Femme Fatal ・13


ACT/49


もしも、生まれ変われるならば何になりたい?
―――鳥になりたいです…
鳥?どうして?
―――空を、飛びたいから…自由に空を…
じゃあ僕は木になろうかな?
―――木、ですか?
そうしたら君が枝の上に止まれるだろう?
――― 一緒に鳥にはなってくれないのですか?
…一緒になるのもいいけど…君が雨に濡れた時に僕の葉で雨から護りたい。
――――でもずっと一緒にいられません…
でも君を、見ていられるだろう?空を飛ぶ君を。

自由に羽ばたく君を、見ていられるだろう?

―――じゃあもしも僕が魚になったなら?
ならば海になるよ。何時でも君を見つけられるように。
―――…じゃあ…花になったなら……
そうしたら太陽になるよ。君を照らせるように。でもね。

やっぱり、人間に生まれたいね。

君にこうやって触れたいから。君を抱きしめたいから。君と言葉を交わしたいから。君と瞳を見つめあいたいから。やっぱり人間に生まれたい。
―――人間に生まれたら…辛い事ばかりです……
僕は辛くないよ。君に出逢えたから。君と同じ時代を生きられるから。君と同じ時間を過ごせるから。
―――……そうですね……そうですね…人間に生まれなければ……

―――こんな風に…貴方と抱きしめ合う事が…出来ない……

手があって、足があって。口があって、目がある。全部君に触れるために。君を見つめるために。君と、生きてゆくために。
―――人間に生まれてこなかったら…こんな胸の痛みも…こんな満たされた想いも…分からない…ですよね…
人間は唯一『こころ』がある生き物だから。唯一感じる事が出来る生き物だから。
―――そうですね…こうやってこころがあるから…貴方を感じる事が出来る。
こころがあるから、触れ合えるんだよ。重なり合えるんだよ。
―――…そうですね…こころが…あるから人間は……

―――何よりも強くて、何よりも弱い生き物なんですね……


言葉を口にする事が。
自分の想いを口にする事が。
今一番僕らには必要な事。
包み隠さず本当の言葉で。
剥き出しの想いで。
自分の言葉で気持ちを伝える事。
それが。
それが、何よりも大切。
何よりも、大切な事。


「もっと君と話がしたい」
「…前にも…同じ事を言いましたね…」
「うん、言ったよ。でもまだ足りないから」
「そうですね…僕も…もっと…貴方と色々な話をしたい」
「大丈夫まだ僕らはそれが出来る」
「…如月さん……」
「後悔がないように、いっぱい。いっぱい君の言葉を聴かせてくれ」
「…はい…如月さん……」


僕らは時間を忘れて語り合った。互いの想いを語り合った。それは稚拙な言葉かもしれない。それは下手な言い回しかもしれない。でも。でも僕らにとってそれが『真実』だから。
僕らの剥き出しの想いを。僕らの本当の想いを、語り合ったから。
君が僕をどう想っているのか。僕が君をどう想っているのか。そして。そして今までの事。
今まで僕らが生きてきて、そして感じた事を。感じた事を全て告げた。それは決して綺麗なものではない。それは決して優しいものではない。
それでも、その全ては僕らにとって本当のことだから。嘘ひとつない真実のことだから。

―――僕らは時を忘れて、その想いを告げる。


「貴方に逢って、まだそれほどの時が経っていないのに…もうずっと一緒にいる気がします…」
「僕もだよ。今まで僕が過ごしてきた時間なんか、比べ物にならない程大切な時間だ」
「今まで僕は『生きて』いませんでした。ただ空気を吸っているだけの、ただその場に存在しているだけでした。貴方と過ごして初めて僕は生きているんだとそう思いました」
「それは僕も同じだよ…君と過ごして初めて気が付いたことが沢山ある」
「―――貴方に、出逢えて…よかった……」
「…紅葉……」
「…よかった…生まれてきて…よかった…生きてきて…よかった…諦めなくて…よかった……」
「…紅葉…泣いているの?……」
「…よかった…僕と言う存在を消さなくて…よかった……」
「―――紅葉……」
「…貴方と一緒にいられて…よかった……」


