ACT/17
君の匂いだけが、どうしても思い出せない。
綺麗な死神に魅せられて。
その残酷なまでに綺麗な笑みに。
魅せられ狂わされ。
そして無残に殺される。
そんなくだらない一生を選んだのは。
やっぱり自分がそれだけの『人間』でしかないからなのか?
前だけを見つめている貴方の瞳が。
貴方の瞳が僕に振り返る。
その優しい輝きに。その全てを包んでくれる優しさに。
僕は。僕は。
その瞳を真っ直ぐに見つめ返せる人間になりたい。
―――貴方の愛に、なりたい。
「さようなら」
その一言に俺は目を閉じた。自分でもすんなりとそうした事が不思議だった。けれども俺は迷う事なくその瞳を閉じた。そうすると一層、首静に当たる冷たい刃物の感触が際立った。ひんやりと、お前の瞳のように冷たい感触が。
―――このまま…死ぬ……
死んだならば、娘の所へと行けるのか?穢れきった俺でも。欲望のみに生きた俺でも。逝く事が出来るのだろうか?
そうしたならば。そうしたならば俺は、その時こそは。
…護るべき強さを…手に入れられるだろうか?……
お父さん、ねえお父さん。
大好きなお父さん。優しいお父さん。
私の大切な、お父さん。
―――俺は、優しかったか?お前に優しかったか?
私もお父さんのように強くて優しい人になりたい。
お父さんみたく強い人間になりたい。
―――嘘だ。嘘だ、嘘だ。俺はそんな人間じゃない。幼い子供を自分の欲の為に玩具にした。自分の為に人生を狂わせた。
私も強くなって、どんな事にも負けないようになりたい。
どんな瞬間にも、負けないように。
―――負けているよ。俺は負けたんだ。人生に、敗北したんだ。
ひとは死ぬ間際に今までの人生を振り返ると言う。
振り返った俺の人生は空っぽだった。
そこには何も残りはしなかった。これが。
これが今までの報いで、答えだったのかもしれない。
―――もういい…もう俺は眠る…疲れた……
「そこまでだよ、綺麗な死神くん」
―――けれども。けれどもその刃物は俺の首筋を貫かなかった。
「――貴方は……」
頭上で聞こえてきた声に、俺は無意識に背筋を震わせた。その声は。その声の主は…。
「今君がここでその刀を貫いたら、君は一生拳武館からのお尋ね者だ」
「お尋ね者?構いませんよ。僕はこの男を殺せればそれでいい」
「君程の人間がそんな事を言うのかい?私にはもっと君は賢い人間だと思えるのだが」
俺はそれを確かめる為に目を開いた。そこには。そこには俺の予想と一寸の狂いもない人物が立っていた。―――一寸の狂いもない……
「恋する男は馬鹿なんですよ」
「なる程…さしずめ彼は捕らわれのお姫様と言う所か」
そう言って紅葉を見つめる瞳はやはり俺の予想通り、穏やかでそして鋭かった。けれども俺はそれ以上その瞳を見ることは叶わなかった。ゆっくりとその視線は紅葉から俺へと移動し、そして。
―――そして一瞬の衝撃と同時に、俺は意識を失った……。
「捕らわれの姫を助けに来た王子様ならば、死神になんてなるモノじゃない。そのままお姫様と手に手を取って逃げるがいい」
隙が、なかった。目の前の男は気配も殺気も何一つ感じさせずに、目の前の男をゴミのように潰した。
「逃げる前にカタを付けるのも、男のケジメだと思いますが」
そして僕の手にある刀をそのまま首筋から外させる。その手には全く力が入っていないようにスムーズな動きだった。
「色男は言うことが違うね。だけど彼が拳武館の『館長』である限り、君は彼を殺すべきではない。君がお姫様を護りたいと思うなら尚更だ」
白目を向いて倒れている男の息だけは、ある。まだこいつは死んではいない。―――そう簡単に死なれても困るが…僕がこの手で殺すのだから。
「どう言う意味ですか?」
「簡単だよ。私をも敵に廻すことになるからだ。君独りならば私に勝てるかもしれない。けれどもあのお姫様にはムリだろう。彼が拳武館側の人間である限り、上司への裏切りは『死』しかない」
その言葉遣いはあくまで穏やかで、そして。そして淡々と事実だけを述べている。それが。それが逆に彼の強さを感じさせられた。逆らうべき者ではない、と。
「―――確かに…貴方は敵に廻したくはない」
