ACT/5
太陽は永遠に沈まないと、信じていられた子供の頃。
子供特有の強さで、そして。
そして子供特有の残酷さで。
僕は生きていた。
信じてさえいれば、何でも出来ると。
信じてさえいれば、どんなことでも出来ると。
信じていた、子供の頃。
――子供のままで生きられたならば、僕らはこんなにも互いを苦しめあわなかった。
「おいで、くー」
一命を取り止めた猫は、次の日には驚く程に回復をしていた。如月が手を差し出した先におずおずと近づいて、そして。そして、そっと手の中に収まる。
「もう大丈夫でしょう。よかったですね」
「はい、ありがとうございます」
獣医の言葉に如月はひとつお辞儀をすると、そのままドアを開けて病院を後にする。そして建物の前にあるベンチに腰掛ける。
―――そう言えば時間を言っていなかったな……
何時にここへ来ると、彼に告げていなかった。それでも。それでも不思議と待っている事が苦痛に感じなかった。時間には自分は何時も正確だった。時間を護らない人間は、それだけでだらしなく思われる。そう言われ続けてきたせいだろう。だから自分が他人を待つと言う行為はほぼ皆無に近かった。だけど今こうして。こうして彼を待つ事はイヤじゃない。
誰かを待つと言う行為がこんなにも。こんなにも穏やかな時間を作るのだと、如月は初めて知った。
―――生まれて初めて、嘘を付いた。
命令に逆らう事など僕の選択肢にはなかった。
言われたままに、命じられたままにする事。
それが僕の全てだった。
あのひとの操り人形である僕は、あのひとの命令が絶対だったから。
だから僕はそれ以外の方法を知らなかった。でも。
でも僕は今日。
今日、生まれて初めて、あのひとに嘘を付いた。
「…ごめんなさい…今日は僕は…行けません」
『――何が、あった?』
「…ぐ、具合が悪くて…その…」
『……』
「…ごめんなさい……」
もしかしたら嘘だと見破られたのかもしれない。それでも、よかった。ばれたのならばれたで、構わなかった。この先どうなろうと構わなかった。
―――貴方に、逢えるのならば……。
もう一度貴方に、逢えるのならば。僕はこの先どうなろうとも構わなかった。
あのひとはこれ以上追求をしなかった。
ただ一言分かったと、それだけを言って電話を切った。
ただ、逢いたかった。
その声を聴きたかった。
貴方の声で名前を呼んでもらえたら。
それだけで。
それだけで、よかった。
君と僕の運命が交差したその瞬間。
多分少しずつ、何かが崩れはじめた。
―――愛する痛みを、初めて知ったから。
「…よかった……」
息を切らしながら、それでも君は僕に向ってそう言った。その顔はまるで…まるで大切な宝物を必死で護るような子供の顔。君のそんな顔を見られるとは、思わなかった。
「走って、来たの?」
「はい…もしかしたら貴方はもう帰ってしまったんじゃないかと思って…その…」
「約束したよ、紅葉」
「え?」
「君と逢うって約束した。だからずっと僕はここで待っているつもりだった」
――約束と言う言葉に、君は不思議そうな顔をした。もしかして君は『約束』をした事がないのだろうか?
「約束、ですか?」
確かめるように呟いた君を見て確信する。君にとってその言葉は、存在しないものだったんだと。
「そうだよ、約束。こうやってするんだよ」
そっと君の手を取って、小指と小指とを絡めた。君は僕が触れた瞬間ぴくりと肩を震わせて一瞬身体を硬くしたが、でもゆっくりと身体の力は拡散していった。
他人に触れられる事にひどく怯えている君。他人に何処か線を引いている君。そんな君の、君の境界線を越えて行きたい。
「指きりげんまん嘘付いたら針千本飲ますってね」
「針、千本ですか?」
「そう、千本も飲めないよね。だから約束は護らないといけないのさ」
くすっと僕がひとつ微笑う、君もぎこちなく笑みを返した。
―――駄目、だ。僕が見たいのは、僕がさせたいのはその笑みじゃない。どうしたら。どうしたら君に本当の笑顔をさせられるのか?
「約束しようか?」
「…え?…」
「何かひとつ、君と約束をしようか?」
―――どうしたら君は、笑ってくれるのか?
