Femme Fatal ・16


ACT/61


祈りを、捧げる。
僕の為に、貴方の為に。
全ての祈りが星屑になるまで。
空に散りばめられるまで。
祈りを、捧げる。

―――全ての、優しさの為に……


「食べ物は、食べられるかい?」
台所の椅子の上に、座らせられた。そこまで歩けますと言っても、貴方は腕の中から降ろしてはくれなかった。何だか子供のように過保護にされている気がする。恥ずかしいけど…嬉しい……。
「…多分…大丈夫だと…思います……」
貴方が僕を全て忘れてしまったように、僕にも一部分記憶が抜けていた。薬が切れると気が付いて、そして。その先からぽっかりと穴が空いている。
「取りあえずお粥作るから待っていてくれ」
「…え?如月さん…料理……」
そして僕の記憶は額から血を流して倒れている貴方に繋がる。その間の記憶が何もない。その時何があったのか?その時貴方に何が起こったのか?それが僕には分からない。
「…あ、そう言えば僕は……」
貴方は自分が何気なく言った言葉に、逆に驚いている。そうだろう…貴方に僕の記憶がないのなら貴方が『料理をする』と言う記憶も無い筈なのだから。
「…僕は料理など作った事は無い筈だ……」
「―― 一緒に、作ったんです。僕と」
「…君と?……」
「はい。如月さん初めてなのに、凄く美味しかったですよ」
貴方にとって抜け落ちているのは『僕』だけみたいだ。それ以外の経験した事は記憶が無くても、身体が覚えているって事なのだろうか?
―――だとしたら少しづつ、矛盾が出て来てしまうのだろうか?
「君と料理を?」
「あ、でも…今出来ないのなら僕、やります」
「駄目だ、君はここに座っていてくれ。僕がするから」
まだ何処か腑に落ちないと言うような表情をしながらも。それでも僕にだけは柔らかく笑うと貴方はキッチンへと向かった。
矛盾した記憶の歪みは、このまま。このまま、貴方を何処へ連れて行こうとしているのだろうか?


男子厨房に入らず。
幼い頃からそう躾られて来た。
上に立つものは自分で身近な事はやらないものだと。
炊事洗濯家事は、全て下々の者にやらせればいいと。
それが祖父の教えだった。
けれども僕は何時も疑問に思っていた。
自分の事を自分でやるのは当たり前の事じゃないか、と。
何も出来ずに、何もせずにいていいものなのかと。
ずっと思っていた。
けれども、僕にそんな時間は与えられなかった。
家に帰れば家政婦が全てをやってくれた。
僕は勉強だけをしていればいいと。
僕は如月家の跡取になる為だけに生きていればいいと。
それ以外のもの全てが排除された。
僕の廻りから一切、切り離された。

けれども。けれども、何故。
何故こんなにすんなりと言葉が出たのか。
こんなにもすんなりと。

『取りあえずお粥作るから待っていてくれ』

本当に僕は君と料理をしていたのか?
全ての事から切り離されていた僕が。
でも確かに手は覚えている。感覚を覚えている。
こうして庖丁で野菜を刻む感覚を。
―――身体が、覚えている。

君は一緒に料理を作ったと言ったね。
君と一緒に、料理を作ったと。
どうして。どうして僕はそれを思い出せないのか?
君とともにいた時間をどうして。
どうして何も、思い出せないのか?
こんなにも大切な事を、僕はどうして。
どうして思い出せないのか?


こうして貴方を待つ時間は、嫌いじゃない。
台所に立つ貴方の後姿を眺めながら待つ事は。
貴方を待っている事は…嫌いじゃない。
だって貴方は。貴方は必ず僕のもとへと来てくれるから。
だから僕は、こうやって。
こうやって貴方を待つのは、嫌じゃない。
でも、本音を言うならば。
貴方の隣に立って、一緒にご飯を作りたい。
あの時みたいに、一緒に。
一緒に時間を分け合いたい。
今貴方にその記憶がないのならば。
新しく、もう一度。
もう一度ふたりの記憶を作りたい。
それは。それは、僕の。
―――僕の我が侭でしか、ないですか?

