Femme Fatal ・17


ACT/65


ひとは、何度でも生まれ変わる事が出来る。

それに気がついたから。それに気が付くことが出来たから。
どんなに辛い目にあってきても、どんなに苦しい事があっても。
ただその状況を諦めて受け入れるだけでは前には進めない。
それより先には、進めない。
進もうとして進めないのは、ただの甘えでしかない。
自分はこう言う運命だ、どうにもならない。そう思い込むことで。
思い込む事で、自分自身に同情していたんだ。
自分自身に同情して、そして。そして自分を慰める事で。
そうやって、生きてゆく事は。
ただの自慰行為でしか、ないのだから。
そんな事をいい訳にして前に進まない事は。
前に進まない事は、ただの。
ただの臆病者でしかな、ない。

―――生まれて来てくれて、ありがとう。

どんな言葉よりも。
どんな慰めの言葉よりも。
どんな強い言葉よりも。
その一言が、何よりも嬉しかった。
このちっぽけな命の存在を。
生きていると言う小さな叫びを。
その手のひらで掬い取ってくれた貴方の言葉が。
貴方のこころが、嬉しかった。
うれしかったんです。

だから僕は生きたいと思った。
こんな命を認めてくれた貴方に。
貴方の言葉に恥じないように。
貴方の言葉に後悔がないように。
一生懸命に、生きようと思った。


―――何度でも、生まれ変わる事は出来るんだ。


生まれ変わる。
僕は生まれ変わる。
ただの無力な子供ではなく。
ただ運命を享受するだけの子供ではなく。
一生懸命に。ただ一生懸命に。
生きていると言う事を実感出来るように。
生きているんだと、言えるように。
僕は、生まれ変わる。

失敗をしたって。道を間違ったって。
その失敗をした事だって、間違った事だって。
全部、全部それすらもかけがえのないものだから。
貴方とふたりで築き上げたものだから。
僕らは完璧じゃない。僕らは人間だ。
だから傷つく事も、失う事も、上手くいかない事もたくさんある。
けれどもそれを。それを否定する事が全てじゃない。
それを振り返り、そして気付く事が。
気付いて、見つめ直す事も大切なのだから。
そしてもう一度初めから。

――――初めから、やり直す事が。


人間は、唯一考える事が出来る生き物です。
唯一こころがある生き物です。
だから、傷つきそして脆い。
けれども。けれどもそれ以上に誰にも負けない知恵がある。
その知恵が人間のこころを癒すて手立てを。傷を治す手立てを知っている。
ひとは、考える事が出来るただひとつの生物なのです。


まるで波のように流れてゆく風景。僕が狂っていた時の状況。でもそれを僕は全てこの胸の中に閉じ込めなければならない。この僕の胸に全てを。
―――我が主よ、真の我が主よ。汝は今何を考えている?
直接脳味噌に響いて来る声。僕以外に聞き取れない声。けれども僕は声を上げて答えた。自分自身で、自分自身の言葉を確認するように。
「考えている事は、ただひとつです」
―――我が主よ…やはり汝は一番自らに厳しい選択肢を選ぶのだな。
「きびしいですか?そうかもしれませんね…でもそれでも僕は」
―――分かっている…我が主は…何時もそう言う選択肢を選ぶ。どんな時にも自らにとって辛い選択肢を。
「辛くないですよ」
―――どうしてだ?どうしてそう言う?
「辛くないです。だって」

「だって如月さんの事を考えている時は…僕の胸の中にあの人がいるから…」


『じゃあこうしよう、紅葉』
小指が、絡まる。そこから伝わる体温が、哀しい程に優しい。
『君が、泣きたい時は』
優しい。優しい、命の暖かさ。
『僕が傍にいてあげると』


指を絡めて、そして。
そして貴方とした約束。
それだけを頼りに僕は生きてゆく。
それだけを、頼りに。

―――また貴方に逢えると、そう信じて……

貴方の事を考えている間は、淋しくない。
独りでいても、淋しくない。
貴方の事だけを、考えている時は。


貴方を想うことが…僕にとって…何よりもあたたかい、ものだから……。


―――そうか…汝は…そうだな…きっとそう言うのだろうと思った。
「僕にはこれしか出来ないんです」
―――…分かっている…汝はそう言う愛し方しか出来ない。そう言う愛し方しか知らない。最も純粋で、最も哀しい愛し方しか。
「これ以外の方法も知りません。でも哀しくなんてないです」

