ACT/21
貴方とひとつに、なりたい。
貴方と混じりあいたい。
何もかもを、全て。
独りだと、淋しいから。
独りだと、足りないから。
だからこうして。
こうして貴方とひとつに、なりたい。
―――絡めた指先を、離したくない……
何故独りだったのか。
何故独りでいたのか。
それは貴方に出逢う為だと。
貴方と巡り合う為だと。
そう迷う事なく言えるように。
僕の片翼が貴方の背中に生えていると。
そう、言うことが出来るように。
そう信じられるように。
貴方の翼に、触れたい。貴方のこころに、触れたい。
ただひとつだけ、僕が見つけた。
ただひとつだけ、僕が気付いた。
この真実に。
―――ただひとつだけの、真実に……。
「…如月…さん……」
快楽のせいで上手く言えない声で、それでも僕の名前を君は呼んでくれた。夜に濡れ始めた瞳で。
「何、紅葉?」
「…手……」
そう言うと君は僕の手を自らの指先で掴むと、そのままそっと唇へと運んだ。そして僕の手のひらにこびり付いた精液を舌で舐める。
「…貴方の手…汚してしまいました……」
舌で指を舐める仕草ですら、僕には扇情的だった。それは君がそう言う風に仕込まれていたせいなのか?それとも。それとも……。
「紅葉、いいよ…そんな事をしなくても。君のモノで僕が汚れたなんて思うものは何もないんだから」
「…如月さん……」
それでも君は、僕の手を離さなかった。舌で舐めるのは止めても、絡み合った手は離さなかった。
「―――貴方にもって早く出会いたかったなんて…我が侭ですか?」
「ううん、どうして?」
僕はそのまま、絡み合ったまま。そっと。そっと君の手を包み込んだ。本当は手だけではなく、君の全てを包み込めればいいのにとそう思いながら。
「…女の子みたいで…情け無いですけど…僕…」
「うん」
「…初めてのひとが貴方だったら…いいな…なんて…そんな事、考えてしまいました……女の子みたいだって…笑いますか?…」
「ううん、笑わないよ」
「本当ですか?」
「うん、笑ったりしないよ。僕も」
汗でべとついた額に唇をひとつ落とした。労わるように、優しく。優しさだけを込めて。
「もっと君と早く出逢えたらと…そう思った……」
君が館長の餌食になる前に。君が孤独になる前に。君が。君が独りで泣く前に。けれどももしも。もしも君がこんな運命を辿らなかったならば。辿らなかったならば、僕らは出逢うことはなかったのだろうか?
もしも君が孤独で、そして僕が独りではなかったならば。そうだったならば僕らは。
「そうしたらこんなにも君をぼろぼろにはしなかった」
―――それでも、僕は必ず君を捜し出すだろう。
「如月さん」
どんな姿であろうとも、僕の半身は。僕を埋めるのは君だけだ。君以外誰も、誰も僕を埋める事も僕の片翼になる事もできない。君以外、誰も。
「君ともっと早く出逢えていたならば」
だから僕は絶対に、君を見逃したりはしない。君だけは。
「…如月さん……」
君の手首に舌を這わした。無数の傷跡が残るそこを。何度も切った手首の傷を。そして。そしてそこに新しい傷を発見する。注射針の跡を。
「――紅葉、この傷は?」
「…館長に…薬を打たれました…多分麻薬だと思います…」
「麻薬って…紅葉……」
「大丈夫です。死なないだけの量でしたから。それに、もしもそれで僕が駄目になったとしても」
「…駄目になったら…貴方が僕を…殺してください……」
君の、睫毛が揺れる。
それは何処かに見え隠れする怯え。
繋がっている手も。
微かに震えているのが、僕には分かるから。
「そんな事、僕が出来るわけないだろう?」
「…でも…もしも狂ってしまったら…貴方に迷惑がかかります…」
「迷惑だなんて、思わない。それに、紅葉」
「一緒に幸せになるんだ」
駄目だよ、紅葉。
独りでなんてもう。
君以外の誰かでなんて。
幸せになれない。
他の誰かじゃ駄目なんだ。
君でなければ駄目なんだ。
ふたりでなければ。
―――ふたりでなければ、駄目なんだ……
「僕と、君で。しあわせになろう」
「…如月さん……」
「今までの分を…ふたりで取り返そう」
「…きさらぎ…さ…ん……」
「ね、紅葉」
「…は…い……」
「…はい…如月さん……」
頬から零れ落ちる涙を、貴方はそっと拭ってくれた。
変なの…僕は何時からこんなにも泣き虫になってしまったのだろうか?
