Femme Fatal ・15


ACT/57


手のひら、から。
手のひらから零れてゆく。
零れて、ゆく。
さらさらと。さらさらと。
何かが、零れてゆく。
それはひどく切なく、ひどく苦しいものだった。

―――暖かい何かが僕の手のひらから、消えてゆく……


「…如月さん?……」
名前を、呼ばれる。それは僕の名前だ。僕は如月翡翠。飛水流の末裔。如月家の跡取。そして黄龍の器を護る為に生まれてきた玄武。それだけだ。それだけが僕の履歴書だ。
そのやたら滅多らな肩書きの下はただの薄っぺらな紙でしかない。そんなご立派な使命を与えられながら、僕の経歴は数行で終わってしまう。
―――つまらない、人生だと。
「…如月…さ…ん?……」
もう一度僕の名前を呼ばれる。そんな風に僕は名前を呼ばれた事はない。そんな風に、僕の名前を呼ぶ人間を僕は知らない。
そんな風に、僕の名を切ない声で呼ぶ人間を……。
「―――すまない…分からない…」
ぽたりと君の頬から零れ落ちる涙が、ひどく綺麗だ。綺麗、だ。僕は。僕はこんな綺麗な涙を見た事はない。いや、こんな暖かい涙を知らない。
「…分からない…君は…誰だ?……」
その言葉を口にした時、何故か。何故か僕は胸が締め付けられるほどに苦しくなった。


―――何を、言っているのか…貴方が何を言っているのか…その口から零れる言葉のひとつひとつを拾い上げて。掬いあげて。そして。そして、僕は……。

「…如月さん……」
初めて、見た。貴方のそんな驚いた表情を。初めて見ました、如月さん。
「…きさらぎ…さ…ん……」
何時もどんな時でも揺るぎ無い貴方の。貴方のそんな驚いた顔を。
「…きさら……」
―――僕は、初めて見ました。

どんな事があっても。
どんな事になっても。
貴方が生きていれば。
貴方が生きてさえいれば。
貴方を見つめていられたら。
貴方のそばにいられたら。
貴方を好きで、いられたならば。

貴方が僕を見ていなくても。
貴方が他の誰かを好きでも。
貴方の世界に僕がいなくても。
それでも。それでも、貴方が。

―――貴方がこの地上に、生きてさえいてくれたなら……。


しあわせだと。
しあわせだって。
貴方が存在してくれる事が。
貴方が生きていてくれることが。
しあわせ、だと。
そう思える筈。そう思っていた筈。
そうだと言える筈。

それなのに。
それなのに僕は。
僕は、零れる涙を止められない。
震える声を、止められない。

―――貴方にそんな顔を、させたくないのに……


「…ご、ごめんなさい…如月さん……」
「何故君が謝るの?僕が…僕が君を分からないのに…」
「…ごめんなさい…貴方を…」
「………」
「…貴方を…不安にさせてしまって……」

「…ごめんな…さい…如月…さ…ん……」

ごめんなさい。ごめんなさい。
こんなに泣いてしまって、ごめんなさい。
こんなに貴方を不安にさせてごめんなさい。
貴方の方が、きっと。
きっと不安な筈なのに。
それなのに僕は。
僕は、自分を抑えきれない。
――――押さえ切れない……。

貴方が僕を分からないのが、こんなにも辛いなんて……


「…泣かないで…くれ……」
何故こんなに胸が締め付けられるのか?
「君が泣くのは、ひどく辛い」
何故こんなに切ないのか?
「…辛いんだ……」
―――何故こんなにも、苦しいのか?

そっと。そっと手を、伸ばした。
伸ばして、その頬に。その涙に、触れた。
暖かい涙。あたたかい、涙。
指先に伝わる、この暖かさは。
―――このあたたかさは?