約束。
僕にとって必要のない言葉。
僕にとっていらない言葉。
だって。
だって僕は約束をする程、大切な物がない。
約束をしてまで欲しい物も。
…欲しいものが…何も…ない……
―――違う……
欲しいもの。欲しいものは。
今目の前にある。
目の前に、貴方がいる。
何よりも綺麗な貴方がいる。
僕にとって初めて。
初めて優しくしてくれたひと。
何の見返りも求めずに、ただ。
ただ無償の優しさをくれたひと。
気が、付いてくれたひと。
僕の心の声を。心の叫びを。
ただひとり、気が付いてくれたひと。
――僕は。
僕は貴方が。貴方が欲しい。
貴方の優しさが、欲しい。
貴方の声が、欲しい。
貴方のそばに、いたい。
―――貴方と一緒に…いたい……
「――貴方と……」
ずっと、一緒にいたい。
「紅葉?」
ずっと貴方のそばにいたい。
「僕は、貴方と……」
でもそれは。
それは叶わない願い。儚い夢。
―――だって僕は人殺しだから。
「じゃあこうしよう、紅葉」
小指が、絡まる。そこから伝わる体温が、哀しい程に優しい。
「君が、泣きたい時は」
優しい。優しい、命の暖かさ。
「僕が傍にいてあげると」
独りでしか泣けない君に。
泣く場所がない君に。
泣く場所を、与えてやりたい。そして。
そして、君に教えたい。
―――君は、独りじゃないんだと。
「何て、気障だったかな?」
笑う、貴方。優しく、笑う貴方。何も、知らない貴方。
「でも僕は君をあんな風に…雨の中で独り、泣かせたくはない」
僕がどんな人間で、どんな事をして生きているか何一つ知らない貴方。
知らないのに、優しくしてくれる貴方。でも、もしも。
もしも貴方が、僕がどんな人間か知っても。知ってもこんな笑顔を向けてくれますか?
「いいえ、如月さん」
一夜の夢でもいい。儚い夢でもいい。今、今貴方は確かに僕に向って微笑んでくれるから。例えこの先何があってもこの瞬間は。この瞬間だけはこの笑顔は僕だけのものだから。
「…嬉しい…です…」
「嬉しいです、如月さん」
君が、微笑う。
それは。それは、確かに君の笑顔。
作り物じゃない。本物の。
本物の、笑顔。
僕が、見たかった君の。
―――君の本当の、笑顔。
「紅葉、ほら」
貴方は優しく笑いながら、僕の腕にくーを預けてきた。何時しか眠ってしまった子猫は、少し身じろぎしながらも僕の腕の中にすっぽりと収まる。
「君が救った命だよ」
腕の中に収まる暖かいもの。生きているもの。命の音。暖かい、命の音。
「暖かい、ですね」
「そうだね、命は」
「―――暖かいものだよね」
『この世に、生まれてはいけない命なんてあるものか』
貴方の言葉が、聴こえる。あの時僕の頬を叩きながら言った言葉。
貴方はこの猫に生を与えた。どんなちっぽけな命でも生きる権利はあるとそう言った。
―――それが貴方の、優しさ。貴方の、強さ。
貴方ならばこんな僕でも。
こんな僕でも生きてもいいと言ってくれますか?
貴方ならばこんな僕ですら、生きてもいいとそう言ってくれますか?
人殺しの僕でも。館長の慰み者の僕でも。男達の性欲処理道具の僕でも。
こんな僕でも生きてもいいって、言ってくれますか?
これは甘えかもしれない。
でも。でも貴方ならば。
貴方ならばきっと。
きっと言ってくれる気がする。
―――この世に生まれてきてはいけない命なんて存在しないと。
人殺しの僕と、綺麗な貴方。
血の匂いのする僕と、太陽の匂いのする貴方。
闇に生きる僕と、光に生きる貴方。
僕と貴方の間には何もない。
何も結ぶものがない。何も繋がるものがない。
近づけば近づくだけ互いに傷つけ合うしかない。
傷つく事しか、出来ない。
それでも。
……それでも僕は。
「紅葉、行こう」
「如月さん?」
「ここにこうしているのも何だし…招待するよ僕の家に」
「…いいんですか?……」
「歓迎するよ、君ならば」
それでも、僕は。
傷ついても、壊れてもいいと思った。
例えこの先僕の運命が取り戻せない場所へ来てしまっても。
この先僕がどうなろうとも。
それでもいい。それでも、いいから。
―――貴方のそばに、いたい。
今だけは、今だけは忘れさせてください。
僕が人殺しだと言う事を。
僕が館長の所有物だと言う事を。
今だけで、いいから。
今だけは僕は誰のものでもない『壬生紅葉』として。
僕自身以外何もない、何者でもない僕として。
貴方と向い合わせてください。
―――今、この瞬間だけは………
ACT/6
初めて、恋をした。
貴方に恋を、した。
それは苦しい程に切なくて。
哀しい程に優しい想い。
―――これが、ひとを愛すると言う事。
誰にも触れる事の出来ない透明な時間軸。その中にふたり、閉じ込められたならば。
そこは東京と言う街とは思えない程に、静寂が支配していた。都会ではなくした筈の萌える緑が囲む、静かな家だった。
「開店休業だけれどね」
如月はそう言ってひとつ、微笑った。石畳の坂を昇った先にある木造立てのひっそりとした店、そこには『如月骨董品店』と書かれた看板が掲げられていた。
