Femme Fatal ・4


ACT/13


―――今夜星が滅びてもいい 君を抱いて死ねるのなら


何時も僕には血の匂いが、付きまとっていた。
気が狂った母親が生んだ子供。
父親は分からない。正常な神経を持っていなかった母親を誰かがレイプして、そして産まれた子供だと後になって教えられた。
―――望まずに産まれた、子供だと……。
病院にも行かずに母は自分で僕を取り上げたそうだ。気が狂っていても母親としての本能だろうか、奇跡的に僕は産まれた。血の海の中で。
後から掛け付けた看護婦がそのあまりの壮絶な場面に倒れたそうだ。へその緒を自らの歯で噛み切ろうとしていた母。自らの出血で床はべたべたになっていた。
その中で僕は泣く事すらできない子供だったと聞いた。未熟児で産まれた僕は、声を上げる事すら出来なかったのだと。
病院に運ばれ僕は無菌室の中で育てられた。母親は産まれた僕を抱いてはくれなかった。
そのまま病院を出されると母との生活が始まった。母に僕を育児する能力はない。それでも母は僕を離さなかった。金の為に。金の、為に。
当時生活保護を受けていた母親は子供がいるという理由で加算される手当て目当てに僕を離さなかった。保健婦の人が、児童相談所の人間が来ても、僕を離さなかった。僕がいなくなってしまったら、保護費を減らされると分かっていたから。それだけの為に僕を離さなかった。
そして。そして役所の人間達も『まだ何も起きていないから大丈夫』と言う認識からか、僕を助けようとはしなかった。母から僕を引き離そうとはしなかった。
―――法ですら護られなかった、子供……
そうして僕は。僕は気の狂った母親とこの狭い部屋の中でふたりきりだった。

『お前なんて、生まれてこなければよかったんだ』

そう言いながらも金のために僕を離さなかった母親。そして手首を切り続けた僕。小さな部屋は歪んだ空間に成り果てていた。
でも何度目かの夜。母親が僕の足に熱湯をかけて、そしてまた僕が手首を切った夜。窓ガラスを割った母に…ついに救急車と役人がやってきた。
そして。そして僕らは引き離された。母との生活は、終わった。


次に僕が閉じ込められたのは、白い部屋。閉鎖病棟。神経障害の烙印を押された僕は、この小さな白い部屋へと閉じ込められた。狂気の子供。狂った子供として。
僕に自由はなかった。自分からこの部屋を出る事は赦されなかった。それが。それがこの病棟では当たり前の事。鍵を掛けられる事が。それが、閉鎖病棟。
自分の意思などそこには存在しない。ただ、ただ生かされているのみ。真っ白な部屋で、僕は。僕はただ、息をしているだけだった。
それでも僕はまた手首を切った。刃物すらも自由に入らないこの部屋で、僕は食事の時に出されたナイフをこっそりと盗んだ。そして。そしてまた部屋の中で手首を切る。
―――切れば母親が来てくれるかもしれないと…そう思って……。

『ごめんね…ごめんね…坊や…』

そう言って泣きながら僕を抱きしめてくれるんじゃないかと思って。抱きしめて、欲しくて。僕は手首を切り続けた。
でもそれもすぐに終わりが来た。あのひとが僕の前に現われたその瞬間に。僕は、僕は戻れない場所へと連れて行かれた。


何故僕が館長の目に止まったのか。どうしてこのひとが僕を連れ出したのか。理由は簡単だった。
―――お前が死んでも誰も哀しまないから。
冷たい瞳で、鏡の瞳であのひとは言った。僕という人間が人殺しになろうとも、僕という人間が男達の慰み者になろうとも、誰も哀しまないからだとそう言った。
―――そしてお前は独りで生きる力がない。
狂った子供なら痛みも哀しみもないだろうと、そう言った。だから僕はこのひとのモノになる為に仕込まれた。このひとの手となり足となり、道具として。
そこにあるのはただの空洞のみ。ただの無気力な黒い穴があるだけ。それ以上のものは何も存在しない。
感情を殺して、こころを殺して。ただ。ただ命令通りに動く人形が存在するだけ。それしか僕には生きる道がないと。それ以外何も出来ないだろうと、あのひとは言った。

『モノに感情なんていらない。お前は言われた通りに動いていればいい』

そうなのかもしれないなと、こころの何処かで思っていた。そうなのかも、しれないと。生まれてきて、誰一人祝福してくれなかった命の末路なんてこんなものなのかと。
そんなものなのかと、思っていた。―――貴方に逢うまでは。