「――僕にとって君は…どんな存在だったんだ?……」


言葉にして、改めて僕は驚いた。
突然目の前にいた存在。
名前も記憶もない、僕の人生に存在しない人間。
それなのに、何故。
何故こんなにも思うのか?
―――何故こんなにも、僕の心を締めるのか?

記憶を、辿る。今までの記憶を。
生まれてから今までの記憶を。
僕は如月家の嫡子として生まれ、何不自由なく暮らしてきた。
表向きは。表向きは誰もが羨む暮らしをしてきた。
けれども。けれども僕は何不自由のない不自由な生活を送っていた。
決められた人生。押し付けられた人生。
両親と暮らす事も出来ず、祖父に人の上に立つ人間として育てられた。
誰もが羨むものを、僕は全て持っていた。
顔も頭も金も地位も女も。誰もが羨むもの全てを。
そして僕にとって最も必要のないもの全てを。
必要のないものばからが僕の前に積まれていた。
それだけ、だった。
それだけが僕の今までの人生だった。
つまらない人生だった。
それが僕の今まで生きて来た道。
そこに。そこに君は存在していない。
このただ無気力なだけの、僕の人生に。

僕の人生にこんなに綺麗なものは、存在しなかった。

ここは、僕の別荘。海にある僕の、家。
僕は何時しか自分の最期はここで迎えたいと思っていた場所。
世界の終わりに、辿り着きたいと思っていた場所。
そこに僕がどうしているのか?
そして。そしてどうしてその場所に。
その場所に君が、存在するのか?

ここに『他人』をいれる事なんて…僕は絶対にありえないのに……


「…ごめんなさい…僕……」
僕の言葉に君は必死で涙を堪えようとする。けれども。それでも君は零れてしまう涙を止められなくて。
「…ごめんな…さい……」
後から後から零れてゆく暖かいものに、僕はまた胸が締め付けられそうになった。
「――いいよ…」
「…如月さん?……」
「泣いても、いいよ。我慢している君の顔を見ている方が…辛いから」
もう一度僕は、君の頬に触れた。そっと、触れた。暖かい頬。小さな、頬。ひどくやつれていたその頬が、僕にとってどうにも出来ない切なさが押し寄せてくる。
「――辛い、から……」
その言葉に君は。君は声を押し殺して、泣いた。僕はその涙を、全てこの手のひらで掬い取った。


君は。君は?
僕にとってどんな。
どんな存在なのか?
僕にとって、一体。
君はどんな存在なのか?


「僕は、貴方の前では泣いてばかりですね…」
そんな事を言っても、貴方には分からないけれども。それでも言ってしまう僕を許してください。
「…泣いてばかり…ですね……」
貴方には分からないのに。そんな事を言ってしまう僕の弱さを、許してください。
「―――僕は……」

「…君の笑った顔が、見たい……」


言葉にして。そして。
そしてその意味をもう一度。
もう一度口の中で繰り返して。
繰り返して、気がついた。

その言葉が。
その言葉は真実だと。

―――僕にとって、真実だと…気が付いた……


ACT/58


多分、もっと。
もっと大切なものがあると。
きっともっと大切なものがあるのだと。
ふいに思った。
君の睫毛から零れる涙を見ていたら。
きっとその涙以上に。
その綺麗な涙以上に、大切なものがあるのだと。

―――大切なものが、あるのだと。


何から言えば、いいのかな?
何を伝えれば、いいのかな?
今までの僕達のこと?
今までの僕らのこと?
それを伝えれば、いいの?

ううん、違う。
もしも今までの僕らの事を伝えたとしても。
全てを曝け出して、告げたとしても。
―――告げたとしても?

