Femme Fatal ・14


ACT/53


君の瞳に僕が、映らない。
傍にいるのに。君の、そばに。
誰よりも君の傍にいるのに。
君には僕が、見えない。

―――君の瞳に僕が、映らない……


「…如月さん…如月さん……」
手を伸ばして。手を伸ばして君は『如月さん』を捜す。ここにいるのに。僕はこうして君を抱きしめているのに。
「…ねぇ、如月さん…何処…何処に…いるの?……」
手を宙に浮かして、何もないのに君は掴む。そこには何もないのに、君は空気を掴む。
「…如月さん…何処?……」
「ここにいるよ、紅葉」
君の身体をきつく抱きしめて、そしてその存在を知らしめても。それでも君には。君には、届かない。ここに僕がいるのに。
「…僕を…独りにしないで…独りにしないで…」
「独りになんてしない。君を独りになんて絶対に」
「…独りにしないでぇ……」
ぽろぽろと君の瞳から零れ落ちる涙。その涙を僕は手のひらで掬う。けれども。けれども君にとってこの指は『如月さん』の指ではないんだね。
「―――独りになんてしない、だから泣かないで紅葉……」
こうやって唇で涙を掬っても。こうやって君を抱きしめても。それは僕ではない誰か。誰か知らない人間のしている事なんだね。

どんな事になろうとも君を愛している。
けれども、こんな風に。
こんな風に傍にいても君が遠いのは。
君がこんなにも遠いのは。
ひどく苦しいよ。
こんなにも君の傍に、僕がいるのに。


そしてまた、君の記憶が混沌とする。
何かに弾かれたように君は叫び出して、そして暴れ出す。
僕が身体を押さえないと君は自分自身を傷つける。
近くにあるものを掴みそして壊して。
そして僕の身体を引き剥がそうともがく。
君にとって今僕は『館長』なのだろう。
君を犯し続けたあの男なんだろう。
それでも僕は。僕はこの身体を離す事は出来ない。
離した途端に君は自らを傷つける行為に走るから。
だから僕は。
どんなに君が恐怖に暴れても離す事が出来ないんだ。

「助けてっ!!誰か助けてっ!!!」

君の悲鳴が室内を埋め尽くす。
君が何時も心で叫んでいた事。
君がずっと声にしたくて出来なかった言葉。
それを今。今口にしている。
狂って初めて君は、本当の心を曝け出している。
君があの男に捕らえられていた間。
君があの男の性欲処理道具として扱われていた間。
君は何時も、何時もそう叫んでいたのに。
そうやって、こころで叫んでいたのに。
けれども声にする事は出来なかった。分かっていたから。
君には分かっていたから。
声に出しても誰も助けてはくれないと。

でも、紅葉。
紅葉今君がその瞬間にいるとしたら。
僕が君を助けるから。
君の記憶が今幼い場所まで遡っているなら。
僕が。僕が君をそこから救い出す…。


「――僕が君を助けるよ、紅葉」
「…助けて…助けて……」
「君をここから救い出してあげる、だから紅葉」
「…助け……」

「僕を、見てくれ」

キスを、した。
暴れている君の唇に。
そっと。
そっとキスを、した。
こんな風に君は。
君はキスをされたことないだろう?
犯されるだけの君は。
こんな風にただ。
ただ与えられる、キスは。


暴れていた腕が不意に。
不意に止まった。そして。
そして僕が掴んでいなければ、そのまま落ちてしまうくらいに。
君の身体から力が、抜けた。


「…誰……」
違う。今僕の腕を掴んでいるのは館長じゃない。
今僕にキスした人は、僕を犯し続ける人じゃない。
「…誰…貴方は……」
違う、違う。このひとは、違う。何時もの人達とは、違う。
「―――如月翡翠だよ…紅葉……」
このひとは、違う。このひとは…違う……。
「…きさらぎ…ひすい?……」
「もう大丈夫だよ。君を傷つける者はもう何処にもいない。何処にもいないよ、紅葉」
「…きさらぎ……」
「大丈夫紅葉…君はもう自由なんだよ」
大きな腕が僕を抱きしめる。でもその腕は僕を犯す為の腕じゃない。ただ。ただ僕の身体をすっぽりと包み込む、優しく包み込むだけの腕。
「…もう誰も君を傷つけはしないよ……」
僕の全てを包み込んでくれる、腕。こんな腕は、僕は今まで知らなかった。


君の瞳が、僕を映し出す。
初めて僕を映し出す。
初めて僕を、見つめた。
そうか。そうだね。
君にとって今の僕は『知らない人間』なのだから。
それでも。それでも君が。
君が今こうやって僕を見つめてくれている。
君の瞳に僕が映っている。