貴方だけが、言ってくれたから。
『ありがとう』と言ってくれたから。
僕の命が生まれてきた事にありがとうと。
貴方だけが僕にそう言ってくれたから。
貴方だけが僕の命を祝福してくれた。
だから信じられる。
僕は貴方の為に生まれてきたんだと。

―――貴方に逢う為だけに、生まれてきたと。


絡み合った指先から。
触れ合った指先から。
伝わる、体温。
暖かい、温もり。
この繋がった指先だけが。
指先だけが、唯一の世界になった瞬間。

愛だけが、僕を埋めた瞬間。

それだけを想って。
それだけを願って。
それだけを。それだけを。
貴方だけを、胸に抱いて。

僕を穢せるものなら、穢しても構わない。
けれども僕のこころは。
貴方が与えてくれたこころは。
貴方以外の人間が触れる事は出来ないんだ。


「死なない程度に、打てよ」
あのひとの声が、聞こえる。支配者の声が。でももう目を開けたくない。貴方以外僕は誰も見たくはない。
「――廃人になってもいいが…セックスが出来なくなるのは…困るからな」
手首に鋭い痛みが走った。無数の傷跡を残す手首に、またこのひとは新しい傷を作った。注射針の跡を、作った。
「可愛そうだな。お前の運命の末路は薬漬けとセックス漬けだ」
―――貴方が口付けてくれた場所を…このひとは、穢した……。

そしてまた僕は犯された。
休む間もなく、男の欲望を咥えさせられ。
眠る事も休む事も赦されず。
ただ性の暴力に犯される。

―――目を閉じて、耳を塞ごう。貴方の瞳を見つめるまで。貴方の声を聴くまで。


薄暗い蔵の中は、静かな冷たさに包まれていた。その重い扉を開いて、如月は奥へと進む。
自分がここに訪れる日を、永遠に来ないとそう思っていた。この扉を開ける日を。
―――飛水流の末裔。そして、四神の血。
そんなモノ自分は欲しくなかったから、否定をした。封印をした。けれども。けれども今は。今はそれを利用しようとしている。
東京を護るなど、黄龍の器を護るなど、そんなモノは自分には関係ない。どうでもいい事だ。けれどもそれは自分に『強さ』を与える。
「利用出来るモノは何でも利用する…それが僕の生き方だ」
卑怯だと言われればそれまでだ。それで構わない。一向に構わない。そんな声など自分には何の関係も無い。
―――君を、奪うためならば……
何でもしよう。何でも出来る。利用するものは何でも利用する。卑怯な手段など幾らでも使おう。構わない。他人なんて構わない。
「君さえ傍にいてくれるのならば、僕はどんな卑怯な男にでもなろう」
―――昔、飛水流の先祖に一人のくのいちがいた。そのくのいちが愛した男は、特殊な体質を持っていた。呪われない体質。どんな魔剣にも呪われない体質を。
その男から受け取った、剣。――それが妖刀村正……
「幾人もの血を吸い尽くした剣よ。持った者の魂を修羅に変える剣よ。僕すらも修羅に変えてみよ」
―――愛する者の為に、修羅になろう。
「僕を、呪ってみよ。剣よ」
如月はその呪われた剣に触れる。触れるだけで、何かが身体中を駆け巡る。熱いものが。
―――殺セ…殺セ……
そして声が聴こえる。繰り返し、繰り返し聴こえるその声。その声に。
―――全テヲ…殺セ……
「―――そんなモノか……」
その声に如月は、声を立てて笑った……。

「妖刀村正の呪いはそんなものなのか?呪いすらも、この想いには勝てないのか?」

想い。君への、想い。
君への愛。君へのただひとつの愛。
それは。それは。
血の呪いよりも、修羅の道よりも、強いもの。

「紅葉、君への想いは…もう僕にもどうにも出来ないよ……」

どうにも出来ない?
いや違う。初めから分かっていた事だ。
初めから、分かっていた事。

―――どうにか出来る想いならば、初めから君を愛したりはしなかった。

「愛しているよ、紅葉」
君の為に、僕は。
「愛している」
僕は自らの手を穢そう。
「君だけを、愛しているんだ」
君と同じ場所へ。同じ場所へと堕ちよう。

―――君の為に。君の為だけに……


「如月翡翠、か」
煙草に火を付ける。その火に俺は目を一瞬細めた。でもそれはただ一瞬の事。
「お前の名前を一日たりとも忘れた事はなかった」
俺の眼下では相変わらず、飢えた狼どもが俺の『所有物』を犯し続けている。いい身体をしているだろう?俺が精魂込めて教え込んだ身体なのだからな。
「如月家の嫡男。飛水流の末裔。そして」