それ以上言葉に出来なくなった君を。
君を僕はそっと抱きしめた。
その小さく震える肩を。そっと。
そっと僕は、抱きしめた。


「…貴方に逢えて…よかった……」


それが、僕が記憶する君の最期の『言葉』だった……。


海の泡になった人魚姫。
愛する王子の為に。
愛するひとの為に。
泡になった人魚姫。

―――もしも僕が王子だったなら…絶対に泡にしたりしないのに。


横で眠る綺麗な寝顔に、柔らかい月の光が灯る。貴方には、月の光が似合う。太陽のように眩しい人なのに、どうしてだろう…こんなにも月が似合うのは……。
長い睫毛に淡い月の光。その光をこの手のひらに掬えたならば。掬えたならばそのまま抱きしめて、僕は海に眠るのに。
「…如月さん……」
規則正しい寝息を確認して、そっとその胸に耳を重ねた。聴こえる心臓の音。とくん、とくんと聴こえる命の音。そのまま目を閉じて貴方の鼓動を感じる。
―――生きている、音。生きている、証。貴方が生きていると言う大切な証拠。
この命の音を、護りたい。何よりも、大切なものだから。僕自身なんかよりも、ずっと。ずっと大切なものだから。
「…如月…さん……」
何故、生まれてきたのか?何故、生きているのか?永遠の謎は貴方に出逢った事でいとも簡単に答えが導かれた。導かれた。
―――貴方に出逢う為に、生まれてきたのだと。
生まれてきてよかったと、生きてきてよかったと、そう思えるのは貴方がいたから。貴方が、いるから。
膝を抱え、そして蹲っていた僕に貴方だけが手を差し伸べてくれた。雑草の中に紛れ込み腐ってゆくだけの僕を貴方だけが陽の当たる場所へと導いてくれた。
貴方だけが僕に生まれてきてくれて、ありがとうと言ってくれた。
「…ありがとう…如月さん……」
こんなちっぽけな命でも、貴方は認めてくれた。生きていていいんだと、幸せになっていいんだと、そう言ってくれた。こんな僕でも幸せになる権利はあるんだと。
――――しあわせになっても、いいんだと……。

僕は今まで全ての事に『諦める』事で、逃げていました。
諦める事で、希望を持たない事で逃げていました。
運命を変えるのは、自分自身でしかないのに。
自分自身でしかありえないのに。
変える事もせずに、自分を不幸だと決めつけてそして諦めていました。
そして何時しか誰かが助けてくれると、誰かが気付いてくれると。
自分自身では動こうとはせず、他人に任せていました。
そう僕は全てを他人に任せていたのです。
流される事は、本当は楽だから。考えなくてすむから。
逃げたかったなら、今の自分から逃げたかったなら。
自分自身で動かなければならないのに。
自分自身の力で変えようとしなければならないのに。
それすらもせずに。それすらもしないで。
ただ諦めて。諦めて僕は逃げていました。
僕は卑怯です。僕は穢たないです。
―――僕は、最低です。

そんな僕を貴方は救ってくれました。
貴方は僕に手を差し出してくれました。
その瞬間、僕は気付きました。
気付きました。自分がどれだけ卑怯だったのかを。
だから、僕は。僕は貴方の隣に立てるだけの人間に。
貴方の隣に並べるだけの人間に、なりたくて。
なりたかったから、僕は。
僕は自分自身から逃げるのを止めました。
全ての事から逃げないとそう決めました。
だから、今も。
今も僕は逃げるわけにはいかない。

―――自分自身から、逃げる訳にはいかないんです。


気付かれないように、キスの合間に貴方に睡眠薬を飲ませました。
もしも貴方が目覚めていたら、絶対に僕を止めると分かっているから。
―――そして、僕も。
僕も貴方に言われたら、絶対に止まってしまうから。


「如月さん…これだけは…僕の真実…貴方を好きだと言う…ただひとつの真実…」

キスを、した。ひとつ。
その唇にキスを。
―――キスを、した。

そして僕はそっと貴方の隣から脱け出して、海へと向かった。


「死ぬつもりなのかと…思ったよ……」
銀色の砂に。綺麗な一面の銀色の砂に。煙草の火がひとつ、落とされる。綺麗な砂浜に。
「…鳴滝さん…いえ…館長…」
「――そう呼んでくれるのは…壬生…君はまだ拳武館の暗殺者でいるつもりなんだね」
「………」
「まあいい。それよりも―――」
そう言って貴方が差し出したのは、注射器とそして薬だった。今ここでこれを打てば僕はまだ正常でいられるだろう。―――まだ……。
「君が戻ると言うならば、この注射器を取って薬を打つんだ。もう君には時間がない筈だ…それは自分自身が一番分かっているだろう?」
僕は差し出された注射器と薬を取った。そして。そして……