貴方の、記憶。
僕だけを失った記憶。
僕だけが分からない記憶。
けれども。
けれども貴方はやっぱり何一つ変わらない。
僕の事を何も覚えていなくても。
僕への記憶が一切なくなっていても。
貴方は何一つ、代わらない。
貴方の優しさ。貴方の暖かさ。
わざと強引に進める行為は、僕が本当はそれを望んでいると分かっているから。
―――素直に『はい』と言えない僕を。
そんな僕を分かっているから、考える前に行動を進めてしまう。
貴方のそんな強引な優しさが、好きです。
何よりも、好きです。
言葉にして伝えなくても。言葉にしなくても。
きっと何時か。何時か貴方に伝わると信じたい。
何時しか貴方に、伝わると。


「おまたせ」
テーブルの上に置かれたお粥を僕はスプーンに掬って口に運んだ。胃の中に食べ物を入れるのがひどく久しぶりな気がする。最初は違和感を押さえ切れなかった。
「…こほっ……」
「紅葉、大丈夫か?!」
一杯目を口に含んで、僕はむせてしまった。そんな僕に貴方は咄嗟に駆け寄る。そんな優しさが、好き。
「…大丈夫です…少しむせただけです」
「ならいいが……」
心配そうに覗き込む貴方の顔は、とても綺麗で。こんな時に不謹慎だけれども、僕は見惚れそうになってしまった。
「味がひどいって事はないよね」
「そんな事はないです。美味しいです」
「よかった、君の口に合って」
微笑う、貴方。嬉しそうに笑う貴方。嬉しい。貴方のそんな笑顔を見る事が何よりも、嬉しい。
僕はその笑顔を見つめながら、もう一度お粥を口に運んだ。やっぱりまだ胃がもやもやする感じが消えないけれども、それでも体内に取り込む事は出来た。
「…あの…如月さん?……」
「なんだい?」
「如月さんはご飯、いいんですか?」
「君が食べるのを見届けたら、僕も何か食べるよ」
「…あ、でも……」
「でも?」
「一緒に食べるのも…きっと楽しいですよ…」
変な事を言っているのかもしれない。けれども、貴方と。貴方と一緒に食べる食事の方が、独りで食べているよりもきっと数倍も楽しいだろうから。
「くすくす、そうだね。紅葉」
貴方の手が僕の頬に不意に伸びてきた。そして。そして口許に付いているご飯粒を手にとって、自らの口に運ぶ。
「でも今はこうやって、君を食べ終わるのを見届けたいんだ」
「…如月さん……」
「僕が作ったものを食べてくれる、君を」
優しい、瞳。優し過ぎる瞳。僕の全てを包み込んでくれる、その暖かい瞳。何も変わってはいない。貴方は何一つ、変わってはいない。例え記憶をなくしてても、何もかもを憶えていなくても。
「…如月、さん……」
「何?紅葉」
「…美味しいです……」

「如月さんの作ってくれたお粥…凄く美味しいです」

貴方が作ってくれたもの。
僕の為に作ってくれたもの。
ただそれだけの為に作ってくれたもの。
そこには見返りも、欲求も何も無い。
ただ僕の為だけに。僕の為だけに、作ってくれたもの。


美味しいと言って、君は笑った。
子供のように笑った。
幼い子供のように、無邪気な笑顔で。
―――ああ、僕は。
僕はその笑顔が見たかったんだ。
君のその笑顔が、見たかったんだ。

君に笑って欲しかった。
君に喜んで欲しかった。
ただ、それだけなんだ。
ただそれだけの事なのに。
僕はひどく必死になっていた気がする。
ひどく必死になって。
どうしたら君が笑ってくれるのか。
そんな事をずっと考えていた気がする。

―――どうしたら君が、微笑ってくれるのかを。


「けれども…」
「どうしたの?紅葉」
「…あんまりじっと見ないで…ください…」
「どうして?」
「…恥かしい…から……」
「嫌だ、見ていたい」
「…如月さん……」
「君を、見ていたい」

「色々な君を、見ていたいんだ」


僕の言葉に君は。
君は本当に困ったような顔をして。
そして俯いてしまった。
けれどもその耳がひどく真っ赤になっていた事が。
僕にどうしようもない程の幸福な笑みを浮かばせたのだけれども。


―――幸福な、笑みを……


ACT/62


シャボン玉。
七色に光るシャボン玉。
手のひらに掬って。
そして静かに。
静かに壊れていくシャボン玉。
音も立てずに、壊れてゆく。
生まれたと思ったら、消えてゆく。
生まれた瞬間に、消える。

―――七色のシャボン玉。


風が、蒼いなと思った。海の近くから吹いてくる風は、蒼いと思った。可笑しいですね、色なんて見える訳がないのに。
「買い物に、行って来るよ。何か欲しい物はあるかい?」
そう貴方に尋ねられて僕は首を横に振った。欲しい物なんて…何もない。今こうして貴方と何気ない会話をして、何気ないやり取りをする時間が一番大切だから。
「欲しいとねだってくれた方が、僕としては楽しいんだけどね」
「…じゃあ…」
「うん?」
「りんごジュースが飲みたいです」
僕の言葉に貴方はくすりと笑った。柔らかい笑顔。この笑顔をずっと見ていられたらなと、ふと思った。ずっと見つめていられたならば。
「分かったよ、買って来るよ」
こんな風に、小さな出来事を積み重ねてゆけたのならば。


