった。ああ、そうか…この病棟は僕の記憶の中にある。君の記憶を夢に見た時…君が母親を待って手首を切っていた、あの病院だ。
「…金木犀、好きなのかい?お母さんは……」
君が手に持つその花も、僕は知っているよ。君によく似た女の人が好きだと言った花。その花を腕に抱く君の優しさが、僕には哀しい程愛しい。
「はい、好きなんです。この花を見ると…母は少女のように笑うんです」
「―――そうか、喜んでくれるといいね。じゃあ行こうか、紅葉」
「…はい……」
俯き加減に、けれどもそっと笑う君は。君は金木犀よりも綺麗だよ。
真っ白な部屋。何もない部屋。無機質な部屋。その部屋の向こうに。その鍵の掛かっている部屋の向こうに。
そこに君の『母親』はいた。腕に抱くのは、人形。壊れた、人形。
「坊や…坊や……」
人形の服は破れて、頭からは綿が飛び出している。片目は千切れて、腕がもがれている。それでも。それでも君の母親はその人形を大事そうに抱いている。
「私の坊や…可愛い坊や……」
抱いて、抱きしめてそしてキスをして。そしてそして。
「…いらない…いらない……」
今まで優しく少女のような顔が豹変する。その瞳に狂気が宿り、そして。そして腕の中の人形をずたずたに破り始めた。
「いらないっいらないっ!!あんたなんかいらないっ!!」
綿が飛び出して、また腕が千切れる。それでも構わずに、その行為は続けられた。
「…相変わらずなのよ……」
「そう、ですね」
背後から聞えた看護婦の声に初めて僕は意識を現実に戻した。そして僕に君はひとつだけ淋しそうな瞳を向けて。向けて、看護婦へと向き合った。その顔には、感情がなかった。ただ現実を受け入れるだけの。それは君が。君が『人形』だった頃の顔。
「ごめんなさいね紅葉君。せっかく来てくれたのに…お母さん…」
「いいんです、分かっていた事ですから。それよりもこれを渡してください」
「金木犀ね、ありがとう。お母さん喜ぶわよ」
「――じゃあ僕はこれで」
「…ごめんなさいね…紅葉君…本当はお母さんの傍にいきたいでしょう?でもお母さん…看護婦以外が近づくと…ダメなのよ。怯えて怖がって……」
「大丈夫です…僕は平気です…それじゃあ」
ぺこりと頭を下げて、君は歩き出した。二度と母親に振り返る事なく。僕は君の後を追うように看護婦に頭をひとつ下げると、その後を追う。――その時、だった。
「待って…紅葉君の…お友達さん」
「何ですか?」
「いえ、紅葉君が…お友達なんて連れて来たの初めてだったから…」
「――そうですか…」
「あの私が言うのも変かもしれないけど…紅葉君と仲良くしてあげてね。あの子は愛想が悪いから誤解されるかもしれないけど、本当は凄く優しい子なのよ」
「そんな事、貴方に言われなくても分かりますよ」
「…そうよね…そうよね…だけど…誰かに気付いて…欲しかったの…あの子がどれだけ母親を思っていて…そしてどれだけ優しい子かって…誰かに分かって欲しくて…」
「心配は無用ですよ、看護婦さん。僕は紅葉自身よりも、紅葉の事を分かっているつもりですから」
その言葉をどう取ったのか…看護婦は少しだけ不思議な顔をしている。そしてちょっとした好奇心をした目をしている。まあどう取られても構わないけれども。僕はただ事実を述べただけなのだから。
「それでは失礼します」
それ以上の追求を避けるために僕は足早に紅葉の元へと戻っていった。
「君に、顔が似ている」
耳元からそっと降って来る言葉とともに、貴方の指が僕の指に絡まった。そしてそっと、僕の手のひらを包み込んでくれる。
「――僕を…産んでくれた人ですから」
その暖かさが、その優しさが。ゆっくりと全身に広がって、そして僕を満たしてゆく。
「でも君の方が綺麗だ」
絡まった指のまま、その場に止まった僕に貴方は顔を覗き込んできた。僕のまじかにあるその顔は、僕なんかよりずっとずっと綺麗なのに。
「…こんな時に…如月さんったら……」
「君の方が、綺麗だ。だって君は生きている」
「こうして動いて、話をして。こうやって瞳を合わせて、自分の言葉を喋る。生きている君は、何よりも綺麗だよ」
貴方の開いている方の手が、そっと。そっと僕の髪に触れてそのまま優しく撫でてくれた。まるで母親が小さな子供にするように…するように?