――――それを海に放り投げた。


「…もう私は代えを持っていないよ…そしてもう薬を取りに行く時間はない…それでも君はそうするんだね…」
「どうにも出来ない運命だとしても、僕は…僕は、自分で選びます……」
「自らを壊してもか?」
「…壊れないかもしれないじゃないですか…もしかしたら…」
「ただ一縷の望みに全てを懸けるのかい…君は本当にいじらしいくらいに健気だね……」
「…いけませんか?……」
「――いや…やはり君達の絆は……」

「私ではどうにもならなかったと言うだけだ」

「さようなら、館長」
「…さよならは…言わないよ……」
「………」
「何故ならば君はもう一人の黄龍の器からは、逃れられないからだ。そして彼も玄武から逃れる事は出来ない。例え今こうした結果になっても、必ず。必ず君達は黄龍のもとに集うんだ…どんな道を歩んでもね……」
「…さようなら……」


そう言った君の顔は今まで見たどんなものよりも、綺麗に見えた。
私が今まで見てきた、どんなものよりも。


ACT/50


近づいて来る、終末の足音。
砂上の楽園の崩壊。
崩れ落ちる足の砂から。
世界の全てが壊れてゆく。

―――もうすぐ世界の終わりが、来る。


聴こえるのは、波の音だけ。
寄せては反す波の音だけ。
その波を耳に残しながら、そっと屈み込んだ。
そして手のひらに銀の砂を掬う。
掬った砂は、指の間から零れ落ちた。
さらさら、と。さらさら、と。
時間が動いていると。
時は進んでいるんだと。
告げるように落ちてゆく銀の砂。
砂に指を絡めて。
絡めて、その場に寝転んだ。
砂が僕の全身を満たしてゆく。
さらさらと。さらさらと。
風が吹いて砂を飛ばし。
そして僕を埋めてゆく。
――埋めて、ゆく。
このまま。
このまま目を閉じて。
そして二度と開かなければ。
銀色の砂に埋もれながら。
僕は波にさらわれるのだろうか?
何も残らずに。
僕がここにいたという証拠すら残らずに。
消える事が出来るだろうか?

――――消えたくなんて、ない……

消えたくなんてない。
だって僕は生きている。
生きているんだから。
心臓の鼓動は音を刻んでいる。
この口は空気を吸っている。
身体は体温を灯している。
生きて、いる。
僕は生きているんだ。


「夜の海は全てを飲み込むようですね」
もうこの海には誰もいない。僕以外誰も、いない。館長は去っていった。諦めないと最期に告げて、僕のもとから消えていった。
―――諦めない。ならば僕も、諦めたくはない。
「…少しだけ…怖いな……」
真っ黒な海。終わりのない海。地平線は永遠に続いてゆく。世界の果てなんて、本当は何処にもない。世界の終わりなんて、本当は何処にも。
―――だって終わりの後には、始まりしかないのだから……。
銀色の、砂。指先に絡まる、砂。柔らかい、砂。僕の全身を埋めてゆく、砂。
「…怖い…な……」
目を、閉じる。そして海の音に溶けてゆく。砂の音に溶けてゆく。このまま。このまま、目を閉じて。閉じて世界を閉じて。
次の瞬間、僕が目を開けた時。きっともう僕の世界はこんな色彩をしていないだろうから…。


鳥に、なりたかった。
自由に空を飛べる鳥に。
鳥になりたかった。
僕の捕らえられたこの世界から、脱け出せることの出来る翼が欲しかった。
自由に羽ばたける翼が欲しかった。
この大空を飛び立って、今までの全ての世界を見下ろして。
見下ろしてちっぽけなものになるように。
大きな翼が、欲しかった。

―――鳥に、なりたかった……。


でも僕は知った。
背中に羽根がなくても。
鳥にならなくても。
自由を手に入れる事が出来るんだと。
自由に空を飛びたてるんだと。
僕を捕らえている無数の鎖を。
貴方は自らを傷つけながら解いてくれた。
互いに血を流しながら。
その血の重みに繋がっている糸を引き千切りそうになりながら。
それでも僕の鎖は解かれた。
たんさんの代償とともに。
たくさんの傷とともに。
けれども。けれどもそれは。
それは互いが望んだ事。
どんなに傷つけ合っても。全てを失っても。
たったひとつのものが、欲しかったから。

