優しい、空。


…何処へ、行きたかったのだろう?

東京には本物の空が、ないね。
本当の‘蒼’がないね。
何処へ行けば、見つかるのかな?
ねぇ…何処へ行けば、本当の空に逢えるの?

幼い頃の夢を見た。遠い昔の、忘れかけていた小さな想い出の破片だった。でももう、その破片を掻き集める程夢を見ていられる余裕などなかった。
…夢なんて、自分には持ってはいけないものだった……
「…僕は…何で、生きている?……」
呟いてみて何を今更と、壬生は思った。生きている意味なんて、とうの昔に捨てた筈だ。そんなもの持っていて何になる。自分はただの人殺しだ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ館長に命令された通りに人を殺す、ただの機械だ。
機械に心も生きる意味も必要無い。何もいらない。からっぽのままでいい。余計なものを背負えば、それだけ自分に跳ね返って来る。だから。
…だから何も、考えなくていい……。
でも時々疼くこの胸の痛みは?忘れかけた頃にやってくるこの衝動は?これは…何?
「…どうかしている……」
それだけを呟くと壬生はベッドから起き上がり、四角く区切られた窓の外を見つめた。灰色の空間。ただの、空間。本物の蒼は何処にも無い。本物の空は何処を探しても見つからない。何処へゆけば、見つかるのだろうか?
…何処を探せば、いいの?
そんな事を考えているとふと、ベッドサイドに置いてあった一冊の本に目が止まる。それは物には執着しない自分が唯一手元に置いておきたいと思っていた絵本だった。
この年でそんなものに執着している自分が滑稽で可笑しかった。暗殺者のくせしてこんな古い絵本を大事に持っている自分が。まるで道化師のよう、だった。

本当の空を、見せてあげたい。
本物の‘蒼’を教えてあげたい。
何も知らない君に。何も教わらなかった君に。
僕は全てを教えてあげたい。

「如月さんって…好きな人いるんですか?」
そう聞かれて如月は正直にいないと、答えた。生まれてこの方他人を本気で好きになった記憶が無かった。好きだと言われて女の子と付き合ったりはしたけれど、嫌いではなかったが好きかと問われると素直に頷けなかった。
「…いないのなら…私と……」
お決まりのセリフが如月の耳に届く。何時も、思う。色々な女の子に告白されるたびに、彼女らは自分の何を知っているのだろうかと。何を、知っているのか?
自分の飛水の血の宿命を。この地を護らねばならぬ重たい運命を。それを知ってまでも彼女らは自分と共に居たいと思うのだろうか?
「ごめんね、僕は今誰とも付合う気はないんだ」
その言葉に嘘はない。この血が身体に流れている以上、他人を必要以上に愛する事は出来ない。護るものは、ひとつだけでいい。それ以上増えてしまえば、どちらかが犠牲になる。
「ごめんね」
でももしも。この飛水の血の呪縛すら解き放ってしまう程の存在が、自分に現れたとしたら…その時僕はどんな道を選ぶのだろうか?

…運命とか、宿命とか、そんな言葉では片付けられない。

公園のベンチに腰掛けると、壬生はぼんやりと周囲を見渡した。そこには無邪気な子供達の笑顔があった。何も知らずに何も穢されていない、透明な笑顔。
その無邪気さは時には残酷だ。何も知らない無垢な心はある意味最も残酷なものだ。
駆け引きも計算も何も無いからこそ、真っ直ぐに心に突き刺さってくる。そしてその痛みを感じた自分は、まだ何処か人間的な心を持っているとでも言うのだろうか?
日差しが、眩しい。太陽の光は平等に全ての人間の元に降り注ぐ。たとえ偽物の色をした空の下でも、光は地上に与えられる。
その眩しさが、嫌いだった。夜にしか生きられない自分には…手を伸ばしても決して、届かないものだった。永遠に、届かないもの。
それでもふと、手を伸ばしてみたくなった。時々訪れる理由の無い衝動。意味の無い行為。そしてそれを止める術を知らない。…何処か自分は狂っている……。
そっと手を、伸ばしてみる。その瞬間、膝の上に載せていた本が…落ちた……。

子供の頃家にあった硝子細工の人形を思い出した。
無機質なその物体はけれども、何処か脆かった。冷たくて何物も寄せ付けない印象があるのに。それなのに触れたら壊れてしまいそうで。そして何故かその時自分は‘壊してしまいたい’と、そう思った。
今でも何故そう思ったのかは分からない。でも粉々に破片に砕いてそして。そしてもう一度、今度はこんなに簡単に壊れてしまわないように。こんなに淋しそうじゃないように。自分の手で作り直してあげたいと、多分そう思っていた。
…どうしてだろう?君を初めてみた時、何故かその事を思い出したんだ。

「落としたよ、本」
耳に届いた声のあまりの心地よさに、壬生は彼にしては珍しい程の無防備な表情でその声の主へと視線を向けた。けれどもその瞬間目に飛びこんできた日差しのあまりの眩しさに、壬生は思わず目を閉じた。
「…100万回生きた猫、か……」
くすりと一つ、微笑う声が聞こえた。でもその声は決して不快じゃない。ひどく優しい声、だった。
「僕もこの話好きだよ」
光に目が慣れて、そのおぼろげな輪郭がくっきりと形を結ぶ。結んだ先には綺麗な笑顔が、あった。それはまるで太陽の光のような。眩しい程の、綺麗な顔が。
「でもこの話は、哀しいね」
しなやかな指先が本を叩くと、そのまま自分に手渡された。綺麗な笑顔は一寸も崩れる事は無く。本当に太陽のようだ。誰でも平等に降り注ぐ…そして自分とは全くの正反対に生きている。闇に全てを染められた自分とは全く正反対の。
「…哀しい、ですか?…」
「それでも幸せなのかな?最期に愛する人と出逢えて」
「僕は、羨ましいです」
「死なない事が?それとも?」
「…愛する人に、出逢える事が……」
自分は何を言っているのだろうか?いきなりこんな初対面の相手に。何を言っているのだろうか?でも、止められなかった。まるで太陽の光を掴むような。あの時の衝動のように。
「…そうだね、僕も羨ましいよ…。本当に愛する人に出逢いたいね……」
そう言って柔らかく微笑う声に、表情に。何故だかひどく、泣きたくなった。