―――君の瞳に、僕がいる………


「…紅葉…大丈夫だよ……」
君を傷つけたりはしない。君を独りにははない。
「…如月…さ…ん?……」
もう誰も君を傷つけさせはしない。
「…大丈夫だよ、紅葉…もう二度と……」
もう誰も僕から君を奪わせはしない。
「…もう二度と君を……」

「君をこんな目に合わせたりはしない」


君が、笑った。
その言葉に君は。
君は、笑った。
子供のような無邪気な顔で。
そして何よりも嬉しそうに。
嬉しそうに君は、笑った。


「…本当、に?……」
「僕が君を護るから」
「…本当に?……」
「僕が君に降りかかる災いから全てを護るから」
「…うん……」
「だから、紅葉」

「そうやって笑っていてくれ」


そしてまた君は。君の瞳は何も映さなくなった。
子供から今に戻った君は。君は『如月さん』を捜す。
僕ではない僕を君は捜し続ける。
手を伸ばし、腕をさ迷わせ。僕ではない僕を探し続ける。
繰り返される君の過去と現在の記憶。
めまぐるしく入れ替わってゆく君の混沌の記憶。
今はそれを。その記憶を繋ぎ合わせるしかない。
つなぎ合わせて、君を『ここ』に戻す事しか。
過去と現在をつなぎ合わせて、そして今ここに。
ここに君を帰す事しか、僕には出来ない。


やっとの事で眠りについた君を抱きしめながら、僕はひとつの結論を出そうとしていた。
腕の中で眠る君の腕はがりがりに痩せていて、もう骨まで透けて見えそうになっていた。鎖骨が浮き出て、あばら骨まで見えている。無理も無い。元々食の細かった君は、こうなってしまってから食べ物を口に運ぶ事が出来なくなっていた。
僕がスプーンで何とかお粥を食べさせても、吐いてしまう事が度々あった。身体の中に残る薬のせいだろう。薬のせいで胃が食べ物をまともに受け付けてくれない。
このまま君が痩せ細って死んでゆくのではないかと言う不安が、僕を捉えて離さない。
かと言って病院へ運べば薬がバレて君は、多分捕まるだろう。そうでなければ拳武館が君を取り返しに来るかもしれない。そんな事は…僕は絶対にさせたくはない。
―――君を、暗殺者には戻したくはない……
かと言ってこのまま君が衰弱してゆくのを僕は放っておく事は出来ない。だとしたら…だと、したら……。
「―――もう如月の…飛水流の血は…使いたくなかったんだけれどね……」
僕自身の力で。如月翡翠自身の力で君を護りたかった。君を救いたかった。僕自身の力で君をしあわせにしたかった。
だけど、それは出来なかった。痛いほどに分かった現実。僕はただの無力な子供でしかないと言う事。そう、僕は子供だ。
信じてさえいれば夢は叶うと。想いさえあれば全てを乗り越えられると。そう信じていたただの子供。けれども、夢の時間が終わりを告げた瞬間。子供の時間が終わりを告げた瞬間。僕は子供ではいられなくなった。夢だけでは生きられなくなった。
子供の時間が終わった瞬間、僕の廻りには現実と言う名の刃物が襲い掛かっていた。現実、それは夢を壊すもの。夢を終わらせるもの。
―――夢だけでは、生きてゆく事は出来ない。
「…でも僕は…君の為になら…幾らでも…卑怯な人間になろう……」
ならば僕は。僕は現実に生きるしかない。リアルな世界に身を置くしかない。そして。そいて今度は現実と言う世界で君を護る手段を考えるしか。

僕はそっと君の隣から脱け出して、部屋を出る。そして庭先に埋めていた一本の刀を取り出す。妖刀村正。血を欲しがる魔剣。新鮮な血を欲しがる魔剣。
「…村正…聴こえるか?…」
鋭い刃が月夜に照らされる。月は蒼いのに、刃先に映る月は紅く見えた。血を吸い尽くした紅い色に。
「―――聴こえるか?僕の声が……」


空の月までもが紅い色に、染まる。それは。それは僕の流した血のせいで……。


ACT/54


一番大切なもの。
一番大切な事。
それを引き換えにしても。
護りたいものは、あるのか?

―――護りたいものが、一番大切なものじゃないのか?


