ACT/45
下弦の月が、そっと照らす夜。
四角く区切られたその空間。
小さく区切られた、空間から。
零れる月の光が。
月の光だけが、ふたりを見ていた。
「床までびちゃびちゃになっちゃいましたね」
室内に着いて君を降ろした途端、ちょっと困ったような声でそう言われた。フローリングの床に散らばる海水が今の二人の、苦笑の原因。
「あれだけずぶ濡れになれば…仕方ないよ、はい」
タオルを放り投げたらちょうど君の頭の上に乗っかった。――もう…と、口にしながら君は笑うとそのタオルで濡れた身体を拭きはじめた。
この小さな家は、僕のものだった。この家だけは僕のものだった。僕が生まれた時、父と母が僕に与えてくれた海の見える家。飛水流の血を強く受け継がなかった父。祖父に見切りをつけられ、けれどもそれ故に自由に生きている父。父の変わりに縛られた僕に対する…罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
―――僕に四神の血を見出した母は、僕を抱きしめながら泣いたと言う。自分の子供でありながら、自分だけの子供ではなくなった事に。
幼い頃から僕は祖父に育てられた。この血のせいで実の両親から引き離された。それも全て如月家の跡取として、生きてゆく為に。祖父に僕はありとあらゆる教育を受けた。
生まれながらに人の上に立つ事を教えられた。そして自分の宿命を、東京を黄龍の器を護る事を。僕は『玄武』としてしか生きる意味を与えられなかった。
如月翡翠と言う人格など必要ないと。個人としての自分は必要ないと、そう言われ続けてきた。
―――つまらないと、思った。全てがつまらないと。
そんな大人達の都合で、宿命だけで決められた人生なんて。なんてつまらないものなのか。僕に対する選択肢が何一つない。僕自身が選ぶ選択肢が何一つ。
そして何時しか僕は全ての事にひどく無関心な子供になっていた。欲しいと一言言えば何でも与えられる子供。不自由な事など何一つない子供。でもそれこそが、何よりも僕にとって不自由な事だった。
お金なんていらない。地位なんていらない。寄って来る女なんていらない。皆が望むもの。皆が羨むもの。けれども僕には必要のないもの。
「――如月さんも乾かさないと、風邪引いてしまいます」
別のタオルを持って来て君が僕の髪を拭いた。小さく微笑いながら、そっと君が僕の髪を乾かす。
「ありがとう、紅葉」
君だけが、欲しい。君以外、いらない。君がそばにいてくれれば、いい。君がこうして僕の傍で笑ってくれたならば他に何もいらない。
「床の掃除は僕がしておくから、お風呂…沸かしてきてくれるかい?」
「はい、でも」
君だけが『如月翡翠』の持つ真実だ。君だけが僕自身の真実だ。宿命も運命も届かない場所で、見付けた唯一のもの。
「でももう少し髪、乾かしてからですね」
―――僕が唯一みつけた、たったひとつの真実。
君が、わらって。
君が、ないて。
君が、おこって。
君が、ほほえんで。
君が。君が…。
そのひとつひとつを、胸に刻む。
終幕へ向かう僕らには、希望の欠片を見出す事が出来るのだろうか?
絶望の翼の中の、ただひとつの希望の羽根。
ただひとつの白い羽根。
君の背中に生えているその羽根を。
どうか、どうか。
―――誰ももぎ取らないでくれ……
「この家のお風呂も、大きいんですね」
お湯を張り終えて戻ってきた君が少しだけびっりしたようにそう言った。
「うん、うちの母がお風呂好きだからね」
「そんな理由で大きいんですか?」
「多分…って僕にもその理由は分からない。でも」
不意打ちのように君を抱きしめて、そしてそのまま抱き上げた。また君は少しだけびっくりしたような顔をして、でも次の瞬間にはおずおずと首に手を廻してきた。
「でも一緒に入れるから…万事OKだよ」
耳元にそっと囁いた言葉に、微かに頬を染めながら。それでも小さく頷いた君に。そんな君の額にひとつ、キスをした。
――――愛して、いるよ……
ぴちゃりと頬にお湯が跳ねる。その跳ねたお湯に君の手が触れて、そのまま指で掬い取った。
「やっぱり広い風呂はいいね。こうして君と一緒に湯船に浸かれる」
後ろから君を抱きしめて、そのまま耳に息を吹きかけるように囁く。その瞬間、頬に触れていた君の手が、ぴくんと反応した。