―――ただひとつの、ものが……


如月さん、僕は。
僕は本当に。
本当に貴方がいてくれればそれでよかった。
貴方が僕の傍にいてくれればそれだけでよかった。
何も欲しくはなかった。
ただ傍にいて。貴方の傍にいて。
一緒に笑いたかった。一緒に泣きたかった。一緒に語り合いたかった。
貴方と喜びを分け合いたかった。
貴方と哀しみを分け合いたかった。
貴方が楽しいと思った瞬間に。
僕は傍で一緒に笑っていたかった。
貴方が哀しいと思った瞬間に。
僕は傍で一緒に泣きたかった。
本当にただそれだけだったの。
貴方が僕を好きでいてくれなくても、それでもいい。
貴方のそばにいると感じる事の出来るその空間が。
優しくて暖かいその空間が。
僕にとって何よりも大切で。僕にとって何よりも必要なものだった。
貴方から感じるその柔らかい風をずっと。
ずっと僕は感じていたかった。

「…どうして僕はこんなにも…貴方が…好き?……」

理屈も理由も何もかもがこの気持ちの前では無力だ。
どんな言葉を並べてもこの気持ちを言い表す事が出来ない。
好きと言う言葉すら、もう。
もうただの言葉でしかないのかもしれない。
どう表現してもこの気持ちには追いつかない。
どんな理由を並べてもこの気持ちを説明できない。
―――貴方の何処が好き?
声が、好き。瞳が、好き。腕が、好き。
優しさが、好き。暖かさが、好き。
貴方という名前が付くものは全部、好き。
やっぱり、説明なんて出来ない。
ただ貴方が好き。
それだけしか…言えない……。


「…大好き…如月さん……」


好きです、貴方だけが。
貴方だけが、好き。
―――大好き、如月さん。


その声を聴いたのは。その言葉を聴いたのは、繰り返す波と銀の砂だけだった。


そして、崩壊。
全てが崩れてゆく。
全てが壊れてゆく。
足元から落ちてゆく砂は。
足場をなくし、永遠の闇へと。
永遠の闇へと、捕らえた。

「―――あ……」

世界が、崩壊した。景色がばらばらと崩れてゆく。視界から剥がれてゆく。そして代わりに。代わりにその場所に真っ赤な絵の具が塗りたくられた。一面の紅い絵の具が…違う…これは絵の具じゃない。絵の具じゃ、ない。これは。これは……

「…あ…あ……」

蝶が羽ばたく。無数の蝶が空を埋めてゆく。蝶の羽根が空を埋めて、何時しか蒼い色は見えなくなった。見えなくなった代わりに黒い羽根が、空から降って来る。

「…あ…あああ……」

もぎ取られて落ちてゆく蝶の羽と、その隙間から零れ落ちる真っ赤な血。ぽたりぽたりと砂を埋め、そして。そして何時しか銀色の砂を真っ赤な砂へと変化させた。そしてその上にまたはらりはらりと羽根をもぎ取られた蝶の屍骸が落ちて来る。
髪に、頬に、背中に、手のひらに、屍骸が落ちて来る。

「ああああああああっ!!!!!!」

払った。無が夢中で自らに降りかかる屍骸を払った。けれどもけれども、それは降り続ける。金色の粉を撒き散らしながら、降って来る。
黒と黄色の羽根、あれはアゲハチョウ?真っ白な羽根、あれはモンシロチョウ?
ああでも。でも落ちて来る羽根は全部。全部血の海に染まっているよ。真っ赤な血の海に染まっている。
ねえ、この血は。この血はどこから来るの?何処から…来ているの?

「…はぁはぁ…あ…うううううっ!!!」

ああ、僕から来ている。
僕の手首からどくどくと流れている。
うん、うん、うん。
僕はいっぱい手首切ったもんね。
切ったもんね。だから流れているんだ。
あ、足からも流れている。
足じゃない…アソコから流れている。
そうだね、僕。僕いっぱい色んな人に犯されたから。
だからここから血、いっぱい流したもんね。
いっぱい、いっぱい、流したもんね。
白い液体も混じってる。
男達の精液、かな?
これを僕の中に出す為に。
出す為だけに、僕は傷つけられるんだ。
僕は壊されるんだ。
イヤなのに。イヤなのに。
イヤなのに、イヤなのに、イヤなのに。
でも幾ら言っても。
誰も僕の声なんて、聴かないよね。