これ以上貴方を混乱させたくはない。
貴方に『義理』や『同情』で僕を。
僕を好きになってほしくはない。
多分貴方ならば、僕が全てを話せばその腕で抱きしめてくれるでしょう。
その唇で好きだと告げてくれるでしょう。
僕の記憶が無くても。僕と言う存在が貴方の中に無くても。
貴方はそう言うひとだから。
けれども。けれども、それは貴方が。
貴方の心から言わせた言葉じゃないから。
貴方自身の言葉じゃないから。
如月さん、貴方は言いましたよね。

『君の本当の言葉が聴きたい』

だから、僕も。
僕も貴方の口からは。
貴方自身の言葉が聴きたい。
貴方の声が、聴きたい。
だから。だから僕は。

―――貴方になにひとつ、言わないから……


もしもそれでも。
それでも貴方が少しでも僕のことを。
僕のことを好きだと言ってくれたなら。

…言ってくれたら…いいな……


「すまない…思い出せないのは…君の事だけなんだ……」
瞬きをした瞬間、君の、最期の涙の雫が零れ落ちた。涙がこんなにも綺麗なものだと僕は知らなかった。色々な女の子達が僕の前で泣いてきた。けれども僕はそのどれもこれもが、胡散臭く見えた。大袈裟に見えた。何でこんな風に女の子達は声を上げて泣くのかと。
けれども目の前の君は。君は、静かに泣く。声を上げる訳ではなく、言葉を僕に浴びせる訳でもなく。ただ。ただ綺麗な涙を零すだけ。
それが。それがひどく僕には切なかった。そもそも僕自身が切ないなんて思う事事体が、ひどく不思議な感覚だったのだけれども。
「他の事は全て分かるのに…どうしても君の事だけが、分からない…」
何かぽっかりと穴が空いてしまったような感覚。何かが消滅してしまったような感覚。それは。それは僕自身が思っているよりも、ずっとずっと大きな空洞だった。そう、とても。とても大きな空洞。
――― 一体…君は僕にとって何なんだったんだ?
「…君だけが、分からないんだ……」
他人に興味の持てない僕が。他人を線引きしている僕が。僕がこの場所に一緒にいた人間。僕が知りたいと思う人間。そう、知りたい。僕は君のことが、知りたい。
「君だけが、分からない」
目の前にいる存在が。この存在が僕を…僕に激しい何かを狩り立てる。これは。これは一体何?何が僕をそこまで、揺さぶるのか?


瞳。
君の、瞳。
今にも壊れそうでいて。そして。
そして何処か強い意思を持った瞳。
ばらばらに壊れそうなかけらの中で。
その中で強く光る瞳。
その光を僕は。
僕は、この手で触れてみたい。

―――触れて、みたい……


如月さん。これで、いいんですよね。
「…紅葉、です……」
過去を振り返り、また迷路に迷うのならば。
「もみじって書くんです」
何もかもを全て真っ白にして。
「―――壬生紅葉と言います」
真っ白にして、もう一度。

―――もう一度、初めから貴方と出逢う。


「…くれ…は……」
呟いた、言葉。口に零した言葉。
「はい、如月さん」
甘く溶けてゆく言葉。
「…紅葉……」
優しく切なく溶けてゆく言葉。
「…はい……」

僕はこんな風にひとの名前を呼んだ事はなかった。


「大丈夫ですか?」
貴方は今僕をどう思っているのか、そんな事はどうでもいい。
「紅葉?」
そんな事よりも大切な事があるから。
「額の傷、大丈夫ですか?」
もっと大切な事があるから。僕にとって大切な事。
「額?ああ、平気だ」
それは僕が。僕が貴方を好きでいる事。
「何故こんな所を僕は怪我をしていたのだろうか?」
貴方だけを好きで、いる事。

大切なのは相手に何かをして貰う事じゃない。
相手に何かを求める事じゃない。
大切なのは。大切なのは、僕が貴方に。
僕が貴方にしてあげられる事。
僕が貴方にしたい事。
相手の為に何が出来るのか?
相手が求めている事に答えられるのか?
それが、大切だと分かったから。