「くす、前にもこんな風にした事があったね。あの時は悪戯出来なかったけど」
「…如月さん…それって……あっ」
お湯の下で抱きしめていた僕の手を、君の胸の果実に這わせた。その瞬間君の身体がぴくんと跳ねて、そして次の瞬間に僕の手は君の指によってつねられてしまった。
「――ってもう…何やっているんですか?!」
「悪戯、だよ」
それでもめげずにもう一度君の敏感な突起に触れる。湯船の中のせいか、何時もと違う感触が僕の指先に伝わった。
「…ちょっと…やめ…はぁ……」
もう一度つねようとしたのか君の手が僕の手に掛かったが、そのまま止まってしまった。君の両方の胸を僕の指が支配したせいだろう。君の指先に力が入らなくなる。
「…あっ…やめ……」
「止めて欲しいなら、さっきみたいに僕の手をつねったらいい」
「…あんっ…意地悪……こんなんされたら…出来ない……」
親指と人差し指でそれぞれを摘み上げて、ぎゅっと力を込めてやった。すると堪えきれずに君の身体がお湯とともに波打つ。
「じゃあ続けても、いいかい?」
「…ここで?……」
「イヤ?」
「……だってのぼせちゃう……」
「大丈夫。のぼせたら僕が、ちゃんと開放してあげるから」
耳たぶを噛みながら、胸を弄りながら囁いた言葉に。
「……責任…取って…くださいね……」
―――君はついに、承諾した。
変な感じ、だった。貴方の指が湯船の中で僕に触れてくる。それは何時もの感触と微妙に違って。違って何だか変な気持ちだった。
「…あっ…あん……」
耳たぶを甘噛みされながら、胸の果実を玩ばれる。それだけで甘い息を堪え切れないのに、湯船の中で密着した身体が余計に快楽を呼び起こす。
熱い、身体。こうやって抱き合っている時は何時も熱いと感じるのに、今は。今はお湯を隔てているせいかその熱さが微妙に違う。その何時もと違う感じが、僕をひどく興奮させていた。多分。多分水のせいで密着している筈の肌が、完全に密着していないから。
それが。そのもどかしさが、淋しさが、何故か逆に僕の快楽を早めてゆく。そして。
「…あぁ…ん……」
そして湯船越しでも感じる貴方の熱い昂ぶりが、より一層僕の身体に火を付けた。
「…あぁ…如月…さんっ……」
貴方の手が僕自身に触れる。水の中で淫らに蠢く貴方の手に、僕は既に限界まで形を変化させていた。
「くす、もうこんなになっている…湯船の中の方が、感じるのかい?」
「…あんっ…そ、そんな事は……」
幾ら口で否定しても、僕のソレが何よりも雄弁に語っている。貴方の手のひらの中でどくどくと脈打つソレが……。
「…あ…ダメ…如月さん…ここで出したら…お湯が…汚れ…」
「いいよ、汚しても――ほら」
「ああ―――っ!!」
先端を扱かれて僕のソレからはどくどくと白い欲望が吐き出された。
「…んっ…あ……」
ぴちゃりと、水が跳ねた。けれどももうそんな事はどうでもよかった。
「…ああ…あ…」
足を広げて、貴方のソレを僕はそのまま最奥まで飲み込んだ。貴方が僕の中に入ってゆくたびに水が頬に跳ねたが、そんな事気にもならない。
「…はぁ…ぁぁ……」
貴方が中に入ると同時に水も侵入してきた。それが。それがひどくもどかしい。全部貴方で埋めて欲しいのに。
―――貴方の全てで埋めて欲しいのに……。
「…あっ…あぁ……」
それでも下から突き上げて来る貴方のソレに、何時しか僕の身体酔い始めた。その熱い塊に。
「…如月…さんっ……」
「紅葉、出していいかい?」
「…はい…出して…ください…僕の中に……」
その言葉を合図に、貴方は僕の最奥を抉ってそして水ではない液体で僕の中を満たした。
繋がっていた箇所を外して、僕は君を抱き上げて湯船から出した。そしてその身体にシャワーを浴びさせる。
「…あ…如月さんっ……」
どろりと君の奥から流れ出した液体もシャワーで流してやる。指先で奥から掻きだしながら。
「…や…ダメです……」
「綺麗にしているだけなのに…感じたの?」
僕の言葉に恥ずかしそうに、けれども小さく頷く君に。君に僕は……。
「――もう一回…挿れても…いいかい?」
「…如月さん……」
君はイエスとは言わなかった。けれども。けれども君の瞳がその返事を雄弁に語っていた…。