…おかしいな…僕はお母さんにそんな行為をしてもらった事なんて一度もなかったのに……。
「君の意思で、君の気持ちで、生きている君が綺麗だ」
「…如月さん……」
優しい手のひら。そっと僕の頭を撫でてくれる手のひら。その手のひらの優しさを感じていたら、僕は。僕はひどく泣きたくなって。泣きたく、なって。
「――紅葉…お母さんきっと喜んでいるよ……」
何時しか繋いでいる手が震えていた。そに気付いた貴方の手が、強くなる。そんな優しさが、そんな優しさが好き。
「…金木犀…喜んでいるよ……」
そしてそのまま抱きしめられた腕が。その抱きしめてくれた腕は、優し過ぎて。優し過ぎて僕は……。
「…喜んでいるよ、紅葉……」
何時しか頬からひとつ涙を零して、いた。
腕の中で君が。君が小さく震えているのが分かる。
声を殺して泣いているのが分かる。
―――今まで独りでよく頑張ったね……
君が背負ってきたもの。
君が背負わされてきたもの。
そのひとつひとつを、こうやって。
こうやって僕のてのひらが掬えたならば。
こうやってひとつ、ひとつ僕が。
―――君の哀しみを掬えたならば……。
ACT/43
手のひらから、零れる痛み。
手のひらから、伝わる愛。
ただこうして重ね合うだけで。
重ね合うだけで、伝わるもの。
―――そう言ったものを僕は信じたい。
一面の金木犀の中で、少女のように微笑う。
その時の笑みを僕は忘れない。
本当の母の顔はこの顔だと、信じたいから。
こうやって少女のように微笑うこの人が。
僕を産んでくれたひとだと、信じたいから。
一面の、金木犀。柔らかな香り。
花を摘み、そしてその花を降らせて。
永遠の少女の顔で。夢だけを見ている顔で。
―――そして時を、止めて。
多分母は花の中に埋もれているのが、一番幸せなんだと…思った……。
実の子供である僕といるよりも。
血を分けた僕といるよりも。
僕を見ると瞳が狂気になる。
僕を見ると少女の笑みが消える。
壊れた顔になって、そして。
そして何かが弾けるように僕に虐待をした。
今思えば、もしかしたら何かから逃げていたのかもしれない。
何かから逃げる為に僕を痛めつけることで。
傷を負わせる事で、全てから逃れて忘却の彼方へと。
けれども、思い出すんだ。
血を流した僕を見て。その紅い色を見て。
逃れようとして何かを思い出して。
思い出して、そして泣く。
僕を抱きしめて、泣く。
今思えば、母の瞳には。
―――初めから、僕は存在しなかったんだ……
求めて、いたものは。
求め続けていたものは。
僕の、場所。
僕の、居場所。
僕が存在してもいい場所。
僕を必要としてくれている場所。
僕を必要だといってくれるひと。
僕に生きる意味を与えてくれるひと。
僕にとって、命は何かを教えてくれるひと。
そして、巡り合えた。
貴方というひとに、僕は。
――僕は、巡り合えた。
腕の中で微かに震える存在を、その小さな命を僕は。僕はそっと抱きしめる。壊さないようにと。君を、壊さないようにとそっと。
「…泣いても…いいよ……」
君の髪を何度も何度も撫でながら、耳元にひとつ囁いてやる。その瞬間腕の中の君がぴくりと震えて…震えてそしてゆっくりと体重を預けてきた。
「…泣いてばかりだと…みっともないです……」
「どうして?君の涙は純粋で、何よりも綺麗だよ」
「…でも…僕は…貴方の前で泣いてばかりいるから…」
暖かい、身体。初めてこの腕に抱きしめた時はあんなにも冷たかったのに。今は。今はこうして僕と温もりを分け合っている。それが。それが何よりも大切な事。君の身体に命の暖かさが宿る事が。
「…今まで…どんなに辛くても…泣いた事…なかったんです…それなのに貴方の前では…まるで一生分くらい…泣いてます……」
「いいよ、一生分の涙を流しても。君の一生分の涙を僕が受け止める事が出来るなら…それも、幸せだよ」
「…駄目です……」
「どうして?」
「今一生分の涙を流してしまったら…もう二度と貴方に逢えない気がする…」
「――紅葉?」
「…もっと…もっと嬉しい瞬間が…哀しい瞬間があると思うから…それまでは…まだ……」