「店を営業しているのですか?」
「営業と言っても趣味だけどね。親が海外に好き勝手飛びまわっているから、僕が仕方なく見ている」
「如月さんって…幾つなんですか?」
「今年で十六歳になった」
「え?僕と同い年なんですか?」
「何でそんなに驚くんだい?そんなに僕は老けて見えるのかな?」
「…いえ違います…」
あまりにもしっかりとしていたから。あまりにも大人びていたから。とても。とても自分と同い年には思えなくて。自分と同じには、思えなくて。
「しっかりしている…ってそう思って」
「ふ、それは誉め言葉として貰っておこう」
そう如月は言うと店の裏に廻って、自宅へと招いた。決してハデではないが、敷地面積にしてもそれは相当な量だった。更に木造の古い建物は、古臭さというよりも歴史を感じさせるもので。多分、相当な資産家なのだろう。
「くー、今日からここが君の家だよ」
壬生の腕の中にいる猫に如月はその湿った鼻に自らの鼻を重ねて、そして小さくキスをした。その瞳は何処までも、優しい。小さな命に、優しい人。
「今ミルクを持ってくるからね…と、紅葉、君も何か飲むかい?」
「あ、僕は…」
「お茶は飲めるかい?良かったら僕が立てるよ」
「え?」
「僕が茶道をするのは以外かい?」
「い、いえ…違います…その意味が分からなかったので…」
「くす、立てたお茶は未体験かい?」
如月の言葉に壬生は小さく頷いた。その仕草がひどく。ひどく如月には子供のように思えて。思えた、から。
―――不意にこのまま抱きしめたい衝動に、駆られる。
でも今。今この場で抱きしめて、しまったならば?せっかく見せてくれた君の笑顔を台無しにしてしまうかも…しれない……。
「じゃあ試しに飲んでみるといい。僕はこれでも茶道部に入っているんだよ」
君の笑顔を、僕が壊してしまうかも…しれない……。
窓から風が吹いて風鈴の音を奏でさせる。それがこの部屋の静寂にぴったりだった。
壬生は与えられた座布団に座って、膝の上に猫を乗せる。小さな、猫。小さな命。
―――僕が見付けて、貴方が救った命。
そっと喉の下に指を入れれば『ごろごろ』と気持ちよさそうに喉を鳴らす。暖かい、命。
もしも、と思う。もしも僕がこの猫を見付けなかったならば。もしも貴方がこの猫の声を聴かなかったならば。僕の涙を見付けなかったならば。
―――僕達は出逢う事がなかった……
ほんの少しの運命の悪戯が、ほんの少しの偶然が僕らを引き合わせてくれた。もしも。もしもほんの少し時間がずれていたならば、僕らは巡り合う事が出来なかった。
それは。それは不幸な事なのか?それとも幸せな事なのか?
もしも出逢わなければ、きっと。きっと僕のこころの時計は動き出す事がなかった。このまま止まったままで、傷を抉られる事も、どうしようもなく切なくなる事もなかった。
でも、出逢わなかったならば僕は。僕はこんなにも満たされなかった。こんなにも、瞼が震えることはなかった。
―――もしも、貴方と出逢わなかったならば?
どうして?どうしてまだ二度目なのに。昨日初めて出逢ったばかりの人なのに。どうしてこんなにも僕のこころを埋めるの?僕のこころに住みついてしまったの?
分からない。分からない。ただ。ただ僕が分かっている事は。
―――貴方と出逢う前の、自分を想い出せないと言う事だけ。
「お待たせ、紅葉。くー」
僕の目の前に現われた貴方の姿に、僕は不覚にも心臓が跳ね上がるのを止められなかった。
「ほらくー、ミルクだよ」
貴方の綺麗な手がそっと床に皿を置く。それ目掛けてくーは、僕の膝から飛び出した。そして与えられたミルクをその舌でぺろぺろと舐める。
「じゃあ紅葉、君にも」
僕の前に近づいて、そしていくらかの道具を取り出して僕の前に座った。真っ直ぐな姿勢。乱れる事のない姿勢。綺麗だと、僕は純粋に思った。
「どうしたの?さっきからぼーっとして」
「…あ、いえ…着物なんて着ているからびっくりして…」
「あ、そうか?普段、僕は家にいる時は着物なんだよ。この方が落ちつくしね。着物はそんなにも珍しいかい?」
「似合っています、凄く」
本当に今心からその言葉を伝えたと、僕は思った。本当に心の底から。貴方の纏っている凛とした空気が、鋭い刃物のような気がその和服にひどく調和していると。
「ありがとう、君に言われると嬉しいね」
そして貴方は微笑った。僕は。僕はこの笑顔をずっと見ていたい。ずっと、ずっと見ていたい。
出されたお茶を壬生は少しだけ戸惑いながらも飲んだ。こうやって出されるお茶は壬生にとっては未知の世界だったから。
「少し苦いかな?」
「あ、いいえ。とても美味しいです」
―――貴方が僕の為に煎れてくれたものだから…と、心の中でそっと呟いて。
「そうか、それならば良かったよ」
お茶から零れる湯気の先に、如月の顔が見える。それは本当に壬生にとって、触れてはいけない領域のように感じて。この湯気がまるでふたりの距離を現しているように感じて。
少しだけ、少しだけ、切なくなった。