中にある液体が全て外に出されて。
そして再び貴方が僕の中に入ってくる。
今度は。今度は何も貴方を隔てるものがない。
僕の中を貴方自身が全て満たしてくれた。
抱き合う肌も、繋がった箇所も。
何も。何も隔てるものがない。
じかに貴方が触れている。
貴方の熱さを感じる事が出来る。
僕は何時しか自分から腰を振って貴方を求めていた。
羞恥心も何もかもを忘れて、ただ。
ただ欲望のままに、貴方を求めた。
―――本能のままに、貴方を求めた……。
「ごめんね、やりすぎちゃったかな?」
腕の中で気を失っている君に、僕は一言呟く。君には決して届く事のない言葉を。
「でも紅葉…嬉しかったよ……」
「君があんなに僕を…求めてくれた事が……」
多分何処かで、気付いていたのかもしれない。
多分何処かで、怯えていたのかもしれない。
貴方を失うのではないかという事を。
――こころの何処かで、気付き怯えていた……。
だから、刻む。
僕の身体に、僕の心に。
貴方を刻む。
決して、消える事がないように。
決して、忘れる事がないように。
どんな時でも貴方を覚えていられるように。
――――僕の、全てで貴方を刻む……
ACT/46
瞼を閉じた先の現実。
夢と現実の境界線が何時しかごちゃ混ぜになって。
どちらが夢なのか、どちらが現実なのか。
分からなくなって。分からなくなったから。
何時しか僕は『こちら側』の人間になってしまうかもしれない。
―――まだ白い服を着ていないのに……
窓を全開に開いて、風を室内へと迎え入れる。潮の匂いのするその風を。海の香りがするその風を。
「……如月…さん?……」
ぽつりと呟くように言った君の言葉はまだ何処かぼんやりとしていた。それでも無意識に手を伸ばしたのは、僕を探していたから?
「ここにいるよ、紅葉」
宙に浮いた手をそのまま僕は包み込んだ。広がっていた君の指が安心したように一つづつ閉じられてゆく。細くてそして、痩せた指が。
「よかった、如月さん」
繋いだ温もりが君を安心させたのか、子供のような笑顔でそう言った。こうやって寝起きの無防備さを君が見せてくれるようになった事が、僕にとっては何よりも嬉しい事だった。
「怖い夢でも見たのかい?」
繋いだ手を離さないまま、君の額に一つ口付けを落とす。その口付けに君の瞼は震えながらも閉じられた。
「…見ました…怖い夢を……」
「僕が傍にいるのに君にそんな夢を見せるのは…不覚だね」
冗談混じりに言った言葉に、君は閉じていた瞳を再び開いた。そして瞳だけで、微笑う。
―――ああ君は…こんな顔も出来るようになったんだね……。
「如月さん、僕もしかして気絶したり…しました?…」
「ちょっとムリさせちゃったみたいだね」
僕の言葉に君の頬が微かに朱に染まる。そして恥かしいのか、目だけ出して布団を被ってしまった。
「紅葉、布団上げて」
「…イヤです…恥かしい……」
「でもそうしたら君にキスが出来ない」
「…如月さん……」
「目覚めのキスをさせてくれるかい?お姫様」
「………」
君はその言葉におずおずと布団を上げて。そしてそっと目を閉じた。
怖いと思った事は一度しかなかった。
今までたった一度だけ。
館長に初めてこの身体を犯された瞬間。
あの時だけが僕にとっての『恐怖』の瞬間。
後はもう。もう全てが麻痺してしまって。
麻痺してしまって怖いと思う事がなくなった。
―――怖いとすら、思う事が。
自分に降り掛かった運命を、何時しか。
何時しか受け入れる以外にないと。
そう思って諦めた。諦めたら全てのものが。
全てのものが怖いとすら思えなくなって。
ただ全てのものを受け入れるしかなかったから。
でも、今。
今僕は怖いと、思った。
目覚めた瞬間に、貴方がいなかったらと。
そう思ったらどうしようもない程に怖くなった。
貴方がいない世界が、怖い。
貴方が存在しない世界が、怖い。
貴方自身の世界に僕がいない事が、怖い。
貴方の死は怖くない。
だって貴方が死んだら僕の世界はその瞬間に終わるから。
貴方が死んだら僕も死ぬから。
だから貴方の死は、怖くない。
でも。でも貴方が生きていて。貴方が存在して。
それでも、もし。
もしも貴方の世界に僕が存在しなかったら?
貴方の中に僕の居場所がなかったなら?