子供の頃、一度だけ太陽を追いかけた事があった。
もしかしからこの地上を走っていったなら、あの光に追いつくのでは無いかと。
ずっと、ずっと先まで追いかけた事があった。
けれども僕の手は、僕の足は、とても小さくて。
幾ら幾ら走っても太陽に追いつける事はなかった。
気付いた時にはその光は地平線の彼方に沈んでいた。
辺りは何時しか暗くなって、闇が僕を支配していた。
そして僕は闇の中へと還ってゆく。
何時もの場所へと帰ってゆく。
―――僕が唯一居る事を許されている闇の世界へと。

もしも、あの太陽に届いたならば。
この手が届く事が出来たなら。
僕は違うところへとゆけると思っていた。
ここではない何処かへと、ゆけるのではないかと。
けれども、それは。
それはやっぱり夢のような話で。
子供が作り出した、ただの夢物語で。
現実に僕は何処へもゆく事は出来なかった。
何処にも、ゆけなかった。

『紅葉、一緒に行こう』

貴方があの時の太陽と重なった。
追い掛けても追い掛けても追い付けなかった太陽。
どうしても追い付きたかった太陽。
その太陽が僕の手を取って、そして一緒に連れて行ってくれた。
ここから連れ出してくれた。
いっぱい、いっぱい傷を負いながら。
無数の傷を身体に刻みながら。
見えない糸を解きながら。
ふたりで手を取り合って、逃げた。


今思えば、僕達は本当に子供でした。
信じていたのです。愛さえあれば乗り越えられると。
全ての事から、乗り越えられる事が出来ると。
僕らは信じていたのです。

―――子供だけが見る事の出来る、優しい夢の中で……


海が見える場所で、死にたいと思っていた。
何故かは分からない。けれども昔から、そう決めていた。
自分の最期の場所は、この蒼い海だと。

柔らかい風が、吹いている。砂を揺らし、光を乱反射させる。その誰もいない筈の海に足跡がひとつ。僕と紅葉以外にいない筈のこの場所に。
「………」
――紅葉?とそう思いかけて、止めた。君がこの場所を独りで歩ける筈が無い。だとしたら?
僕はその足跡を追い始めた。それは岩場まで続いて途切れる。僕はその岩場を見上げた。

死にたいと、思っていた。
ただ無償に死にたいと。
理由など無い。意味など無い。
ただ、死にたいと。

「…紅葉?……」
言葉にして僕は自分でも驚いた。僕の前にいたその人物は君とは全くの別人だったのに、僕は何故かその時君がそこにいると錯覚をして。君が今ここにいる、と。
「…くれは?……」
不思議そうな表情で僕に向けられた瞳は、ひどく。ひどく君の瞳に似ていて…そして。そして全く違うものだった。
「――いや、すまない。別人だ。一瞬知り合いに見えた…僕がどうかしていた」
綺麗な顔をしている僕らと同じくらいの年の少年。だけど君とは違う。君とは明らかに別人だ。それなのに何故僕は一瞬、君だと錯覚したのだろうか?
「お前の、大切な人?」
「何故そんな事を言う?」
「名前の呼び方に想いが入っていた」
笑った顔がまた。また一瞬君に見えた。全然似ていないのに。全然君とは似ていないのに。どうしてふとした瞬間、君と重なるのか?
「羨ましいな。俺も誰かにそんな風に呼ばれてみたい」
そんな風に言って無邪気に笑う顔はやっぱり別人だ。こんな屈託の無い笑顔は君は持っていない。君の笑顔はもっと。もっと見ている者を切なくさせる。
「いないのかい?君には」
「いない。いちゃいけないんだ。俺に『大切な人』は」
あ、まただ。また一瞬君と重なる。不意に見せた、一瞬見せた淋しげな瞳が君と重なる。
「――どうして?」
普通なら僕は会話を切り上げてその場を去っていただろう。他人など興味ない僕にとっては、どうでもいい事だった。どうでもいい事だったのだから。けれども。けれども何処かふとした瞬間に君に似ているの瞳が…僕をその場から立ち去らせてはくれなかった。
「俺は全てを護らなければいけないから…特別なんて作れないんだ」
「護る?全てを?随分と大きな事を言うね、君は」
「そうだね、大きな事だ。普通の人には分からないよな」
分からない。確かに普通の人間には理解出来ない事だろう。でも僕はすんなりとその言葉を受け入れていた。
「分からないね、普通の人間には」
「なら戯言だと思って聴いてくれ。俺は選ばれた人間だ」
僕の瞳を真っ直ぐに見つめながら君は言ってきた。その視線は揺るぐ事は無い。真っ直ぐに。真っ直ぐに僕を見つめて来る。強い視線。人を惹き付けずにはいられない視線。それは。それは僕の一番奥にある何かを呼び起こす。これは。―――これは?
「俺は選ばれたんだ。俺自身が望んでいなくても」
「……」
「俺は誰のモノにもなれない。俺に『特別』を作ってはいけない…俺は皆のモノだから」
「皆のモノ?随分と大層な事を言う…」
「大層だろう?でも本当なんだ。俺は皆を護らなければならない。俺は誰か独りを護るなんて出来ない」
「君は言っている事が矛盾しているよ」
「…矛盾?……」
「そうだよ。分からないかい?全てを護ると言うのに誰か独りを護れないなんて…おかしいじゃないか」