ただ何をする訳ではなくて。
ただこうやって。
こうやってふたりでいられたならば。
こうしてふたりでいられたならば。
何も、何も、いらない。
―――何も、いらないのに……。
「紅葉、話しをしようか?」
「え?」
「僕は君と色々な話しをしたい。駄目かい?」
僕の飲み終えたお茶を片付けて、貴方は僕の前に座った。まじかにある綺麗な顔に、どうしても僕は瞳を俯き加減にしてしまう。あまりにも、綺麗だから。綺麗、だから。
「話って言っても…如月さん…」
「言い方が悪かったね、じゃあこう言うよ。君のことをもっと知りたい」
「―――如月さん……」
「君を、知りたいんだ」
真っ直ぐな瞳。決して逸らされる事のない瞳。強い、瞳。強くてそして。そして、揺るぎ無い瞳。この瞳に見つめられた僕は。―――僕は……。
「…知らない方が…幸せかもしれませんよ…」
僕は人を殺す事で生きています。拳部館の暗殺者です。そして。そして、館長の慰み者です。あの人に毎日のように犯されて、そして他の男達にも犯されて。僕は男に抱かれる事でしか、人を殺す事でしか生きられない人間です。
―――それを貴方に告げて、告げたとして貴方は受け入れてくれるのでしょうか?
現に今だって。今だって僕の身体にはあのひとの付けた跡が身体中に散らばっている。そして消えない精液の匂いが染み付いている。
「幸せかどうかは僕が決める事だよ、紅葉」
「それでも、それでも知らなければ」
―――知らなければこの優しい時間が壊される事がないから。
「紅葉、怯えているの?」
「…え?……」
「僕が、怖いのかい?」
貴方の手がそっと。そっと僕の肩に掛かる。その時になって初めて僕は気が付いた。僕の肩が小刻みに震えている事に。
「…違います…僕は……」
「僕は?」
「…貴方に嫌われるのが…怖い……」
貴方に嫌われる事が。貴方に軽蔑される事が。貴方に、受け入れてもらえない事が。
―――手首が、痛んだ。昔何度も抉ったその傷が、今になって痛み出した。
認めて欲しかった。
僕を見て欲しかった。
僕はここにいると分かって欲しかった。
ここにいるんだと。
ここで生きているんだと。
分かってほしかった。
「何故そんな事を言うんだい?何も話さないうちから」
「…でも…でも僕はっ…」
「僕は君を知りたいんだ。もっと君に近づきたいんだ。だから、知りたい。君がどんな人間でどんな人生を送ってきたのか。今何をして、どんな風に生きているのか。僕は、僕は知りたいんだ」
「―――駄目です…如月さん…」
「どうして?」
「僕に近づいたら…貴方が…」
「…貴方が…穢れてしまう……」
血まみれの腕。
僕には何時も血の匂いがするから。
精液まみれの身体。
僕には何時も雄の匂いがするから。
綺麗な、綺麗な貴方には相応しくない。
「じゃあ、紅葉」
―――君の瞳が、泣いている。
「どうして僕と出逢ったの?」
―――泣かない瞳で、泣いている。
「どうして僕と口をきいたの?」
―――泣けない瞳で、泣いている。
「どうして僕をその時拒絶しなかったんだ?」
違うこんな事を言いたいんじゃない。僕は。
僕は君の瞳が。君の瞳が、無意識に叫んでいるのを見逃したくないから。
その瞳が、叫んでいる言葉を。
僕は、見逃したりは決してしたくないから。
―――僕に気付いて。僕の声を聴いて……。
君の、声。
言葉に出来ない君の声。
僕は、僕には。
その声が、聴こえたから。
あの時の子猫のように『生きたい』とそう。
そう泣いている、君の声が。
「あの時君が通り過ぎていたら、僕らの運命は交わらなかった」
―――駄目だ。こんな事を言いたいんじゃない。
「あの時他人のまま通り過ぎていたら、僕は」
―――違う、僕は君を傷つけたい訳じゃない。
「僕はこんなにも君だけに支配されなかった」
―――僕は。僕はただ君を。君を笑わせたかっただけなんだ……。
もしも君が笑えないのが。
君がこんなにも哀しいのが。
君の過去から。君の今から来るものだったなら。
僕は。僕はそんな君の未来を。
未来を僕の手で、造ってあげたかっただけなんだ。
―――君に、優しい未来を……
「…如月…さん……」
駄目だよ、紅葉。そんな瞳をしないでくれ。捨てられた子猫のような瞳を。そんな瞳をしないでくれ。
「…僕は……」
そんな瞳をしたら僕は。僕は、君を抱きしめてしまう。君をこの腕に抱きしめて、そして。そして閉じ込めてしまう。それは駄目だ。駄目だ。
―――君が他人に触れられるたびに震えている以上…僕は君に触れる事は出来ないんだ。
「…僕は…貴方が…」
その先を言おうとして君の唇が止まった。君の哀しい癖。言葉を伝えられない君の、哀しい癖。でも。でもその先に言おうとしている言葉は…。
―――その、言葉は……。
「…僕は……」
もしも。もしも、紅葉。今僕が、君が、唇に乗せようとして戸惑っている言葉が、僕が思った言葉と同じならば。同じだったならば。
―――同じ、だったならば……
『君が、好きだ』
その言葉を今君に告げたならば、君はどんな顔をするだろうか?