「自分の強さを分かっている事もまた強さだ。君にはそれがある。だから分かるだろう?君が彼を選ぶつもりならば、私達を敵に廻してはいけない」
―――敵に廻すべきでは、ないと。
「それでもこの男を僕は許せない」
「ならばこうしよう。私が必ず君にこの男を殺す機会を与えよう。だからそれまで君はそのお姫様を連れて逃げるんだ」
「それはどう言う事だ?」
「簡単だよ。彼を殺して問題があるのは彼が拳武館の『館長』だからだ。だからそれをなくせばいい」
「―――なくす?」
「…そうだ…これから…」
「私が拳武館の『館長』になろう」
「それまで君達は逃げるがいい。私が必ずこの拳武館を手に入れる。そうしたらこの男を野に離してやろう。そうすれば必ず君達を追い掛けるからね。そうしたら君は好きなだけ彼を殺すがいい。その先は私には『拳武館』には関係のないものになる」
「―――貴方には出来ると言うのですか?」
「何をだい?」
「拳武館をその手に入れる事です」
「出来ないと君は思うかい?」
「…いいえ…」
「貴方なら…出来るでしょうね……」
「やはり君は敵には廻したくないね」
「――僕もですよ」
「そう言えば名前を聞いていなかった。私は鳴滝冬吾と言う、君は?」
「如月翡翠です」
「如月家の跡取か…噂には聞いているよ。そうか君が四神の一人か…ならば尚更敵にする訳にはいかない」
「どう言う意味ですか?」
「…いや…言葉通りだよ……」
「―――言葉、通りだよ」
「それよりも」
相変わらずの穏やかな笑みで鳴滝は言った。不思議な捕らえがたいこの雰囲気は一体何処から来るものだろうか?
「君のお姫様を助けなくてもいいのかい?」
その言葉に振り返った先に、君はひとつ笑った。もう声にする気力もないのだろう。それでも君は、僕の為に笑ってくれる。
「―――紅葉……」
安心させたくて名前を呼んで。けれども僕は堪らずに。堪らずに君に駆け寄った。今この瞬間に僕は全ての事を忘れた。今目の前にいる男の事も。これから先の事も。踏み潰された男の事も。何もかもを忘れて。忘れて、君の傍に駆け寄った。
「紅葉、大丈夫かい?」
言いたい事はやまほどあった筈なのに出てきた言葉はこんなありきたりな言葉だった。それでも。それでも僕は言わずにはいられなくて。
「…大丈夫…です…貴方の事を…考えていたから……」
散らばる死体の中から鍵を捜し出すと、手足に繋がれていた鎖を解いてやる。その瞬間、崩れるようにその身体が僕の腕の中に落ちてくる。
その身体がひどくやつれているように見えて、僕はひどく切なくなった。
「…紅葉…すまなかった…」
「…どうして…貴方が…謝るの?僕が…貴方に謝らなければならないのに…」
それ以上の言葉を君に言わせる前に、僕は。僕はその唇をそっと塞いだ。塞いで、そして君の言葉を閉じ込める。
「君は謝らないでくれ。これは僕の無力さが起こした事なのだから…だから、謝らないでくれ…」
「…如月さん……」
「―――帰ろう、紅葉」
「僕達の家へ、帰ろう」
貴方の言葉に。僕は迷う事なく頷いた。
貴方には言わなければならない事も謝らなければならない事も、たくさんあるのに。今は。今は何もかもを忘れて。何もかもを忘れて頷いた。
―――帰り、たい……
ただその想いだけが支配して。ただその想いだけが。貴方と一緒に。貴方と一緒にあの優しい空間へと。
「くーも君を待っているから」
貴方の腕がそっと僕を抱き上げる。一人で歩けます…そう言っても貴方はその腕から僕を降ろさなかった。僕を、離さなかった。
「見せつけてくれるね」
後ろから聞こえてきた声に、僕と如月さんは振り返る。そこには『鳴滝さん』が笑いながら立っていた。
「君が壬生紅葉か…暗殺者にしては瞳が純粋過ぎるね」
「――僕を…知っているのですか?……」
「知っているよ、私は君の魂の双子を知っている」
「…魂の…双子?…」
「まあいい。今は分からなくてもいい。いずれ分かる日が来る。その時までに私がここの『館長』になって、その時は」
「その時は君を呼び寄せるよ」
その言葉の意味が分かった時には。
僕はもう一度。
もう一度、貴方と巡り合う為に。
―――拳武館の暗殺者になっていた……
ACT/18
死ぬ事すらも、許されない命。
なんの為に生まれてきた?