「だってこんなにもただ一人のひとを、愛する事が出来るのだから」

通り過ぎてゆく、人達。
たくさんの人達。
その中で。その中のどれだけの人間が。
こんな風に愛の意味を知っているのだろうか?
上辺だけの、ただ楽しいだけの恋愛。
そんな恋愛に溺れている人間には分からない。
痛みを伴う事が、苦しみを味わう事が。
こころが壊れそうになる事が。
たましいが、痛くなる事が。
そうまでしてもそのひとを好きだと言う気持ちが。

しあわせだと、思いませんか?
こんなにもひとを愛せる事は。
こんなにも誰かを愛せる事は。
自分自身よりも、大切。
自分自身よりも、大事。
何よりも誰よりも大切な人。
そこまで他人を想える事は、しあわせではないでしょうか?

その為に傷ついても。その為に壊れても。
その為に泣いても。その為に死んだとしても。
それは。それはしあわせなことではないでしょうか?

―――誰かの為に、生きられると言う事。
誰かにその存在を望まれると言う事。
誰かに、愛される事。誰かを、愛する事。
それは。それは命の鼓動にとって。
何よりもの、かけがえのないものではないでしょうか?


貴方を、愛していると。
貴方だけを愛していると。
僕は迷わずに言える。
戸惑わずに、言える。
誰に聴かれても、迷わずに答えられる。
この気持ちに何一つ偽りはない。
この気持ちに何一つ戸惑いはない。
この気持ちに何一つ嘘はない。

僕は、貴方を好きだと言える自分が好きです。
それは。とてもしあわせな事ではないのでしょうか?


「僕は如月さんが好きなんです」
それが子供の幻想だと言われても構わない。永遠なんてないと否定されても構わない。
「あのひとだけを、愛しているんです」
永遠なんてないと。無限なんてないと、言われても構わない。
「―――永遠に……」
だってそれは他人が決める事じゃない。僕の気持ちは他人が決める事じゃない。僕の気持ちは僕だけのものだから。
―――だから、僕が決める事なんだ。

僕だけの、もの。
このは気持ちは僕だけのもの。
誰に言われても、誰に否定されても。
そんな事は僕にとってどうでも言い事だから。
僕自身が分かっていれば。
そして貴方だけが分かってくれれば。
それだけで、いいのだから。


―――汝の決意が固いのは分かった。我はもう何も言わん。
「…ありがとう……」
―――我に謝ることはない。汝が決めた事だ。汝がそう決めた事だ。
「ありがとう……」


そして僕は最期の望みを、村正に告げた……


ACT/66


夢から醒めて。
そして子供の抜け殻を破いて。
社会と言う名の外に出た瞬間。
たくさんのものを失って。
そしてたくさんの嘘を手に入れる。
けれども、その先に。
その先にただひとつ。
ただひとつ、手に残るものがある。
たったひとつだけ、残るものがある。
それが『想い出』。
想い出と言う名の、暖かいもの。
それがあるからひとは。

ひとは何時でも、子供の頃の夢を見る事が出来る。


―――汝…それでよいのか?
「いいんです。これで」
―――汝は自由になれたのに…それでよいのか?
「これで、いいんです。初めに戻ってもう一度」
―――もう一度、やり直すと言うのか?
「はい、もう一度初めから…出逢います……」
―――巡りゆく宿命から逃れようとしてここまで来たのに…また運命の輪の中へと戻ると言うのか?
「逃げません。もう逃げたりはしません」
―――いいのか?それは裏切ることではないのか?
「そうかもしれません…でも…許されるなら」

「もう一度初めから出会って…そして恋をしたい」

もう一度、初めから。
運命の輪の中で、もう一度出逢って。
もう一度貴方と出逢って、そして。
そして貴方を好きになりたい。
今よりも、もっともっと。

―――貴方を好きになりたい……


―――分かった…ならば汝の言う通りにしよう……
「…一日だけ…待って、貰えますか?……」
―――…それが本音か…まあよい…汝の望むままにするがよい。
「…ありがとう……」

そして僕の頭からその声は消える。今までの事が僕の夢であるかと言うように。ただの夢だったと言うように。僕の脳裏から、声は消える。
僕はそっと、目を閉じた。そうしてそのまま風を感じながら、眠りにつく。窓から流れる優しい風を感じながら。