そう思ったらどうしようもない程に怖くなった。
僕にとっての恐怖。
それは貴方が僕を見ない事。
貴方が僕を受け入れない事。
それが何よりも。
――何よりも、怖い。
貴方の世界に僕が存在しない事が……
「夢を、見たんです」
貴方の首筋に腕を絡めて。そして。そして貴方のぬくもりを感じる。
「…貴方の夢…でした……」
貴方を引き寄せる僕に、抱きしめ返す事で答えてくれる。その優しさが、好き。
「…僕が目の前にいるのに…違う人と笑っている貴方の夢でした……」
僕の身体をすっぽりと包み込んでくれる腕が。淋しい僕のこころを全て包み込んでくれるその腕が。大好き、だから。
「…僕の前を…通り過ぎてゆく…貴方の夢でした……」
――大好きだから、もう。もう離せない……。
貴方のいない世界なんて。
貴方がいない現実なんて。
もう僕には。
僕には、考える事が出来ないから。
貴方と出逢う前の僕は…どんな風だった?
「ごめんね、紅葉」
「…如月さん……」
「君の夢の中で独りぼっちにさせて…ごめんね……」
「…あ…謝らないで…ください…僕が勝手に見た夢だから…」
「それでも君にそんな夢を見せてしまった」
「………」
「僕が傍にいながら…無意識に君を不安にさせていた…そんな夢を見てしまうほどに…」
「…どんな理由だろうとも…君を独りにしてしまった……」
貴方の手が僕の頬を包み込む。
大きくて、そして優しい手。
全てを包み込む、暖かい手。
そして。そしてひとつ。
ひとつ僕の唇に口付けをくれる。
目覚めの、キス?それとも。
それとも誓いの、キス?
ねえ、どうして?
どうした貴方はこんなにも優しいの?
どうしてこんなにも優しく出来るの?
僕は僕のことだけで精一杯で。
僕自身の傷を癒す事に。僕自身の心を癒す事に。
精一杯なのに。それなのに。
それなのに貴方は自分自身の事すら振り返らずに。
立ち止まらずに、前に進んで。
僕の手を引いてくれる。僕を導いてくれる。
自分の廻りしか見えていない僕を、その大きな手で。
―――大きな手で、導いてくれる。
貴方の優しさが、僕を埋めてゆく。
空っぽの僕を埋めてゆく。
何時しか僕を満たすのは貴方だけになって。
僕はそれ以外の事を考えられなくなっていた。
貴方以外のものを見えなくなっていた。
「どうしてこんなにも」
「紅葉?」
「こんなにも貴方が好きなんだろう?」
「…僕もだよ……」
「もうどうしていいのか分からないんです。好きになりすぎてどうしていいのか」
「…そうだね、僕も分からない…君をどうしたいのか…」
「ずっと貴方を見ていたい」
「僕は見ているだけじゃイヤだ…僕は君に…触れたい……」
「貴方の色々な顔を、見ていたい」
「僕は君の色々な表情を、僕だけのものにしたい」
「僕も貴方を独りいじめしたい…出来るならば……」
「出来るなら…運命から…貴方を奪いたい……」
出来るならば、何もかもから。
生すらも死すらも。
それすらからも貴方を奪いたい。
どうしたら、いいの?
どうしたら、満たされるの?
多分どんな答えを出しても、ダメなんだろう。
こうして逃げ続ける限り。
逃げ続ける限り追いかけて来る運命からは。
決して逃れる事は出来ないのだから。
―――ならば今。今、この瞬間だけでも。
「貴方を好きでいる限り…永遠に答えは出ないのかもしれない……」
「いいんだ、それで」
「…如月さん……」
「初めから簡単に出る答えなんて…僕はいらない。そんな甘いだけの想いで僕は君を愛したんじゃない」
「…そうですね…初めから…それくらいの想いならば…こんな風にならなかった……」
「どうにも出来ない程、君を愛したのだから」
――君の想いは。
君の想いは純粋過ぎる程に残酷だ。
でもそれは。
それは僕が最も欲しかったものだから。
生半可な想いならば、初めから。
初めから僕らは手を取ったりはしなかった。
「紅葉、今度はこうして抱きしめてあげるから……」
僕をそっと抱いたまま、貴方は隣に横になる。僕はそのまま広い胸に顔を埋める。そうする事で聴こえる心臓の音が。命の音が何よりも僕を安心させて。
「…もう怖い夢を、見ないように……」
安心させて、僕の瞼を降ろさせる。その腕の暖かさと、貴方の心臓の鼓動が。
―――そしてその夜、二度と僕は怖い夢を見る事はなかった……。
ACT/47
夢の先に、あるもの。
夢の先に存在するもの。
それは。
それは、何だろう?
必死になって手を伸ばした先に、僕が掴んだものは?
―――何故?