――自分自身の為に。
なんの為に生きてきた?
――自分の欲望を満たす為に。
なんの為に、生きている?
――生きている…なんの為に?…自分の為に?……
ならばこれから先、殺されるために生きろ。
「子供は羨ましいね…そう思わないか?」
頭上から降り注ぐ声に、俺はやっとの思いで目を開いた。――鳴滝冬吾……俺にとって一番会いたくなかった人間。
「…何故…俺を…助けた?……」
「子供には大人にはない強さがある。全てを信じられる強さだ。そして時にそれは我々の想像もしえない力を生み出す事がある。あの彼は…飛水流の末裔の彼は、その子供特有の強さと、そして我々にしか持ちえない大人の冷静さを兼ねそろえている…末恐ろしいものだね」
「…何故…俺を……」
「彼は強くなるよ、これからもっとね。何時しか私を超えるほどになるだろう。実に楽しみだよ」
「…何故だ…鳴滝……」
「しかし…もう一人の黄龍を選ぶとは…運命とはなんと皮肉なものか」
「…何を…言っているんだ?…お前は…」
その言葉にやっと。やっとお前は振り返った。何処までも穏やかで、そして虚無な瞳を俺に向ける。俺はこの瞳が嫌いだった。
―――全てを見透かし、そして拒絶している瞳が。
「君みたいなザコにはどうでもいい事だ。人にはそれぞれ役割がある。ちょっと君はその役割には今まで分不相応だったみたいだね」
「…鳴滝……」
「君はこれから死ぬために生かされるんだ」
口許だけで笑うお前。そんなお前が嫌いだった。だから俺は。俺はお前を出し抜いた。お前に拳武館への裏切りの烙印を押して…押してそして『館長』の座を奪った。
「彼に殺される為だけに生かされるんだ」
お前の存在が疎ましかったから。俺は自分の欲求を満たす為ならばなんでもした。だからお前を。お前を拳武館から追い出した。
「…俺を…恨んでいるのか?…」
「恨む?まさか…君なんて申し訳ないけど私の視野にすら入らない。それだけの価値しか君という人間には見出せなかった。それだけさ。それに、拳武館から自由になったお蔭で私は、探し物を見つけられる事が出来た」
「…探し物?……」
「そうだ、ずっと捜していた…弦麻の息子をね……」
「――え?」
「君にはどうでもいい事だ。君はこれから先の人生を彼に殺される為に生きるんだよ」
またお前はひとつ、笑った。その笑みに全ての記憶が、奪われてゆく。全てが、奪われてゆく。――全てが、奪われてゆく……。
「どうせそのくらいの価値しか、君にはないんだよ」
脳裏に声が響く。それはじわじわと浸透する狂気。
「君にはそれしか価値がないんだ」
こめかみを擦り抜け。脳天を貫き。頭を掻き毟りたくなる衝動。
「――追い掛けろ。彼を追い掛けて、そして」
…悲鳴を上げたくなる…正気……
「そして無残に殺されるがいい」
―――全てを、奪われる…狂気……
「アハハハハハハハハハハっ!!!!!!」
笑った、声を上げて笑った。
ああ、おかしい。おかしい。
もう何もかもがおかしい。
そうだ、そうだ。そうだ。
俺は生きる価値なんてない。
死ぬ価値すらもない。
ただのちっぽけな小者。
目に止まることもない小者。
ハハハハハハハハ。
そうさ、そうさ。
俺は所詮『ザコ』でしかないんだ。
「あはははははははははは……」
「狂ったか?たわいもない」
私を蹴落として手に入れた拳武館の館長の座。そこまでして手に入れたものの末路がこれだとはな…分不相応だったみたいだね。本当に。
「まあいい。君は殺す価値すらない人間だ。それなのに彼に殺してもらえるなんて…身に余るほどの光栄だろう」
あの綺麗な顔を見つめながら死にたいと思う人間などきっと山のように現われるだろうに。
「最期の最期で幸運を手に入れた…案外つまらない人生ではないかもしれないよ」
―――つまらない人生ではないかも、しれないよ。
言いたい事は。
言葉にしたい事は。
伝えたい事は。
たくさん、たくさんあるのに。
抱え切れないほどたくさん。
けれども。
けれども、今は。
今は、ただ。
ただこうして。
こうして貴方がそばにいてくれるだけで。
それだけで僕は、それ以上の言葉を伝える事が出来ない。
胸に溢れすぎた想いは。
零れてそして流れてゆく想いは。
いくら言葉にしても、届かない。