「風が、優しい」
呟いた言葉は風に流されてゆく。それでも龍麻は声にした。誰もいないこの海で。ただ独り、この海で。
―――本当は死のうと思っていた。この蒼い海で死んでしまったら。そうしたら運命の歯車が全て変わるのではないのかと思って。
でも歯車は変わらない。死のうとした先で出逢ったのが『玄武』。自分の守護神。
「何故、こんなにも優しい?誰の為に、吹いている?」
逃れることの出来ない、運命。消すことの出来ない血。選ばれたものの、悲哀。けれどもそれは。それは誰の肩にも擦り変える事は出来ない。
「俺の為…ではないよね…」
緋勇龍麻として生きるにはまだ。まだ無理なことは分かっている。全てを終わらせなければ、自分自身に戻れない事は。それでも。それでも不意に戻りたいと衝動に駆られるのは、どうして?
「…紅葉…か……」
玄武でありながら、自分を護るべき者でありながら『大切な人』を持つ彼。それを持っている彼。それがひどく、羨ましかった。
「俺も何時しか…誰かを愛せるのだろうか?」
全てのものの為ではなく、自分自身の為だけに。自分自身の為だけに、誰かを愛する事が。
―――自分には、出来るのだろうか?
「…だったらまだ…死ねないね……」
海の先にある地平線に視線を巡らせる。その先にあるのは世界の終わりだと思っていた。海は全ての源で、そして終着駅だと。だから自分はこの場所に死場を求めた。求めて、そして。そして、分かった事。
「…死ねない…玄武…その絆を俺は見たくなった……」
護らなければならない宿命。自分の為だけに存在する命。それよりも。それよりも大切な命を見つけた彼の、それからを。そして。そして自分にとってそれを見ることが。
「見たく、なったよ」
―――それが自分にとっての誰かを愛する事の答えに繋がるのだから……


君といた、時間。
それは本当に瞬きをする程の時間。
一瞬の、触れ合った時間。
それでも。それでも。

それはどんな時よりも僕にとっては、永遠だった。


永遠と言う言葉を。
信じたのは君の瞳だけ。
その不安定で淋しい瞳だけ。
そして。そして子供のように微笑う。
微笑う君の、瞳だけ。
君のその瞳だけが、僕に永遠をくれたんだ。


夢よりも、優しい。
夢よりも、哀しい。
そんな時間を僕らは過ごした。
それは本当に一瞬のようで、そして。
そして永遠のようだった。
夏の終わりに見た太陽のように。
きらきらと輝いて。
ひどく眩しいその太陽の光が。
睫毛の先に落ちた瞬間の。
あの言葉にならない切なさと優しさが。
僕らの時間を支配していた。

時間なんて。時間なんて長ければいいと言うものではない。
長い間ともにいても、理解出来ない事がある。
どんなに長い時間を掛けても分かり合えない事がある。
けれども。けれども、僕らは。
瞬きする程の時間で。睫毛が触れ合うだけの瞬間で。
互いの背中の翼に気が付いたんだ。

足りないものが。
互いの足りないものが。
そこにあると。
互いの背中にはえていると。
見つめ合った瞳の先に。
その見つめあった、先に。
それを見つけることが出来た。

それは本当に時間と言う枠の中では一瞬でしかないかもしれない。
長い時の流れの中では、瞬きすらの時間でしかないかもしれない。
けれども。けれども、見つけたものは。
そんな時間など関係のない程の。とても。
―――とても大切なものだったから。