頭が痛い。
がんがんとする。
ずきずきとする。
壊れそうにい痛い。
痛いよ、痛いよ。
助けて。助けて。
誰か助けて。
誰か、誰か…誰か?……

…誰か…僕を助けてくれるひとは……


「―――さ………」


誰かの名前を呼ぼうとして、言葉が出なかった。
誰かの名前を呼ばなければ。呼ばなければ僕は崩壊するのに。
どうしても。どうしてもその名前だけが出てこなかった。


蝶の羽と屍骸が僕を埋めてゆく。
僕の流した血とともに。
僕を埋めて、そして壊してゆく。


ACT/51


ぽたり、ぽたり。
血が、血が零れている。
僕から零れている。
ぽたり、ぽたりと。
零れている。

歪んだ景色。
蝶の羽に覆われた空。
そこから蒼い空は何処にもなくて。
何処からも見えなくて。
一面の。一面の黒や黄色や白い羽根が。
降って来る血の雨とともに空を覆う。
蒼い空を、埋めてゆく。


埋めてゆく。
子供達の屍骸で。
僕らの世界が埋められてゆく。
子供達の抜け殻で。
世界が埋もれてゆく。


頭を掻き毟った。痛くて、痛くて、壊れそうで。あまりの痛みと激痛に脳味噌を掻き毟った。このまま。このまま中を開いて、痛みを取り除いて欲しい。中身を取り除いて欲しい。
「――あ…あああ……」
言葉を喋ろうにも、口から零れるのは液体だけだった。唾液とそして胃液。内臓から這い上がって零れる液体のみで。砂の上に染みを作ってゆく。
目を閉じようにも閉じる事が出来ない。限界まで開いた瞳は、眼孔が落ちてきそうな程で。このまま目がぽろりと落ちたなら、この痛みから逃れられるだろうか?
このまま目を穿り返して落としたならば。そうしたら全てから、逃れられるだろうか?
―――イタイ、イタイ、イタイ、イタイ………
どうしたら。どうしたらこの痛みから逃れる事が出来るの?どうしたら?

―――痛イ…ヨ……

血が流れているにも関わらずに、その凶器は僕を貫いた。何度も、何度も。行為の意味すら分からない幼い僕の身体はこうして大人達の玩具にされた。
何度も抉られて、中身の粘膜が傷つけられた。肉を抉られて、血が吹き出す。それでも。それでも男たちは、大人達はそれを止める事はない。
身体の中に大量の精液が注ぎ込まれる。けれども終わる事はない。次から次へと貫かれ、そして限界まで液体が注がれる。血と精液の混じった液体が足元を幾筋も伝ってゆく。

―――助ケテ……

叫ぼうとしても、口は男達のソレによって塞がれる。喉の奥まで届くソレを、咥えさせられる。子供の小さな口では、全てを飲み込むのは容易ではないのに。それなのに、それすらも楽しむかのように奥へ奥へと、挿れられる。
口の中にも飲みきれないほどの精液が注ぎ込まれた。むせ返るくらい大量に。でもそれを吐き出す事は許されない。吐き出す前に、次のモノが挿れられる。そしてまた、口の中を奥まで奥まで犯してゆく。
穴という穴を全て塞がれ、その全てに液体が掛けられた。

―――助ケテ……サン………

僕の身体は、血と精液の匂いで埋められている。
男たちの匂いと死人の匂いで。
僕の身体は埋められている。埋められて、いる。
どんなに洗っても、どんなに流しても。
決してソレは消える事はない。
染み付いた匂いは消える事はない。
―――消えは、しない。

――――助けて…き………

言葉。言葉が。
声に出そうとした言葉が。
言葉が、出てこない。
出て、こない。

―――助けて…さら………

脳味噌を切り裂いて。
そして捜さなければいけない言葉。
口にしないと壊れてしまう言葉。
それだけが。それだけが、唯一。
唯一僕と現実を結ぶ言葉。
その言葉を。その名前を。

―――貴方の、名前を………


「……如月…さん……っ!!!!」


意識が崩れ落ちるその前に。
世界が崩壊するその前に。
僕は。僕の唯一正常な部分が。
その名を、呼んだ。

後は、もう分からない。
ぱらぱらと空から零れる蝶の羽と。
ぽたぽたと僕から零れる血が。
それが僕の廻りを埋めていって。
何時しか僕の世界は真っ暗に閉ざされた。


―――如月、さん。
君が、笑う。柔らかい日差しの下で、君が、笑う。
暖かい陽だまりの下で、子供のように。
子供のように君が、笑う。
―――如月さん、空がこんなにも蒼いなんて僕は…
君の瞳に映るのは一面の蒼い空と、そして。
そして僕だけ。
君の世界に映るものは、永遠の空とそして僕。
―――僕は…知らなかったです……


本当の空は何処にあるの?
本物の空は、何処に行けば見つかるの?
こんな灰色の空間じゃない。
こんなただの空間じゃない。
本当の、本当の空は。
本物の空は、何処にあるの?

―――何処に行けば、見つかるのかな?