と、何度も思った。どうしてだと。
どうしてこんなにも、と思った。
何度も何度も心の中で繰り返し。
何度も何度も自分に問い掛けて。
そして。そしてその先に。
その先に辿りついたものは。
やっぱり、初めに戻った答え。
永遠の迷路。メビウスの輪。
答えなんて出はしない。
幾ら求めても答えなんて出はしない。
―――何故、貴方が好きなのか?
どうしてこんなにも好きになってしまったのか。
どうしてこんなにも貴方以外見えなくなってしまったのか。
どうして、こんなにも。
それならばそれでいいと言う思いと。
このままではいけないと言う思いが交差する。
このまま貴方の愛に溺れて、そして何も見えなくなる事の幸せ。
貴方の腕に抱かれていれば、どんな恐怖もありえない。
そこだけが僕にとっての唯一安全な場所。
けれども。けれども、と思う。
僕は貴方を愛すれば愛する程に弱くなってゆく。
一つ一つ僕が覆っていた殻が剥がされて、そして無防備な僕の心が曝け出される。
貴方の前では何も覆うものなんて必要ないから。
貴方の前で壁を作る事も、心を殺す事も必要ないから。
それが。それが余りにも心地よくて、そして余りにも暖かくて。
―――だから僕はその全てに甘えてしまう。
でも本当は。本当はそれだけではいけないとまた何処かで分かっている。
貴方の腕の中は心地よくて、そして何よりも優しい。
けれども、僕は何もしていない。
貴方に与えられるばかりで僕は。僕は自分から何もしていない。
傷ついた心と身体を盾に僕は貴方に甘えてばかりで。
貴方が導くその腕に引かれて、ただ。
ただ貴方の後を付いてゆくだけの自分。
与えられたものが余りにも暖かかったから。
与えられたものが余りにも優しかったから。
このまま、と。もう少しこのまま、と。
何時しか自分自身にすら甘えるようになっていた。
―――僕が貴方の為に、出来る事。
それは、何ですか?
こんな僕でも貴方に出来る事は何ですか?
貴方の為にしてあげられる事はありますか?
貴方の為に、僕は何が出来ますか?
貴方が僕の笑顔を見たいと言うならば。
僕だって貴方の笑顔を見たい。
貴方に笑っていて欲しい。
その為に僕が出来る事は。
僕がしてあげられる事は何かありますか?
同じ、なのに。
想う気持ちは同じなのに。
どうして、かな?
どうしてこんなにも違う結果が出てしまうの?
―――愛する気持ちは、貴方にも負けないのに……
僕が貴方よりも先に目が醒める事が、ひどく不思議な感覚だった。僕が目を開ければ必ず貴方の優しい笑顔が包み込んでくれるのに、今は。今は貴方の長い睫毛は閉じられている。
「………」
そっと手を伸ばして貴方の髪に触れた。けれども貴方はピクリとも動こうとしない。眠りが深いみたいだ。聞こえて来るのは寝息だけだった。
「…如月…さん……」
一度だけ名前を呟いた。口の中に広がる甘い柔らかさ。貴方の名前を呼べる事の幸せ。
こんな風に改めて貴方の寝顔を見る機会なんてなかったから、ちょっとだけ緊張してしまう。けれども。けれどもまた、僕が知らなかった貴方を見る事が出来るのが、嬉しい。
―――綺麗な、ひと。本当に怖い程に綺麗な人だと、改めて思う。でもその綺麗は決して女の人に使うような言葉じゃない。
多分貴方の笑顔を知らない人は、きっと『怖い』と思うだろう。その綺麗な顔は綺麗過ぎる故に他人に無意識の恐怖を抱かせるだろう。
そして。そして貴方の鋭い視線は…きっと射抜かれたら…竦み上がってしまうだろう。
でも。でも僕は知っている。貴方の瞳がどんなに優しいか。貴方の視線がどんなに柔らかいか、僕は知っているから。
貴方は自分の大切なものを護る為ならば、幾らでも強くそして恐怖の対象になれるのだろう。それが何よりも、羨ましい。
僕は。僕は貴方のようにはなれない。大切なものを護れるだけの強さも余裕もない。自分のことで精一杯で…自分自身の事すら護れなくて…。
―――僕だって貴方を、護りたいのに……
「…僕が……」
強くなりたい。自分自身を、自分の大切なものを護れるだけの強さが。強さが僕にも欲しい。強く、なりたい。
「…貴方の為に出来る事って…なんですか?……」
でももう、僕には。僕には時間が残されていなかった。僕の身体から零れてゆく砂時計の砂は、もう。もう僅かしかない。
それを逆さにすれば僕はまた人殺しの生活に戻らなければならない。貴方に出逢う前の僕に。それは。それは、イヤ……。
我が侭だと分かっている。これは自分勝手な我が侭だと。それでも薬漬けになってただ生かされて、人形のようになるのはいやだから。そんな自分を貴方に見せたくないから。
それならば。それならば例え狂っても、人間でいたい。
貴方を愛して、貴方だけを想って。そうした自分の正直な気持ちで。自分の本当の気持ちのまま。そのままを貴方に見せたいから。
「…ただ貴方を好きになっただけなのに……」
平凡な人生が欲しかった。ただ当たり前のものを与えられる人生が欲しかった。特別なものを望んだわけじゃない。望んだのはただ。ただしあわせになりたい、それだけだった。
―――しあわせに、なりたい。
でも。でも、もしもと思う。もしも本当に平凡な人生が自分に与えられていて、与えられていたならば、こんな風に貴方と出逢う事もなかったかもしれないと。
平凡で優しい人生と、今のどうしようもなくても貴方に逢える人生と。もしも選べと言われたならば。もしもどちらかを選べと、言われたら?