これが、永遠なんだと。
僕らにとっての永遠なんだと。
僕らにとって、その全てが。

―――ただひとつの、永遠なんだと……。


優しい風が、吹く。ただひたすらに優しく、そして。そして何処か切ない風。それは言葉に出来ないひどくもどかしいものを感じさせる。
『りんごジュースが飲みたいです』
僕の手のひらに握られた缶ジュースが暖まらない内に、足を速めた。別に袋の中に入れてしまえばよかったのだが、君に渡すものはこの手で持っていたかった。馬鹿みたいだけど、そんな事を思った。
「この僕がこんな風になるなんてね…」
今までの自分の行動を思い出したら何だかひどく可笑しかった。こんなに誰かが待っているから急ぐなんて事、今までした事がなかったから。誰かの為にこんなにも自分が、行動を起こすと言うことが。
―――僕にとって君は、一体どんな存在なのか?
沸き上がるのはただひとつ。ただひとつこの疑問だけ。君は僕の目の前に確かに存在しているのに、ごっそりと僕の記憶から君だけがない。
今までの事を思い出して、そして考えて気付いた矛盾に。その矛盾の先に、きっと。きっと失われた君の破片があるのだろう。
―――君の、破片が……
記憶の矛盾は僕が祖父に初めて反抗した後から、始まっている。そこから先がない。部分部分の記憶があるのだが、どうして僕が今この場所にいるのかが分からない。
けれども思う。そんな事は些細な事だと。本当はどうでも言い事なんだと。僕が知りたいのは。僕が知りたいのは君の存在。君とした会話。君とした事。それが知りたいだけなのだから。
君のことが、知りたいんだ。
「…でも本当は…気付いているんだ……」
確かに君への記憶は何一つ無い。君がどんな人間なのか何も分からない。けれども。けれども確かに、自分には分かる事だある。ただひとつだけ分かる事がある。
「君が僕にとって『特別』な存在である事は…」
そうだ。他人に関心のない僕が。自分自身すら関心の無い僕が。こんなにも。こんなにも気にする相手。こんなにも気になる、相手。
―――自分自身のことよりもずっと。ずっと大切だと思う相手。
それはとても簡単な答えじゃないか?とても簡単なただひとつの答え。
「…君が、好きなんだ……」
恋愛なんて、他人を愛する事なんて、僕には出来ないと思っていた。こころの中に他人を入れる事はないと思っていた。自分自身ですら自らのこころから、離していると言うのに。
それなのに僕は、君という存在で。君という存在でこんなにも埋められてゆく。
「…紅葉…僕は……」

「…君を…愛しているんだ……」


記憶なんてなくても。
何もかもを奪われても。
それでも消せななかったもの。
記憶ですら奪えなかったもの。
それが。それがこの。
君へのただひとつの想いだった。

誰にも、運命さえも。
奪えなかったもの。
僕自身ですら奪えないもの。
それがこの、想い。
君を愛しているというただひとつの、想い。


「君を、愛している」


確かめるようにもう一度。
もう一度僕は声に出した。
声に出しても揺るぎないもの。
揺るぎ無い想い。
誰にも奪えなかったもの。
誰にも奪う事が出来なかったもの。
それは確かに。

―――確かに僕の中で、生きている。


僕の中に、存在している想い。
ただ一つの想い。
君が、僕が気付かなければと言った事は。

―――この想い、なんだね……


ACT/67


ゆっくりと埋められてゆくもの。
外堀から埋められて、そして。
そして柔らかい中身に浸透してくるもの。
それが。それが僕の内面に足元から伝わって。
そして全身を埋めてゆく。

全ての、僕を埋めてゆく。


君は風と、ともにいた。柔らかい風に吹かれて、そっと瞼を閉じる。その睫毛の先に日の光が落ちて、きらきらと輝く。それがとても、綺麗だった。
「…ただいま……」
一瞬、声を掛けるのを躊躇った。君があまりにも綺麗だったから。この時間を、この空間を、僕の声で壊してしまうことがひどく。ひどく、いけないような気がして。
「おかえりなさい」
そっと瞼が開かれて、僕を見上げて来る瞳の輝きが。どうしてだろう?何故こんなにも切ないと思うのか。綺麗で、そして哀しいその瞳。
「紅葉、ジュース買ってきたよ」
一端机にカバンを置いて、手に持っていたジュースを君に渡す。まだ、冷たい筈だ。
「ありがとうございます」
子供のような笑顔を僕に向けて、君はジュースを受け取る。子供のような、笑顔。その笑顔を、その笑顔を護りたい。さっきの哀しい瞳よりも、僕は。僕は君のその笑顔を見ていたい。
「冷たいですね」
頬に缶を充てて、目を閉じる。その言葉に僕は気が付いた。君の頬が微かに蒸気している事を。僕は君の額に手を充てて、その熱さを確認する。
「き、如月さん?」
その行為に驚いたように君の瞼が開かれる。けれども僕はその熱さを確認すると、そのまま強引に君をベッドの上に寝かせた。
「熱がある…さっきまでは何ともなかったのに…急に出たのか?」
「大丈夫です、これくらい」
「大丈夫なものか。手のひらで触れただけで分かるんだ。取りあえず熱さましを持って来るから、君はこれで熱を計るんだ」
棚の中にあった救急箱から体温計を取り出し、君に渡す。君は素直にそれを受け取ると、脇の下に差し込んだ。
僕はそんな君の様子を確認して、台所へと水を取りに走った。