貴方と見たいから。
一緒にふたりで見たいから。
本物の空を。
本当の空の色を。
一緒に。
一緒に捜しに行きましょう。
ふたりで、一緒に。
そして、空を。
この背中の羽根で、空を飛びたい。
誰にも邪魔出来ない自由な空を。

―――本物の空を、飛びたい。


……如月…さん………

目覚めた瞬間、君の声が聴こえたような気がした。けれども。けれども隣に眠っている筈の君はどこにもいない。
「…紅葉?……」
温もりは、消えていない。布団に残る君の温もりは。まだ、暖かい。
「紅葉?」
空に浮かぶのは三日月だけで。黒い空にただひとつぽっかりと浮かぶのは。その月だけが、僕らの全てを見ていた。僕らの全てを見つめていた。
「――何処にいる?紅葉」
聴こえたのは確かに君の声。僕はどんな事があろうとも君の声だけは決して、聞き逃したりはしない。ただひとつ、君の声だけは。
「…紅葉……」
ひどく胸騒ぎがして、僕は部屋を飛び出した。


『指きり、しよう』
『如月さん?』
『もう一度、君と約束しよう』

『――永遠に君を、愛すると……』

永遠なんて言葉を信じた事はなかった。
始まりには必ず終わりがある。
生には必ず死がある。
始まりと終わり。開幕と終焉。
それは決して。決して離れられないもの。
だから僕は永遠なんて信じてはいなかった。
永久に続くものなんて、この世に存在するとは思わなかった。
終わりのないものなんて、決してありえないと思っていた。
でも君を見ていると。君と一緒にいると。
僕は永遠という言葉を信じられるようになっていた。
永遠に変わらないものがこの世にあるんだと。
あるんだと、信じられる。
いや見せてあげる。僕が、永遠を。

―――この気持ちが、永遠に続くという事を。


「…くれ…は……」
月が、全てを見ていた。月だけが、全てを。
「…くれは……」
波だけが世界の音を埋めて。銀の砂だけが、世界の色を染めて。月だけが、ただひとつの灯りで。
「――紅葉っ!!」
君の名を、呼ぶ。声が張り裂けるほどに。ただひとつ。ただひとつの君の名前、だけを。

「アアアアア―――っ!!!!」

けれども僕の声は君には届かない。空っぽの瞳で君は手元にある砂を撒き散らした。繰り返し繰り返し、爪から血が流れているのも気付かずに、君は。
「紅葉っ!」
その手を取って動きを止めさせると君は、君は怯えた瞳で僕を見上げて来た。そして。そして…。
「…イヤ…こないで…お願い…もう僕を……」
「紅葉?」
「…もう僕に…あんな事しないで…僕…僕…痛いの…痛いの…止めて…館長……」
ぽたぽたと大粒の涙を流しながら、僕に言う。その顔は子供そのもので、そして恐怖に怯えていた。捕まえている腕から君の震えが伝わるほどに。
「…イヤ…もうあの暗い部屋に閉じ込めないで…いっぱいの男の人達に…僕にあんなことさせないで…イヤなの…僕は…イヤ…助けて……」
足をばたつかせて、君は僕から逃れようとする。違う、僕じゃない。君が逃れようとしているのは『館長』から。君を犯しつづけた、館長から君は。幼い、君は。
「…助けて…誰か僕を助けて……」
逃れようとする身体を。その身体を僕は。僕はそっと抱きしめた。君が暴れて僕の顔に傷を付けたが、そんな事は構わずに。構わずに僕は君を、抱きしめた。

「―――僕が、助けてあげる……」

そして君が暴れるのが止まるまで。そっと。そっと僕はその背中を撫で続けた。君の動きが収まるまで。
「…あ…ああ…あああ……」
何時しか君は暴れるのに疲れたのか、ぴたりと動くのを止めた。そして次の瞬間には嗚咽した。悲鳴のような声を上げて、泣き続けた。
そんな君を僕はずっと。ずっとただ。ただこうして抱きしめて背中を撫でる事しか出来なかった。


何時しか月は消えて、地平線に太陽が昇り始めていた。


ACT/52


空に一羽、蒼い鳥が飛んでいる。
空と同化するほどの蒼い羽根をもった鳥が。
何も捕らわれる事なく、自由に空を。
空を飛んで、いる。

鳥になりたい。
足元を繋いでいる鎖を引き千切って。
無数の運命と言う名の鎖を引き千切って。
鳥になって空を。空を、飛びたい。
僕を捕らえているもの全てを無にして。
ただ僕だけになって、僕自身だけになって。
誰にも邪魔されない場所へ。
誰もいない場所へ。