―――僕は迷わず貴方を選ぶ。
もしかしたら。もしかしたら僕にとってのしあわせは。しあわせは貴方と言う存在に巡り逢えた事なのかもしれない。
こうして貴方と出逢った事事態が、しあわせなのかもしれない。
もしもあの日僕が雨が降っているからと、外に出るのを止めていたら?子猫の鳴き声が聴こえなかったならば?ほんのひとつ歯車が狂うだけで、僕らは出逢う事は出来なかった。
少しでも偶然が反れたならば、僕らの運命は交わることはなかった。
僕らの紅い糸は、絡み合う事がなかったんだ……
『――紅葉……』
貴方の声が、好き。優しく僕を呼んでくれる声が。
『愛しているよ、紅葉』
貴方の腕が、好き。そっと僕を抱きしめてくれる腕が。
『君だけを、愛しているよ』
貴方の全てが、好き。僕を包み込んでくれる全てが。
―――何よりも、大好き……
「僕は今まで自分の歩んで来た道が不幸で、何時も違う場所に行きたいと…違うものになりたいとそればかり考えていました。母の事も人殺しである事も、館長にあんな風にされていた事も全て…全て真っ白にして別なものになりたいとそればかり考えていました」
――でも…でも今は……
「でも今は僕は僕自身のこの道を受け入れたいと思います。僕の過去は消す事は出来ない。僕の受けた傷も消える事はない。僕が人殺しである事実も消える事はない。でもそれは…それは僕の歩んで来た道だから…貴方に出逢う為に…必要なものだったから…」
どんなに酷い事をされてきても、どんなに辛い思いをしてきても。
それが貴方に出逢う為の欠かせないパーツならば。
「…貴方に出逢う為に…そう言う道を歩む事が決められていたなら……」
「――君は、強いね…紅葉……」
髪に触れていた手が、不意に掴まれる。そしてそのまま腕の中に抱きしめられた。広い貴方の腕の中に。
「…き、如月さん…何時から目が醒めて……」
驚きながら貴方を見上げた僕を、その唇が言葉を閉じ込める。触れるだけの優しい口付けは、僕の意識を溶かしてゆく。
「ちょっと前に…君の独白を聞きたくて寝たふりしていた」
「……人が…悪いですよ……」
「ごめんね、でも君の口から聴きたかったから。どんな風に思っているのか…聴けてよかった……」
「…………」
「君がそうやって過去を受け入れて、そして乗り越えようとしている事が分かったから」
「…如月さん…僕は…」
「うん?」
「…今まで本当にただ自分の事を嘆くだけで何も出来なかった…だから……」
「何もしていない?それは嘘だ。君は僕にたくさんのものをくれたじゃないか?」
「…如月さん?……」
「今まで僕が本当に欲しかったものは誰も与えてはくれなかった。僕にとって必要のないものばかりが、僕に与えられていた。でも。でも君は僕が一番欲しかったものを差し出してくれたんだ」
「…僕は…何も、していない……」
「違うよ、紅葉。君だけが僕にくれた。君だけが僕に与えてくれたんだよ」
「君だけが、僕に真っ直ぐな視線とこころを」
「君だけが僕を『如月翡翠』として見てくれた。僕の付属品ではなく、僕の本当の心を見てくれた。君だけが僕の魂にじかに触れてくれた。誰も…誰も上辺だけでしか僕を見なかった。君以外誰一人僕の内側まで踏み込もうとしなかった」
欲しかったもの。
本当に欲しかったもの。
それはただひとつの真実。
たったひとつの、真実。
それだけが。
それだけが、欲しかった。
僕にとって他人が欲しがるもの全てが。