「―――俺の娘を殺した男……」

お前は覚えてはいないだろう。いい寄る女は星の数だからな。
適当に玩んでそれで捨てる。それがお前の『女』に対する扱いなのだから。
なのに皮肉にも。皮肉にもお前が本気になった相手は俺の玩具。俺の、所有物。
「なんて皮肉な運命なんだ」
俺はお前の愛したものの人生を奪った。そしてお前は俺の娘の命を奪った。どちらが。どちらが罪深いのか?
それとも。それとも。これが…

―――これが俺の、報いなのか?


さあ、来るがいい―――如月翡翠。
お前が本気でこいつを愛したのなら。
愛したのなら、さあ来い。
俺のもとへと来い。

その時は遠慮せずに、殺してやるからな……


ACT/14


―――胸に消えない十字架を抱いて、そして生きてゆく。

消えない罪と、罰。
決して消える事のない痛み。
ならば消さなければいい。
ならば胸に抱かえていればいい。
抱き続ければいい。
それすらも。

―――それすらも愛の痛み、なのだから……


何時か、何時の日か。
分かる時が来るのだろうか?
少しづつ零れていくその痛みすら。
痛みすら、愛の喜びだと言う事を。


何時しか空には紅い月が浮かんでいた。その月がひどく血に飢えているように見えて、如月にはおかしかった。この刀がその血を呼んでいるのかもしれないなと、そう思えて。
「―――血に飢えるのか?ならば」
如月は自らの指にその刀でひとつ傷を付けた。するとその刀は見る見るうちにその紅いの血を吸い尽くした。
「美味しいかい?美味しいだろう、僕の血は…。愛に狂った男の血は…美味しいだろう…」
月に照らされた横顔は壮絶なまでに美しく、そして見るものに無意識の恐怖を呼び起こす。そう、限界を越えた美は何時しか恐怖へと摩り替わる。
「―――もっと欲しいか?ならば……」

「僕のしもべとなるがいい」

僕の言う事を聞けば幾らでも血を与えよう。
幾らでも、与えよう。
―――僕の望みを叶えるならば……

「愛に狂った男の修羅を…見せてやろう……」


「強情だな、お前は」
太い手が、僕の顎に掛かるとそのまま砕いた。けれども僕は悲鳴を上げなかった。
「館長、顔はマズいですよー。やっぱどうせヤルなら綺麗な顔のがいいですから」
「――そうだな…確かに、その男受けする顔を傷つける事はないな」
悲鳴を上げたら僕の負けだ。僕は負けたりはしない。絶対に逃げたり、流されたりはしない。
「まあいい。もっと薬を打て。ククそれとも媚薬でも飲ませるか?男に輪され喘ぐお前をあの男に見せるか?」
…逃げない…僕は…もう何処にも逃げない…如月さん…如月さん……
「愛しい男の前で、気が狂うほど犯してやろうか?」
―――如月さん……
「こうやって、突っ込む所を見せてやろうか?」
―――来ないで…来ないで…僕を探さないで……
「すげーあれだけヤラれてんのに…館長の飲み込みやがった…本当に生まれながらの娼婦なんですね…」
―――貴方が僕の為に傷つくのはイヤだから…貴方が…僕の為に…だから…来ないで……
「こいつはココにモノを入れていないと生きてゆけない身体なのさ」
―――……如月…さん……来て……僕の傍に……
「もう一本くらい入りそうですね」
―――……来ないで…来て…違う…来ちゃダメ…違う…違う……
「試してみるか?二本差しとやらを」
―――違う…如月さん…僕は…僕は……