傷つき合いながら、それでも傷を埋めようと。傷を癒そうと僕らは。
僕らは精一杯頑張ってきた。精一杯生きてきた。
何が大切で、何が大事かと言う事を。僕等は分かっているつもりだった。
本当に大切なものさえ分かっていれば、全てを乗り越える事が出来るのだと。
全てを乗り越えられると、そう思っていた。
けれども本当に。本当に一番大切なものは、気付かなかった。
―――本当に一番大切な事は。
こんなにも簡単で、こんなにも単純な事だったのに……。


『我を呼ぶか?飛水流の末裔』
声が直接脳味噌から聞こえて来る。血を啜り続け呪われた刀。持ち主を血に飢えるケダモノに代える刀。それを浄化する血を引く者以外この刀を手にするのは、それはただの破滅でしかない。
元々如月の血筋にこの刀を浄化する血は持ちえなかった。この刀は我らの家の物ではなかった。遥か昔。遠い昔、一人のくのいちが愛した男から授かったものだとそれだけを聞き伝えられていた。
『汝は我に何を言う?』
そのくのいちは愛する男とは結ばれなかったと聴く。二度と逢う事が、結ばれる事がなかったと言う。それでも刀だけは『想い』としてこの家に残った。――想い、ただひとつの想いがこうして受け継がれてゆく。
「貴様の力を借りにきた」
その想いを受け継ぐ者だけが、この妖刀村正を手にする事が出来ると祖父に言われた。そして僕はこの刀を手に取り、呪いを克服した。けれども。
けれどもその『想い』とは何だ?僕にはこの妖刀に対する想いも何もないのに。何故、僕がそれを受け継いだのか?
――――それとも…人を愛する想いか?誰かを愛する想いなのか?
『力か…我の呪いすら克服した汝が何を言う?』
妖刀の呪いすら跳ね返す想い。愛する男の修羅がそれを可能にしたのか?
「僕の言う事が…聴けないのかい?」
『……分かった…汝には逆らえぬ…言うがいい…我に何を望む?』
「貴様のその力で身体に巣食らう邪を吸い上げて欲しい」
『我にこれ以上邪を送り込むと言うのか?これ以上我を呪われた刀にするのか?』
「悪い話では…ないだろう?」
『――確かに…しかし…』
「しかし?」

『我は呪われし刀。その者にとって一番大切なものを失う事になるぞよいか?』


大切な、もの。
一番大切なもの。
それは僕にとって君以外のなにもない。
君が生きている事が何よりも大切。
それ以上の事は、何も。
何もないのだから。

「一番大切なものを救う為だ。何も失うものはないよ」

―――ならば契約だ……
その声に僕は刃先に指を充て、そこを切る。流れ出る鮮血を刀は美味しそうに吸い上げてゆく。
「もっと吸い上げても構わないよ。紅葉命が掛かっているんだ…安いものさ」
もっと飲み尽くしても構わない。僕のこの血を。君の為に捧げる為ならばね。
―――命?…ああ昔汝と同じ事をした男がいたな……
「同じ事をかい?それは興味あるな」
―――遥か昔の話だ…我の持ち主にどんな呪いも跳ね返す体質を持つ男がいた。その男が愛したのが敵対するくのいちの女だった。
「…くのいち?……」
―――でもそのふたりは結ばれる事はなかった。その男はくのいちの命と引き換えに、自らの血全てを我に与えそして死んでいった。
「―――まさか?」
―――そうさ、そのまさかさ。そのくのいちが汝らの祖先…飛水流の血を引きし者。元々汝らの血は呪われているのさ。
「じゃあ僕の血を貴様は全て飲み干すかい?」
―――それが出来るなら始めからそうしているさ…汝に逆らう事は我には出来ない…
「くす、それは懸命だよ…村正……」
―――汝は恐ろしい…今まで様々な人間どもに我は力を与えてきたが…汝よりも恐ろしいと思った人間に渡り合ったことはなかった。
「それは恋する男の修羅のせいさ…村正…血を吸ったかい?じゃあ行くよ」
―――行く?ああそうか…汝ではないのだな…邪を吸い尽くす人間は。
「そうだよ、僕じゃない…僕だったなら……」

「こんなにも苦しみはしない」


気づいた事がある。
災いは、自分自身に振りかかるよりも。
愛する者に振りかかる方が。
ずっと、ずっと辛いのだと言う事を。
自分自身の痛みよりも。
相手が受ける痛みの方が。
ずっとずっと辛いのだと言う事を。

―――自分自身の、傷よりも………


一番大切なものを、失う。
この意味が僕に振りかかるものではなかったと気付いた時。
もう全てが手遅れだった。


昔飛水流にひとりのくのいちがいた。
東京を…江戸を二分する戦いの中で。
その女は一人の男に恋をした。
自分自身の一生の全てを懸けたその恋は。
決して実る事はなかった。
愛していた、そして愛されていた。
けれども結ばれる事はなかった。
その女が瀕死の重症を負った時、その男は自らの命を引き換えに女を救った。
この妖刀村正を使って。
その時の契約はただひとつ。
――― 一番大切なものを、失う……
男はそれを選んだ。女より自分にとって大切なものはなかったから。
それ以上に自分が失うものがなかったから。
だから男はその契約を結んだ。けれども。
けれどもそれは。その意味は……