自分を見上げてきた瞳のあまりの無防備さに、何かを揺さぶられた。それが何だったのかは、今の自分には分からなかったけれども。
ただ次の瞬間にその剥き出しの瞳が隠され、冷たくてどこか脆い何かに覆われた瞳が覗いた時に、何故だかとても哀しくなった。
何かから必死で自分を隠しているように、見えて。それがとても哀しかった。
何時から彼はこんな瞳を身に付けたのだろうか?何時からこんな瞳を他人に向けるようになったのだろうか?
そして。そして初対面の相手にそこまで気にしてしまう自分に、僕は戸惑っていた。
「人を愛するって、どんな事でしょう?」
また一瞬、あの無防備な瞳が覗いた。それは捨て猫のような、瞳だった。
「自分の今持っているもの全てを引き換えにしても、手に入れたいと思う事」
「ならば僕には一生出来ない…僕は何も持っていない。引き換えにするものなど」
また冷たい仮面でその顔を覆う。でも、気付いてしまった。その仮面はとても脆い。何かきっかけがあればすぐに、壊れてしまいそうだ。…この手で、壊してしまえる?
「ならば自分自身を引き換えにすればいい」
「…自分自身を?……」
「君がその命を引き換えにしても護りたいと、思うものがあれば。それで充分だ」
「それも駄目ですよ。僕は自分の命なんて、本当はいらないんだから」
自虐的に笑う彼の不安定さ。一歩間違えれば壊れてしまう。まるで切れそうな細い一本の糸の上に乗っかっているような。そんな、感じだった。
「いらないなんて、簡単に言うもんじゃない。君が死んだら哀しむ人間がいる筈だ。その人を哀しませてはいけない」
「人は他人の為には哀しめない生き物なんですよ。他人が死んで哀しいのは、その人を失って可哀想な自分に泣くんですよ」
「…可哀想な人だ、君は……」
不意に抱きしめたい衝動に駈られた。自分は何処かおかしいのだろうか?こんな初対面の相手に、まして彼は自分と同じ男なのに。
でも、何故か今彼が自分には泣いている小さな子供のように見えた。心で泣いている小さな小さな、子供に。
「それでも泣けるだけ、幸せなんだよ」
それだけを言って、そっと頭を撫でてみた。まるで父親が子供にするように。すると彼の身体が自分の目にもはっきりと分かる程、震えたが。でも彼は、抵抗はしなかった。

何故だろう、泣きたくなった。
今にも涙が零れ落ちそうだった。でも泣けなかった。幼い頃から身に付けたそれが、自分に涙を零す事を許しはしなかった。
「…変な人だ…貴方は……」
それだけを言うのが精一杯だった。優しく髪を撫でてくれるその手は。自分が初めて知った、他人の温もり…だった。
頭を撫でてくれる筈の父親は、物心ついた時からいなかった。そして抱きしめてくれる筈の母親は、冷たい病院の一室で今も眠っている。
…誰一人…こんな風に頭を撫でてはくれなかった……。こんな、風に……
「そうだね、僕もそう思うよ。普段なら絶対にこんな事しないのに」
「…変な、人だ……」
「僕だって戸惑ってる。基本的に他人にはあまり関心が無いのだが…何でだろう、君は何処か放っておけない。まるで捨て猫を拾うような気持ちだ」
「僕は、捨て猫ですか?」
その言葉のおかげでやっと、顔を上げる事が出来た。その瞬間に飛びこんできた視線が、どうしようもない程優しくて。この人は誰にでもこんな視線を向けるのだろうか?
「そんな瞳を、している。だから僕は君を放っておけないのかもしれない」
「猫じゃないですよ。僕にはちゃんと名前があります」
「…名前…聞いてなかったね。僕は如月…如月 翡翠だよ」
「…如月、さん?……」
名前を、呟いてみる。その響きはひどく口許に馴染んだ。そして呼ばれた先にあるのは、綺麗な笑顔。本当に純粋に、壬生はその笑顔が綺麗だと思った。
「君の、名前は?」
「…紅葉…壬生 紅葉……」
「いい名前だね、紅葉」
いきなり名前で呼ばれてどきりと、した。その低く優しい声で呼ばれて。
……ひどく、切なくなった………

「次に君に逢うには、どうすればいいのかな」
それは予感、だったのかもしれない。
「…僕に?……」
その捨て猫のような瞳を放っておけなかった自分の。一瞬だけ見せる無防備な表情を見逃せなかった自分の。
「また君に、逢いたい」
それは、予感。内に秘めていた何かが呼び起こされた。何かが琴線に触れた。何かが目覚めた。それはまだどんなものか分からなかったけれど。確かに自分は…。
「…僕も…もっと貴方と話してみたい……」
確かに自分は、彼を知りたいと思った。

その時僕は思った。
この人と。この人と、何時か。本当の空が見てみたいと。
何でいきなりそんな事を思ってしまったのか…分からない…。でも。
でもどうしてだろう?でもこの人なら。
きっと本物の空を見つけてくれると…そう、思ったんだ……。

その先にどんなものが待っているのかは、分からないけれど。確かにこの瞬間。
何かが、目覚めた。そして何かが…始まる……。

  


End

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