貴方を穢したくないの。
それは僕のたったひとつの真実。
貴方を僕の運命に巻き込みたくない。

貴方に逢いたい。
それはたったひとつの欲望。
貴方と僕の運命を共用したい。

貴方を、貴方を、巻き込みたくない。
貴方に、貴方に、助けて欲しい。
どちらも僕にとって、真実でそして嘘だから。

―――どちらも…僕にとっての…本物……

貴方を護りたい。貴方に護られたい。
どちらもそれは僕にとって唯一の願い。


―――紅い月だけが、全てを見ていた。

「こんな所に、死神かい?」
突然目の前に現われた男は、僕に向ってそう言った。その表情は何処までも穏やかで、柔らかいものだった。
「――失礼ですが、貴方は誰ですか?」
気配を全く感じなかった。本当にそれは突然だった。まるで空気から溶け出すように男は、僕の目の前に現われた。
「名乗るほどの者ではないよ。綺麗な死神さん」
「何故そんな事を僕に言うんですか?」
「今まで私は色々な人間を見て来た。だから分かる、君の瞳は『人殺し』の瞳だ」
「…そう見えますか?…」
不思議と、男の言葉に抵抗はなかった。そう言われてすんなりと受け入れる自分がいる。
「君みたいなタイプは絶対に敵に廻したくはない」
そう言ってまた男は笑う。その笑みは本当に善良と言う言葉しか浮かんでこない笑み。でも。でもだからこそ、逆に。逆にこの男が只者ではないと言う事実を見せ付ける。
「君はひどく光の中にいるのに、血の匂いを感じる。生まれながら綺麗な運命を歩んでいるように見えて、本当は一番深い闇を持っている」
「そうかも、しれませんね」
僕は残酷だ。愛する者のためならば、幾らでも残酷になれる男だ。それが光でそして、闇なのだろう。
「君は自ら直接手をくださずとも、他人を蹴落とす事が出来るだろう。でもそんな君が」

「君が直接手を下したら…相手はどうなるのか…見てみたいものだね」

そう言ってもう一度その男は笑うと、まるで闇に溶けるようにその姿を後にした。まるで今の会話が幻なのかと、思わせる程に。
―――幻だとでも、言うように……


拳武館高校。
暗殺者育成学園。
それが、僕が受け取った情報に書かれた内容だった。
政府公認の暗殺集団。
それが、君が身を置く場所。
君の生かされていた、場所。
――壊そう…
全てを破壊しよう。
君が今まで生かされていたその空間を。
全て。全て、破壊しよう。
そして。
そしてもう一度、初めから。

―――初めから、全てを……


―――足音が、聞こえる。
それは凡人の耳には届かない小さな音。
だけど、確かに聞こえる。

「…来たか……」
聞こえる、近づいて来る音が。俺に近づいて来るその音が。
「館長?」
「流石だな、飛水流の末裔…もうここを嗅ぎつけたか?」
―――コツコツ、コツコツと。
「ククク、紅葉よかったなぁ。お前の王子様が助けに来てくれたぞ」
近づいて来る足音。俺に近づく足音。
「ムリですよ、館長。さっきの衝撃でこいつ気を失っちまった。やっぱり無理やり二本も積め込むのはムリだったみたいですぜ」
ほら、早く。早く来い。早く俺を見つけ出せ。そして。
「助けに来たぞ、捕らわれの姫君をな。ならば俺はそれに相応しい悪役になろうか?」
そして俺にその首を締めさせろ。息の根を止めさせろ。
「…館長?…」
「ほら、来たぞ。お前の」

「―――お前の王子様が……」


お父さん、お母さんごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい。
私は、私はあのひとが好きなんです。
気が狂うほど好きなんです。
あのひとが私を愛していない事は分かっています。
あのひとに愛がないことは分かっています。
だから。だから今死なせてください。
あのひとが本当の愛を見付ける前に。
あのひとが誰かを愛してしまう前に。
その前に私を。
私を死なせてください。

―――その男の愛した人間は、今俺の腕の中にいるんだぞ……


闇の、部屋。
闇だけが支配する部屋。
すぐに、分かった。
ここに君がいると。
ここに君が捕らわれていると。

―――僕はどんなになっても、君だけは見つけるから。


愛とは、何だ?
人を愛すると言う事はどう言う事なんだ?
俺には分からない。
愛の為に死ぬだと?そんなの。
そんなの俺には分からない。
そんなモノで命を捨てるなど俺には分からない。
分かってたまるか。
この世で一番大切なのは自分自身だ。
それ以上に大切なモノがこの世に存在するものか。
自分よりも大切なモノなど。
俺には分からない。
分かりは、しない。

―――どうして。どうして、お前は死んだんだ?


「如月翡翠か」
重たい扉を開くと、そこには独りの男が立っていた。闇よりも深い、この闇よりも深い瞳を持つ男が。
「―――貴様か…紅葉を捕らえているのは……」
どろどろとした虚無にも似た、闇の瞳を持つ男が。
「そうだ。俺がこいつの飼い主だ」
「ならば」

「貴様を殺して、紅葉を返してもらおう」

深い闇の中ですら、その美貌は褪せる事はない。
強い光を放ち、圧倒的な存在感でそいつは俺の前に立つ。
怖い程綺麗な顔で、鮮やかに笑う。

―――鮮やかに、笑う。


誰かが言っていた。美と恐怖は紙一重だと。
俺は今ほどその言葉を実感した時はなかった。


ACT/15


―――愛とは、一体何だ?