今まであれだけの目にあって来たのに涙ひとつ零さなかったのに。
どうして。どうして貴方と出逢ってから。
僕はこんなにも涙を零してしまうのか。
どうしてこんなにも、涙が溢れてくるのか。
「もう大丈夫かい?」
零れてしまった涙を貴方の手のひらは全て受け止めてくれた。そして。そしてそっとひとつ、微笑う。その顔に僕は小さく頷いた。
「じゃあこのままもう一度眠ろうか?」
「――え?」
「君の可愛い泣き顔も見られたし、僕は満足だよ」
「…だ、駄目です…だって如月さん…まだ……」
触れ合っている身体から、貴方の熱いモノを感じているのに。貴方のソレが僕を求めてくれているのに。
「いいよ、僕は。こうして君を抱きしめているだけで」
優しい、貴方。優し過ぎる、貴方。僕の身体を何よりも気を使ってくれて。自分の事よりも、何よりも僕を。僕を、大切にしてくれて。
けれども、如月さん。如月、さん。僕だって何よりも貴方が大切なんです。他の誰よりも貴方が大切なんです。だから。だから貴方が僕を求めてくれるならば、僕は貴方に答えたい。――答え、たいから。
「…駄目です…如月さん……」
僕は意を決して絡めていた指をそのまま、貴方の手ごと僕の最奥へと導いた。
「―――紅葉、駄目だ。まだ君の傷は癒えていない」
「…くっ…」
けれども僕は如月さんの言葉を振り切るようにそのまま貴方の指を僕の中に埋めた。そこは貴方の指を待ち構えていたように、ひくひくと切なげに蠢く。
「…はぁ…ん…如月さん……」
「…紅葉……」
「…こんなに…こんなに…僕は貴方を…求めているんです…」
まだ躊躇っている貴方の指に僕は自ら奥へと埋めた。そして痛いほどに貴方の指を締め付ける。
「―――本当に、いいのか?」
「…今更聴かないでください…僕の身体とこころは…貴方だけのものです…」
その言葉に、貴方の指は。もう躊躇うことはなかった。
「もう、止まらないよ…紅葉……」
その言葉に君は小さく頷いた。そんな君の髪をそっと撫でながら、僕はゆっくりと中にある指を動かし始めた。
「…は…あ…んっ……」
蕾を解すように中を掻き乱す。その度にぎゅっと君の内壁は僕の指を締め付けてきた。
何度も男達に犯されてきた身体なのに、君の中は初めてのように狭くて。こんなにも僕の指を締め付けてきて。
「…あっ……」
慣れてきた頃を見計らって、中に侵入させた指の数を増やす。そうしてやってそれぞれの指を勝手気ままに動かしてやる。その度にぴくぴくと君の身体が跳ねた。そして。そして何時しか果てた筈の君自身が再び形を変化させる。
「…後ろだけで…こんなになってるよ、紅葉…」
指を君の中に入れたままで、空いている方の手でそれをそっと撫でてやる。すると君は堪え切れずにシーツをぎゅっと握り締めた。
「…あぁ…ん…如月…さん……」
「―――可愛いね、紅葉」
そっと僕は君自身から手を離して。そして。そして、君から指を引き抜いて。
「…如月…さ…ん…」
「シーツなんて握らないで。背中に手を、廻して」
きつく握られた指をひとつひとつ外して、僕の背中に廻させる。そしてそのまま、君を抱きしめた。そして。
「…紅葉…いいかい?……」
そっと耳に囁いた言葉に。君は。君は小さく、頷いた。
貴方とひとつに、なりたい。
身もこころも、全部。
全部ひとつになりたい。
何もかもを貴方と。
貴方と、分け合いたい。
何もかもを、全て。全て貴方と。
――――貴方と一緒に、いたいから………
ACT/22
見つめあった、瞳の先が。
同じものを映していたならば。
ただひとつのものを。
互いの瞳が映していたならば。
人は自らの半身を捜す為に生まれてきた。
だから何時も何処か足りなくて、何かを求めている。
だれかを愛したいと、愛されたいと思っている。
独りでは完成出来ないから。
独りでは、埋められないから。
空っぽの足りない部分は。
貴方の背中の翼が。
その翼が全ての答えだから。
片翼の天使。互いの背中にはえた翼が、あの空へと導いてくれるだろう。
空を、飛べたならば。
あの蒼い空を自由に飛べたならば。
互いを縛り付ける無数の鎖を解いて。
真っ白になって。透明になって。
互いの羽根だけを頼りに。
あの空を、飛べたならば。
―――空を、飛べたならば……
「…紅葉……」
貴方の声に僕はそっと目を閉じた。そしてその声を合図に、僕は背中に廻した腕に力を込めた。必死で、貴方の背中にしがみ付いた。
「…あ……」
足を開かれて、僕の入り口に硬いモノが当たる。それだけで僕は身体の芯がかあっと熱くなった。どくんどくんと脈打つソレが。ソレがこんなにも僕を求めていてくれる事に。
「…如月さん…大丈夫だから…だから…来て……」
「――ああ、紅葉……」
貴方が僕の腰を抱き上げると、そのままゆっくりと僕の中に侵入してきた。――ズズズ…と音を立てながら、先端部分が埋められる。
「ああ――っ!」
挿入してきた刺激に僕は堪えきれずに、喉を仰け反らして喘いだ。粘膜が切れる音がして、僕のソコから生暖かい液体が流れ出す。今の衝撃で塞がり掛けていた傷口が再び開き始めたみたいだ。けれども。けれども僕は……。
「紅葉、大丈夫か?」
流れ出る血に貴方は腰を引こうとする。けれども僕はそんな貴方の背中にしがみついて離さなかった。離したく、ない。
「…平気…だから…だから…止めないで……」
痛みと快楽が交じり合って、そして僕の瞳から涙を零させる。そんな僕の涙に貴方はそっと舌先で掬い上げて。