どんな顔をするのだろうか?笑ってくれるか?
それともやっぱり泣きそうな瞳で僕を見つめるのか?
―――君はどんな表情を、するのか?
僕は今貴方に何を告げようとした?
貴方に何を、言おうとした?
――僕は今、貴方に……
『…貴方が好きです……』
そう告げて。そう告げたなら。
僕らの何が変わるのでしょうか?
告げたとしても、僕は。
僕は貴方に相応しくない。
貴方の腕に抱かれるのに相応しくない。
僕の身体を通り過ぎていった無数の男達。
何度も何度も犯され続けた身体。
こんな穢れた身体で、貴方に触れる事は許されはしない。
―――赦されは…しない……
言葉にして。言葉にしたら、僕らの何かが変わるのだろうか?
ACT/7
多分、その先は。
その先は、ため息だけが知っている。
―――絡み合う視線に、君の答えを求めた。
「じゃあ紅葉…僕の話しをしようか……」
沈黙を先に破ったのは如月の方だった。それが彼の優しさなのだと、壬生には痛い程に伝わった。伝わった、から。
「…如月さんの話…」
何時しか肩に触れていた如月の手が落とされる。そしてそのままゆっくりと壬生の指先に絡まった。そこから伝わる温もりが。その温もりが、世界の全てになる。
「―――今は震えていないんだね」
「え?」
「手、触れているのに震えていない」
「…だって……」
「ん?」
「今触れているのが、貴方だから」
貴方の手は、怖くない。貴方の手は僕を傷つけない。貴方の手は僕を。僕を優しく包み込んでくれるから。貴方の手、は……。
「このままで話しても、いいかい?」
壬生は小さく頷いた。如月の言葉に。そっと、控え目に自らも指を絡めながら。
―――貴方の声が、聴きたい。
本当の貴方の声が。
貴方の言葉が。
僕は、聴きたい。
もう戻れないと気が付いた。
貴方を好きだと気付いた瞬間に。
僕はもう、戻れないのだと。
何処にも戻る事が、出来ないのだと。
「僕はね、如月家の跡取で飛水流の末裔。生まれながらに僕の人生は決められていたんだ」
望む望まないに関わらず、引かれていたレールの上を歩く事が。それが、僕にとっての唯一の道。
「多分人から見たら羨ましがられるものを生まれながらに持っていた。地位や金、そして力。それにこの綺麗な顔とかね」
冗談交じりにそう言ったら君はひとつ、笑った。よかった、それは君の本当の笑顔。作り物じゃない本物の笑顔。
「お蔭で何一つ不自由のない生活をした。欲しいと思ったものは何でも手に入ったし、女達は勝手に僕に寄って来た」
見掛けだけで、寄って来る女達。外見だけで僕にすり寄ってくる彼女達。そこに。そこに、本物の愛なんて存在するのだろうか?
「今思えば僕はとんでもない男だったかもしれない。寄って来た女達は自分の都合のいい欲望の捌け口にした。それを勘違いして恋人気取りする者達は冷たくあしらって捨てた。友人も、そうだ。近寄ってくる者たちは僕の財産とそして、僕の力目当てだった」
如月家の跡取、飛水流の末裔。そして学年主席。それだけで教師の態度が違う。何時でも僕は特別扱いだ。そんな僕に寄って来る人間は僕の権力に媚びようとしている者か、僕の財産目当てだった。そんな輩達は、僕はヘドが出るほどに嫌いだった。
「唯一友達だと呼べる男がいた。だけど…」
君の手の力が不意に強くなる。僕の言葉の語尾が変化したせいだろう。それは言葉にするのが苦手な君の、一生懸命の優しさ。
―――紅葉、ありがとう。
「僕はあいつの好きだった女を結果的に奪った」
―――俺はお前がキライだ……
「僕に寄り添ってきた女の一人だった。何時ものように適当に相手をしてそして捨てた」
――――そのお綺麗な顔だ何人の女をたぶらかして来たんだ?
「そうしたらあいつは僕に言った…お前がキライだって……」
――――大体貴様はむかつくんだよっ!!!何時も何時も涼しげな顔をしやがって。てめー独りがなんの関係もないって顔をして。何時も何時も何時もっ!