誰かを愛し、そして愛される事。
まるでそれが全てのように。
それが全てだと言うように。
人間達はそれを求める。
愛を、欲しがる。愛を、捜す。
捜して、見つけて、そして。
そして、傷つく。
傷つくだけじゃないか。
壊れるだけじゃないか。
愛を手に入れて。手に入れて。
一体どうなると言うんだ?
自分より大切なものを見つけると言う事は。
それはただ自分の弱点を増やす事でしかない。
自分の弱みを曝け出す事でしかない。
その時点で。

―――その時点で俺が勝ちなんだよ。

お前がこいつを愛した時点で。
こいつを取り返すためだけに来た時点で。
俺の。俺の勝ちなんだよ。
お前をただ憎む俺の思いに。
お前が勝てる訳がないんだよ。
だからさあ。
さあその綺麗な顔を滅茶苦茶にしてやるよ。


「お前のお姫様はそこにいるぞ」
俺はわざとふざけたように言ってやった。そして見るがいい。お前の愛した者の無残な姿を。
「――――」
しかしお前は顔色ひとつ変えはしない…。つまらない。つまらない、俺はお前が絶望に陥る顔を見たかったのに…。娘のように…娘と同じ顔を……。
手足を鎖で拘束し、そして衣服を何一つ身に付けず。廻りには数人の男たち。そして身体中に掛けられた精液。これだけでこいつがどんな目にあっていたのか分かるだろう?それなのにお前は顔色ひとつ変えない。―――変え、ない。
「バカだね、君達は」
それどころかお前は笑った。鮮やかに、笑った。それはまるで紅い血の華が咲くように。無数の鋭い刺を廻りに張り巡らせながら。
「わざわざ僕の手に掛かって死ねる事を幸運に思うんだね」
そう言ってまた。また笑って。笑って、そして。

そしてお前は瞬きする間もなく、廻りにいた男たちをその刀で切りつけた。

「わぁぁぁーーーっ!!」
「うぎゃあっ!!!」
「ひぁぁーーーーーっ!!!」

一瞬何が起こったのか分からず茫然とした表情を浮かべたと思ったら、次の瞬間に零れたのは断末魔。背中から鮮やかに血が溢れ出す。
抵抗する間もなく、間髪入れずに。それはあまりにも鮮やかで、鮮やか過ぎて目を奪われるほどだった。

「――たわいもないな…ザコが……」

そう言ってお前は口許だけで、笑った。怖い程綺麗に、お前は笑う。
「ザコにはザコらしい末路だな」
俺の言葉に同意するように、お前は俺に向き直った。別にこいつらなんてどうでもいい。散々紅葉の身体で楽しんだんだ、それでもう充分だろう?この世でもっとも贅沢な快楽を与えてやったんだから。それで死ねて、幸せだろう?
「冷たい人だ、自分の部下なのに」
「無表情で人を斬りつけてそんなセリフが言えるとはね」
―――人殺し。その烙印をお前は躊躇いもなく享受した。綺麗な道が約束されているお前はいとも簡単にその手を血に染めた。鮮やかに、染めた。
そんなにも紅葉が、大切なのか?自らの人生を引き換えにする程に。分からない。俺には分からない。この世に自分よりも大切なものなんて、俺には分からない。
誰もが羨む道を自ら手を汚す事なく歩める未来を約束されていながら、どうしてわざわざ闇に手を染めるのか。俺には理解出来ないんだよ。
「言えるさ、僕は。僕はそう言う男なんだよ。所詮僕には『他人事』なのだから」
理解出来ないんだよ。他人事だと口にするお前が何故。何故、こんなにも紅葉にこだわるのか。
「それならば何故」

「何故、こいつを助けに来た?」

その言葉にまた、お前は笑った。何よりも美しいそして猛毒を持つ華のように。
「分からないのかい?可愛そうな人だ」
―――可愛そう?
「憐れな人だ。誰かを愛する気持ちを知らないのか?」
―――俺が、可愛そう?
「誰かに愛される気持ちを知らないのか?」
―――どうしてそんな事を言うんだ?お前の方が不幸だろう?自ら決められた綺麗な道をこんなちっぽけなモノにこだわって、こだわって踏み外して。そして。
そして、愛した相手はこんなにも俺達にぼろぼろにされて。
「教えてあげよう。貴様には分からないだろうがね。紅葉は他人なんかじゃない。僕にとって」

「僕にとって、全てなんだよ」

可愛そうな人だ。
愛を知らないなんて。
愛を理解出来ないなんて。
それじゃあ、まるで。
まるで今までの僕と同じじゃないか?
紅葉と出会う前の、僕と。

―――同じ、じゃないか?