「――もう、止めないよ…僕も、止められない。君の中に全部入りたいから…」
「あああっ!」
最初の衝撃が収まったと同時に、貴方は動き始めた。一気に僕の中に楔を全て埋めこむ。その度にまた血が流れたが、もう構わなかった。構わない。だって、だって僕を傷つけているのは他でもない貴方なのだから。貴方、だから。
「…はぁ…あ…あぁ……」
全て飲み込んだ所で貴方の動きが一端止まる。僕の内壁が馴染むまで、そうしてくれた。
―――優しい。貴方は、優しい。こんな風に気を使って抱いてくれたのは、貴方が初めてだった。
僕を抱く男達は何時も。何時も自分勝手に行為を進めて、そして。そして勝手に僕を蹂躙する。僕の身体が壊れても、僕が出血してもお構いなしに。自分達が満たされればそれで。
それで構わないのだから。だからこんな風に。
こんな風に、優しく抱かれたことなんて…なかった……。
「紅葉君の中は、熱いね」
そっと耳元で囁かれた言葉に、僕はそれすら反応してしまった。無意識に僕の中にいる貴方を締めつける。
「…あぁ…如月…さ…ん……」
繋がっている場所が火傷しそうなほどに熱い。貴方を受け入れている箇所が、まるで熱を持っているように。そこだけが別の生き物のように。
「―――このまま出してしまいそうだよ」
貴方の言葉に僕は快楽で重たい瞼をゆっくりと開いた。そこにかち合うのは貴方の瞳。綺麗な綺麗な貴方の瞳。貴方の顔は何時もと変わらない。何時もの優しい笑顔。
僕の中に入っている貴方はこんなにも熱いのに、その表情は何時もと変わらない。
「…出して…ください…僕の中に……」
そう言っている僕自身も限界まで膨れ上がっていた。貴方が僕の中にいると言うだけで、それだけで僕の身体はどうしようもない程に反応をしている。びくびく、と。
「…じゃあ、言葉に甘えて……」
貴方はそっと上半身を起こすと、僕の唇を塞いだ。その動きのせいで、僕の中の貴方が動いて。そして、僕の媚肉がソレを締め付けて。
「―――っ!!!」
僕の中に白い欲望が吐き出された。そして。そして僕も自らの腹の上に欲望を吐き出した。
身体の中に。
貴方の液体が注ぎ込まれる。
貴方の熱さが注ぎ込まれる。
ああ、やっと。
やっと僕らはひとつに、なれた……。
やっと、僕らは埋めあえた。
「…如月さん…まだ……」
君の中に一度欲望を吐き出した筈なのに。それなのにまだ。まだ僕は君を求めている。
「―――うん、まだ足りない」
熱い君の中。締め付ける肉壁が、僕を離さない。その中を掻き分けて、もっと。もっと君の中まで入りたい。君の最奥まで貫きたい。
「まだ君が欲しいって言っている」
もう止められはしない。一度走り出した欲望は、もう止められはしない。君が、欲しい。
君の全てが欲しい。君の、全てを手に入れたい。
余す所なく君に口付けて。僕の知らない場所がないように。僕が君のことで知らないところがないように。
―――君の全てが、欲しいから。身体も、こころも、全て。
「…僕も…欲しいです…貴方が……」
背中に廻している君の手に力がこもる。同じ気持ちだと。同じ気持ちだと、それは君が僕に無言で伝える合図。―――同じ気持ち、だから。
「動いても、いい?」
僕の言葉に君はこくりと頷いた。その仕草を合図に僕は君の細い腰をつかむと、ゆっくりと動き始める。
「…ああっ…はあっ……」
抜き差しを繰り返しながら、抵抗する君の内部の弾力を楽しむ。逃がさないようにと締め付けるくせして、入れる時は拒むように狭くなるソコを。
「…ああんっ…あぁ……」
接続部分がぐちゃくぢゃと淫らな音を立てる。君の血と、僕の精液で交じり合った箇所が。
「…如月…さん…きさら…ぎ…あああっ……」
ばりばりと音を立てて、君は僕の背中に爪を立てた。そこから血が流れているのが分かったが、僕は行為を止めることはしなかった。否、出来る筈がない。
君の中はこんなにも熱くて、とんなにも蕩けそうで、そして。そしてこんなにも激しい。
セックスなんてただの、性欲処理でしかなかった。一人で処理するよりも、女を抱いていた方が楽だったから。だから適当にこなしていた。
セックスで熱くなることなど、溺れることなど一度もなかった。何時もその中に排泄してしまえば後に残るのはただの気だるさだけで。行為事態に没頭することなどなかった。
―――誰でも、よかったから。僕の下で喘いでいる女なんて誰でも同じだったから。僕にとってはどんな女が来ても、同じだったから。
「…紅葉…」
けれども、今。今僕が抱いているのは君だから。他の誰でもない君だから。
男を抱くのは初めてだった。今まで自慢するのも馬鹿らしい数の女を相手にしてきても、こんな快楽を得られたことはなかった。けれども。けれども今。今僕は初めてセックスはこんなに快楽を得られるものだと知った。
「…はぁ…ああ…ん……」
自分から抱きたいと、欲しいと初めて思った相手。この身体に埋めたいと初めて思った相手。生まれて初めて抱きたいとこころから思った相手。
「―――僕の、紅葉」
愛しい、大切な。誰よりも愛している君。君を抱いて初めて分かった。欲望にきりがないと言う事を。君を貫いても、何度貫いても満たされる事はない。後から、後から愛しさが溢れて。そして。そしてもっと君を求めて。
君の中に何度でも楔を打ち込みたい。君の中に何度でも欲望を吐き出したい。君が僕だけのものだと、思い知らせたい。