「君と一生離れない…そう誓えたら…いいのに…」
「誓わないでください、まだ」
「…うん…そうだね…まだ……」
「―――まだその言葉は先にとっておくよ」
まだ、見えない未来がある限り。
不透明な海がある限り。
まだ、僕らは。
僕らは、永遠になれない。
「…夢として語るには…醒めた時が…切ないね……」
押し寄せる不安の波。それは消える事はない。
「…いいんです…夢は夢だから…それでも……」
消える事は、ない。幾ら逃げても。ふたりで逃げても。
「…それでも…こうして触れ合っている指先は…夢じゃないから……」
どんなに遠くまで逃げても。どんなにふたりだけの場所へ逃げたとしても。
「…夢じゃ…ないから……」
僕らに時間と言うものが存在する限り。僕らが完全に現実から逃げない限り。
「…夢じゃないよ、紅葉…これは夢じゃないんだ……」
死を選ぶ事は出来ない。ふたりで生きると決めたから。かと言って、ふたりで生きるには。
―――僕らが課せられた運命は重た過ぎる……
「僕が君を好きだと言う事も、君が僕を好きだと言う事も」
逃れても永遠に纏わりつくもの。逃げても永遠に追いかけて来るもの。それならば。
「…この気持ちは、本物だよ……」
それならばケリをつけるしかないと、分かっている。分かってはいるんだ。
「―――本物、だよ」
でも僕は君を暗殺者へと戻したくない。
そして僕は飛水流よりも君を選んだ。
それがどんなに矛盾した答えか分かっている。
―――分かって、いる。
全てから逃れようとすれば僕らは永遠に拳部館からも、飛水流の末裔からも逃れられない。
全てにケリをつけようとすれば、僕らは離れ離れになる。
どちらも、選べない。どちらも選ぶ事が出来ない。
どちらを選んでも、僕らは傷つかずにはいられない。
それならば、どうすればいいのか?
どうすれば答えが出るのか?
『…僕が…廃人になれば…いいんです……』
君が、廃人になること?
君が麻薬によって人格を壊される事?
そうすれば、逃れられるだろう。
そうすれば、逃げられるだろう。
飛水流からも暗殺者からも。
けれども。けれども。
それが本当に、僕らが望む『ふたり』なのか?
僕らが望んだふたり生きる事なのか?
―――違う…それは、違う……
僕らはふたりで生きたいんだ。
ふたりで『生きて』いたいんだ。
同じ事を想って、違う事を見つけあって。
同じ物に感動して、違う物に笑いあいたいんだ。
君と、僕で。僕と、君で。
命ある事がよかったと。生まれてきたよかったと。
その当たり前のことを想いたいんだ。
当たり前の事が、したいんだ。
空を見て蒼いと思う事。
花を見て綺麗だと思う事。
食事をして美味しいと思う事。
笑いあえる瞬間が幸せだと思う事。
一緒に指を絡めて眠る事。
ともに生きたいと思う事。
一緒にいたいと感じる事。
そんな当たり前のことを、君と。
君と一緒にしたいんだ。
人間なら生まれながらにして与えられる筈のものが与えられなかったふたり。だからこそその当たり前をふたりで、作り上げていきたいんだ。
だから、違う…君が廃人になって手に入れる『ふたり』は…違うんだ……
「泣かないの?紅葉」
――僕が必ず君を、しあわせにしてみせる。
「…泣きません…とっておきます」
――どんなことになろうとも、僕が。
「勿体無いな」
――僕が君を必ず。
「…もう…如月さんったら……」
――必ず光在る場所へと。
太陽の当たる、明るい場所へと……。
そして僕らはまた何本かの電車を乗り継いだ。
幾つ乗ったかなんて覚えていない。
ただ。ただ遠くへと、遠くへと。
世界の終わりへと向うように。
―――世界の終わり、へと……
海の見える家で過ごすのが子供の頃の、唯一の夢だった。夢など見ない僕が唯一望んだ夢は、こうして窓から海の見える家で世界の終わりを見つめる事。
「…これが…海……」
大きな窓を開けて、君が外を見つめる。柔らかい潮風が、君の髪を揺らしながら。
「…凄いです……」
傾き掛けた夕日が君をきらきらと反射する。綺麗だね。綺麗、だよ。本当にここが世界の終わりのようだ。世界の、終わり。