「ただ独りの人間も護れないのに、全てを護るなんて不可能だろう?」


死にたい、と思った。
死んで別なものになりたいと。
今の俺以外のものに。
俺以外のものに、なりたいと。


「確かに矛盾している」
漆黒の瞳。強く揺るぎ無い瞳。けれども一瞬、ほんの一瞬だけ見せる不安定さが…その不安定さが、紅葉…君に似ている。君の淋しげな瞳に。
「そうだね、矛盾している…俺は……」
綺麗な顔。けれども紅葉とは違う顔。違うのに何処か似ている顔。何が、何が似ているのか…僕には分からない。けれども確かに『似ている』と思う。
まるで月と太陽のように。正反対なのに何処か繋がっているような。磁石のプラスとマイナスのように。
「矛盾しているな」
自重気味にひとつ笑って。そしてもう一度僕を見つめた。見つめた先にあるものを。それを僕は何処かで知っている。どんなに否定しようとも逃れない何かが僕の身体から湧き上がってくる。
「ただ独りの人を護れなければ…全てを護れない…確かにお前の言う通りだ」
「君がどんな人間で、どんな素性のものかなんて僕にはどうでもいい。君がどんな立場の人間かなんて僕にはどうでもいい事だ。けれども」
「…けれども?……」
「――君の瞳は何処か、紅葉に…似ている……」
似ている。全く違うのに、何処か根本的な何かが、そこにある。そこに、ある。それは言葉に出来るものではない。けれども、確かに。確かにそこに在るのだから。
「…案外俺の、魂の双子だったりして……」
「え?」
「何でも無いよ。もしも本当に『紅葉』と俺が似ているなら…きっと俺達は出会う筈なのだから。そして」
「―――君は、何が言いたい?」
「そしてきっと」

「……きっとお前ともう一度、出会うよ…玄武……」


死にたかった。
ただ死にたかった。
違うものになりたかったから。
別な所へとゆきたかったから。

―――ここどはない何処かへと、ゆきたかったから……


「もう俺は行かないと…じゃあ」
「――待て…君に聴きたい事がある」
「聴きたい事?お前は俺の素性には何も興味はなかったんじゃないのかい?」
「ああ、興味は無い。どうでもいい。ただ、ひとつだけ」

「君の名前は、なんて言うんだい?」

その質問に。
その質問に華のような笑顔で笑った君は。
その笑顔は、確かに紅葉に似ていた。
全然別物の笑顔なのに、似ていた。


「緋勇 龍麻」


その名前を僕は後になってもう一度聴く事になる。
もう一度君と出逢うことになる。
けれども、僕は。

僕はその時には、君とこうして話した事を何一つ憶えてはいなかった……。


ACT/63


僕はずっと忘れない。
貴方が忘れたとしても。
全てのひとが知らなかったとしても。
僕だけは。
僕だけは、忘れないから。

―――忘れたく、ない。

忘れてしまったら。
全てを忘れてしまったら。
僕達が過ごした日々は。
過ごした日々はただの夢になるから。
ただの優しい夢に。
夢じゃ、ない。
確かに僕らは出逢って、そして語り合った。
瞳を見つめあって、そして指を絡めた。
僕の指先にはまだ貴方の体温が残っている。
僕の唇には貴方の優しさが残っている。
僕の耳には貴方の言葉が残っている。
僕の瞼の裏には貴方の笑顔が残っている。
僕の全てが貴方を記憶している。