君の身体は、君のこころは、僕だけのものだと。誰にも渡しはしない。誰にも触れさせない。もう、二度と。
―――僕以外の人間に君を、触れさせはしない……。
「…ああ…あぁ……」
「僕だけのものだ」
「…きさら…ぎ……あ……」
「僕だけの、ものだ」
この腕に閉じ込めて、そして。そして誰にも君を見せたくない。誰の目にも触れさせたくない。ずっと。ずっとこうして君を抱いていたい。
「―――出すよ、紅葉」
「…あぁ…待って…僕も…僕も…」
「うん、分かった。一緒にイコう」
「…如月…さ…ん……」
「…一緒に……」
「――ああああっ!!!!」
君の声が最高潮に達した時、僕は君の中に二度目の射精をしていた。
このまま。
このまま気を失うまで。
君を求めたいと思った。
僕の欲望にキリがなくて。
僕の想いにキリがなくて。
きっと君を壊しても。
壊しても僕は君を抱いてしまう。
君の全てを壊しても。
君が、欲しくて。
君がどうしようもない程に欲しくて。
全部、全部、手にいれたいから。
けれども。
けれどもそれ以上に、僕は。
―――僕は君を、護りたいから。
君を、護りたいから。
どんなことからも、君を。
君を、護りたいから。
だからもしも。
君を傷つけるのが僕自身だとしたら。
僕は躊躇いもなくこの命を滅ぼすだろう。
僕自身の手で。僕自身で。
君を、愛しているんだ…紅葉……
どうしようもない名残惜しさを消せないまま、僕は君の身体から自らの凶器を引き抜いた。その途端、そこから血と精液でぐちゃぐちゃになった液体が流れ出す。
「…んっ……」
抜いただけの刺激ですら敏感な君の身体は反応を寄越す。ダメだよ、そんな顔をしたら。また僕は君の中に入りたくなってしまう。
「――こんなに血、出ちゃったね…痛かった?」
僕の言葉に君は一生懸命に首を横に振った。そんな仕草がひどく。ひどく可愛い。子供のようなそんな仕草が。
「じゃあ気持ちよかった?」
今度はその言葉に耳まで君は真っ赤になった。答えられませんと聞こえないほどの小さな声で呟くとそのまま僕の胸に顔を埋めてしまう。ああ君が、どうしようもない程に可愛い。
「…紅葉、足開いて……」
「…え?……」
君が疑問符を浮かべたまま足を開くと、僕はその間に身体を滑りこませた。そして血と精液がこびり付いたソコを、舌で舐める。
「…あ…如月さん…ダメです……」
「くす、綺麗にするだけだよ」
太股まで垂れている血を、精液を。僕は迷う事なく舌で掬い上げた。その度に君の内股がぴくぴくと震え出す。そして。
「…だめぇ…如月さん…僕……」
そして果てた筈の君自身が再び持ち上がろうとしていた。抱き合った後の敏感になっている身体ではこの刺激だけでも、たまらないとでも言うように。
「可愛いよ、紅葉。君のココは可愛いね」
「…やぁんっ……」
立ち上がったソレを僕は迷う事なく口に含んでやった。するとたちまち口の中で、ソレは自らを主張し始める。
「…だめ…あぁん……」
すぐに脈を打ち始め、先走りの雫が零れ始める。僕はそのまま促すように先端に歯を立てた。その瞬間、僕の口中に暖かい液体が流れ出た。
「…あぁ…あ……」
僕は君が出した液体を全て飲み干すと、そのままゆっくりと顔を上げる。荒い息のまま、全身を朱に染めて。そして潤んだ瞳で僕を見上げてきた。
「…如月さんの…バカ……」
真っ赤な顔で睨んで来る君が。そんな君がどうしようもない程に可愛い。可愛くて、可愛くて。このまま食べてしまいたいほどに。
「ごめんね、紅葉」
―――しあわせだと、思った。
今僕らは、誰よりも。
誰よりも幸せだと、そう思った。
今この瞬間が、今この時間が。
ただずっと、ずっと続いてくれたならば。
この透明な時間軸がずっと。
誰にも邪魔される事なく、続いてくれたならば。
他に何も望みはしなかった。
ただひとつだけだから。
僕らが欲しかったのはただひとつだけ。
―――ふたりでしあわせになること……
ただそれだけが、願い。
ただそれだけが、祈り。
ACT/23
夢のような、時間。
本当に夢じゃないかと思うほどの。
そんな、時間。
流れるのは優しさだけで。
流れてゆくのは穏やかな日差しだけで。
本当に。
本当にこれは、優しい夢で。
触れたら壊れてしまうのではないかと思うほどの。
優しい、優しい、夢で。
ああ、このまま。このまま夢ならば、醒めないで……
「このままずっとこうしているのもいいね」
裸のまま、ただ何をする訳ではなく。こうして、指を絡め合って。そして抱き合って。抱き合っていられたならば。
「でもそう言う訳にも、いきませんよ」
僕の胸に顔を預けながら君は、上目遣いに僕を見上げた。その瞳がひどく子供のようで、僕の口許にひとつ、笑みを浮かばせる。
「どうして?」
君のまだ汗で少しべとつく髪を撫でながら、そっと。そっとその髪にひとつ、口付ける。セックスの後にこんな風に相手に触れていたいなんて思った事はなかった。ただ終わってしまえば残るのは排泄感とただの気だるさだけ。でも。でも君には。君にはもっと触れていたい。もっと優しくしてあげたい。
―――恋する男は…こんなにもバカになれるものだとは…自分でも思わなかった……
「くーがお腹を空かせています」
くすくすと腕の中で笑う君の言葉に、僕は顔を上げた。その途端さっきまでソファーで寝ていた子猫が僕のもとへと近づいてきて喉を鳴らす。ごろごろと。
「本当だ、おいで。くー」