「僕達は友達だと思っていた。あいつは僕を地位や金や顔で寄ってこなかった。純粋に友達だと思っていた…」
「…如月…さん……」
僕が話し始めてから、初めて君は。君は僕の名前を呼んだ。その今にも消え入りそうな声を。声で、僕の名前を。
「…紅葉…僕は…」
「僕は真っ直ぐに向き合いたかったんだ」
僕に付属するもの全てを取り払って。
僕に与えられたもの全てを捨てて。
ただの『如月翡翠』と言う独りの人間になって。
何も持たない自分だけになって。そして。
そして、誰かと向き合いたかった。
駆け引きも、打算も、計算も。何もない。
何もない純粋な心で。真っ白な心で。
―――『人間』と、向き合いたかったんだ。
「君と、向き合いたい。君と話しがしたい」
「…如月さん……」
「君は、君だけは僕に何も求めなかった。何も見なかった。僕の顔も金も地位も力も、何もかもを」
「…如月…さん……」
「君だけが僕を、ただの『如月翡翠』として見てくれた」
君の、瞳。
哀しげな瞳。
だけどその奥に。
その奥に見えるのは。
何よりも綺麗な魂。
無垢で穢れなき魂。
誰も穢す事が出来ない。
―――たったひとつの、輝き。
もしかしたら、僕達は。
僕達は同じなのかもしれない。
違うものを見ていて。
そして、本当は。
本当は同じものを見ていたのかもしれない。
―――見つめる先のものは、同じだったかもしれない。
触れていた指先が、そっと。そっと貴方の口許へ持ってゆかれて、そのまま指先に口付けられた。
僕は、もう僕はその行為に震える事は…なかった。何時もならどんな男にされても嫌気のさす行為を、僕は自然に受け止めていた。いやそれ以上に、もっと。もっと求めていた。
その触れた先の唇の暖かさを。触れた瞬間の麻痺にも似た痺れを。
「手を、引かれるかと思った」
「…僕も…自分でそうするかと思いました…」
もう一度、指先に口付けられた。それだけなのに。それだけなのに全身が熱くなるのはどうして?どんなに男達に犯されても、こんな風になる事は一度もなかったのに。それなのに、ただ。ただこうして指先に口付けられるだけで…。
「―――如月さん……」
貴方に触れられるだけで、与えられるもの。与えられる、もの。それは決して目には見えないもの。けれども何よりも優しいもの。
「紅葉?」
貴方だけが僕に、与えてくれたもの。貴方だけが僕に注いでくれたもの。
「貴方の笑顔が、好き。優しい笑顔が」
「………」
「―――貴方の優しさが、好きです……」
「誰もが気付かない物に気付く、そんな貴方の優しさが好きです」
小さな、命の叫びを。
小さな、命の鼓動を。
決して見逃さない貴方が。
そんな貴方が、僕は。
―――僕は、何よりも好き……
「優しさ、だけかい?」
この先を促したなら。この先に進んだなら、もう戻れない。戻る事は出来ない。
「…それは……」
君が躊躇って止めた言葉の先を。その先を僕は、君に告げてもいいのか?
「…僕は…」
君が、逃げなかったから。僕に触れられて震えなかったから。怯えなかったから。僕は。僕はその先を。
―――その先を君に。君に告げても、いいのか?
今僕の気持ちを告げたならば、貴方は僕を受け入れてもらえるだろうか?