夢なんかじゃない。
子供だけが見る優しい夢じゃない。
僕はリアルに生きていた。
僕達は現実の中にいた。
例えそれがどんなに夢よりも優しい時間だとしても。
それは。それは全て。
全て僕達が築き上げたもの。
他の誰でもない僕達が築き上げたもの。
誰にも邪魔なんて出来ない。誰にも触れる事なんて出来ない。
誰も知らない。誰も知らなくていい。
でもこれは、本当の事なんだ。
本当の事、だから。

―――だから僕は、絶対に忘れたりはしない……


しあわせに、なろう。
それだけだった。
僕らが求めたものはそれだけだった。
ふたりでしあわせになること。
ただそれだけを、求めていたから。
しあわせに、なりたかった。
本当にこころから。
こころから笑いあって、そして。
そして一緒に気持ちを感じ合う事が出来るならば。
柔らかい朝の日差しを一緒に見られたならば。
真夏の太陽を一緒に浴びられたならば。
沈む夕日の紅い色を一緒に目に焼き付けられたならば。
優しい夜を一緒に眠る事が出来たならば。
ただ普通の、ごく当たり前の日常の積み重ね。
それをふたりでしたかった。
特別な事じゃない。特別な場面じゃない。
ただ自然に起こりうる事をふたりで感じたかった。
小さな日常の繰り返しを、僕らは。
僕らはふたりで感じたかったんだ。
―――特別なこと、じゃない。
運命とか宿命とか、紅い糸とかそんな事じゃない。
ただ、ふたりで。
ただふたりで平凡でいい日常を、感じたかっただけなんだ。

ごく当たり前の毎日を、ふたりで過ごしたかったんだ。


特別も、運命も、いらない。
選ばれたくもない。
他人と違ってなくていい。
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことが。

―――どうしても僕らには、出来ない事だった。


窓から零れて来る風はひどく穏やかで、優しかった。僕は目を閉じその風を感じる。優しい、風。柔らかい、風。その風に包まれ、眠ってしまえたらと思った。
「……僕の…せいなのでしょうか?……」
言葉にしてみて、やっぱりそうなのかなと思った。そうなんだろうと…思った。貴方の記憶が僕だけ抜けているのは、きっと。きっと僕のせいなのだろう。
―――狂ってから抜けている記憶。その先の記憶。きっとその中に答えがある。答えが…ある……。
そこに何があったのか僕は知りたい。その先に何があったのか、僕は知らなければならない。けれども。けれども幾らソレを思い出そうとしても、僕の記憶からは出てこなかった。
「…何が…あったのですか?……」
自分自身に問い掛けても、その答えが出ないのが何よりも哀しい。答えはここに、僕の中にあると言うのに。どうして。どうして、何も思い出せないのか?
貴方が思い出せないのなら、貴方が何も憶えていないのならば。僕が、僕が全てを知っていなければならないのに。僕がその全てを記憶していなければならないのに。それなのに。それなのに…僕は……。
「…何が…僕に…そして貴方に……」
考えようとしたら突然頭痛が襲ってきた。割れるような痛みが襲ってきた。僕は。僕はその痛みを必死に堪えようとして…堪えようとして、その場に崩れ落ちた。


『花、綺麗ね…ありがとう…』
『…あ、…いや……』
『くすくす霜葉は何時もそうやって照れている』
『…ごめんなさい…僕は…その言葉を上手く伝えられないから…』
『いいの、分かってる。私はそんな所が好きなの。そして一番大好きなのは』

『その花みたいに優しく微笑う、その笑顔』

そうね、次生まれ変わる事があったなら。
男に生まれたいな。そうしたら。
そうしたら貴方を護る事が出来るでしょう?
誰よりも孤独で淋しい貴方を護ってあげる事が出来るでしょう?


―――誰かの声が僕に降ってくる……
それは強く優しい想い。想いが、降って来る。
心地いい。心地いい、想い。
けれどもそれは他人のものだ。僕にとって知らない人のものだ。
どんなに心地よくても、それは。
それは誰か他の人の、ものだ。
駄目だ…僕ではない他の人に与えられている想いを…僕が受け取る事は出来ない。
還してあげてください。本来のひとへ。
その優しい想いを、その強い想いを還してあげてください。
きっと。きっと、そのひとは淋しがっているから。


――――我が主よ。本来我を持つ者よ。
呪いを受け付けぬ、その血を引きし者よ。
何故汝らは、そんなにも自らを犠牲にする。
我を自由に操りし者達よ。
どうして汝らはそんなにも、愛する者を護る為に自らを投げ出す。どうしてだ?
我の力を自由に使えさえすれば、汝らはそんなに傷つく事もなかろうに。
それなのにあえて自らの力だけで解決しようとする?
力を頼ろうとはしないのだ?