手を差し出すと、物欲しそうに僕の手をぺろぺろと舐めた。そんな仕草にひとつ笑って。
「君から離れるのは名残惜しいけど…飢えさせる訳にいかないしね」
君をそのまま布団の上に寝かせたままで、僕は起き上がる。行為の後でしわしわになってしまった浴衣を羽織ると、そのままキッチンへと向う。その後を賢い猫は付いてきた。足音を立てずに。
そう言えば猫は足音を立てないのに、紅葉…君はその気配に気が付いたんだね。
貴方の後姿を見つめながら、自分がひどく穏やかな気持ちになっているのに気が付く。穏やかな、気持ち。優しい、気持ち。それは僕が今まで知らなかった気持ち。
―――不思議。とても、不思議。
僕のこころの中にこんな感情があるなんて知らなかった。こんな想いが存在するなんて。ただ、ただ穏やかで。そして全てが満たされているこんな気持ち。
言葉に出来ない、言葉にすることが出来ない暖かいものが僕の中から溢れ出す。これは、何?言葉に当てはめようとしても、単語を探しても見つからないこの想いは。
あたた、かい。とても、あたたかい。そして。そしてとても、やさしい。
それは。それは貴方だけが僕に、教えてくれたもの。与えてくれたもの。こんな想いがあるなんて、僕は本当に知らなかったから。
くーを腕の中に抱かえながら貴方はキッチンから戻ってきた。たっぷりとエサを与えられたのか、腕の中のくーは丸まって眠っていた。貴方の腕の中で穏やかに眠れるのは、僕だけじゃないんだななんて、思いながら。
「くー、ここで眠られたら僕は困ってしまうよ。紅葉を抱きしめられない」
「…如月さんったら……」
そっと貴方はくーをソファーの上へと降ろした。少しだけ名残惜しそうににゃあと鳴いて、けれどもくーは僕に貴方を返してくれた。その優しい腕を、僕に。
「紅葉、立てる?」
貴方の言葉にこくりと頷いて、その手に導かれるように立ち上がった。けれどもその瞬間、散々抉られた下半身は僕の思うように力が入ってくれなかった。がくりと、貴方の胸へと身体を崩してしまう。
「ごめんなさい、如月さん」
慌てて離れようとして、けれどもそれは叶わなかった。僕の腰に貴方の手が廻されて。そして、そのまま抱き上げられたから。
「き、如月さんっ」
「君は軽過ぎるよ、ちゃんとご飯を食べないと駄目だよ」
「そ、そんな事じゃなくって」
「僕の首に手を廻して、そうしないと落ちちゃうよ」
くすりとひとつ貴方は微笑って、僕の額にキスをくれる。甘い、キスを。甘すぎる、キスを。
「…これは…物凄く…恥ずかしいです…」
「どうして?僕以外誰も見ていないよ」
「…それでも…やっぱり……」
「捕らわれのお姫様を助け出したんだ、これくらいサービスさせてくれないのか?」
「―――お姫様って…僕の事ですか?……」
「他に誰がいるというんだい?」
「………」
あまりな返答に僕は何も言えなくなってしまった。とんでもない事をさらりと言ってのけるこの人に。けれども。けれどもそんな所ですら好きだって、思う。バカみたいだけど、こんなどうでもいいようなやり取りですら、貴方とならば嬉しいから。
「首に手、廻して」
もう一度額に口付けられて、そっと耳元で囁かれたら。僕は。僕はもう拒否する言葉すら浮かんでこなくて。
―――貴方の逞しい背中に腕を廻した……。
しあわせ。
あふれそうなほどの、しあわせ。
僕はそんな時間を過ごしたことがなかったから。
そんな時間を知らなかったから。
どうすればいいのか分からなくて。
どうしていいのか分からなくて。
けれども。けれども。
そんな僕の戸惑いも、貴方は。
貴方はその優しい笑顔で包み込んでくれるから。
全部、包み込んでくれるから。
―――何に戸惑っていたのか…忘れてしまった……
「…凄い…」
君を抱いたまま浴室へ辿り着いた途端、感嘆とも思える呟きが聴こえてきた。
「これ檜ですか?」
湯船が張られた浴槽に、君は驚いたように尋ねてきた。男ふたりが入っても充分なスペースを保つこの浴槽は、何時も僕には広すぎて不便だとすら思っていた。けれども今はその広さが逆にありがたい。
「ああ、うちの家は古いからね。どうも今時のバスルームじゃないのが申し訳ないのだが」
「いいえ凄いです…僕、檜のお風呂は初めてです」
「それなら光栄だ」
僕はひとつ口許に笑みを浮かべると、君を洗い場に座らせる。そして僕はしわくちゃなままの浴衣を脱ぐとそのままタオルに石鹸を泡立てさせた。
「洗ってあげるよ、紅葉」
「え?そ、そんないいです。僕は自分で洗えます」
「くす、何か悪戯されるとでも思っているのかい?」
「違います…その…そこまでしてもらわなくても僕は…」
「いいんだ、僕がそうしたいから」
泡立てたタオルで君の身体を洗い始める。君の傷口に石鹸が染み込まないように細心の注意を払いながら。
「…人に…身体を洗ってもらうなんて…初めてです……」
予想外に君は抵抗せずに、僕の行為を受け入れた。ちゃんと手を伸ばして、僕のなすがままに任せる。
「―――ああ、そうか…君の母親はこんな風にはしてくれなかったのかい?」
「…母には…ムリです……」
子供だったら当たり前の、当然の行為を知らなかった君。父親や母親の腕の中よりも先に、男の腕の中を教え込まれてしまった君。護られるべき当然の腕を与えられなかった君。
そんな君に僕が、僕が全てを与えたいと思うのはただのエゴでしかないのだろうか?それとも。それとも君はそれを少しでも望んでくれるだろうか?