全てが必要ないもので。
僕にとって他人が簡単に捨ててしまうものが。
本当に欲しかったものなんだ。
「君は僕が飛水流の末裔でなくても如月家の跡取でなくても、この顔をしていなくても…僕を好きだと言ってくれるだろう?それが。それが僕が欲しかったものなんだ」
こくりと、頷く君が。
それが全てなんだ。
それが僕にとっての。
僕にとっての、真実なんだ。
それ以上もそれ以下もない。
―――それが全て、なのだから……
「ありがとう、紅葉」
「―――如月さん……」
「…ありがとう……」
「僕を好きになってくれて…ありがとう……」
君という存在を僕に与えてくれた全てのものに、僕は感謝します。
ACT/48
決められた道を歩む事を運命付けられたとしても。
その道を踏み外して、また。
また違う道を選ぶのも…運命なのかもしれない。
違う選択肢を選ぶ事も、運命なのかもしれない。
白い服を着て。
貴方の元へと飛びたつ。
真っ白な翼で。
貴方の元へと舞い降りる。
―――何時か。何時の日、にか……。
海を、見ていた。
何をする訳ではなく、ただ海を。
一日中蒼い海を見ていた。
地平線に沈む太陽がきらきらと輝いて。
きらきらと輝いて瞼を擦り抜けてゆく。
その光の乱反射に埋もれて。
埋もれて眠るのもいいかもしれない。
ただこうして静かに、眠るのも。
「あの海の向こうには…何があるんでしょうか?」
君が目を細めながら、光の乱反射の先にある地平線を追う。無限に広がるその箇所を。
「海がある…ずっと海が続いている……」
風が僕らの前を擦りぬけてゆく。潮の匂いのする風が。今ふたりの体臭は潮の香りが交じり合っているだろう。この海の、匂いが。
「無限に海は続いているのですか?」
岩場に越し掛け、振り返る君は。太陽の光に反射されて、とても綺麗だった。色素のない肌に光のせいで微かに色が灯るのが、それがとても。
「うん、無限に続いているんだ。終わりなく、ずっと」
柔らかく微笑う、君。優しく微笑う、君。静かな時間の中で、止まった時間の中で、君は微笑む。
―――ここだけが、全てから切り離された場所。
全ての俗世から、全ての社会から、閉鎖された空間。切り取られた場所。そこに君と僕がいる。君と僕だけが、在る。
「僕は世界の終わりがあるのかと思っていました」
「世界の、終わり?」
「はい。世界の果てがこの先にあると思っていました」
世界の、終わり。世界の、果て。何処かで僕らが無意識に望んだもの。終わりある場所に最期の場所に辿り着く事。けれどもまだ僕らは辿り着けない。まだ僕らは真っ白な服を着ていない。
「でもやっはり…世界はまだ…続いているんですね……」
互いへの執着はきっと永遠に消えない。この想いは決して色褪せる事は無い。永遠に消せない想い。そして消えない、想い。
―――この想いがある以上僕らは白い服を着られないのではないか?
「死ぬ事よりも、貴方といたい以上…世界は終わらないんですね……」
君は。君は終わらせたかったのか?この世界の果てで、世界の終わりで。全てに幕を引きたかったのだろうか?
「…終わりたかったのかい?……」
僕の問いに君は。君はイエスともノーとも答えなかった。ただその哀しい程に綺麗な瞳で僕を見上げるだけだった。
真っ白な服を着て。
『あちら側』へと。
あちら側へと誘う声。
甘く囁くその声は。
その声は何時しか僕自身に重なる。
僕自身の、声に。
僕は『あちら側』へと行きたかったのだろうか?