身体の熱は、僕が『村正』と交信したせい。
多分今の僕では身体は持たなかったのだろう。
この発熱はそのせいだ。
けれども。けれども今は。
今はこんな熱に負けている訳にはいかない。
だって、約束は。

約束は、今夜までなのだから……

貴方とこうしていられるのは。
貴方と一緒にいられるのは。
今夜まで。そうしたら、僕は。

僕は貴方の前から、消えなくてはいけない。


優しい、貴方。
優し過ぎる、貴方。
僕は僕と出逢う前の貴方を知らない。
優しくない、冷たい男だと言った貴方の昔を。
けれども。けれども、今。
今貴方には僕の記憶がなくて。
それは僕と出逢う前の貴方と同じ事なのでしょう?
それならば、貴方は。
貴方は誰よりも、優しいひとだと。
僕は胸を張って言える。

―――貴方は誰よりも、優しいひとだと。


「紅葉、これを飲むんだ」
手に差し出されたのは、薬とそしてコップに入った水。けれども僕はそれを、首を横に振って拒否をした。
「どうしてだ?」
「これ睡眠薬も混じっています。きっと飲んだら僕は寝てしまうから」
「眠らないと、熱も下がらない」
「…今眠ってしまったら……」
僕は薬とコップを持ったまま動けない貴方をいい事に…いい事に、そのまま首筋に抱きついた。
「―――紅葉?」
驚いたように見開かれる貴方の瞳を瞼の奥に焼きつけながら、僕は。僕はその唇に、自ら口付けた。
「…くれ…は?…」
「今、眠ってしまったら」

「もう、貴方に逢えない」

笑ったつもりだった。
笑って言うつもりだった。
なのに。なのに瞳からは。
ぽたりとひとつ。
涙が、零れ落ちた。

―――涙が頬に、零れ落ちた。


どうして?
それは何時も思っていた事だった。
どうしてこんなにもこのひとが好きなのか。
どうしてこんなにもこのひとを愛しているのか。
何時も、何時も、思っていた事だった。
けれども決して答えは出ない。
その答えが永遠に導かれる事はない。
―――どうして?と。
その答えを探し出そうとして言葉を並べても。
いくら並べても、所詮言葉は言葉でしかなくて。
どんな理由を言っても、それは後から付けただけの。
飾りつけただけのものになってしまう。
どんな言葉を当てはめようとしても。
その言葉では埋める事が出来ない。埋まることがない。
言葉で埋めるには想いが大き過ぎて。
大き過ぎて、足りないから。


「どうして、そんな事を…言うんだ……」
貴方は持っていたコップと薬をベッドサイドに置くと、そのまま僕の頬に落ちる涙を拭う。優しい、手。優し過ぎる、手。貴方は何時もこの手を僕に与えてくれた。
「…だって…貴方は還らなくてはいけない」
「…紅葉?」
「何時までもここにはいられない。貴方には家も家族もある。貴方を待っているひとがいる。貴方はその場所へ帰らなくてはいけない」
「家族?家?そんなもの…僕はいらないよ」
「それでも帰らなくてはいけない。そして僕にも…帰る場所が…あります……」
「…紅葉?……」
帰る場所。僕が帰る場所。それは貴方の腕の中だと。そう言えたらば…よかったですね。そうだと信じられたらよかったですね。でも今は。今はその言葉は、言えないから。
「…このままでずっといられる訳がないと…本当は貴方が一番分かっているのでしょう?」
このままずっと。ずっと一緒にいたい。それは僕らの願いだった。その願いの為に僕らはここまで辿り着いた。この最期の場所へ。この世界の終わりへと。運命と言う名の列車を乗り継いで、そして辿り着いた最期の楽園。僕らの『子供』が死にゆく場所。
―――終わりは、死。そして新たな命の、再生。
「如月さん…僕らは『大人』にならなきゃいけない…」
想いだけで、愛だけで、生きてゆけたなら。その想いだけで、全てを越えられたならば。越えられると信じていた僕らの子供の心。全てを乗り越えられると信じていた僕ら。
「気持ちだけでは、生きてゆけない。想いだけでは、生きてゆけない…それだけじゃ駄目だって…」
けれども越えられなかった。越える事は出来なかった。身体に心にたくさんの傷を作って、そして僕らは。
「…僕も…貴方も…気が付いた…から……」
そして僕らは、自分の身勝手さに気付く。自分の我が侭に気付く。間違えじゃ、ない。自分達のして来た事に、後悔はない。けれども。けれどもこのままでは、先に進めない。進む事が、出来ない。
「―――そうだね、紅葉…君の言う通りだ…僕は『逃げた』だけだ。家から、飛水流から、四神から…逃げただけだ……」
僕らの願いはずっと。ずっと『ふたりでしあわせになる』事だった。それがなによりもの願いだった。だからこそ。
「…如月さん…大人になると言うことは…義務も、責任も…果たす事ではないでしょうか?」
だからこそ、今。今気がついた時点で。僕らは乗り越えなくてはいけない。本当に誰からも咎められる事なく、しあわせになる為には。
「…全てをやり終えた時初めて……」