「じゃあ他人とお風呂に入るのも、初めて?」
「…いいえそれは…お風呂の中でするのが好きな人もいましたから……」
零れて来る言葉の切なさに、僕は自分が情け無くなる。君にそんな言葉を言わせたいんじゃない。君にそんな顔をさせたい訳でもない。どうしたら、もっと。もっと君を上手に笑わせて上げることが出来るのだろうか?
「あ、ごめんなさい…そんな事…聞いているんじゃないですよね……」
無言になってしまった僕にすまなそうに言って来る君に、僕はそっと。そっと微笑った。それ以外、僕には思いつかなくて。どんな言葉を告げても違うような気がして。
「いいんだ、紅葉。君の言葉なら僕はどんな言葉でも聴きたい。君のことならばどんな事でも知りたい」
「――如月さん……」
「いいんだ、紅葉。君のことならばどんな事でも聴きたい。今までの君を僕は知らないから。だから少しでも君の気持ちを理解したいから」
「…僕…言葉がヘタだから…貴方に上手く気持ちを喋れないかもしれないです…」
「でもそれは君の言葉だろう?」
「…貴方に…きちんと伝わらないかも…しれない……」
「伝わるよ、君の言葉なら」
「嘘ひとつない、君の本当の言葉ならば」
どんな飾りたてた無数の言葉よりも。
拙くても懸命に伝える君の、ひとつの言葉の方が。
僕にとってはそれが、何よりも大切なのだから。
君の、本当の言葉の方が。
「目、閉じて」
「…如月さん?…」
「髪を洗うから、目にシャンプーが入ってしまう」
「…はい……」
素直に閉じた君の瞼に、ひとつキスをして。
「そんなぎゅっとつぶらなくても大丈夫だよ」
「あ、ごめんなさい」
「謝らなくても、いいよ。それよりも」
「…あ……」
「耳にまで泡が入ってしまったね」
「…くすぐったい…です……」
「くすくす、ごめんね」
「ごめんね、紅葉」
ふたりで泡まみれになりながら。
互いの身体を洗いあった。
子供みたいですと、君が笑う。
そうだね、子供みたいだねと僕も笑いながら言った。
子供でもいいじゃないか。
君はこんな風にふざけあう事すら知らなかったのだから。
だから子供に戻ってもいいじゃないか。
これからいっぱい、いっぱい子供に戻って。
君の時間を一緒に取り返そう。
そう、一緒に取り返そう。
君の失った時間を。君のなくした時間を。
ふたりで。ふたりで取り戻そう。
これから先、君の時間には必ず隣に僕がいられるように。
「無意味に広い風呂だけど、君と一緒に入れるならば悪くはないね」
湯船につかりながら、貴方はそう言った。湯気のせいで少しだけ貴方の輪郭がぼやける。それがちょっとだけ淋しくて、貴方の傍に少しだけ近づいた。
「もっとこっちへおいで」
そんな僕を見透かしたように貴方は両腕を広げて僕を迎える。僕はその腕に不思議と素直に飛び込めた。湯気で顔がちゃんと見えないせい、かな?