―――自由に飛んで行けたならば……


腕の中の君はまるで死人のようにぴたりと動かなくなった。けれども抱きしめている身体から伝わる命の音が、君が生きているんだと僕に伝えていた。
―――砂時計の砂が、全て落ちた……。
君に与えられていた『自由』な時間が終わりを告げた。君の中にあった限られた時間が、今。そして。そして僕らの最後の楽園も、ここで終わる。
「…辛いかい?紅葉……」
細かな傷が君の身体中に作られていた。相当暴れたのだろう。君に打たれた薬はよっぽど強力な物だったらしい。精神を崩壊する程の。フラッシュバックを起こす程の。
「苦しい、かい?」
このまま君は廃人になるのか?幼い記憶に怯えながら、怯えるだけで。繰り返される記憶の波、記憶の嵐。それに。それに壊されてゆくだけの日々。
「…苦しいよね…君の…今までの傷がすべて流れ出したのだから……」
もう一度薬を打てば、君は救われるだろう。けれどもそれは。それはなんの解決にもならない。そんなものに身体を蝕まれてゆくだけでは、何の。
「…君の…今までの傷が…全部……」
意識のない君の唇にそっと。そっと僕は口付けをした。それでも君の身体はぴくりとも動かなかった。今だけは。今だけはこのまま眠っていて欲しい。
目が醒めたらまた君はどうしようもない程の激痛と、幼い記憶に蝕まれるしかないのだから。だから、今は。今だけは。
―――このまま何も考えずに、眠っていて欲しい。
「―――代われるものなら…僕が代わりになれたら……」
どうして。どうして君だけがこんな目に合わなければならないのか?君ばかりがこんなにも傷つかなければならないのか。何故、君ばかりが。
今まで君は。君はこんなにも傷ついてきたのに。こんなにもぼろぼろになってきたのに。それなのにこれ以上…これ以上君が傷つく理由が何処にあると言うのか?
―――何故、何故君ばかりこんな運命を辿るのか?
「…どうしてだ…どうして……」
ただ僕らが望んだ事は、しあわせになること。ふたりでしあわせになること。ただそれだけだった。
それ以上何一つ望みはしなかったのに。本当に何も欲しくはなかったのに。
ただふたりでいられたならば。ただ一緒にいられたならば。ふたりで笑い合えたならば。
「―――どうして僕らは一番欲しいものだけが…手に入らないんだろうね……」
いらないもの、どうでもいいもの。そればかり与えられて肝心なものが。ただひとつの欲しいものだけがどうしても。どうしても手に入らない。どうしても。
「…どうしてだろうね…紅葉……」
―――ただひとつの、欲しいものだけが。


どうして僕はこんなにも無力なのか。
ただひとりの君を。
君を護る事すら出来ない。
傷ついた君を護る事すら。
僕には結局何も出来ないのか?
僕は何も出来ない無力な子供なのか?
気持ちだけではどうにもならないのか?
愛すると言う気持ちだけでは、どうにも出来ないのか?

想いで全てが叶うのならば。
僕らはこんなに苦しみあう事もないのに。
想いが世界の全てならば。
僕らはこんなにも傷つく事はなかったのに。
愛していると。
君だけを愛していると。
幾ら言葉にしても。幾ら気持ちを込めても。

それだけでは。
それだけでは君を救う事が出来ない。
君をしあわせにする事が出来ない。
それが。それが子供だった僕の。
僕の絶対唯一の世界だった。

子供だった僕は、気持ちさえあれば全てを乗り越えられると思っていた……。


波が押し寄せて来る。
このままふたりを飲み込んだならば。
僕らは全てを終わらせる事が出来る。
けれども、それは。
それはダメだと分かっている。
僕らの間には何時も『死』と言う甘い誘惑があった。
背中合わせに僕らには『死』があった。
それを選択さえすれば僕らは全てから開放される。
何もかもから開放される。
そうしたら僕らは傷つく事も、引き離される事もない。
もう誰にも邪魔されず、ふたりでいられる。
―――それはなんて甘い誘惑。

けれども僕らはそれを決して選びはしない。
選ぶ事は互いの願いを無にする事だから。
確かに、一緒にいられる。確かに、引き離される事はない。
けれども。けれどもそれじゃあダメなんだ。
それじゃあ僕らは駄目なんだ。
それすらも乗り越えて。乗り越えて僕らは。
ふたりでしあわせになると、決めたから。
死ぬ事は簡単だ。そこで終わらせればいい。
生きる事の方がずっと難しい。難しいんだ。
だけど。だけど、僕らは。
僕らは生きると決めたから。
一緒に生きてゆくんだと、そう決めたから。
だから僕らにはその選択肢を選ぶ事は、出来ないんだ。