想いが強過ぎて、言葉では追いつけない。
幾ら追い掛けても。
想いがただ。ただ溢れるから。
―――貴方が好きだと言う、想いが……
首筋に腕を、絡めた。
「やっと素直になったね」
離したくなくて、必死でしがみ付いた。
「…だって……」
離したく、ない。貴方を。貴方を。
「…僕は……」
顔を上げて貴方を見つめれば、そこにあるのは優しい瞳。ただただ、優しい瞳。
「――うん、紅葉」
「…貴方が…好きだから……」
「うん、分かっているよ」
僕を抱かえている腕の力が強くなって。そして。
そして僕はきつく、抱きしめられた。
「このまま」
「…如月さん?……」
「このまま君を抱いて帰ってもいいかい?」
「…けれど如月さん…重いですよ…それに…」
「ん?」
「…それに貴方の傷……」
「――貴方の、傷……」
指を伸ばしてそっと触れた。
綺麗な貴方の顔にばっさりと付いた傷跡。
僕が付けた、傷。
僕のせいで付いた、傷。
綺麗な貴方の、顔に。
「君の受けた痛みに比べたらこんなものなんでもない。だから、紅葉」
「…如月…さん……」
「泣かないで」
そっと貴方の舌が、僕の涙に触れる。
暖かいと、思った。あたたかい、と。
貴方の暖かさに包まれて、そして。
――そして、僕は……
「…ごめんなさい…如月さん…」
「謝らなくていい。君は何も悪くない」
「…ごめんなさい……」
「謝らないで、紅葉」
「…でも……」
「今は、こうしていよう」
「…如月…さん?…」
「こうやって」
「今は君を感じていたいんだ」
腕の中にある暖かさを。
腕の中で震える命を。
今は。今は感じていたい。
君を、感じていたい。
君の優しさを、君の暖かさを。
君の全てを感じていたいから。
―――ただひとり、愛する君だけを。
涙いっぱいの瞳で。
君は精一杯に笑った。
そんな君の額にそっとひとつ唇を落とす。
もう言葉なんていらないのかも、しれない。
言葉なんてもう。
こうしているだけで。
こうしているだけで、伝わるものがあるから。
こうしているだけで、分かるものがあるから。
―――君とこうやって、見つめあうだけで。
……もう何も、いらないから………
「…暖かい……」
「うん?」
「…如月さん…暖かい…」
「君も、だよ」
「…とても…暖かい……」
「…あたた…かい……」
腕の中の君が不意に重くなる。
そのまま疲れて眠ってしまったらしい。
そんな君の子供のような寝顔に。
僕は。僕はひとつ口付けた。
―――君の優しい眠りを、護る為に……
このまま、ずっと。
ずっとふたりでいられるならば。
僕らは何も望まなかった。
僕らは何も欲しくは無かった。
ただ互いの存在が。
ただふたりだけで。
ふたりだけで、いられるならば。
それだけで。
それだけで、よかったから。
―――僕らは他になにも、望みはしなかった……
ACT/19
―――幸せに、なろうね。
もう一度指を絡めて。そして約束した事。
もう一度、約束をした事。
『しあわせに、なろう』
その言葉を胸にだかえて、その言葉を道しるべにして。
僕は生きてゆく。
…生きて…ゆける……
――でも本当は。
本当は幸せになんてなれなくてもいい。
貴方のいない幸せと。貴方のいる不幸ならば。
貴方ではないだれかと幸せになるのと。貴方とともに不幸になるのなら。
僕は迷わずに不幸になる方を選ぶから。
他の誰かと幸せになるよりも、貴方とともに堕ちる方が。
僕にとって本当の『しあわせ』なのだから。
幸せかどうかなんて。
他人が決める事じゃない。
他の人間がどう見ようとも。
僕が幸せだと言ったならば。
それが。
―――それがしあわせ、なのだから。
見ている夢が完成すれば お前に二度とは逢えないだろう。
目覚めた瞬間に僕の瞳に映ったのは貴方の綺麗な寝顔だった。その初めて見た貴方の顔に、僕はひどく戸惑いを憶える。
―――あまりにも、綺麗だったから。
その透明な空間を乱してしまうのを躊躇って。躊躇って。けれども、貴方に触れたくて。そっと。そっと貴方の髪に手を触れた。
さらさらの髪。ひどく指に馴染む髪。触れているだけで、こうして指を絡めるだけで。それだけで僕は、僕は震えてしまう。
―――如月、さん……と名前を口にしようとして、止めた。貴方の長い睫毛がひとつ動いて。そして。そしてそっと、瞳を開いたから……。