僕は何時しか貴方に求める事ばかりをしていた。
貴方が欲しくて、貴方のそばにいたくて。
貴方の優しさが欲しくて。貴方の愛が欲しくて。
僕はそれを求めてばかりいた。
貴方が全てを答えてくれるから。
僕の想い全てを答えてくれるから。
僕が欲しいだけの愛を。それ以上の愛を。
貴方は僕にくれた、から。
だから今度は。
今度は僕がそれを貴方に還す番。
僕が、貴方に。

―――僕が貴方の為に、出来る事……


「消毒液、持ってきますね―――あっ」
立ち上がった途端、君の身体ががくりと揺れる。そしてそのまま崩れ落ちた。
「大丈夫か?」
咄嗟に手を出して抱き止めた身体の軽さに驚く。その腕の中の感触に。その細過ぎる肩に。肉の無い身体に。
「大丈夫です、ごめんなさい」
僕の腕に手を掛けて立ち上がろうとするが、君は上手く立ち上がれなかった。その時君の異常なまでの腕の細さに気付く。透き通るほどの白い肌はほとんど色素が感じられなくて。そして青い血管が浮き上がっている。指は骨の形すら見えてきそうだった。
「如月さん?!」
僕はその身体を抱き上げて、そのままベッドへと降ろした。浴衣を着ていたせいで、胸元が広がって薄い胸が見えた。それはあばらまで見えていて、今にも折れてしまいそうで。
「僕なんかよりも、君のが病人だ。一体どうしてこんなにも痩せ細っているんだ?」
軽く手を掴んだつもりなのに、君の顔は一瞬歪んだ。それだけの力でも痛みを感じる程に衰えている身体。やせ細った身体。そして。そして―――
「…紅葉…君は……」
掴んだ手首を広げた瞬間に、飛び込んできたのは無数の針の跡。注射針の跡。そして。そして今気がついた。君の身体には所々に痣や小さな傷の跡がある……。
「まさかこれを僕がやったとは…言わないよね……」
「ち、違います。これは…これは如月さんには関係ありませんっ!」
その痕は明らかに君が虐待を受けていた証だ。この注射針の痕ももしかしたら何かしらの薬なのかもしれない。麻薬系の。
「―――分からない……」
僕とは明らかに誓う環境に生きている筈の君。綺麗な道を傷一つ無い道を歩まされている僕とは、正反対に生きている君。そんな君とどうして、僕は知り合った?どうして僕はそんな君と一緒にいる?そして。そして僕は、どうして。
――――どうしてこんなにも怒りを押さえ切れないでいる?
「…どうして僕は……」
君をこんな目に合わせた人間が許せない。君を傷つけた人間が許せない。君を…君をこんなにもした人間を僕は許せない。
「…僕はこんなにも君を、気にしている?…」
分からない、何故こんなにも胸が締め付けられるのか?どうしてこんなにも胸がざわつくのか。分からない。分から、ない。

許せないと、思った。
今僕は許せないとそう思った。
何に対して、許せないのか?
君をこんな目に合わせた人間にか?
君をこんなにもぼろぼろにした相手にか?
違う。違う。僕が許せないのは。
僕が、許せないのは。

―――僕、自身だ……

目の前の君を分からない僕が許せない。
今この目の前にいる君の存在を。
君の存在を僕が、分からないのが。
何一つ分からないのが。
それが僕には、許せない。


「…如月さん…僕のことは…いいんです……」
「紅葉?」
「いいんです、僕のことは。僕はこれでいいんです」

「いいんです。貴方がこうして生きてくれていれば」

他に何も望まない。
望むよりも僕は。
僕は貴方に与えたい。
僕の出来る事全てで。
今僕に出来る全てで。

―――貴方の為に、僕は愛を与えたい……

貴方がくれただけ。
貴方が僕に与えてくれただけ。
そしてそれ以上の。
それ以上の想いを。

僕は貴方に、与えたいから……。


ACT/59


睫毛の先から零れ落ちる真実。
それは目にはみえないもの。
けれども、あるんだ。

目には見えなくても、存在するものなんだ。


夢の時間に終わりを告げて。
子供の時間に終わりを告げて。
大切なものをひとつひとつ、剥がしていって。
それでも残ったもの。
大人になった自分でも消せなかったもの。
それが。それが本当のことだから。
ただひとつの、本当のこと。