背後から抱きしめられて、そっと髪を撫でられる。貴方の指。綺麗な指。傷ひとつない、綺麗な指。その指が僕の髪に、触れている。
「こんな姿勢だと君に悪戯をしてしまいそうだ」
「…もう…何言っているんですか?…」
湯船の中で触れ合う肌の感触は確かに不思議だった。密着しているのにどこか、何処かひとつ隔てているようなそんな感覚。
「でも今は何もしないよ。楽しみは先に取って置きたいからね」
「…如月さんったら……」
くすくすと口許から自然と零れる笑み。自然と、零れる笑い。意識的にしている訳じゃない。無理に作っている訳じゃない。本当に自然に。自然に零れる優しい笑み。
―――それを教えてくれたのは、貴方。貴方だけが僕に教えてくれた。
「ああ、そうか」
「…如月さん?……」
「セックスなんてしなくても、君を感じる事は出来るんだね。今みたいに」
「…如月さん……」
「こうやって抱きしめているだけで、君を感じている」
「…僕も…貴方を…感じています……」
目を閉じて、貴方の体温を。貴方の鼓動を、貴方の吐息を。僕の全てで、感じている。
「―――貴方の全てを……」
ぽちゃんと、水がひとつ跳ねて。
そして僕に被さるように貴方がひとつ。
ひとつ口付けをくれた。
夢のような、時間。
夢の中で生きている僕。
何時しかこの夢が醒めたとしても。
僕は貴方と過ごしたこの瞬間を決して忘れない。
ACT/24
瞬きする程の時間。
切り取られた瞬間。
その全てが。
その全てが、僕にとってかけがえのないもの。
両手で抱え切れないほどの、宝物。
「如月さんって、浴衣似合いますね」
まるで普段着のように浴衣を着こなす如月を見つめながら、壬生は呟くように言った。その言葉に、くすりとひとつ如月は微笑う。
「君も似合っているよ」
如月の浴衣は壬生には少しだけゆるかった。無理も、ない。今まで自分は生まれて来てからこの方『食べる』と言う行為に欲を持てなかったのだから。ただ死なない程度に、口に運ぶだけで。
死にたいと思わなかったから生きていた自分。けれども自分から生きようと積極的に思った事は一度もなかった。だから自分にとって食事は、ただの。ただの行為でしない。
だから自然と身体に肉が付くこともなかった。自分の身体は平均的男子の成長よりも明らかに遅れているのは見た目の体格だけで、充分に分かる程に。
『――成長されても困るな。抱くのに都合が悪い』
館長の言った言葉を壬生は思い出す。幼い頃のトラウマは今まで確実に飢え付けられてきた。彼に犯された日から今まで『逆らう』と言う行為を自分は出来なかった。
―――逆らえば自分がより一層痛め付けられるだけ……
そう思うと何も出来なかった。ただ流されるままに、命じられるままに受け入れるだけ。
それしか自分には出来なかった。だから。だからもしかしたら無意識に、自分は身体の成長ですらも止めていたのかもしれない。館長に逆らう事が、怖かったから……。
「紅葉?」
自分の考えに落ちてしまった壬生を心配そうに如月は尋ねる。そしてその大きな手でそっと。そっと壬生の髪を撫でてくれた。
「あ、いえ…何でもないんです…」
―――大きな、手。優しい、手。この手がある限り、自分はきっと強くなれる。
初めて館長に逆らったのも、初めて自分の足で動きたいと思ったのも、初めて自分自身の力で生きたいと思ったのも、全部全部この手があったから。この瞳が、あったから。
―――貴方と言う存在が、僕に勇気をくれた……
「…色々…考えて…僕は……」
人形だった僕。館長の操り人形だった僕。その手繰り寄せられた糸を引き千切ったのは貴方。貴方の手だけがそれをなしえてくれた。貴方、だけが。
「やっぱり貴方に辿りつきました」
手を、伸ばして。そっと伸ばして。自分から、貴方に触れる。優しい貴方に、触れる。
「…紅葉……」
「きっとこの先僕は、どんな事を巡っていても…」
「最期には貴方に、辿り着く」
運命の糸。
螺旋階段の運命。
無数の糸。
身体中に張り巡らされて。
そしてほつれることのない糸。
切れそうでそして、切れることのない糸。
その全てが。
その全てが辿り着く先が。
……貴方…だったならば………
「君を一日中抱きしめていても…きっと足りないね」
優しく髪を撫でながら、僕の身体を抱きしめてくれる腕。暖かい、腕。僕はそっと目を閉じて貴方の鼓動を感じた。貴方の命の音を。
流れる音。刻まれる音。何よりも大切なたったひとつの貴方の命。貴方の、命。
「僕も足りません」
見上げて貴方の綺麗な顔を、見上げて。その瞳に僕が映っている事に何よりの幸福を感じて。
「全然、足りないね」
「…足りないです……」
降りて来る唇に、そっと。そっと目を伏せた。足りない。キスも、足りない。きっと唇が痺れるほどに重ねあっても。きっと。きっと全然足りないから……。
―――キスを、しよう。たくさんの、キスを。
「紅葉、お腹空かないか?」
僕の髪を撫でながらそっと。そっと貴方は耳元で囁く。食事。物を食べること。人間にとってのもっとも本能的な行為が僕には明らかに欠けていた。食欲も睡眠も性欲も。
どれもこれもが僕にとって不規則で不安なものだった。ご飯を食べる行為は、僕にとってただの動作でしかなかった。
睡眠は僕にとってまともに与えられるものではなかった。幾ら疲れていようとぼろぼろになっていようと、まともに眠れたことなど今までなかった。貴方の腕の中以外では。
そして。そして性欲。それは僕にとって歪んだものでしかない。性と言う名の暴力で犯されつづけていただけだから。だから。
僕が今貴方に与えられているその全てが。全てが僕にとって『初めて』のものだったから。
貴方の腕の中で夢すら見ずに、眠れることが。貴方に抱かれて初めて独りじゃないと感じる事が。そして。そして…。