「おはよう、紅葉」
その瞬間、貴方は包み込むような優しい笑みを浮かべて。そしてそっと僕の頬に手を重ねた。その大きな手に包まれて。包まれてひどく。ひどく胸が高鳴るのを抑えられない。
「…おはよう…ございます……」
どきどきが見破られてしまわないかと。心臓の音が聞こえてしまわないかと。そんな事を考えてしまって、まともに貴方の顔を見られない。
「どうしたの?」
そんな僕を見透かすように頭上から降り積もる声に、僕はそっと顔を上げて貴方を見つめた。―――やっぱり、胸の高鳴りが止まらない。
「…くす、顔が赤いよ……」
「…あ…これは……」
それ以上どう言おうか僕が戸惑っていると、そっと。そっと貴方の唇が僕の額に落ちてきた。優しい、キスをひとつ。ひとつ貴方は僕にくれた。
「紅葉、身体は大丈夫かい?」
貴方の右手がそっと僕の背中を撫でた。ずっと。ずっと貴方はこうして僕を抱いていてくれたらしい。こうやって僕が安心して眠れたのも、貴方の腕の中にいたから。貴方の腕の中に、いたから。
「大丈夫です…慣れています…」
男達の欲望でべとべとになっていた僕の身体はいつのまにかさっぱりとしていた。引き裂かれた服の代わりに、浴衣を着せられていた。抉られて出血していた個所も手当てをされている。
僕が意識を失ってしまってから全て。全てこのひとが僕の手当てをしてくれたのかと思うと、ひどく恥かしかった。
―――身体中を見られた事が…他の男達が付けた跡でいっぱいの身体を……
今更、と思ったけれども。何を今更と思っていたけど。けれどもやっぱり綺麗な身体で貴方に出逢いたかったと思うのは、僕が子供だからだろうか?
……真っ白なままの僕で、貴方に出逢えたならと………。
「…慣れてなんて…欲しくはないけれどね…」
少しだけ僕を抱いている貴方の手に力が篭もる。そしてそのまま胸に引き寄せられた。
「いや違うな。そんな言葉を君の口から言わせたくないんだ」
「―――如月さん?」
「紅葉、気付いている?」
「…え?…」
「君が今そのセリフを言った時の顔は」
「君と初めて出逢った時の、哀しい顔なんだ」
君に、笑ってほしいから。
君にそんな顔をさせたくないから。
君の孤独を埋めたいから。
だから、僕は。
君の全てを埋めてあげたい。
空っぽだと言う君に。
―――君にその、全てを……。
「僕が護ってあげる」
「…如月さん……」
「全てのものから、僕が。僕が君を護るから。だから」
「…如月…さん……」
「だからもう、どこにも行かないでくれ」
「―――僕の傍から、離れないでくれ……」
なんでもする。
なんでも、出来る。
君の為ならば僕は。
僕はどんな事でもするから。
だから、紅葉。
もう僕の腕からすり抜けてゆかないでくれ。
君が腕の中にいないと言う不安が。
君が僕の傍にいないと言う不安が。
こんなにも大きなものだとは。
こんなにも大きなものだとは、僕自身ですら気付かなかった。
――僕自身ですら気付けない程に、君の存在で僕は埋め尽くされている。
「…独りで、君自身でケリを付けたいと思った気持ちは分かる…けれども…」
君が決めた決断に、僕が口を挟むべきではない事も分かっている。君がそう決めたのならば、僕は。僕がとやかく言う事ではない。けれども。けれども。
「君自身のケジメは、僕のケジメでもあるんだ」
けれども、君をこんな目に合わせてしまった。僕がいながら君を傷つけてしまった。僕があの時強引に君を離さなければ、君の傷はまた抉られる事は無かった。
「君を信じている。どんな時だろうと僕は、君を信じている。だから君がここへ帰ってくると必ず帰って来ると信じていた。けれども」
「…如月さん……」
「けれどもやはり僕は。僕は君をこんな目に合わせたくはないんだ」
君の決意を、君の意思を僕は受け止めてあげたい。けれども。けれどもそれ以上に。君を、君を護りたいから。
「君がこれ以上傷つくのを、僕は見たくない…これは僕のエゴなのかもしれない…それでも、僕は嫌なんだ。僕がいるのに、僕がいるのに君を護れないと言う事実が」
無意識に、君を抱きしめる腕が強くなるのが自分でも分かる。もう二度と。二度と君を離したくはない。