たくさんのものを持っていた。
それは子供特有の夢。
子供だから見られたもの。
現実を、壁を、知らない子供だからこそ見られたもの。
信じる力が、強さだった。
信じてさえいれば叶うと。
信じてさえいれば何でも出来ると。
そう思えることが子供の強さ。
けれども、世の中は。
そんな簡単なものではない。
信じていても叶わない事がある。
願ってもダメなことはある。
それを知った瞬間。
子供は夢から、醒める。
そして剥がれてゆく。ひとつ、ひとつ剥がれてゆく。
それでも、残ったものが。
夢から醒めても、現実を気付いても。
それでも消せなかったものが。
ただひとつ手のひらに残ったものが。
この手のひらに残ったものが。

―――多分、僕らの唯一のものなんだ……


「…この痕は?……」
折れそうに細い君の手首をそっと掴んで、注射針の痕に指を這わす。無数の痕が僕の指先に感触を与えた。
「―――薬の痕です…僕の身体には……」
そこまで言って君は唇を閉じた。戸惑うように、閉じられた。何かを言おうとして、そして戸惑っている顔。僕はそんな顔を見たくはない。
―――聴きたい、君の口から。君の口から、本当のことを。
「麻薬、か?」
僕の出した言葉に、君はしばらく戸惑いながらそれでも小さく頷いた。この尋常ではない身体もそして無数の傷も、薬とは切っては切れないだろう。
「警察にでも、突き出しますか?」
そう言いながら君の瞳は迷っている。何に迷っているのか?君は言葉を僕に告げるのに、さっきから間がある。それは。それは君が言葉を選んでいるせい?
「そんな事はしないよ。君は見るからに病人だ。それに」
「それに?」
「…僕が…君を……」

「…君を、見ていたい……」

口にしてみてそれがあまりにも素直に出た事に。
出た事に、逆僕が驚いた。
こんなにも素直に僕の口からそんな言葉が出た事に。
今までどんな人間にも思った事もない。
今まで誰にもそんな事を言った事はない。
それなのに何故こんなにも自然に。
自然に僕の口から、零れてゆくのか?

―――君の不安定な瞳は、僕の知らない感情を呼び起こさせる。


僕と館長と、そして拳武館と。
それをもし貴方に告げてしまったら。
きっと貴方は自分を責めるでしょう。
貴方はそう言うひとだから。
自分自身よりも僕の痛みを。
僕の痛みを感じてくれるひとだから。

だからやはり、言えません。

「…麻薬中毒な僕を、貴方が助けてくれたんです」
嘘は言ってはいない。けれども真実も言ってはいない。
「この家に匿ってくれたんです…僕らの間はそれだけです……」
手を取り合って、逃げたなんて。ふたりで逃げたなんて。
「優しい貴方が、僕を助けてくれたんです」
―――全てを捨てて逃げたなんて……
「僕らの間は、それだけです」


嘘だと、思った。
直感的にそれは嘘だと。
君の言葉は、真実を言っていないと。
一番大切な事を言っていないと。
僕には、すぐに分かった。
君の瞳を見て。君の瞳を見つめて。

その不安定に揺れる瞳を、見つめて。

違う、違う。
もっと何か。
何か大切な事が。
とても大切な事が。
僕らの間にはあるはずだ。
そうでなければこんなにも。
こんなにも僕は君を気にしたりしない。
こんなにも君を、思ったりはいない。

―――想う?……

君を、おもう?
君のことを、考える。
君のことを、気にする。
君を、知りたいと。
君をもっと、知りたいと。
君の全てを知りたいと。

それは。それは?