「初めて本当のしあわせを、手に入れられるのではないのでしょうか?」

一生このまま。
このまま記憶のない貴方と。
拳武館の陰に怯え続ける僕と。
ふたりでともにいて。
そこで掴んだしあわせは。
そのしあわせは。
本物だと、言えるのでしょうか?

僕は、貴方だから。
相手が他でもない貴方だから。
だからこそ。
だからこそ、一番の。
一番のしあわせを手に入れたい。
その為に、どんなに遠回りしても。
どんなに無数の運命の糸に巻き込まれても。
僕は、本物のしあわせがほしい。


ひとは、昔空を飛ぶ術を知っていた。
誰に教わるわけでもなく。
自分自身の力で、空を飛ぶ術を知っていた。

―――本物の、蒼い空を。


貴方の傷に、口付けた。
「…この傷僕が…付けたんです……」
何も覚えていない貴方に、それでも僕は告げる。
「ごめんなさい、如月さん」
何度もその傷に唇を重ねながら、僕はただ詫びた。それしか。それしか、出来ないから。
「泣かないでくれ」
「…如月…さん……」
そんな僕の頬を貴方の手がそっと。そっと包み込む。暖かい、手。優しい、手。
―――貴方の、手。
「君の涙を見ていると、僕はひどく苦しくなる。だから」
僕を包み込んでくれる、僕を癒してくれるその手。
「だから泣かないでくれ、紅葉」


唇から自然と零れるその名前に。
僕は、僕はごく自然に気が付いた。
僕にとって君がどんな存在で、そして。
君が僕にとってどれだけ大切なものなのかを。

―――その涙で、気がついた。


「ごめんね、紅葉。僕は君を思い出せない」
「…いいんです、如月さん…いいんです……」
「でもこれだけは言える。僕は」

「ぼくは君を、愛している」

記憶がなくなっても。
何もかもを忘れても。
それでも。
それでも胸に広がる君への想いは。
この愛だけは、消せはしなかった。

―――君への、愛だけは……


ACT/68


記憶なんて、なくても。
何も憶えていなくても。
それでも惹かれ合う想いは止められない。
君を愛する気持ちは、止められない。


もしも君が、今この姿ではなくて。
例えば君が花だとしたら、僕は。
僕は太陽になって君を地上から捜し出す。
例えば君が鳥だったとしたら、僕は。
僕は空になって君とともに風になる。

子供の戯言だと、君は言うかな?けれども全て。全て僕が思った事なんだ。


さよなら。
子供だった僕。
さようなら。
夢の中で生きられた僕。

貴方の手が僕の頬を包み込む。そしてゆっくりと僕の唇を塞いだ。そのキスは。そのキスは、初めてのように震えた。
「―――紅葉……」
名前を呼ばれて瞼を開けば、貴方の真剣な眼差し。揺るぐ事のない強い瞳。何時も僕はこの瞳に、夢を見ていた。甘くて優しい夢を。永遠に続くわけがないと分かっていても、何処かでもしかしたら永遠なのかと思わせる夢を。貴方が作る、絶対の優しさを。
「…如月…さん……」
夢を、見ていた。貴方と同じ夢を。優しい夢を、見ていた。それは僕しか憶えていない。僕だけが胸の中に閉じ込めて、持ってゆく。僕だけが、持ってゆく。
「…紅葉……」
もう一度貴方は僕の名前を呼んで、そして口付けられた。優しい、優しいキス。このキスが夢への入り口ならば、醒める瞬間はどんなキスをするの?
僕は唇を受け入れながら、貴方の背中に腕を廻す。広くて優しい貴方の背中に。
この腕の中にいれば何も怖くはなかった。何も怖いものなどなかった。どんな事があろうともこの腕は僕を護ってくれたから。どんな瞬間もこの腕は、僕を。僕を護ってくれたから。
―――けれども。けれども、それじゃあいけない……
「…このまま…君を抱いたら……」
優しい貴方の腕の中。暖かい腕の中。そこは僕にとって絶対唯一の場所。でもまだ。まだ僕はここに辿り着く事は許されていなかった。
未完成な自分。未熟な自分。全ての身に降り掛かる不幸を、他人のせいにして諦めて。そして前に進もうとしなかった自分。全てに絶望する事で、自分自身で何もしない事のいい訳にしていた。弱い、自分。他人に頼るしか出来ない、自分。
―――僕は、自分自身の足で歩かなければならない……
「君は、拒否するかい?」
貴方の言葉に僕は、微笑った。もしかしたらこれが最期かもしれないから。貴方が僕を抱いてくれるのは、最期かもしれないから。
それでも。それでも僕は、その淋しさよりも…貴方の隣に立てる強い人間になりたかった…。