だって、力だけでは何の解決にもならない。
大切なひとだから。ただひとりの大切なひとだから。
自分自身がどうなろうとも。自分がどうなっても。
自分自身の力で、相手を護りたいから。
誰の手でもなく、僕の手で。
護りたいから。それだけです。
ただそれだけの事です。

―――我が主よ。闇に堕ちし、けれども穢れなき者よ。
そのこころこそが。その、こころこそが。我を手にするのか?
我の呪いを弾くのか?その穢れなきこころこそが。
我の呪いの刃を弾くのか?

呪いなんて僕は、怖くはない。
怖いのはこの世界にあのひとが存在しない事だけ。
それだけが僕にとっての唯一の恐怖だから。
だからなにも、怖くはない。

―――汝よ、信の我の主よ。
我は汝ほど哀しい者を知らぬ。汝ほど、哀しい者を。
今まで何千もの人の血を吸い尽くしてきたが。今まで何千もの運命を見て来たが。
汝ほど、哀しい人間を我は知らぬ。
どうして楽な道を選ばない?簡単に幸せならば掴めるではないか。
どうしてそれなのに敢えて。敢えてこんな道を選ぼうとするのか?

僕はかりそめの幸せならば欲しくはない。
ただ生ぬるいお湯に浸かっているような幸せならば。
それならば僕は。僕はいらない。
僕が欲しいものは。どんなに傷ついても。どんなにぼろぼろになっても。
ただひとつの。ただひとつの本当のものだから。
どんなに辛い道を選ぼうともそれが真実ならば。
真実ならば、僕はその道を選択する。

―――そうか…ならば見るがいい。
汝が望んだものだ。汝の記憶のない、汝の姿だ。
見るがいい。そしてその真実を汝の瞳に心に焼き付けるがいい。
汝の全てに、焼きつけるがよい。


たとえそれが、どんなに苦しい真実であろうとも。


僕は、狂っていた。
薬によって神経が犯され。
そして。そして発狂した。
その瞳には何も映さない。
その瞳は何も、映してはいない。
愛する貴方の姿すら…映してはいない。

僕はさ迷う。さまよい続ける。
『如月さん』を捜して。
捜して捜してさまよい続ける。
貴方はここにいるのに。
僕の目の前にいるのに。
僕は。僕の『如月さん』を探し続けた。


『紅葉、僕はここにいる』


真っ直ぐな貴方の瞳。
そらされる事のない貴方の瞳。
それはこんなにも。こんなにも僕の近くにあるのに。
こんなにも僕の傍にあるのに。
僕はその瞳すら映さずに探し続けた。
捜し、続けた。僕にとっての『如月さん』を。

ああ、僕は。
僕は何を見ていたのか?
僕にとって都合のいい貴方しか見ていなかったのか?
本当の貴方を見ていなかったのか?
何時しか僕は僕にとって理想の貴方を作り上げていたのか?
分からない。分からない、僕は。
僕は一体何を、見ていたの?

貴方はそばにいる。僕の傍にいる。
僕を抱きしめ、そっと髪を撫でてくれる。
僕が暴れるのを止めるまで。
僕が大人しくなるまでずっと。
ずっと僕を抱きしめ髪を撫でてくれる。
僕が貴方の腕の中で暴れて、貴方に傷が付いても。
貴方の頬から血が流れても。
それでも構わずに僕を。僕を抱きしめてくれる。


『…紅葉…紅葉…ここにいるよ…僕はここにいる……』


貴方は何度も何度も僕にそう言っていてくれたのに。
それなのに僕は。僕は貴方を探し続ける。
貴方を追い続ける。幻を追い続ける。
―――僕にとっての『如月さん』を……

僕は。僕は一体。
一体何を見てきたのか。
貴方の何を見てきたのか?
貴方の優しさを、貴方の暖かさを。
貴方の広さを、貴方の愛を見つめてきた。
それなのに。それなのに何時しか僕は。
僕は『絶対的』な貴方を作り出していた。
貴方だって。貴方だって、傷つく事も。
貴方だって悲しい事も。貴方だって辛い事もあるのに。
何時しか僕は、僕にとって『絶対』の貴方を作っていた。


『…紅葉…お願いだ…僕に気が付いてくれ……』


その言葉の切なさを。
哀しい程の貴方の声を。

―――僕は…初めて…知った……。


ACT/64


―――何処へゆけば、君に逢えるの?

捜して、捜して。捜し求めて。
そして辿り着く。最期に辿り着いた場所。
そこに君は、いてくれるのだろうか?
僕の前で笑って、くれるのだろうか?