一度君をこの腕に抱きしめてしまった時から、僕はもう戻れないところまで来ていたんだ。
「――僕は…貴方を…貴方を巻き込みたくなかった……」
「…紅葉……」
「綺麗な貴方の手を、穢したくなかったんです」
そう言って、君は泣きそうな瞳で。けれども泣かない瞳で、僕を見つめた。
光の中に生きているひとだから。
きらきらと眩しい光の中に。
だから僕は。僕はそんな貴方を。
そんな貴方の光を護りたかった。
穢れている僕自身からですら。
――貴方の光を、護りたかった……
「…僕は…貴方に相応しい人間になりたかった……」
震えながら君の手が。君の手が僕の傷に触れる。
「…貴方の隣に立てる人間になりたかった……」
額の傷。きっとこの傷は消える事はないだろう。でも、それでいい。
「貴方を巻き込みたくなかった…僕の世界へと…闇しかない世界へと…だから僕は独りでケリを付けたかった…僕自身の力で貴方の隣に立てるように…」
それで、いい。これが君を護り切れなかった僕の罰なのだから。
「…なのに僕は…貴方を傷つけてしまった…貴方の手を…穢してしまった……」
この傷が、君への証。君に捧げた僕の証。そして。
「…貴方を…人殺しにしてしまった………」
―――君を護れなかった僕の戒め。
「これで、君と同じ位置に立てたね」
傷に触れていた手が、何時しか貴方の手のひらに包まれる。優しい、手。暖かい、手。あたたかい、命のシルシ。
「…如月…さん……」
「君と一緒だよ、これで」
そのまま貴方は自らの手ごと唇へと運ぶと、そのままそっと指先に口付けをくれた。まるでそれが誓いだとでも言うように。
「紅葉、君と。君と同じ場所に立っているよ」
「…でもっ……」
「いいんだ、紅葉。君がここまで来る事はない。僕が君の場所まで行くから。だからもう。もう二度と独りで無茶をしないでくれ」
光の、ひと。手を触れるのも、ためらうほどの。眩しい光の中にいるひと。僕には手の届かないひと。そんな貴方が。そんな貴方が自ら手を穢して僕のもとへと降りてきてくれた。
―――僕のそば、へと……
「僕も穢れているんだよ、紅葉。僕は君の為ならば人を殺す事なんてなんでもない。僕は君よりも、ずっと堕ちているんだ」
「…如月さん?……」
「君のように人を殺す事を躊躇う事すらしない。君のように嫌だとも思わない。君の為ならば僕は人を殺す事に痛みすら持たないんだよ」
「君の為ならば、僕は幾らでも人を殺せるんだ」
こころを傷つけながら、それでも暗殺者にしかなれなかった君とは違う。
僕は自ら、自ら望んでこの手を穢した。
なんの躊躇いも痛みも、そこには存在しなかった。
ただ君を傷つけた事だけが許せなくて。
ただそれだけが僕を支配して。
僕はなんの罪悪感もなんの痛みも持たずに。
ただ。ただ無感情にひとを殺した。
そうだよ、僕は残酷な男なんだ。
君以外の人間を人間とも思わない。
―――そう言う人間なんだ、僕は……
「君の為ならば僕は地獄にだって堕ちるよ」
「…如月さん……」
「どこまでも堕ちるよ、紅葉」
「…それならば僕も……」
「…僕も…連れていってください……」
「…紅葉……」
「…もう…自分を…我慢しません…僕は貴方と一緒にいたい…例え貴方を穢してしまっても僕は…僕は…貴方といたい……」
堪えていたもの。もう堪え切れない。溢れて流れてどうにも出来ない。どうにも出来ない想い。
「…貴方をこんな所まで堕としてしまっても…心の中で喜んでいる僕がいるんです…貴方が、貴方が僕の傍まで来てくれて…僕の所まで辿り着いてくれて喜んでいる僕が…」
貴方を巻き込んでしまっても。貴方をこんな目に合わせてしまっても。それでも。それでも僕の心は。僕の気持ちは。
「…僕は…貴方が…欲しいんです…全部…欲しいんです……」
そう言って僕は。僕は自分から貴方へと口付けた。その身体が、その手が震えている事は抱きしめている貴方が一番分かっているだろう。ううん、貴方だけが分かっていればそれでいいから。
―――貴方だけが僕のことを、分かってくれれば……
貴方の抱きしめる腕の力が強くなる。
僕はその力強さにどうしようもない程の幸福感を感じながら。
感じながら、唇を離して。そして。
そしてそっと、目を伏せた。
ACT/20
君の瞼に星が落ちてくる。