だけど。だけど僕は。
僕はまだ、貴方に何も話してはいない。
―――何も、僕の真実を告げてはいない。
「如月さん…僕は……」
告げなければならない。取り返しのつかない場所に辿り着く前に。どうしても。どうしても僕は貴方に告げなければならない。
「…僕は……」
僕と向き合いたいと言ってくれた貴方に。僕と話しをしたいと言ってくれた貴方に。僕は、僕は真実を告げなければならない。僕の、真実を。
「―――紅葉?」
だけど。だけど怖い。もしも貴方が僕を受け入れてくれなかったならば。人殺しの僕を、性欲処理道具の僕を。狂人の子供の僕を、貴方が受け入れてくれなかったならば。
――――そうしたら死ねば、いいじゃないか。
ああ、そうか。そうか。
とても簡単な事。
今まで僕になかった選択肢。
貴方に逢って初めて生まれた選択肢。
それは『死』。死んでしまうこと。
そうすれば何もかもから解放される。
何もかもから逃げられる。
そうすれば、いいんだ。
―――生キタイ…僕ハ…生キタイ……
何の為に生まれてきたのか。
僕は何の為に生まれてきたのか。
こうして何故生きているのか。
何故、僕という命が存在しているのか。
まだ。まだ僕は知らない。
まだ僕は、確かめていない。
―――まだ僕は…確かめていない……
「僕は、人殺しです」
声に、した。
声にして伝えた。
その瞬間僕は。
僕は真っ白になった。
「僕は人殺しです。人を殺す事で生きています。そして。そして僕は男達の慰み者です。そうやってしか僕は生きる術を知りません」
「僕の母は狂っていました。毎日子供だった僕を虐待していました。僕は戸籍にすら名前の載っていない子供でした」
「僕は毎日手首を切っていました。そうすれは母親が僕に優しくしてくれるから。僕は毎日手首を切っていました。そんな僕は閉鎖病棟へと閉じ込められました」
「僕を病院から連れ出した人は僕を犯しました。そして僕はその人の養子になりました。始めて僕はその時人間としての生きる権利を与えられました」
「僕は今でもその人に犯され続けています。毎日毎日。そしてその人の命令で人を殺しています。それが僕に与えられた生きる唯一の道です」
「…それが僕の…全てです……」
「もういい、紅葉」
何時しか大きな腕が僕の身体を抱きしめていた。それは。それは優しい腕。ただ僕を慈しむ為に与えられた腕。僕を組み敷く為じゃない。優しい、優しい腕。
「もう、いいから…紅葉……」
そして何時しかその腕がそっと。そっと僕の背中を撫でて。そして。
そして、僕の瞳から零れた涙をそっと拭ってくれた。
「頑張ったね、よく言ってくれた」
「…如月…さ…ん…」
「辛かっただろう、ずっと独りで」
「…きさらぎ…さ…ん……」
「もういいよ、紅葉。我慢しなくて。泣いてもいいんだ」
「…きさ…ら…ぎ……」
「辛い時は声を上げて泣いてもいいんだ」
貴方の言葉に。僕は。
僕は生まれて初めて、声を上げて泣いた。
声が枯れるほどに。
枯れてしまっても構わないと思いながら。
僕は。僕は声を上げて、泣いた。
―――貴方の腕の中で、泣いた………
ACT/8
―――僕は今、貴方の腕の中でうまれる。
声を、上げて。喉が枯れるまで。
泣き続ければいい。
泣けなかった、君。独りでしか泣けなかった、君。
僕が。僕が、いるから。
君の傍に、僕が。
僕が、君のそばにいるから。
―――だから紅葉、泣いても…いいんだ……
貴方は何も言わずに、ただ。
ただ僕の背中をずっと撫でてくれた。
ただずっと。ずっと、震える僕の背中を。
その手で。その優しい手で、ずっと。
ずっと、撫でてくれた。
声にならない叫び。
声に出来ない叫び。
何時も何時もこころの中で思っていて、そして。
そして、閉じ込めていた言葉。
その言葉が僕から溢れ出す。
口にしようとして、そして。
そして口に出来なかった言葉が、今。
今、溢れ出す。
―――キャハハハ、死んじゃえ。お前なんて死んじゃえ。
『痛いよ、痛いよお母さん…ぶたないで…僕をぶたないで…』
―――キャハハハハ呪われた子。お前なんていらない。いらないんだよっ
『いやだっいやだっお母さん、痛いよ、痛いよっ』
―――呪われた子供。お前は呪われた子供さ。ハハハ、だからいらない。
『…いらないの?…いらないの?…僕は…いらないの?』
―――死んじゃえ、いらない子供。お前なんて死んじゃえ、ハハハハハハ。
『…いらないの?…ねえ、いらないなら…どうして……』
「…どうして、僕を産んだの?お母さん……」
―――ああ、痛いの?ねえ痛いの?
『…痛くないよ…全然痛くない…こころに比べたら僕全然痛くないよ……』
―――痛いわよね、痛いわよね、こんなに血がいっぱい出ているんだもの…痛いわよね、坊や。
『…痛くない…手首なんて痛くないよ…お母さん…』
―――ごめんね、ごめんね、お母さん悪いお母さんだね、ごめんね。ごめんね。
『…痛くないよ…だって……』
「手首切ればお母さん…抱きしめてくれるから……」
―――ガキのくせして、お前の身体は病みつきだな……
『いやだ、いやだ、こんな事いやだ』
―――ほらもっと、動け。動いて俺を楽しませろ
『…いやだよぉ…こんな事したくないよぉ…助けて……』
―――クク、そうだ。ほらもっと腰を使え
『…いやだ…誰か…誰か…』
「だれか…僕を…助けて……」
―――ああ、お願いだ。後生だ助けてくれ…
『殺すの?このひとを今日は殺すの?』
―――お願いだ…わしには娘がいる…幼い娘がいる……
『…娘…小さな女の子がいるんだ…貴方はどうなってもいいけど…小さな女の子は?』
―――助けてくれーーっ!!!!
『…小さな女の子は…独りぼっち……』
「…僕と同じに…独りぼっちになってしまう……」
―――へへへ、館長もずりーよなぁ…この身体を毎日ヤッてんなんてよ
『…どうして?どうして…僕だけがこんな…こんな……』
―――ほらっ、こいつの咥えてやれよ。下の口だけじゃ淋しいだろう?