一体何処から、この想いは来るのだろうか?
何処から流れてくるのだろうか?
後から、後から溢れてくるこの想いは?
この想いは一体何処から来るのか?
―――何処からやって来るのか?


「…紅葉……」
「…はい?……」
「僕は君から、本当の事を聴きたい」
「…如月さん?……」
「君の口から、本当の事を」

「本当のことを、聴きたい」


「―――それは…如月さん……」
本当の事。本当の、事。たくさんあり過ぎて語りきれないくらいの出来事。でも。でもそんな事はきっと。きっと『本当の事』のオプションに過ぎないんだ。
「…ひとつしかないんです……」
「紅葉?」
ただひとつの本当のこと。それ以外は全部。全部ただの出来事でしかないんだ。
「ただひとつしか、ないんです。でも」
「でも?」
「僕の口からは言えません…貴方が気付いてくれなければ…」

「僕の口から言っても、意味のないことなんです」

貴方が、気付いてくれなければ。
貴方が自分自身で気付いてくれなければ。
幾ら僕が今までの事を全て貴方に伝えたとしても。
伝えたとしても。
それはただの『出来事』でしかなく『昔話』でしかないのだから。
だから本当の事を。本当の事を貴方が気付かなければ。
幾ら僕が今までの事を話しても、意味がないんだ。

―――貴方が、気付いてくれなければ……


「…紅葉……」
「今は、こうして」
「…紅葉……」
「貴方がこうして、生きていてくれるだけで」

「…僕はそれだけで……」


そう言って目を閉じた君に。君に不意に僕はキスをしたい衝動に駆られた。
―――キス?……
けれども逆に出来ないと、君には出来ないとそうも思った。
キスなんて数え切れないほどしてきた。けれどもしたいと自分から思ったのは初めてだった。そして出来ないと思ったのも。
今までキスをねだってきた女の子には幾らでもしてきた。出来ないなんて思った事もない。そんな事を考えた事もなかった。
けれども。けれども君にはそんな簡単な想いで、キスをするのが許されないような気がした。
「…ごめんなさい…如月さん…僕……」
「紅葉?」
「…少し、疲れました……」
「大丈夫かい?」
「…平気です…こうして少し休んでいれば…良くなると思います」
そっと瞼を開いて、君は微笑った。その儚い程に綺麗な君の笑顔に。その笑顔を、僕は永遠に瞼の裏に閉じ込めたい。
「―――君は僕の見る限り病人だ…無理はしないでくれ……」
手を伸ばして、君の髪に触れた。一瞬だけぴくりと君の肩が震えて。震えてそしてそっと目を閉じた。
「…如月さん……」
さらさらの柔らかい髪。ひどく指に馴染む髪。その髪を指先で撫でながら、僕は。僕はこの瞬間が永遠に続いたらとふと、そんな事を思った。
「…優しいですね…如月さん……」
その言葉を最後に君の口から微かな寝息が聴こえてくる。僕はそれを確認しながらも、髪を撫でている手を止めなかった。―――止めたくはなかった。
子供のような寝顔。ひどく無邪気な、そして無防備な寝顔。その頬はこけて肉は削げ落ちているのに、君の寝顔はひどく安らかだった。
「―――紅葉……」
僕はそっとその名前を呼んだ。声に馴染む、その名前を。そしてもう一度、名前を呼んで。
「…僕は……」
髪に絡めていた指を、ゆっくりと君の額に鼻筋に頬に移した。けれども君は眠っている。安心しきって眠っている。それがひどく、嬉しい。
―――僕の手のひらを、安心しきっている君が……

何か僕は言葉を口にしようとしていた。
けれどもそれは寸での所で止まる。
今君に。眠っている君に告げる言葉ではない。
君の瞳を見つめて。君を真っ直ぐに見て告げなければいけない言葉のような気がして。
僕は。僕は、ゆっくりと言葉を飲み込んだ。