相手にとって一番大切なものを失う事、だった……


―――これは、運命とでも言うのか?
室内に戻って真っ先に脳味噌に響いてきた村正の言葉はそれだった。ベッドの上で死人のように眠る君を見つめながら。
「どうした?」
―――こんなに身近にいて我は気付かなかった……
「気付かなかった?紅葉がどうかしたのか?」
―――汝…あれが汝の愛する者か?護りたい者か?
「そうだ」
―――ならばこれも運命か…全てが繰り返されるのか…
「…貴様…何が言いたい?…」
―――気付かぬか?あの者こそ正当な我の主だ。あの者こそ…呪いを受けない体質を受け継いでおる。
「……紅葉が?………」
―――でも随分と弱まっている…多分一度血が途絶えているせいだろう…傍系か何かであろう。
「貴様の持ち主に…子はいなかったのか?ああそうか…若くして死んだのだからな」
―――汝の祖先と…あの者の祖先は…結ばれなかった…永遠に……
「それが運命とでも言うのか?」
―――そうでなくて他にどう言えるものか。これを偶然で汝は片付けるのか?
「いや、紅葉と出逢った事を運命ではないと否定はしない。けれども」

「けれども、僕は僕だ。祖先は関係ない」


「ここで祖先が結ばれなかった想いを今僕が成熟させるなんて…そんなロマンチックな事を言いはしないよ。そんな事僕らには何の関係もない」
―――でも汝らは、出逢ったではないか?
「出逢ったのは『如月翡翠』で『壬生紅葉』だ。そんな名前も知らない昔の人達じゃない。大体僕らは今この時代を生きているんだ」
―――否定するか?運命を。
「否定じゃない。関係ないと言っているんだ。昔何があろうとも、昔の僕らの祖先がどんな運命を辿ろうとも…今生きているのは僕らなんだ。僕らが生きているんだ」

「過去は過去でしかない。今こうして生きて愛し合ったのは僕らなのだから」


昔から僕らが出逢って、結ばれる運命だったなんて。
そんなのあまりにもつまらないじゃないか。
そんな事なんて関係はない。選んだのは僕等なのだから。
僕が君と出逢って、そして君を愛した。
君が僕と出逢って、僕を愛してくれた。
それは。それは昔から決められていた事じゃない。
僕らが決めた事、なんだ。
僕らの意思で選んで、そして決めた事なんだ。

―――僕自身の想いが…君を選んだんだ……


君を好きだと言う気持ちは。
その気持ちは僕だけのものだ。
僕が気付いて、僕が大切にした。
僕自身の手で抱えているただ一つの想いだ。
誰のものでもない。
過去の残留意識でもない。
僕の。僕だけのものだ。

――――ただひとつの、僕だけの想い。


―――まあよい…汝がそう言うのであれば…そうなのであろう…。そうだな、確かにそれはそれでしかない。汝の祖先が愛したのがたまたま、その男の祖先だったと言うだけだ。
「そんな偶然をロマンチックな幻想に浸れるほど、僕はおめでたく出来てはいないんだ」
―――そうだな、汝ならば別の道を選べるかもしれんしな。
「…別の、道?…」
―――まあよい…いずれ分かる日が来るかもしれんし…永遠に分からないかもしれない…それは汝次第だと言うことだ。
「それよりも紅葉を助けてくれ」
―――分かっている。汝とは血の契約を交わしたのだから…ただし分かっているな。

―――もっとも大切なものを、失うと……


「失えるなら、失ってみるがいい。そんなもので失えるくらいな想いならば、こんなにも苦しみはしないのだから」
―――その言葉に後悔はないな?
「後悔?そんなもの」

「紅葉と出逢った時に…捨ててきたよ……」


月が何時しか雲に隠れてゆく。けれどもその刃はひどく紅く、輝いていた。漆黒の闇の中でその刃先だけが…。


ACT/55


一番、大切なもの。
何よりも大切なもの。
ただひとつの真実。
それは。
それは決して誰にも奪う事は出来ないんだ。

―――愛の為に生きるなんて…ひどく不器用な生き方だと思っていた。

自分にはありえない事だと思っていた。
自分には似合わない事だと。自分には遠い事だと。
ずっとそう思っていた。
生まれてこの方『愛』と言うものにある意味もっとも薄い人生を送ってきたかもしれない。
そんな優しく激しい想いすら僕は、僕は興味が持てなかった。
僕を巡るさまざまな人間が言う『愛している』の言葉は。
僕にとってひどく薄っぺらで、軽いものとしか思えなかった。
そんなにたやすく口にする言葉は、ただの言葉でしかなく。
縋るように僕に告げる女の子達の言葉は全て嘘のようで。
―――真実味を何一つ感じられなくて。
けれども初めてその言葉を君に告げた時。
僕は気が付いた。僕は分かった。
その言葉の意味がどれだけ重たいのかを。どれだけ深い意味があるのかと。
君に、その言葉を告げた時。