綺麗、だね。
その星をそっと。そっと指で掬って。
君の瞳に口付けた。
―――貴方に出逢えて、よかった。
笑いあって。
瞳を見つめ合いながら。
そう言えたら。
そう言えたならば。
…もう何も、怖くはない……
「――このまま……」
震える君の瞼にひとつ唇を落とした。腕の中に暖かいその身体を感じながら。
「…このまま…紅葉……」
暖かい君の体温を、感じながら。
「君を抱いてしまったら」
「…如月さん……」
「駄目だ、やっぱり。傷ついている君の身体に負担は掛けられない」
その身体に付けられたたくさんの跡。それは愛撫によるものだけじゃない。煙草の跡も、殴られた痣も、沢山付けられている。そして。そして何よりも。
「…僕は…大丈夫です……」
何度も抉られ出血している箇所が、君にこれ以上の負担を掛けさせられない。まだ傷口は完全に塞がってはいないのだから。
「…紅葉…」
君の身体がどれほどぼろぼろなのかは、僕が一番分かっている。傷ついた君の身体を手当てした時に、僕はその酷さに胸が締め付けられそうになって。そして。そして自分の無力さにどうしようもない程のもどかしさを感じて。
「…大丈夫です…如月さん…だから……」
「駄目だよ、紅葉。僕は自分を抑えられないだろう。君を抱いたら、きっと。きっと優しくなんて出来はしない。君を優しく抱いてあげる事が出来ない…君が、欲しいから……」
きっと僕は自分を抑える事が出来ない。君の傷口を抉ってそして。そして君を求めてしまう。
「…構わないです…僕も…欲しいんです…貴方が……」
「―――紅葉……」
「貴方にだったら…壊されても…いいです……」
「…ううん…壊して…ください……」
今まで僕は。
僕は、セックスはただの暴力としてしか認識していなかった。
僕を支配する為の。僕を征服する為だけの。
ただそれだけの為の儀式でしか。
だから。
だから僕は、知りたい。
―――身体を重ねる事の本当の意味を……
貴方に教えてほしい。
貴方以外教えてほしくない。
貴方以外から知りたくなんてない。
本当の意味を。
本当のことを、僕は。
僕は知りたいから。
「それとも如月さんは」
「――紅葉?」
「…他人の慰み者だったこの身体じゃ…いやですか?…」
「そんな事はない。そんな事は関係がない」
「だったら如月さん…抱いてください…」
「…紅葉……」
「…これ以上…僕を…独りにしないでください……」
君のその言葉に。
その言葉に、僕は。
―――もう自分を抑える事は…出来なかった……
ひどく自分が緊張しているのが、分かった。
「…紅葉……」
初めて他人を抱いた時でも緊張すらした事がなかったのに。君に。君に触れるというだけで。それだけで、僕は。
「…如月さん……」
そっと君の瞼に口付けながら、着せていた浴衣の帯を解いていった。前をはだけさせ、その白い肌を光の下にさらす。
「…あんまり見ないでください…痣だらけ…だから……」
瞼から唇を離すと、少しだけ潤んだ瞳で君はそう言った。そんな君にそっとひとつ笑いながら僕はもう一度唇を瞼へと落とした。
「どうして?綺麗だよ、紅葉」
白い肌に散らばる跡ですら、君にとっての一部分ならば。僕はそれすら愛してあげたいから。
「――綺麗だよ、紅葉」
何時しか僕の指で、僕の舌でこの傷を癒せたならば。君を、癒せたならば。
「…如月さん……」
そっと指先でその痣に触れた。その途端ぴくんっと腕の中の身体が跳ねる。それだけで。それだけでどうしようもない程の愛しさが込み上げて来る。
「こんなに変色している…痛くないかい?」
「…平気です…だって…触れているのは貴方の指だから……」
その言葉に答えるように僕はそっと。そっとその痣を辿る。身体中に散らばった紫色に変色している箇所をひとつひとつこの指で。
―――癒して、あげたい。君の傷を、癒してあげたい……
「身体の傷は時間が経てば癒えるけれど、心の傷は…どうしたら癒せるだろうか?」
「…如月さんが傍にいてくれれば…」
「…紅葉…それだけで、いいの?」
「それだけで、充分です。貴方が僕の傍にいてくれれば…それだけで僕は…」
「……紅葉………」
「…貴方が傍にいてくれるなら…僕は何も望みません……」