「…可哀想なんて…同情する事すら貴様には価値がないな……」
同情?憐れみ?何故、俺が。俺がお前にそんな思いを向けられないといけない?
俺は不幸でもなんでもない。俺の今まで人生は成功してきた。俺はあらゆるモノを手に入れた。地位も、名誉も。そして玩具も。俺は全てを手に入れて来た……

―――お父さん…ごめんなさい……

俺は、全てを手に入れた筈だ。
どうしても欲しかった拳武館の館長の座も。
有り余る金を。そして、地位も。
政府公認の暗殺集団までこの学校を育て上げたのは俺だ。
そして。そして。
何時でも欲望を満たす事の出来る玩具も手に入れた。
何もかも、手に入れた。

―――ごめんなさい…お父さん…私は……

失ったのは。
失ったのは、娘だけ。
たった独り愛した、娘だけ。

―――かけがえのない、娘だけ………


「同情?笑わせるな。お前は俺が殺してやる」
―――好きな人が出来たの…とても綺麗な人なの。見つめているだけで幸せ。
「俺がお前の息の根を止めてやる」
―――見つめていられるだけで、幸せ……
「俺が…俺が…お前のその綺麗な顔を…」

「傷つけてやる」

許せない。許せない。
何で何で何で。
こんな男の為に娘は死んだ?
なんでこんな男の為に。
ただが愛の為に。
愛の為に、何で死んだんだ?

―――愛なんてものに、どれだけの価値がある?


「お前なんて、許さないっ!!」
俺は我を忘れたようにその頬を拳で叩きつけた。しかし強靭な肉体は、その場を崩れる事はなかった。
「―――驚いたよ、拳武館の館長ともあろう者が…これっぽっちの実力だとはね」
「うるさいっ!お前なんて、お前なんて生きている価値はないっ!!」
目の廻りがかぁっと真っ赤になったのが分かった。俺はそのまま。その赤に身を任せるまま、ただひたすらにお前に拳を叩きつけた。けれどもお前は、綺麗な身のこなしでそれをことごとく交わしてゆく。
「バカな人だ。冷静になれずして、僕に勝とうなんて――百年早いよ」
スローモーションのよう、だった。お前はそっと自らの刀に手を掛けて。そして。そしてそれを頭上に振り上げて、俺に切りかかろうとする。それは。それはまるで映画のワンシーンのように、綺麗だった。


ぽたぽたと、何かが頬に掛かる。
生暖かい液体が。
――ああ…きっと男たちが出した精液だ。
僕の身体中に降り注ぐのは。
それ以外にありえないから。
ありえないから。

―――さようなら…憐れな男……

あ、如月さんの声だ。
夢かな?夢なのかな?
僕が如月さんの事ばかり考えていたから。
夢にまで貴方の声が、聴こえるようになったのかな?
だったら。
だったらこのまま永遠に夢から醒めなくてもいいや。

―――紅葉は、僕のものだ……

…夢……
ダメ…夢じゃ…夢じゃいや…
もう一度、もう一度、貴方に逢いたい。
貴方の声が聴きたい。貴方の笑顔が見たい。
貴方に、貴方に逢いたい。

『貴方に、逢いたい』

だから目を開ける。だから耳をすます。そして。そして…
そして、僕は。


「―――如月さんっ!」


途切れる事のない悲鳴のせいで、僕の声はがらがらに枯れていた。それでも。それでも僕は。僕は貴方の名前を呼んだ。
―――僕の全てで、貴方の名前だけを……

その瞬間、一面に血の華が咲いた。


――紅葉っ!