貴方の強さは絶対だと。貴方の優しさは絶対だと。
何時しかそう思うようになっていた。
どんな時も貴方は揺るぎ無い強さを持っていると。
どんな時も貴方は変わる事のない優しさを持っていると。
どんな事があろうとも、貴方は。
貴方は僕にとって『絶対』であると。

貴方が僕の口に、お粥を運ぶ。ひとつひとつスプーンで掬って、僕の口に運ぶ。けれども僕はその全てを吐き出してしまう。それを貴方は自らの手で掬った。汚いモノなのに。僕の口から零れた汚いものなのに。貴方はその全てを手で掬った。
「…紅葉、食べないと君が持たない……」
貴方の声は僕には届かない。ただ、ただ吐き続ける。内臓の中身が空っぽになって胃液を吐き出すまで。僕はずっと吐き続けていた。
そんな僕を貴方は嫌な顔ひとつせずに、タオルで僕の顔を拭う。そして。そしてそっとキスを、した。
「――こうやって、食べるのもダメかい?」
キスじゃ、なかった。口移しに貴方が食べ物を僕に運んでいる。小さな赤ちゃんに母親がするように。口の中で食べ物を砕いて、そのまま僕に与える。
そんな貴方の行動に、初めて。初めて僕は食べ物を受け入れていた。
「よかった、これで食べられるね…紅葉……」
「…あ…ああ……」
今の僕には言葉すら忘却されているみたいだった。まるで赤ん坊のように、ただ声を上げるだけで。ぺたぺたと貴方の頬に僕の手が触れている。それは本当に生まれたての赤ん坊のようだった。
「どうしたの?紅葉。もっと欲しいのかい?」
「――あ、ああ……」
「うん、いいよ。幾らでも…幾らでも上げるからね…君の為に」
多分用意したお粥は冷たくなってしまったのだろう。貴方は一度立ち上がると台所へと向かう。そんな貴方を僕は目だけで追っていた。何も映していない瞳で。
こんな瞳を僕は貴方に向けていた。向けていたのかと思うと、ひどく哀しい。哀しくて苦しくて、そして。そして切ない。
―――貴方が僕を見てくれるのに、僕が貴方を見ていない事が。
暖かくなったお粥を再び持って貴方は戻ってきた。そして熱いままのそれを口に含んで、適温になで冷まさせる。そしてそのまま僕の唇を塞いで、お粥を与えてくれた。
「熱くないかい?紅葉」
「…あ……あ…」
「うん、大丈夫みたいだね。もっと食べるかい?」
「あ…ああ……」
もっととねだっているのか、僕は貴方の頬に触れてぺたぺたと叩いている。子供みたいな仕草。赤ん坊のような僕。そんな僕を貴方は決して見捨てれる事はなかった。決して僕から目を逸らす事はなかった。
「…うん。いっぱい…食べてくれ……」
柔らかく僕の髪を撫でながら、貴方は何度も何度も口移しを繰り返す。それは飽きる事なくずっと。ずっと続けられた。僕がイヤイヤと首を振るまで、ずっと。
「ちゃんと全部、食べられたね」
そしてご褒美とばかりに、僕は口移しではないキスを貴方にされた。


そして、貴方は僕をそっと抱きしめ。
抱きしめ背中を撫でる。
何度も、何度も。繰り返し僕の背中を撫でる。
僕が眠りに付くまで。
貴方の腕の中で眠りに付くまで、ずっと。
ずっとその背中を撫でていてくれた。


「いやあああああっ!!!!!」
夜中に突然目が醒めた僕は、その場で叫び声を上げた。その悲鳴は自分でも驚く程に、大きな声だった。
「紅葉っ!」
隣で眠っていた貴方は咄嗟に置き上がり暴れ出す僕を抱きしめる。貴方から逃れようと何度も何度も拳を叩きつけながら、時には貴方の髪を引っ張る僕を。僕を貴方は抱きしめた。
どんなに無数の傷を作ろうとも、貴方はその腕から僕を離しはしなかった。
「紅葉、落ちついて紅葉」
「いやいやいやいやーーっ!!!いやあああーーーっ!!!!」
泣き叫ぶ僕。そんな僕を貴方はきつく抱きしめる。きつく、きつく、抱きしめる。
「大丈夫だ。大丈夫だから」
「僕はっ僕は貴方達の玩具じゃないっ!!!」
「うん、紅葉…そうだ君は玩具なんかじゃない」
「いやいやいやいや人なんて殺したくないのっ!!何で、何で殺さなければならないのっ!!」
「殺さなくていい。君は人殺しなんかじゃない」
「どうしてっどうしてっどうして僕なのっ?!僕なの?ねぇ…どおして……」
「紅葉…紅葉……」
「僕何の為に生まれてきたの?僕何の為に生かされているの?僕何の為に生きているの?」
「――紅葉……」
「どおしてっ…どおして僕を産んだの?…産んだの?お母さん……」