君の腕が僕の背中に廻り、そのままきつく抱きついてきた。細い腕。がりがりに痩せている腕。それが。それが今までの君の生活を現しているようで、僕には哀しい。
「…僕もだよ…紅葉…」
「――僕も君が…この腕の中にいてくれれば…それでいい……」
そっと唇でその痣に触れた。
指と舌で、その跡に。
ひとつ、ひとつ。
余す箇所なく全て。
全ての君の傷に触れる。
少しでも君を癒せたならばと。
癒すことが出来たならばと。
それだけを、思って。
それだけを、願って。
―――君の全てに、キスの雨を降らせた。
全ての傷口に触れた後、僕はそっと胸の果実に指を這わした。
「…あっ……」
その瞬間に君の口から甘い吐息が零れ落ちる。その声を掬い上げるように僕は、胸の突起を指先で摘み上げた。
「…はあっ……」
指の腹で転がすと、それはたちまちぴんっと痛い程に張り詰めた。快楽に慣らされた身体はひどく敏感に出来ているのだろう。それでも。それでもそんな反応を返す君が愛しかった。
「…紅葉……」
「…あん…」
右の突起を指で弄りながら、もう一方を口に含んだ。ぷくりと立ち上がった小さなソレに軽く歯を立てる。それだけで腕の中の身体が波立つ。
「…はぁ…あ……」
舌先で転がしてから、きつく吸い上げた。それだけで零れる君の甘い声に、僕は君を早く手に入れたくて性急に愛撫を進めてしまう。
―――もっと優しくして、あげたいのに。
優しく抱いてあげたいのに。ゆっくりと君の身体を手に入れたいのに。それなのに。それなのに君を欲しいと言う欲望の方が勝ってしまう。君を手に入れたいと言う欲望が。
「…如月…さん……」
君の指が僕の髪に絡まる。そしてくしゃりとひとつ、掻き乱した。僕はそれを合図に唇をそこから外さずに、そのまま指先だけを下へと移動させる。
はだけた浴衣は、何時しか君の腕からずり落ちていた。君を覆うものは何もなくなっていた。僕はそのままゆっくりと君の足に手を滑らせる。
「…あっ……」
わざと肝心な箇所に触れずに、太股を撫でた。それだけで敏感な身体は面白いように反応を返す。ぴくんっと身体が跳ねる。
「紅葉、足開いて」
その言葉におずおずと足が開かれる。僕はそれを確認して、そっと紅葉自身に指を絡めた。
「…ああっ……」
そこは僕の指を待ち構えていたように、どくどくと脈を打ち始めている。手のひらで包み込むと、それは形を変化させ始めた。
「…あっ…あぁ……」
指先で形を辿りながら、先端の割れ目に爪を軽く立てた。それだけで、そこからとろりと、先走りの雫が零れて来る。
「――紅葉のココは、可愛いね」
そっと息を吹き掛けるように囁くと、君の顔がかあっと朱に染まる。それが愛しくて、どうしようもない程に愛しくて。そして、愛している。
「…如月…さん…そんな事…言わないでください……」
「どうして?」
「…は、恥かしい…です……」
真っ赤になったまま目を閉じて俯いてしまう君。そんな君の髪にひとつ、口付ける。そしてそのまま空いている方の手で、僕の方へと顔を向けさせて。
「恥かしがる君も、好きだよ」
と言って拒まない唇に、自らの唇を重ねた。
貴方の指先が触れるだけで。
触れるだけで火傷したように熱くなる。
貴方の唇が触れるだけで。
触れるだけで身体がどうしようもない程に震える。
今まで色んな人達が僕の身体を抱いてきた。
色々な男達が僕の身体を犯してきた。
けれども。けれどもこんな風になった事なんて一度もない。
こんな触れられただけで、熱くなるなんて。
こんな触れられただけで、震えるなんて。
何時も、何時もただ過ぎ去るのを待っていた。
自分の身体の中に欲望が吐き出されて終わるのを。
それだけをただ待っていた。
早く逃れたくて、早く終わらせて欲しくて。
それだけを思っていた。でも。
でも今は。今は、もっと。
もっと貴方に、触れていて欲しい。
―――もっと貴方に、触れられたい……
「…んっ…ふぅ……」
もっと、舌を絡めて。
「…はぁ…ん…」
もっと身体を絡めて。
「…紅葉……」
もっと、もっと。
「…きさら…ぎ…さん……」
もっともっと貴方と混じりあいたい。
―――もっと、貴方と繋がりたい……
「―――っ!」
僕を包んでいた貴方の手に強く扱かれて。
僕はその手のひらに自らの欲望を吐き出した。
End