貴方が僕の名前を呼んだ瞬間。
貴方と僕の瞳がかち合った瞬間。
貴方の手に持っていた刀をあの人は奪って。
奪ってそして。

そして貴方の額を切り刻んだ。


「ハハハハハハハっ!!!やったっやったぞっ!お前の完璧な顔に傷をつけてやった。ハハハハハ」
―――傷つけてやったぞ。その完璧な顔に。完璧なお前に傷を。傷をつけてやった。
「殺してやる。殺してやる。娘の変わりにお前を殺してやる」
「…娘?…」
お前の瞳が初めて。初めて、俺を見やがった。今まで鏡のようにただ。ただ反射しているだけだった瞳が今初めて俺を見やがった。
「俺のたった独りの娘だ。お前に玩ばれてそして死んでいった憐れな娘さ」
憎い。憎い、憎い。お前なんて人間が存在する事事態が許せない。そうやって血で手を染めながら、それでも光を持っているお前を。
俺はそのままその身体の上に圧し掛かり、そして。
「死ね、如月翡翠」
そして。俺はゆっくりと近づくと、その綺麗な首筋に手をかけた―――。


―――ごめんなさい…ごめんなさい……
大切な、大切な、かけがえのない命。
俺の大切な。大切な、命…失いたくないもの。
―――失いたくなかった、もの……

ああ、そうか。
そうか、これも。

―――これも、愛…なのか……


ACT/16


『どうしたら、貴方を手に入れる事が出来るの?』
―――僕が欲しいなら、本物を見せてくれ。
『どうしたら、貴方に振り向いてもらえるの?』
―――僕に振り向いて欲しかったら、僕のこころまで入ってきてくれ。
『…どうしたら…貴方に愛されるの?…』
―――愛されたかったら…本当に僕を、愛してくれ……

…如月さん……

君の、声。僕を呼ぶ君の声。
少しだけ戸惑いながら、それでも僕を見つめてくれた瞳。
本物の君を、見せてくれた瞳。
君の手のひらが、僕のこころに触れる。
君の愛が、僕の魂に触れる。
君だけが。君だけが気付いてくれた。
君だけが。君だけが見付けてくれた。
―――君だけが僕に、辿りついた。

…僕の深い空洞に、君だけが辿り着いたんだ……


約束を、しよう。
たったひとつだけ、君と。
君と約束をしよう。

ただ独りの、君に。


身体中に降り注ぐ生暖かい液体が血だと気付いたのは、随分後になってからだった。そして。そして僕の廻りに重なり合う死体の山。さっきまで僕を犯し続けていた男たち。
その男たちは、今は冷たい屍と成り果てている。吹き出した血は、身体にこびり付いた血は、まだ。まだ暖かいのに……。

「……如月…さ…ん……」

もうほとんど声を出す事は出来なかった。終わる事なく責め続けられた身体。そして何度も何度もこの口から零れさせられた悲鳴。それが僕の声帯を機能させてはくれなかった。それでも。それでも、僕は。

「…きさ…らぎ…さん……」

僕は貴方の名前を呼ぶ。それしか言葉を知らないとでも言うように。知らなくて、いい。僕は。僕は貴方だけを知っていればいい。貴方の存在だけを。

――如月さん、如月さん……

どうしてこんなにも。どうしてこんなにも?
こんなにも、こんなにも、貴方が好き?
こんなにも、こんなにも、貴方を愛しているの?
もう僕には分からない。どうしてだか分からない。
ただ。ただ貴方が好きで、どうしようもない程好きで。
どうにも出来ない程、好きで。
胸に広がる甘くて苦しい痛み。
こころに広がる優しく切ない想い。
その全てが。その全てが。
貴方だけが僕にくれたもの。

―――貴方だけが僕に、与えてくれたもの……

ああ、どうして。
どうして僕は。
こんなにも貴方を求めてしまうのか?
誰よりも護りたい人。
誰よりも穢したくない人。
誰よりも綺麗な人。
誰よりも光の中にいる人。
それなのに。それなのに僕は。

―――貴方を闇に堕としてまで…そばにいたいと思ってしまうの?……


「ハハハハハ、死ね。死ね、お前なんて死んでしまえ」
如月さんの首を締めながら笑うあの人の顔が母親と重なる。僕を殴り続けた母親と。そこにあるのは、狂気。そして壊れたこころ。
「死ね、死ね、死ね。お前なんてお前なんて」
それと対照的に如月さんの表情は冷静だった。まるで氷のような冷たさで、そして刃物のような鋭さで。それは僕が。僕が初めて見た如月さんの顔、だった。
「その程度の力で僕の首は、折れはしない」
そして。そしてその表情よりも、もっと。もっと深く冷たく尖った声。僕の知らないひとがそこにはいる。
だけど。だけどそれも『如月さん』だから。僕が愛したひとだから。だから。だからどんな表情でも、どんな顔でも貴方を見ていたい。
「ハハハハハ、死ね死ね。娘と同じ場所まで堕としてやる」
ぽたりと、音がした。如月さんの額から零れた血が、床に落ちた音だった。僕が、傷つけた。僕の為に、傷ついてしまった。僕が貴方を傷つけてしまった。
「堕ちる?笑わせる。そんなものはとっくに僕は堕ちているのさ。貴様の娘なんて比べ物にならない深い場所へと」