「凄いですね、如月さん」
そして子供のような瞳を僕に向けて、君は微笑う。夕日にその顔を照らしながら。
「そうだね、紅葉」
その瞳を僕はどんなになっても忘れない。忘れは、しない。
丘の上にある小さな家。
海だけが囲むこの家が。
僕にとっての世界の終わり。
子供の頃唯一見た夢の終着駅。
そこにいるのは、君。
僕が唯一愛したひと。
この世界の終わりには、君がいる。
やっぱり、神様なんていないんだね。
信じてはいなかったけれど、ね。
この世の終わりにあるものは。
世界の果てにあるものは。
自分にとって何よりも愛しいひと。
自分にとって何よりも愛するひと。
最期の楽園にいるのは……
そして僕は知っている。
この世界の果てが、この世界の終わりが。
僕の『子供』の終着駅だという事を。
夢を夢だと信じられた子供の時間の終わりだと。
――僕らは死にゆく、子供だと……
ACT/44
埋もれてゆくたくさんの屍。
僕らが脱ぎ捨てた『子供』の抜け殻。
それは永遠の水底に。
静かに、眠る。
柔らかい、夢の中で。
水面に映る太陽の破片に、君はそっと目を細めた。きらきらと散らばる、その破片に。
「太陽が水に反射して…水面の色が紅くなりました…なんか凄く不思議な感じです」
率直な意見を述べる君に、僕はひとつ微笑う。君にとって初めて見る海はどんな風に映っているのかい?
「水は蒼いのに、空の色と一緒に変わってゆく…綺麗ですね」
「うん…僕は海ならば、一生見つめていても飽きないね…君も飽きないけれど」
背後からそっと君を抱きしめた。君はゆっくりと僕に体重を預けて来る。病院にいたせいか…また君の身体が細くなっている。このまま力を込めたら、壊れてしまうのではないと思う程に。
「貴方はどうしてこう…返答に困る事ばかり言うんですか?」
見上げて来る瞳に映っているのは僕の顔だけ。見つめているのは、僕だけ。この瞬間を、一生僕の瞼の裏に閉じ込めておきたい。大切な、大切な場面として。
「どうして?僕はただ思った事を言ったまでだよ」
「…でも…そんな事言われたら…僕はどう返していいのか…分かりません……」
「君の思った通りに言ってくれればいい」
「…じゃあ…恥かしい…です……」
「それだけ?」
「……いじわる………」
小さく君の右手が僕の手をつねる。ちょっとだけ拗ねた瞳で。拗ねた、瞳。君はこんな顔も出来るんだね。こんな表情も。
「僕は君をいじめるつもりはないけど」
「…もう…どうしてそんな風に言うんですか?」
「じゃあどう言って欲しいの?」
「……あ、それは………」
「僕は君が望む言葉をあげたい。君が欲しい言葉をあげたい。どんな言葉が僕からほしい?」
幾らでも、言ってあげるのに。幾らでも、伝えるのに。君が望む言葉のシャワーを。
「…僕は…その……」
「その?」
「…如月さんの声さえ…聴ければ……」
「じゃあさっきの言葉でもいいだろう?」
「…もう…如月さんなんて知りません」
本当に拗ねてしまった君が。拗ねてもこうして腕の中にいる君が。そんな君がどうしようもない程に可愛い。可愛くて僕は仕方ないんだ。
「ごめんね、紅葉。もう意地悪はしないよ。だから僕を見て」
拗ねて俯く君の顎にそっと手を掛けて、そして僕へと向かせる。そんな君の目尻はほんのりと朱に染まっている。そこに指で触れたら、少し熱かった。
「――僕だけを、見て」
「…見て、います……」
「うん、そうだね。君の瞳に僕だけが映っている」
「…貴方の瞳も…僕だけが…映っています……」
「綺麗だよ、紅葉」
そしてそのまま拒まない唇に口付ける。そっと。そっと口付ける。君の瞳を僕の腕に閉じ込めながら。
聴こえるのは、波の音。
繰り返し、繰り返し巡る。
静かな波の音。
静寂の部屋の中で。
その音だけが世界の全てになる。
緩やかに繰り返す。
穏やかに繰り返す。
波の音、だけが。
―――降り注ぐのは僕らの世界の、全ての音。
「少し寒いけど…外に行こうか?」
繋いだ手は、離したくない。
「…はい……」
この温もりを、離したくない。
「もっと近くで」
もしも離してしまったなら。
「…海が見たいです……」