この言葉の重さを、初めて気が付いた。


ただ普通に生きたかっただけなんだ。
僕らに足りないものは、当たり前のもの。
ごく自然に皆が持っている当たり前のもの。
それが僕らには足りなかった。
僕らはそれぞれ違った意味で同じものが欠けていた。
僕らには『感情』が欠けていた。
心の底から笑う事。心の底から泣く事。
心の底から嬉しいと思う事。心の底から哀しいと思う事。
そんな当たり前の事が出来なかった子供なんだ。
そんな当たり前のものを与えられなかった子供なんだ。
―――互いに知らなかったもの。
それは父親の大きな手、母親の優しい手。
そんな当たり前のものが僕らにはなかったんだ。

君と指を絡めている瞬間、僕らは互いに足りないものを補い合っていた。
それぞれに抱えるこころの空洞を。ぽっかりと空いた穴を。
ふたりでそれぞれに埋め合った。補い合った。
互いにこうしてこころに手を触れて。魂に、触れて。
触れ合って、重ねあって。
そうして僕らは互いの背中の羽で空を飛ぶ。


―――紅葉、僕は。
僕は君にとってどう映っていたのかい?
君にとって僕は、必要な存在だったのか?
僕にとって君はかけがえのない何物にも変えられないものだ。
君以外僕にとって、必要のないものだ。
君がいれば僕は。君さえいてくれれば…。
けれども君は。
君は僕が思う程に、僕を必要としてくれていたのだろうか?
僕は君にとって必要な人間だったのか?
本当に君は僕でよかったのか?
君が壊れて、君が何もかもを分からなくなった時。
僕は思った事がある。僕は考えた事がある。
君が追っていた『如月さん』は目の前にいる僕とは別人なのではないかと。
それは君が作り上げた僕の理想の姿なのではないかと。
その理想の僕は、今の僕と違うものではないかと。
君が望む僕自身は、この目の前にいる僕自身とは別人なのではないかと。
それでも、紅葉。
僕は僕自身以外何者にもなれない。だから、こんな僕でも。

―――君に必要とされたいんだ。


何時か、ふたりで本物の空が見たいね。
君が言う本当の空の色がある。
本物の蒼い空が、見たいね。
君と僕で、誰にも邪魔されない場所で。
ふたりで空を、見たいね。

ただ指を絡めて。
ただそっと指を絡めて。
何をする訳でもなくふたりで。
ふたりだけで。
柔らかい笑みを浮かべながら。
本物の空の下で。
笑い、あいたいね。

―――何時か、ふたりで……


―――本当によいのか?
「構わない、やってくれ。村正」
―――本当に…後悔はないな……
「ないさ、僕にはなにひとつ」
―――ならばもう言うまい…汝の願いを叶えたり……


その言葉が僕の頭に響いた瞬間、額の傷がぱっくりと開いて血が吹き出した。


ぽたり、ぽたりと。
吹き出した血が、君の頬に君の髪に落ちてゆく。
落ちてゆく。ぽたり、ぽたりと。
君の身体を僕の血が紅い色に染めてゆく。
―――そして僕の視界が、真っ赤に染まった……。


―――翡翠だ…如月翡翠と名付けよう……水に愛されし名だ。如月家の跡取として、そして飛水流の末裔として何よりも相応しい名だろう。
『……ごめんね…翡翠…ごめんなさい…貴方に普通の人生を与えてやれなくて……』
―――ははははよくやったぞっ!!よくやったぞっ!!これで如月家は安泰じゃ。
『…ごめんなさい…お母さんを許してね…ごめんなさい…』
―――これで全てが、安泰じゃっ!!