『…いや…そんな事…そんな事…したくない……』
―――諦めな、お前はこう言う運命なんだよ。館長に拾われた時から俺達の公衆便所なんだよ。
『…いやだ…いや……』
「いやぁぁぁぁぁーーーっ!!!!!」
いや、いやいや。
何もかもが、イヤだった。
何もかもが、苦しかった。
本当は何もかもが。
何もかもが僕にとって。
僕にとって苦しくて辛くて。そして。
そして、そして。
何もかもが壊してしまいたい日常。
お母さん、僕を見て。
僕を見て。ねぇ、お母さん。
―――僕を…僕を抱きしめて……
助けて、誰か助けて。
本当は嫌なの。こんな事されるのは。
―――僕の身体を…犯さないで……
殺したくなんてない。人を殺したくなんてない。
生きていれば。生きていれば。
―――罪を償う事だって…出来るでしょう?
「僕は、僕は人形じゃないっ!僕はお母さんの人形じゃない。僕を叩くのも、僕を蹴るのももう止めてっ!」
「僕は、僕は貴方の性欲処理の人形じゃないっ!僕の身体は僕のものだ。貴方に抱かれるのは本当は嫌なんだっ!」
「僕は、僕は人殺しなんてしたくないっ!誰であろうともその命を他人が奪う権利なんてないんだっ!誰にもその権利はないんだっ!」
「いやだ、いやだ、いやだ。僕は、僕は生きている…僕は僕だけのものだ…どうして、どうして皆僕の声を聴いてくれないの?どうして僕を傷つけるの?どうして僕を自分達の玩具にするの?僕は生きているのに…こうやって…こうやって生きているのに…」
「…僕は…生きて…いるのに……」
「君は、君だけのものだよ…紅葉……」
「…う…うう……」
「誰のものでもないよ、君は君だけのものだ」
「…うぁ…ああ……」
「君の足は、君のものだ。君の手は君のものだ。君のこころは…」
「君だけのものなんだ…紅葉……」
「君が、生まれてきてよかった」
手。触れ合う、手。重なり合う、手。
「…君という命が…この世に生まれてきてくれて…よかった…」
そこから分け合う体温が。そこから零れる体温が。
「…君という命に…出逢えてよかった…」
優しくて、優し過ぎて。
「…君に…出逢えて…よかった……」
優し過ぎて、優し過ぎるから。だから。
―――凍りついた僕のこころを、何時しか溶かしていった……。
「…如月…さ…ん……」
手を、伸ばす。穢れた僕の手。血にまみれた僕の手。
「…きさら…ぎ…さ…ん……」
その手で、触れた。貴方の頬に。そっと。そっと、触れた。
「…きさ…ら……」
そっと貴方の涙に、触れた。
―――僕の為に、貴方は泣いてくれた。
「…大切な、命だよ……」
手が、伸びてくる。綺麗な貴方の手。優しい貴方の手。
「僕にとって…何よりも…大切な…」
その手が、触れる。僕の頬に。そっと。そっと、触れる。
「…大切なたったひとつの…命だよ……」
そっと僕の涙に、触れた。
―――僕の為に、貴方は手を差し出してくれた。
「もしも君が生まれてこなかったならば、僕は。僕は恋というものを一生知らずに生きたかもしれない」
腕の中にある、小さな命。
大切な、大切な、命。
生きたいと叫んでいる命。
助けてと叫んでいる命。
―――よかった…。
君の声を僕が気付く事が出来て。
君の声を僕が聞き逃す事がなくて。
よかった、君に気付いたのが。
僕が初めで。僕が最初に。
―――僕が、君に気が付けた事が……
「ありがとう、紅葉」
「…如月…さん…」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
「……きさら………」
「僕と巡り合ってくれて、ありがとう」
「ありがとう。僕の前に降りてきてくれて……」
もう一度。もう一度、指を絡めた。
絡めて、そして。
そしてふたりで。
ふたりで、見つめあう。
互いの存在が、全てだと。
瞳に映るその存在が、全てだと。
そう、確認する為に。
―――貴方しかいないと、確認するために……
足りないものが、欠けていたものが。
満たされなかったものが、埋められなかったものが。
今。今、全てが。
全てがこうして、満たされ埋められた。
僕らはそれぞれ。
それぞれ、違うものを捜しながら。
同じものを見つめていた。
―――同じものを、追いかけていた。
片翼の天使。
僕らの背中には片一方羽がない。
でも。でもその羽は。
互いの背中に生えている。
決して真っ白ではなくても。
それでも僕らの背中に生えている。
ひとりでは、生きられない。
ひとりでは完成されない。
だけど。けれども。
ふたりでならば。ふたり、ならば。
――――こうして、空を飛べるかもしれない……。
生まれてきてくれてありがとう。
君を僕に与えてくれて、ありがとう。
End