「いらない命なら…生まないで……」


「いらなくなんてない」
「…ううう……」
「いらなくなんてない」
「…うあ……」
「僕にとって君は何よりも大切な命なのだから」
「…うああああっ!!……」
「ただひとつの」

「―――大切な命なのだから……」


けれども僕に。
僕に貴方の声は届かない。
泣き叫ぶ僕に、貴方の声は。
貴方の哀しいまでの優しい声は。
僕には、届かない。

ただ、僕は泣きじゃくる。
貴方の腕の中で暴れながら。
暴れながら泣きじゃくる。
何時しか疲れて眠るまで。
僕はただ泣き続け。
そんな僕を貴方は、ずっと。

ずっと、抱きしめていてくれた。


「…紅葉……」
何時しか疲れ果て眠りについた僕に、貴方は一つ口付けを落とす。優しい口付け。優し過ぎる口付け。こんなに優しいキスを貴方はくれたのに、どうして僕には届かないの?
「…愛だけじゃ…駄目なんだね…」
さらさらと僕の髪を撫でる指。貴方の綺麗な指に小さな傷跡がたくさん出来ている。それは。それは僕がつけたもの。貴方の傷一つない指先に…僕が付けたもの……。
「…馬鹿みたいだけど…信じていた…僕のこの気持ちが君を救えると…信じていた…」
もう一度意識のない僕の唇を貴方は塞ぐ。それは触れるだけの、触れるだけのキス。
「…物凄い自惚れだ…自分でもそう思うよ。愛さえあれば救えるなんて…今思えば、子供の戯言でしかない」
信じていたもの、それが壊れてゆく。信じていたものが静かに、壊れてゆく。
「僕は無力だ。それを今こんなにも思い知らされている。僕は本当に…無力だ…君を救えると何処かで自惚れていた……」
貴方の言葉を僕は。僕はその場で首を振って否定したかった。違う、と。違うんだと。それは貴方の無力さではない。僕の。僕のこころが弱かっただけだ。
例え壊れても、僕は。僕は何処かで思っていた。どんなになろうとも貴方だけは覚えていると。貴方だけは、どんなになろうとも。
―――僕らは、互いに信じていたものを自らの手で壊した……
「君を救えるのは、僕だけだと…信じていた……」
それは僕も同じなんです。同じなんです、如月さん。何時しか僕は。僕は、信じていた。
……僕を救ってくれるのは、貴方だけだと………

でもそれが。
そう思う事事体が間違っていたと。
間違っていたんだと。
僕らは気付かずにいた。
そう、違う。
だって僕らは。僕らはふたりでしあわせになると。
ふたりでしあわせになると、そう願った筈なのに。
それなのに何時しか、僕は貴方の全てを頼り。
貴方はそれ以上の腕で僕を包み込もうとしていた。
でもそれは、違う。違うんだ。
僕らは。僕らはともにしあわせにならなければならないのに。
一緒にしあわせにならなければならないのに。
何時しか僕は貴方に依存し、貴方はそれを享受した。
僕らはそうして同じ位置に立とうとはしなかった。
同じ位置で目を合わせようと。同じ位置でものを見ようと。
僕らはそれを、しなかった。

ふたりでひとつのものを分け合おうとするならば。
ふたりで同じものを分け合おうとするならば。
同じ位置に立って。同じ場所に立って。
そしてふたりで見つめ合う事が。その事が何よりも大事なのに。
何よりも、大切な事の筈のなのに。
何時しか僕らはそれを、見失っていた。


――――ふたりで、同じものを分け合うのならば。


「…紅葉…僕らは間違っていたのか?……」
―――間違っていたのかもしれません…けれども…
「教えてくれ、紅葉」
―――けれども…それでも僕らは…

僕らはもう一度やり直す事も、出来るから。


そう、やり直す事が出来る。
本当に僕らが互いを想っているのならば。
どんなことになろうとも。
どんなことになっても。
もう一度始めから。始めから、やり直す事が出来るから。

―――もう一度、最初から……

ひとは生まれ変われる。
何度でも、生まれ変われる。
壊れたものは何時しか再生されるように。
ひとは、何度でも再生出来るのだから。
だから、僕達も。
僕達ももう一度。
もう一度、始めから。


だから。だから、さようなら。さようなら、如月さん……




End

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