貴方と生きたいと望みながらも。
貴方と共にいたいと想いながらも。
それでも甘く誘う死の誘惑に。
僕は何時しか呑まれそうになっていた。
「今この瞬間が幸せであればある程…僕が満たされれば満たされるほど……」
真っ白な服を着て。真っ白な翼を背中に生やして。そして。そして遠い場所へと。二度と戻れない場所へと。
「…今この瞬間に…死ねたらと…思うようになっていました……」
二度と還れない場所へと。何時しかこの背中の翼で。
「でもそれ以上に…」
「もっと貴方といたいと…貴方を見ていたいと…思ったから……」
僕はまだその場所へと行けない。
僕は真っ白な服を着れない。
真っ白な羽根を持てない。
貴方への想いが服を紅く染める。
貴方への想いが翼を黒く染める。
だから。だから、僕は。
―――この『現実』を手放す事が出来ない……。
「本当は、怖いんです…僕は……」
綺麗な貴方の瞳。優しく僕を見つめる瞳。その深い色に僕は捕らわれた。
「…このまま…僕の薬が切れて…廃人になったら…」
捕らわれた。捕らわれたかった。何時でもその瞳に僕を映して欲しくて。
「…貴方は僕を…捨てるのかもしれないと……」
「…もう僕を…見てくれないのかもしれないと……」
零れる、不安。
零れ落ちる恐怖。
心の中に抑えようとして。
心の中に閉じ込めようとして。
それでも出来なかった。
―――出来なかった……。
こんな事を貴方に言えば、貴方は怒るかもしれない。
―――そんな事は、ないと。
こんな事を貴方に言えば、貴方は困るかもしれない。
―――何故、そんな事を言うのかと。
それでも。それでも押さえ切れない気持ちは。
押さえ切れないほどに貴方を…愛してしまったから……。
「ちゃんと言葉にしたね」
「…如月…さん?……」
「ちゃんと気持ちを言葉にしたね」
「…僕は……」
「こうやってちゃんと、君は」
「君の言葉で僕に気持ちを伝えてくれた」
何時しかがくがくと震えていた僕の手を。僕の手を貴方はそっと包み込んでくれた。優しい手で。大きな手のひらで。包み込んで、くれた。
「気持ちを胸に溜めないでくれ。どんな些細な事でもいいから、僕に言ってくれ」
「…でも……」
「でも?」
「…でも…貴方に…嫌われたら…」
「どうして僕が君を嫌うの?君の言葉なら僕はどんな言葉でも聴きたいんだ。例えその言葉が僕の気持ちと違っていてもいい。僕の意にそぐわなくてもいい。そんな事は問題じゃない」
「…でももしも貴方を傷つけたら……」
「構わないよ、紅葉。構わないんだ。僕にとって怖いのは君が何も言ってくれない事だ。君の中に気持ちを閉じ込めてしまう事だ。その方がよっぽど傷つくよ」
「…如月さん……」
「僕は君の全てが知りたいんだ。君の言葉全てを聴きたいんだ。君がどう思って、君がどう感じているか…その全てを君の口から聴きたいんだよ」
「どんな言葉、でも?」
「聴きたい、君の口から。聴かせてくれ…紅葉……」
「…聴かせて、くれ……」
「…怖いんです…本当は……」
「うん」
「…このまま薬が切れて…正常ではいられなくなって…貴方が貴方だと分からなくなるのが……」
「…うん……」
「…でもそれ以上に…そんな僕でも貴方が好きでいてくれるのか…そんな僕でも貴方は傍にいてくれるのか…貴方だと分からない僕でも…壊れてしまった僕でも……」
「……貴方は僕を好きでいて、くれますか?………」
「好きだよ」
迷わず貴方はそう言った。真っ直ぐな瞳を僕に向けながら。その揺るぎ無い強い意思を持つ瞳を僕に向けながら。
「君が好きだよ。例え壊れても、愛している」
何時しか僕の手を包み込んでくれていた手が、背中に廻ってそのまま引き寄せられた。暖かくて広い腕の中に。
「君が僕を分からなくても…僕が君を分かっているから…だから」
「…如月さん……」
「だから、ずっと一緒にいるんだ」
「僕らはずっと一緒にいるんだ」
君がもしも僕を分からなくなっても。
分からなくなったなら、それで。
それでも構わない。
また、始めればいいんだ。
また最初から、ひとつづつ。
ひとつづつ、積み上げてゆけば。
―――もう一度、ふたりで………
「簡単な事だよ、紅葉」
とても、簡単な事なんだ。
「もし僕が君のことを分からなくなってしまったら、君は僕を捨てるかい?」
「いいえっ!そんな事は絶対に」
「それなら簡単だろう?」
「…如月さん……」
「君と同じだよ。同じなんだ」
とても、簡単な事。君が想っていると同じだけ、僕も想っていると言う事。
「だから僕は君の傍から、離れない」
―――如月さん……
そう言葉にしようとして、その声は貴方の唇に閉じ込められた。
それでも僕はもう一度こころの中で囁く。
―――如月…さん……
貴方の名前だけを、呼ぶ。
今になって僕は気付いた。
貴方がこの時に言った言葉の意味を。
この言葉の意味を。
全てが過ぎ去った今、僕は気がついた。
僕らは本当に。
本当に同じ想いをしたのだと。
同じ想いを、したのだと。
―――同じ、気持ちだったのだと……
End