『どうして僕は父と母とはともに暮らせないのですか?』
―――それはお前が四神の…玄武の血を引いているからだ。
『父と母のもとに生まれて、どうしてともにいられないのですか?』
―――やつらには何もない。ただの人間でしかない。お前とは違う…お前は選ばれた人間なんだ。
『…選ばれた?選ばれたと言うことはまともな人生を送れないと言う事ですか?』
―――そんな事、前は考えなくていい。お前が考えるのはその血にしたがって東京を、黄龍の器を護る事だけだっ!
『選ばれると言うことは…奪われる事なんですね……』

―――如月くん、好き。貴方だけが好き。
『好き?僕の何処が好きなの?』
―――如月くんの顔とか…如月くんの頭のいい所とか…如月くんの…
『君は僕の付属品が好きなんだね』
―――如月くん?
『君が好きなのは僕の外見と、それに属するものなんだね』


つまらない、僕の人生。
何もかもがつまらなかった。
何の為に生きている?
何の為に生かされている?
何もかもに興味が持てず、何もかもがどうでもよかった。
例え目の前で人が死んでも僕は顔色一つ変えないだろう。
僕はそう言う人間だ。
何一つ関心の持てない、何一つ心が動かされない。
生きている事すら冷めている…そんな人間。
なんてつまらない人生なんだ。
このまま年老いて死んでゆくだけなんて。
なんて、なんてつまらない人生なんだろう。


『…如月、さん……』
真っ先に浮かんで来るのは少しはにかんで、そして柔らかく微笑う君の笑顔。
『――如月さん』
何度か名前を口にして、そして安心したように僕を見上げる君。
『くーが何時の間にか寝てしまいましたよ』
それはごく普通の日常会話。どこにでもあるような言葉。けれども。けれども君の口から零れた言葉は。
『丸まって…寝ている…猫って、可愛いですね』
零れた言葉はどんな言葉よりも僕にとっては大切なものになる。

『可愛いですね』

僕は、僕は紅葉。
君のその笑顔が見たくて。
見たかったから。
ただその為だけに。
それだけの為に。
馬鹿みたいに夢中になって。
君を笑わせる事ばかり考えていた。
おかしいだろう?
あれだけ他人をどうでもいいと思っていた僕が。
たった独りの人間にこんなに夢中になって。
馬鹿みたいに一生懸命になった事が。
笑ってもいいよ。いや、笑ってくれ紅葉。
笑って、ほしいんだ。

もう二度と君を泣かせたくはないから。

君が泣くと僕が苦しい。
君が笑うと僕も嬉しい。
そんな事、気付きもしなかった。
そんな事、考えもしなかった。
他人の感情で自分の心がこんなにも変化する事を。
君の気持ちが、僕をこんなにも変える事を。

君が、笑う瞬間。
子供のように無邪気に。
無防備に笑う瞬間。
僕は。僕は。
泣きたくなるくらいに、しあわせだったんだ。


―――紅葉、僕は。僕は君の笑顔が、みたいんだ……。


目覚めた瞬間、身体がひどく重たかった。それでも僕は必死になって起き上がろうとして、けれどもそれは叶わなかった。
身体に何か生暖かいものが浴びせられている事に気付いて、僕は指でそれを掬った。それは、真っ赤な血だった。どろりとした生暖かい血だった。そして。そして腹部に重みを感じて、そこへと視線を向ける。そこには。―――そこには……。

「…如月…さ…ん?……」

言葉にした瞬間、何かひどく遠いものを感じた。それが何だったかは僕には分からない。けれども、ひどく久々に僕はこの名を呼んだような気がした。
「…如月さん?……」
もう一度、その名を呼ぶ。けれども貴方はぴくりとも動かない。それが不安で。どうしようもない程不安で、僕は上半身を起こした。その瞬間、みしりと骨まで痛みが襲ってきた。けれども僕は構わずに手を伸ばし貴方に触れる。
―――貴方の髪に、触れる……
指に馴染むそのさらさらの髪と、優しい感触にひどく僕は安心感を覚える。貴方の髪に、指が触れている事が。貴方に、触れている事が。
「…如月さん?……」
もう一度名前を呼んだ。それでも貴方は動かない。また不安が押し寄せて来る。僕は。僕はもう一度必死になって手を伸ばして貴方の額に触れた。暖かい。暖かい。貴方は生きて、いる。生きている。それを確認して安堵したその瞬間。

僕の指先に生暖かい血が、零れ落ちた。

「如月さんっ?!」
それは血。貴方の額から。貴方の傷口から零れる血。そして。そして僕の身体中に散らばった液体は。この生暖かい液体は…貴方の、血……

「如月さんっ!!!」

もう一度、もう一度その名を呼んだ。
声が張り裂けんばかりに。
声が壊れてしまうほどに。

――――僕は、貴方の名前を呼んだ……


ACT/56


貴方と僕が決定的に違うと気がついた事。
貴方は僕がいなくても生きてゆくだろう。
僕がそう言えば、貴方は独りでも生きてゆくだろう。
けれども。けれども僕は。
僕は貴方がいないと気付いたその瞬間に。
その瞬間に迷わず死を選ぶ。