貴方と同じ位置に立ちたいから。
貴方の隣に立ちたいから。
胸を張って。誰に恥かしがる事なく。
堂々と貴方の隣に立てる人間になりたいから。

僕は貴方を、護りたい。
護れるだけの人間になりたい。
貴方が僕を護りたいと言ってくれたように。
僕も貴方を護りたいんだ。

同じになりたいと言う事は。
ひとつになりたいと言う事は。
こうして互いの事を想う事すら。
同じになる事では、ないのでしょうか?


「…如月さん…僕は…」
貴方の手を取ると、僕は自らの心臓のある場所へと導いた。普段よりも高鳴っているそこに、貴方の暖かい手を充てる。
「…こんなにも…どきどきしているんです…貴方に、触れられるだけで…」
「――紅葉……」
貴方の手が確かめるように僕の命の音に触れる。それは皮膚を隔てて感じている筈のなのに。何故か直に指が触れているようだった。この、命の鼓動に。
「本当だね、でも僕もどきどきしているんだよ」
今度は貴方が僕の手を取って、心臓へと導く。聴こえる、命の音。とくん、とくんと。指先に伝わる優しい響き。
―――貴方の、命の鼓動……
「君に触れているだけで」
くすりとひとつ、貴方は微笑った。ああ、僕は。僕は貴方のその笑顔が好き。本当に本当に大好きなんです。
貴方がこうして笑ってくれる事が、僕にとってなによりものしあわせ。
「…もっと、触れてもいいかい?…」
「触れて、ください。如月さん…もっと…触れて……」
僕の言葉に貴方はひとつ笑って。そしてそのままベッドの上に僕の身体を押し倒した。


目を閉じれば昨日の事のように思い出される。
貴方と過ごした日々。貴方ともにいた日々。
それは本当に瞬きする程の短い時間だったけれども。
僕は。僕は決して忘れない。
夏の太陽よりも眩しかったこの時間を。


夢よりも、優しかった時間。
夢よりも、暖かかった時間。
子供だった僕ら。
子供過ぎた僕ら。
けれども、子供だったからこそ。
子供だったからこそ、ここまで辿り着けた。
子供ゆえの無防備な強さが僕らをここまで辿り着かせた。
世界の終わりへと。子供の時間の終わりへと。
―――卒業する、場所へと。

最期の制服を脱ぎ捨てる。
真っ白な服を脱ぎ捨てる。
まだ僕らは。
僕らはこの白い服は着られない。
まだ僕らはこの先へは行ってはいけない。
僕らはこの地上で、まだ。
まだやらなければならない事があるから。