もう二度とこの指を絡めることが出来ないような気がして……。
この唯一の、指先のぬくもりを。
まっさらな砂地に僕らが付けた足跡だけが刻まれる。
他になんにも、ない。他には何もない。
僕らの足跡だけが埋める大地。
――本当にここは。
僕らが辿りついた世界の果てのようだ。
世界の終わり、君と見た終着駅。
君とともに降りた最期の場所。
子供である僕らが埋められる、最期の場所。
僕らの夢が永遠に閉じ込められる場所。
誰も知らない。誰にも分からない。
君と僕以外誰にも触れられない。
触れる事が出来ないただひとつの。
たった一度だけの、永遠。
君と僕の、ただひとつの想い。
君が靴を脱いだ。そしてそのまま足を海に浸す。
僕はその様子を少しだけ離れた場所で見つめる。
押し寄せる波に逃げながら、そして引いてゆく波を追い掛ける君。
子供のようなきらきらとした瞳で。
波とたわむれる君。
そこには銀色の砂と、そして。
そして白い波しかない。
――なにも、ない。
僕らを押しつぶすものも。
僕らを引き裂くものも。
何一つない。
ただ。ただ君と僕がいて。
そして笑っている。
瞳を合わせて、笑っている。
この海と波と、砂の中で。
終末が訪れる事を知りながら。
知っているからこそ、僕らは。
僕らは必要以上にはしゃいだ。
必要以上に笑った。
必要以上に子供になって。
そしてこの海とたわむれる。
君が水を掬って僕の顔にかけた。
そのまま波の中へと逃げ出す君を追いかけて。
何時しか僕らは服が濡れるのも構わずに。
構わずに海水の中へと侵入していた。
波の中へと消える君を追い掛けて、そしてその手を取る。
「びちょびちょですよ、如月さん」
「君もだよ。君も水浸しだ」
「ぽたぽたと髪先から雫が零れています」
「君だって頬から、零れているよ」
「…でも…濡れていても…」
「うん?」
「…如月さんの手…暖かいですね……」
「君の頬も暖かいよ」
「それは、如月さんが触れているから」
「…僕が貴方に触れているから……」
――もしも。
もしもこのままふたり、波にさらわれて。
何処にも戻れなくなって。
何処にも行けなくなって。
この水底に埋もれて。
ふたりで水底で永遠に眠れたならば。
それはしあわせ、なのだろうか?
君の綺麗な瞳を見つめながら。
二度と戻れない場所へと辿り付く事は。
僕らにとってそれも、しあわせ?
このまま『永遠』になることは?
時を、止めて。
永遠に、止めて。
刻む時間をこのまま透明な時間軸に閉じ込めて。
誰にも触れられないように。
誰にも気付かれないように。
永遠の水底で、静かに眠る事は。
―――しあわせ?
「…如月さん……」
君の声が、僕の名を呼ぶ。君のその、声が。
「―――紅葉……」
君の声が僕を現実へと呼ぶ。君の声だけが。
「…愛しているよ……」
しあわせになったとしても。でもそれ以上のしあわせが。
「…僕も…です……」
もしかしたらあるかもしれないじゃないか。
「…僕も貴方だけを、愛しています…」
もしかしたらこの先に、もっともっと。
絶望しかないと一体誰が決めた?
濡れた砂に指を絡める。
指に付いた銀色の砂に。
二人で互いの指先を見つめながら。
見つめながら笑った。
笑い、あった。
「身体、冷えている」
「…だったら…暖めてください……」
「――ここで?」
「…それでも…いいです…」
「それはダメだよ」
「…どうしてですか?…」
「だって月が見ている。君の綺麗な姿は月にすら見せたくない」
「…僕も…見せたくないです…貴方を…」
「君の生まれたままの姿を見れるのは…僕だけだ…」
「…はい……」
「…はい…如月さん……」
ずぶ濡れのままの君を抱き上げて、家へと戻る。
抱き上げた途端君は戸惑って降ろしてと言ったけれども。
それでも今は。今は僕の我が侭を聞いて欲しい。
こうやって君を腕に抱きながら、月の下を砂の上を歩く事を。
月にも、海にも、砂浜にも。
君が僕のものだと。僕だけのものだと、知らせたくて。
今この瞬間を、この世界に刻ませたくて。
今の僕らを刻ませたくて。
―――ふたりを、誰かに見てほしかったから……
End