そして、もう一度君の髪を撫でる。
飽きる事なく、君の髪を。

―――君の優しい眠りを、護るために……


ACT/60


何時か、気付く時があるのかもしれない。
あの時の、あの瞬間が。
あの時の、あの優しさが。
今この瞬間に繋がっているんだと。
繋がっているんだと。
無数に繋がっている糸の先が。
その先が、何処に繋がっているのか。
ただひとつの箇所に繋がっているんだと。

ただひとつのものに、繋がっているんだと。


独りでいる時の孤独よりも。
ふたりでいる時の孤独の方が淋しい。
貴方と一緒にいるのに、貴方の傍にいるのに。
こんな風に、小さく降り積もる淋しさが。
何時しか。何時しか、降り積もって。
そして僕を埋めてゆく、淋しさの方が。

―――少しだけ、泣きたく…なった………。


目覚めた瞬間に、飛び込んできたのは貴方の顔。ひどく優しく微笑む貴方の顔。僕は無意識に子供みたいに、笑った。その笑顔に包まれて。包まれて、笑った。
「…おはよう…ございます……」
本当に今朝で『おはよう』が正しいのか、僕には分からない。けれども僕の口から零れたのは、それだけだった。
「おはよう、紅葉」
まだ貴方の指は僕の髪を撫でていてくれる。優しい指、優し過ぎる指。記憶がなくても、僕を覚えていなくても、貴方は。貴方はこんなにも優しい。
―――泣きたく、なった。
本当に自分でも情け無いと思う。どうしてこんなに貴方に知り合ってから、僕は泣き虫になってしまったのか。どうして、こんなにも?
「どうしたの?」
「あ、いえ…本当に朝なのかな…と思って」
「本当に朝だよ、ほら」
空いている方の手で、貴方は窓を指差した。そこから差し込むのは柔らかい日差し。暖かい朝の日差し。
「…本当ですね…朝です……」
綺麗、だな。生まれたての太陽の光は、本当に。本当に、綺麗だな。そして。そしてそんな光に照らされる貴方の横顔も…触れることすら拒まれるようなくらいに、綺麗。
「――僕は、朝は特別好きじゃなかった。けれども、紅葉」
「はい?」
「君と見る朝は…悪くないね」

「まるで、新しい命が生まれるみたいだ」


新しい、命。
生まれたての、命。
これから始まる命。
もしかしたら。
これが。これが君との。
君との始まりの瞬間なのかもしれない。
今この、瞬間が。

―――新しく、命のはじまる瞬間なのかもしれない……


「紅葉」
「…はい……」
「僕は君のことを知らない。何も覚えていない」
「…ええ……」
「でもこれから先、君のことを」

「君のことを、知りたいと思う」


僕の言葉に、君は。
君はこくりと頷いた。
柔らかく口許に微笑いながら。
そっと。そっと君は。

君は、微笑った。


「如月さん、大切なのは」
「紅葉?」
「きっと、過去や今までの積み重ねよりも」
「……」
「これからだと思います」
「…紅葉……」
「これから、生きてゆく事だと」

「…これからの、未来を生きてゆくことだと……」


全てを消し去る事は出来ない。
僕の胸に記憶は消える事はない。
今までの傷も、貴方との出会いも。
館長との事も、その全てを。
けれども。けれどもそれは。
それは僕が知っていればいい事だから。
貴方が覚えていなくても。
貴方が何一つ覚えていなくても。
僕が覚えているから。
その全てを僕が全て覚えているから。
だから、貴方は。
貴方はこれから先の真っ白なキャンパスで。