「…あっ!……」
胸元をはだけさせ、浮き出た鎖骨に口付ける。がりがりに痩せた薄い胸に指を這わせ、冷たい君の身体に熱を与える。
「…あぁ…は……」
額の熱はあんなにもあったのに、君の身体はひんやりと冷たい。まるで命が通っていないように。そんな君の身体が哀しくて、僕は早急にその身体を暖めた。
「…紅葉……」
名前を呼べば君は必ずその瞼を開く。どんなに快楽で息が乱されようが、どんなに君の顔が淫らになろうが…君は必ずその瞳を開く。夜に濡れた、瞳を。
「…如月…さん……」
背中に廻した君の手に力がこもる。まるで僕を離したくないとでも言うように。離さないでくれ、紅葉。ずっと僕にこうやってしがみついてくれ。
「…はあっ…ん……」
胸の果実を口に含みながら、僕の指は君の身体を滑る。肉のない身体。それは決して抱きごこちのいいものではない。けれども。けれども、そんな事は気にならなかった。どんなにがりがりだろうとも、もしも今抱いているのが骨だろうとも…構わない。腕の中にいるのが他でもない君であるならば。
「…あぁ…ん…」
指先が、憶えていた。君が感じる箇所が何処なのか。指先が、憶えていた。君の記憶が何一つなくても、身体が憶えている。君の感触を、君の肌の温もりを。
―――ああ、僕は…僕はこうやって…君に触れていた……
「…紅葉……」
愛しい、愛している。大事だ、大切だ。護りたい、護らせてくれ。腕の中の命。小さな僕の命。言葉は溢れてくる。溢れて僕を埋めてゆく。けれども。けれどもそれ以上に君への想いが、埋めてゆく。僕の全てを、埋めてゆく。
「…如月…さんっ……」
唇を吸い上げる。青白い唇が紅く染まるまで。痺れるほどに君に口付ける。その間にも僕の指は君の身体を滑り、君を追いつめてゆく。唇と同じように、君の身体も紅く染める為に。
「…んんっ…ん……」
背中に爪を立てる君。もっと。もっともっと、立ててくれ。君を僕が抱いたという証に、消えない傷を作ってくれ。
「―――んっ!」
最奥の蕾に指を挿れた瞬間に、君の身体がぴくりと跳ねる。その動きが僕にはどうしようもない程に愛しかった。愛しくて、愛しているから。
「…んんっ…ん……」
中を書き混ぜながら、柔らかく内壁をほぐしてゆく。痛みに馴染んでゆく抵抗感を指先に感じて、僕はそっと引き抜いた。そして。
「―――いいかい?」
耳元にそっと囁いた言葉に、君はこくりと頷いた……


貴方との想い出が、雪となって胸に降り積もる。
ひとつひとつ、きらきらと小さな破片となって。
―――僕の胸に降り積もってゆく。
僕の全身を埋めるほどに。
その破片は、僕の上に降り積もっていった……


『如月さん』
『ん?』
『ふたりで食べるご飯って、美味しいですね』
『そうだね。ひとりよりも、二人のほうがいいね。ましてや他でもない君と一緒ならば』
『僕食べ物がこんなに美味しいなんて…知りませんでした』
『僕もだよ。僕もただの白いご飯が』

『こんなにも美味しいものだとは、気付かなかった』

ふたりで築き上げたものは。
決して、決して無駄じゃない。
子供の時間が終わっても。
全てが想い出に風化されても。
それでもふたりがこうして過ごした時間は。

―――決して、無駄じゃない……


生きてきて、よかった。
生まれてきて、よかった。
この世に生を受けてよかった。
こうして命があってよかった。
そう思えるのは。
そう思えるのは、貴方と出逢えたから。

無駄じゃない。
絶対に無駄じゃない。
僕らの築き上げたものは。
例え子供のママゴトだと言われようとも。
例え子供の夢物語だと言われようとも。
僕らがその瞬間感じた『本気』は。
その瞬間に築き上げた『真実』は。

―――そんなものでは、揺るぎはしない。


「ああ―――っ!!」
深く貫かれて、僕は喉を仰け反らせて喘いだ。声を殺そうとか、そんな事は微塵も思わなかった。恥かしいとか、そんな事よりも。そんな事よりも貴方に見せたいと思うほうが勝った。貴方に、見せたいと。自分がどんな風に貴方を感じているか全てを見せたいと。
「…ああっ…あああ……」
自ら足を貴方の腰に絡めて、引き寄せた。もっと奥まで。奥まで貴方を感じたくて。もっと、もっと、感じたくて。
「…紅葉…紅葉……」
貴方の呼ぶ声に答える代わりに、爪を立てた。消えないようにと。消えない、ようにと。全てが終わっても何か一つでも残しておきたかった、それは僕の小さな我が侭。どこかひとつに、貴方の存在の中で僕を残しておきたかったから。
「…如月さん…如月さん…ああ……」
名前を呼び続け、そして求めるまま腰を振った。今この瞬間関節骨が砕けても構わないと思いながら。肉が削がれても構わないと思いながら。ただ。ただ貴方の求めるまま、僕が求めるまま。欲望に身を任せた。

気絶するまで、求め合った。
意識を無くすまで、求め合った。
ただただ、互いの想いのまま。
なによりも純粋で淫らな行為に。
僕らは没頭した。


――――まるで終わりが来るのを、少しでも遠ざけようとしているかのように……




End

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