「――僕は、堕ちているんだよ」

貴方の手がしなやかに伸びて、そして。そして静かに落ちた刀を拾う。そしてそのまま。
―――そのまま館長の首筋に突き当てた。
「そのまま力を込めて、僕の首を折ってみるかい?でもその前にこの刀が貴様の首を貫くよ」
「娘と同じ場所へ…同じ場所になんていかせるものかっ!」
「貴様だけは、許さないよ。僕は絶対に、許さないよ」
「人殺しっ!俺の娘を殺した人殺しっ!!」
「幾らでも言うがいい。なじるがいい。構わないさ、僕にとってそんな事は本当にどうでもいいんだ。どうでもいい事なんだよ」

「僕にとって紅葉以外のものは」


綺麗だ。怖い程に綺麗だ。
悪魔が俺の目の前にいやがる。
何よりも綺麗で、残酷な悪魔が。
今、俺の目の前に。
目の前で、笑っていやがる。
こいつは。
こいつは一体何者なんだ?
人間の皮を被った悪魔か?
それにしては、随分と綺麗だな。
綺麗過ぎて、怖いよ。
―――怖い?……
そんな言葉は俺にはなかったはずだ。
俺は絶対だ。絶対の力を持ってして。
そして。そして全てを支配して。
俺は絶対の筈だ。絶対の支配者の筈だ。
恐れるものなど、怖いものなど何もない筈だ。
何も、何も、ない筈だ。

―――何も怖いものなんて、ない筈だ。

「…死ね…お前なんて……」
ならば何故俺の手は、こんなにも震えている?
「…お前なんて…お前なんて……」
ならば何故俺は、こんなにも汗を掻いている?
「…お前…なん…て……」
何で、こんなにも俺は怯えている?


「貴様は僕には永遠に勝てないよ。護るべき者の強さを知らない貴様には」


―――護るべきものの強さ?
そんなもの。そんなもの必要ない。
護るべきものがあればそれだけ。それだけ弱点が増えるだけだ。
それだけ弱みが増えるだけだ。
強くある為に。強くある為には弱みなんて持っていてはいけない。
不必要な弱さは切り捨てるべきだ。それなのに。
それなのに。どうして。
どうして俺は…俺は…お前に勝てない?

―――ひとを愛する事は、私を強くしてそして弱くするの。

愛は弱さだ。弱さだ。
ただひとりの人間に縛られて身動きが取れなくなって。そして。
そして、そして不安に怯える。愛に、怯える。
愛は強さだ。強さだ。
ただひとりの人間を思う気持ちが不可能を可能にする。そして。
そして、そして満たされる。愛に、満たされる。

―――愛とは、諸刃の剣だ……

ああ、今。
今分かったよ。
俺がお前に勝てない訳が。
分かったよ、今。
俺は愛に捕らわれている。
娘への想いに捕らわれている。
もう戻らないそれに捕らわれている。
過去に、捕らわれている。
だけど。
だけどお前の捕らえているものは。
捕らえているものは未来だ。
生きようとしている未来だ。
れから先をふたりで生きようとしている。
過去に捕らわれた俺と、未来を見ているお前では。

はなっから…俺に勝ち目はなったのか?


「それでも、俺は。俺はこんな生き方しか知らないんだ」
こうやって。こうやって生きてゆく事しか。
愛を切り捨て、欲のままに生きてゆく事しか。
「だから俺はお前を殺す。俺が正しいと証明する為にも」
もしも俺が間違えと言うのならば。

―――お前の刀が、俺の首を貫くだろう……


「憐れだな。最期まで愛を否定するか…貴様は…それならばそれでいい」
笑う、お前。何よりも綺麗に鮮やかに笑う。それは『死』にもっとも相応しくなく、そしてもっともふさわしい笑み。
「―――さようなら」
そして俺の死神は、ひどく優しい声で最終宣告を告げた……


愛とは、愛とは。
この世でもっとも危うく、そして魅惑的なもの。
これがひとを強くし、そして弱くする。
だけれども。
だけれども愛のないこころは。

砂漠よりも、枯れ果て。
そして、干からびてゆくしかない。


End

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