―――貴方のいない世界に僕の生きる意味は何処にもない。


純粋過ぎて残酷だと言われた。
想いが一途であればある程に残酷だと。
そんな哀しい愛し方しか出来ないのは。
そんな愛し方しか知らないのは。
哀しい程、残酷だと。
でも僕にとっての真実は。
僕にとってのただひとつの意味は。
それしかないから。それ以外に無いから。
それ以上もそれ以下も何も無いから。
別に僕は不幸だとも思わない。
自分が哀しいとも思わない。
自分が残酷だとも、思わない。

―――どうして?
どうしてそれが、いけない事なのか僕には分からない。
好きだから、一緒にいたい。
好きだから、傍にいたい。
貴方のそばに、いたい。
貴方がいないのなら。貴方がこの世界にいないのなら。
僕は生きている理由が無い。
ひとは僕を弱いと言うだろう。けれども。
けれども、弱くて何が悪いの?
貴方に依存したい訳ではない。貴方に護られたい訳でもない。
ただ。ただ一緒にいたい。ただ、貴方を見ていたい。
綺麗な貴方をずっと、見ていたい。
そっと笑う貴方の笑顔を。優しく包み込む瞳を。
綺麗な長い指を。広い大きな背中を。
僕はただ見つめていたいだけ。
僕は貴方が、僕を好きでもなくても。きっと。
きっとずっと貴方を見つめ続ける。
それが。それが僕にとってのしあわせ。
貴方がこの地上に生きて、しあわせでいる事が。
僕にとって一番大切な事だから。

だから。だから、僕は。
貴方のいない世界に生きている理由が無い。
生きている意味を見出せない。
何の為に生きているのか。その答えはただひとつ。

―――貴方をずっと、見ていたいから……

ただそれだけ。
それだけが僕の真実。
誰に分からなくてもいい。
誰にも分からなくてもいい。
誰にも分かって欲しいとは思わない。
僕自身の想いは、僕自身のものだから。
僕だけのもの、だから。
だから誰にも。誰にも理解されなくていい。

僕だけが分かっていれば、いい事なのだから。


指が、傷口に触れる。そひからはまだ生暖かい液体が零れて来る。どろりと、指先に伝わる紅い液体。
「…如月…さ…ん……」
そのまま駆け寄って貴方のもとへと行こうとしても、身体が思うように動かなかった。その時になって自分の腕を見て、初めて気がついた。血管が浮き出て、骨まで透けそうなその腕を。
―――僕は何時から、こんなにも身体の肉がなくなっていた?
元々自分でも細いと、肉付きが薄いとは思っていた。けれどもここまで酷くはなかった筈だ。ここ、までは……。
まるで身体を動かす度にぼきぼきと音がして、骨が砕けていくような感じがする。まともに動く事が、出来ない。出来ない。
「…如月…さん……」
そうして僕は激しい激痛とともに、意識を失った。


何時しか、もう一度貴方に逢いたい。
もう一度、出逢いたい。
どんな事になってもいいから。
どんな運命を辿ってもいいから、貴方に逢いたい。
―――生まれ変わったらもう一度愛し合おう…そんな言葉は、僕は言わない。
生まれ変わったら別人だ。別の人生だ。
だから、愛し合おうなんて…言わない……。
ただ逢いたい。もう一度。
もう一度貴方に出逢いたい。
それだけだ。そけれだけだ…涼里……僕は………。


今度は私が護るわ。
護ってあげる。全てのものから。
だから私は別人に生まれるわ。
こんな弱い生き物ではなく別のものに。
そうして私が今度は貴方を護ってあげる。


それぞれ全く別の人間になって。
そして別の人生を歩いて、それでももしも。
もしもまた巡り合ったならば、その時は。
そうだね、少しでも運命が重なればいいかもしれない。

―――重なり合う事が、出来たならば……。


―――真の我の持ち主よ。汝も否定するのか?
何処からか声が聴こえる。その声を僕は何処かで知っている。
―――自分の祖先の想いを否定するか?
祖先?さっき僕の脳裏を駆け巡ったひと?女の人と一緒だった。あれはくのいち?でも祖先は…そのひとはくのいちの手の中で死んでいた。
―――汝らの祖先だぞ。代々伝わる血の呪い。もう一人の黄龍の器と、飛水流の末裔。汝らは愛し合いながらも死で引き裂かれた奴らの血を汲む者。
…祖先?…でも僕には知らないひとです。ただの昔のひとです。そしてそのひとたちが死によって引き裂かれたからと言って、それが僕達には何の関係があると言うのでしょうか?
―――汝も同じ事を言うのか……
関係ないです。だって僕らが生きているのは『今』だから…昔は関係無いです。
―――そうか…ならば真の持ち主よ。我が呪いを立ち切るがよい。この刀に込められし呪いを。
……呪い?………
―――そうだ、この刀を持つ者は一番大切なものを失うと言う呪いだ…