―――新しい絵を、ふたりで描いてゆけたならば。


「如月さん…あの……」
「うん?」
君が少し戸惑いながら、布団から手を伸ばしてきた。その手はがりがりに痩せていて、見ている僕の方が辛いほどだった。
「…あの…近くで…朝日…見たいんです……」
「ああ、そうだね」
すまなそうに、そして少し恥かしがりながら出してきた手を僕は取った。そしてそのまま引っ張って君の身体を起き上がらせると、そのまま抱き上げた。
「き、如月さんっ?!」
びっくりしたように見上げて来る君に、僕は多分…自分でもどうしようもない程甘い顔をしていると思う。鏡で見たら情け無いと思うような顔を。
「君の、今の身体の状態じゃあ無理だろう?だから」
「…で、でも…重く……」
「重くなってくれ。これじゃあ軽過ぎて僕が不安になる」
「…あ、はい……」
そのまま黙ってしまった君にもう一度僕は微笑んで、そして君を窓辺へと運ぶ。降ろしてくださいと言った君の訴えを無視して、僕はそのまま君の身体を腕に抱いていた。
細い、身体。細過ぎる身体。どうしてこんな事になってしまったのか?君は聴いても答えてはくれないだろう。僕が全てを思い出さない限り、君を分からないのだろう。でも。
「ほら、紅葉。朝焼けだよ」
でも、分かった事がある。違う分かった事じゃない。自然に、沸き上がる想い。ごく自然に僕の中にあったもの。
「わあ、綺麗ですね」
手のひらから零れ落ちた中でただひとつ。ひとつ残ったもの。多分消す事が出来なかったもの。
―――消す事が、出来なかったもの。
「本当に、太陽が生まれたみたいです」
消す事なんて出来ない、もの。ただひとつだけ、最期に残ったもの。
「新しい命が、生まれたみたいです」
この手のひらに、残ったもの。ただひとつ、残ったものそれは。
「新しい、命が…」
―――君への、想い……


好きだとか、愛しているとか。
そんな言葉では言い尽くせない。
そんな言葉でなんかでは足りない。
言葉なんかでは追い着けない、想い。
追い着けない、想い。
君の事は何も覚えてはいない。
何一つ覚えてはいない。
けれども。けれども、確かに。
確かに僕の中にその想いは、ある。
その想いが存在する。

―――君を愛しいと、そう言う想いが……。

理屈なんかじゃない。
理由もない。
ただ。ただ純粋に。
君を好きだと想う事。
そこには他に何もない。
たくさんの言葉も、たくさんの形容詞もいらない。
本当に僕にはただそれだけが。
それだけが胸の中に降り積もる。
それだけがこころの中を支配してゆく。

僕の中に、ごく自然にあった。
当たり前のように存在していた。
何も分からない筈なのに。
君のことを何も分からない筈なのに。
それなのに、何時の間にか。
ごく自然に僕のこころにあった。
もうずっと昔からのように。
ここに、あった。

このこころの中に、存在した。


「綺麗だね、紅葉」
綺麗だよ。君が。君が、綺麗だ。
「そうですね」
朝焼けの光に照らされた君が。
「凄く、綺麗ですね」
生まれたての太陽の下で微笑う君が。
「綺麗、ですね」
君が何よりも、綺麗だよ。

これが、生きていると言う事。
命を刻んでいると言う事。
生命の鼓動を感じると言う事。
生きて、いる。
君が生きている。そして僕も生きている。
僕らは生きている。


「君と話していると、君といると大切なものが見つかる」
「如月さん?」
「僕が人間として欠けていたものが、全部。全部君と話している間に埋められてゆく」
「…如月さんの足りないものって…何ですか?」
「人間として当たり前のものだよ。嬉しいと想う事とか、愛しいと想う事。そんな当たり前の感情だよ」
「それは僕も持っていませんでした。僕にもないものでした」

「…貴方に、出逢うまでは……」


足りないもの。欠けているもの。
貴方はちゃんと覚えていてくれた。
記憶をなくしても、僕を覚えていなくても。
それでも。
それでも貴方は覚えていてくれた。
僕らが足りなかったものを。僕らが埋め合ったものを。
貴方は覚えていてくれた。

―――ちゃんと、覚えていて…くれた……



End

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