「…空いたのかも、しれません…」
空腹を覚えると言う感覚事態が既に、僕にとっては今まで経験のない事で。だから今、この感覚がそうなのかと思う事事態がひどく不思議だった。
当たり前の、事。生きている人間だったら当たり前の事。それが僕に欠けていたもの。
「うん、そうだね。じゃあご飯を作ろう。食べにゆくのもいいけど…他の人間の目が邪魔だから」
「如月さん?」
「だってせっかく君を独りいじめしているんだ。他の人間になんて見せたくない」
「…もう…何言っているんですか?……」
「何って、本音だよ」
また貴方は微笑って。そして盗むように口付けをひとつ、くれる。甘いキスに、身も心も溶かされて。
「でもひとつ問題がある。僕は『男子厨房に入らず』と教わったから生憎料理はしたことがないんだ。君は?」
「…って如月さん…作った事ないのに…何でそんな自信満々なんですか?……」
「惚れた相手にはいい所を見せたいって言う男の心理だよ」
その言葉に僕は堪えきれずについ笑ってしまった。そんな僕に貴方は。貴方は何よりも優しい瞳を向けてくれる。
「如月さん僕が作りますよ。独り暮しみたいなものだったので、一応出来ますから。味は補償しないですけど」
「君が作ってくれた物を僕が不味いと言う訳がないだろう?」
「そんな事まで自信満々なんですか?」
「だって君の気持ちが入っている料理だ。不味い訳がないじゃないか」
「そんなもの、なんですか?」
「ああ、紅葉」
「そう言うものだよ。誰かの為にと思いを込めて作ったのは、例えどんな味になったとしても、美味しいものなんだよ」
笑う、君。
子供のように無邪気に笑う君。
自然な笑み。本当の笑顔。
君が何時もそうしていられるように。
君が何時もそうやって笑っていられるように。
僕は幾らでもバカな男になろう。
君の為に。
君のためだけに。
台所に向う君の細い肩を見つめながら、僕は言葉を紡ごうとしてふと止めた。声に出して空気に溶けてしまうのがひどく勿体無く感じられて。
―――君を、愛している。
今更の言葉だけど。今更の想いだけど、でも。でも今こんな風にふとした瞬間に伝えるには、僕の気持ちが言葉よりも重過ぎて。言葉では追いつかない想い。
言葉なんかで僕の気持ち全てを言い尽くせるならば、どんなに楽だろうか?
僕の空洞を埋めたのは、君。僕の灰色の視界に色をつけたのも君。ただ全てが僕の前を通り過ぎて行く中で、君だけが。君だけが僕の前に立ち止まった。
『…如月さん……』
戸惑いながら僕を呼ぶ声が。その声が好きだ。
どうしようもない程に好きだ。
―――君の声。淋しくそして優しい君の声。
大好きなんだ、君が。君が誰よりも大好きだから。
どうしたら君を。君を喜ばせてあげられるだろうか?
今までなんの為に生きてきた?
―――考えたことすらなかった。
じゃあなんの為に生まれてきた?
―――君に出逢うために。
今何の為に、生きている?
―――君を、愛するために……
―――君だけを、愛するために……
君が孤独なら、僕も孤独だったんだ。
君が淋しかったら、僕も淋しかったんだ。
僕に『本物』を見せてくれた人間が君だけだから。
僕に『真実』を告げてくれた人間が君だけだから。
だから、僕も。
君以外に『本物』も『真実』も見せようとは思わない。
他の誰にも僕を、分かって欲しいとは思わない。
君だけが、分かってくれれば。
君だけが、気付いてくれれば。
それだけで。それだけで、いい。
―――もう他の人間なんて、僕にはいらない。
暖かい湯気と、美味しそうな匂いが部屋中に満たされる。そして。
そしてその先にははにかむように笑った君の、顔。
「…口に合うか…分かりませんけど……」
冷蔵庫の中には大した物は入っていなかった筈だ。自炊をしない僕にはあまり食材など必要なかったから。週に3回祖父が寄越して来た賄い達は、祖父と決別した時点で断りを入れた。
基本的に自分のプライベートな空間に他人を入れる事事態が好きではなかったから。
「凄いね、紅葉」
それでも君の差し出す料理は賄い達が出してきたものと何の遜色もなかった。それ所かそれ以上に手の込んでいる料理だった。
それが僕の為に手を掛けてくれたと言うのならば、これほど嬉しい事は無かった。
「美味しそうだよ、ありがとう」
その言葉に笑う君の笑顔が。子供のような笑顔が。今この場で抱きしめたいと思う程に愛しくて。
「君も座って、一緒に食べよう」
「…はい……」
―――愛しくて、そして愛している。
他の人と食事をすること。
他人と食事をすること。
それは僕にとってただの苦痛でしかなかった。
その先に待っているのは、相手の腕でしかなく。
食事の後に決まってその男に抱かれる事が分かっていたから。
けれども。
けれども今は、違う。
目の前にいるのは貴方で。
他の誰でもない貴方で。僕にとって。
僕にとって貴方は『他人』じゃないから。
不思議な気持ちだった。
こうやって向かい合って自分の作ったものを口に運ぶ。
貴方が、僕が作った料理を口に運ぶ。
それだけなのに、一喜一憂している自分が。
貴方の口に僕の料理が合うのかな?とか。
不味くないだろうか?とか。
調味料間違えてなかったのかな?とか。
色々なことを考えてしまって。けれども。
そんな色々なことを考えている時間がイヤじゃなくて。
いやじゃ、ないから。
「美味しいよ」
そう言って笑ってくれた貴方の笑顔を見て初めて。
初めて僕は自分が食事をしていると実感した。
物を食べるという行為が欲なのだと言う事を。
僕は初めて、分かったような気がした。
そして僕は初めて知った。
誰かと食べるご飯が、こんなにも美味しいのだと言う事を。
End