「…こうなる事は…分かっていた事じゃないか…君が僕の手を取って逃げると言ったその時から……」

壊れた君でも。
狂った君でも。
廃人になった君でも。
どんな君でも僕は愛しているから。
愛しているんだ、君だけを。

―――君だけを、愛しているんだ……


君の身体を抱き上げて、僕は家へと戻った。ふたりだけの場所へと。そして室内にある小物を全て片付ける。君が、目が醒めた時に傷を作らないようにと。
全てのものを片付けて何もない部屋にした。そして君をそっとベッドの上へと寝かせる。目覚めた時に君は。君はどんな世界を見るのだろうか?見るの、だろうか?
僕も共有したい。君が見る世界を共有したい。そうしたら。そうしたら君の傷は少しでも癒させる?君の抉られた、傷を。
―――君と同じ世界を、共有したい……
「こんな所にも、傷が付いている…」
髪を掻きあげた先にある、額の小さな傷に。僕はそっと唇を落とした。君の身体に付いた小さな傷をそうやって僕は唇で全て掬い取った。
ただ慈しむだけのキス。それでも。それでもこうして君に触れているだけで。
そうして君を、抱きしめた。目覚めた瞬間に、君が暴れ出さないように。君がまた傷を作らないように。きつく君を、抱きしめた。


真っ暗な世界に独り、僕は立っていた。
足元から無数の手が僕に襲いかかる。
そして何時しかその手は、横からも後ろからも前からも。
僕の全身に襲いかかる。
何本もの手が、僕の身体を犯してゆく。
それは毛むくじゃらの男の手だったり。
刺青の入った男の手だったり。
太くて逞しい男の手だったり。
そうだ、これは。
この手は今まで僕が抱かれてきた男たちの手。
数え切れないほど犯されてきた男達の。
―――男達の、腕。
終わりのない闇の中で。
闇の中で繰り返されるのは永遠の儀式。
終わる事のない陵辱。
終わる事のない、拷問。

ああ僕は…僕は…こうされる為だけに生まれてきたんだ……。

ひかり。
ひかりが、ひとつ。
ひとつ、見えた。
闇の中にぼんやりとひとつ。
ひとつひかりが見えた。
僕は必死でその光に手を伸ばした。
けれども無数の男たちの手が邪魔をして。
邪魔をして光まで辿りつけない。
辿り、つけない。

――― 一生懸命に手を、伸ばしているのに……


「…あ………」
迷彩色の世界の中に、僕はいた。様々な色の洪水の中に。僕は、いた。
「――紅葉?」
何かが僕を抱きしめている。さっきの男達の腕?僕を犯していた男達の腕?
「…ああ…いや…離して……」
「紅葉っ!」
「離してっ離してっ離してっ!!!」
イヤだ、離して。僕は。僕はあの光ある場所に行きたいの。行きたいの、行きたいの、だから離して。
「落ちつけ、紅葉」
「イヤ、イヤ、イヤ…離してっ離してっ!!」
行きたいの、光ある場所へ。行きたいの、貴方のもとへ。貴方の…もと?……
「離してぇーーーっ!!」
――――貴方って…誰?誰?……貴方は、誰?………


「紅葉、紅葉」
届かないのか?僕の声は届かないのか?
「離してっ離してっ!!僕はっ僕はっ!!」
君を呼ぶ僕の声は、届かないのか?
「僕はっ僕は…僕は……」
君を呼ぶ、僕の声は。
「……僕は……さんのもとへ………」

「…如月…さんの…もとへ………」


如月さんの、もとへ。
僕は行きたい。行きたいんだ。
あの光は。あの光は、貴方なんだ。
貴方のもとへと僕は。
僕は行きたいんだ。

―――あの優しい、ひかりの中へと……。


「ここにいる…紅葉…ここにいるよ……」
「如月さん…如月さん…何処?……」
「…僕はここにいるよ……」
「僕を独りにしないで…独りにしないで…如月さん……」
「…ここにいるよ、紅葉……」
「…如月さん…何処……」

「ねぇ、何処にいるの?」


空っぽの君の瞳に。
その瞳に僕は映らない。
こんなにも傍に。
こんなにも君の近くにいるのに。
君に僕は、映らない。

君の瞳に僕が、映し出されない。


End

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