―――立ち切れるか?汝らの絆で……


それは一瞬だったのか、限りなく長い時間だったのか、僕には分からなかった。ただ意識が激痛とともに消えてそして。そして再び現実に意識が戻された時は。
―――戻された瞬間に、身体の痛みは消えていた。
僕は重たい身体を起こした。まだ身体の上に貴方の重みを感じたが、僕はそっと貴方の重みから擦りぬけた。そして咄嗟に貴方のもとへと駆け寄る。
「如月さん?」
名前を呼んでも返事は返ってこなかった。額の血は止まっていたが、傷口はぱっくりと引き裂かれそこにはまだ暖かさの残る血がこびり付いていた。
「…如月さん……」
頬に、触れた。暖かい、頬。生きている、暖かさ。貴方の体温。貴方の体温が、この手に伝わる。それは。それはどんなに優しくどんなに切ない瞬間なのだろうか?
「…よかった…生きている……」
どんなになっても。どんなになっても貴方に生きていて欲しい。貴方がこの地上に存在していて欲しい。貴方と言う命が、僕の見つめられる場所で動いていて欲しい。
「…よかった…如月さん……」
零れそうになる涙を僕は寸での所で堪えた。貴方と約束したから。独りでは決して泣かないと。泣かないとそう、約束したから。
次に僕が涙を零す瞬間は、貴方の瞳が僕を見つめる瞬間だと。その瞬間だと、決めているから。
「…よかった……」
そっと僕は貴方の額の傷に触れた。そしてこびり付いた血を舌で舐め取る。固まっていた箇所もあったが、僕は根気よくそれを溶かして全てを飲み干した。
―――狂っている…みたいだ……
何も知らない人間が見たら僕は多分狂気の淵に落ちているように見えるだろう。それこそまたサナトリウム行きにでもなるのかもしれない。閉鎖病棟に閉じ込められるのかもしれない。
でも僕は正気だ。誰が何を言おうとも僕は、狂ってなんていない。だって僕は。
僕はちゃんと分かっている。ちゃんと知っている。愛すると言う意味を知っている。
本当に狂っている人間は愛を知らない人間だ。愛される事を知らない人間だ。
ただ自分の欲のままに、ただ空っぽな心を埋めようと欲のままに走る人間達だ。だって空っぽの心は。空っぽの心は、こんなにも簡単に埋められるのだから。
誰かを愛すると言う事。誰かに愛されると言う事。この気持ちさえあれば、この気持ちさえ持っていれば、人間はちゃんと生きてゆける。
だから僕は狂ってなんていない。貴方を愛している。他の何よりも貴方を愛しているから。

「…如月さん…如月さん……」


目を、醒まして。
貴方の瞳が見たいの。
貴方の優しい瞳が。
貴方の優しい眼差しが。
僕は見たいんです。
暖かい笑顔が。
柔らかい微笑みが。
貴方のその全てが。
その全てを見ていたいから。

貴方の声が、聴きたい。
―――紅葉と呼ぶ貴方の声が。
貴方の声が、聴きたいんです。
だからお願い。何時ものように。
何時ものように笑いながら言ってほしい。

―――おはよう、紅葉…って……


特別な言葉が聴きたいんじゃない。
ただごく普通の当たり前の言葉を。
何気に交わされる言葉を。
僕は貴方の口から、聴きたいんです。

―――ごく普通の、貴方の言葉を……


夢を見ているようだった。
永い、永い夢を。
それはひどく切なく、そしてひどく優しい。
大切な大切な宝物のような、そんな夢を。
夢を僕は見ていたようだ。
それは触れれば壊れてしまうような。
触れた瞬間に消えてしまうような。
そんな儚く、けれども優しい夢。
僕はずっと。ずっとそんな夢を見ていた。

―――瞼の裏に焼きついた残像…それを手で掴もうとしたら…消えた……


「如月さん?」
瞼を開いた瞬間に飛び込んできた、その泣きそうな顔が。その顔を僕は一生忘れない。そのひどく綺麗でそして。そして哀しい顔を。
「…よかった…如月さん……」
そして零れ落ちる涙。頬からぽたりと零れ落ちる涙。その涙を見つめながら。見つめながら僕は気がついた。
―――僕の手のひらから大切なものが、零れてゆく瞬間を。
けれどもそれが何なのか。それが何なのか、考える前に。僕の思考は深い霧に包まれて、そして消滅していった。
「…君は……」
声を出す。僕の声。けれども僕ではないような声。そして。

「…君は、誰だ?……」


その瞬間、僕の手のひらに残っていた最期の暖かいものが消えてゆくのを。僕は感じていた……。



End

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