ACT/29
君が、壊れても。
君を、壊しても。
―――それでもそばに、いたいんだ。
それは静かに浸透する、破滅への予感。
月だけが、ふたりを見ている。月だけが、全てを見ている。
「獣みたいだね」
汗でべとつく君の髪を撫でながら、僕は呟く。まだ君の身体の中に僕自身を埋めたままで。
「―――人間だって、獣ですよ」
君の唇が飽きる事なく僕の唇を求める。僕はその全てに答えた。まるで今までの時間を埋めるかのように僕らは激しく抱き合い、そして唇を重ね合う。
「そうだね、でもこんなに欲望にキリがないとは僕自身も思わなかった」
君の綺麗な背中を指で辿る。その度にぴくんっと肩が揺れる。あれほど君を抱いたのに、あれほど貪ったのに、君の身体に埋まっている僕はまだ君を求めている。
「…明日…立てないかも……」
「いいよ立てなくても、僕が抱いてあげるから」
また舌を、絡める。ぴちゃぴちゃと音を立てながら。そしてまた。また君の身体を貫く。
何度抱き合っても、満たされる事は永遠にないのだろうか?何度身体を重ね合っても、欲望は尽きる事がないのか?
―――君をこうして腕の中に抱いていると、その言葉すら真実に思える。
どうして?そうこころに問う事は無駄だと分かった。幾ら問い掛けても答えなんて出ないのだから。出ないのならばもう。もうその先を考えるのを諦めるしかない。
ただ分かっている事は、君を愛していると言うこと。それだけだから。
このまま。このまま、尽きる事のない欲望に身を任せ。
―――堕ちるのもいいかもしれないな…と思った……
静かに聴こえる足音。それは、崩壊の前触れ。
貴方の背中に絡みつけた腕。
無が夢中で立てた爪。
そこから血が流れても。
僕の爪が割れても。
それでも行為を止める事が出来なかった。
貴方が欲しかったから。
貴方に埋めて欲しかったから。
僕の隙間を全て貴方で埋めて欲しかったから。
僕の全てを貴方で埋めて欲しかったから。
僕は。僕は忘れたかった。
無理だと分かっていても今だけは。
今だけはこの束の間のしあわせの中で。
全てを忘れていたかった。
手首に残る傷跡の中に埋もれた注射針の跡。
貴方は見つけ出してくれた。
大量に打たれた薬が僕の身体を犯すのは時間の問題。
死にはしない。死ねはしないだろう。
けれどもその時。その時僕は、正常でいられるのだろうか?
―――僕は貴方をちゃんと見つめられるだろうか?
たとえどんな事になろうとも。
僕は。僕は貴方だけは。
貴方だけは決して忘れはしないから。
―――どんなになろうとも、貴方だけは……
「ハハハハハハハハハ」
月だけが、見ていた。全てを見ていた。
「見付けたぞ…見付けたぞ…如月翡翠……」
ただ、見ていた。全てを見つめていた。
「やっと見付けたぞ…今度こそ…今度こそお前を殺してやる…ケケケケケ…」
「―――殺してやるぞ」
さ迷い続けた。
たださ迷い続けた。
何もかもを失った。
拳武館の館長の座も。
地位も名誉も。
所有物も。思い通りになる玩具も。
そして娘も。
全てを失った。
『君のすべき事はただひとつ、如月翡翠を捜し出しそして…殺されるんだ…』
殺される?違う、俺が殺すんだ。
あの綺麗な顔を血まみれに引き裂いてやるんだ。
ずたずたに切り刻んで、無残に殺してやるんだ。
お前が奪った。俺の全てを奪っていった。
地位も名誉も欲も愛も。
何もかもをお前が奪っていった。
何もかもをお前が俺から奪った。
だからお前から取り返す。全てを取り返す。
そうだなぁ、まず…まず紅葉から取り返すか?
元々アレは俺のものなんだよ。
俺がガキの頃から仕込んでやった。
美味いだろう?その身体は。
俺がたっぷりと時間を掛けて育てたんだ。
どんな男も狂うほどの身体にな。
どんなに犯しても何時も処女みたいに締まりやがる。
ヤリたいだろう?何度でもヤリたいだろう?
俺が仕込んだんだぜ。俺が全部。
ガキの頃から逃げられないように閉じ込めて。
どんな男も受け入れる身体に。どんな男にも反応する身体に。
恐ろしいガキだった。俺達の欲求したもの全てに答えやがった。
アレは天性のものなんだろうな。
天性の娼婦。男を咥えないと生きてゆけない身体。
俺のもんだよ。お前みたいなガキじゃあ紅葉は満足なんて出来るものか。
あいつは元々ただの淫乱でしかないんだ。
お前独りで満足なんて出来るものか。
この世の快楽全てを知り尽くしたあいつの身体に、お前なんかで満足するものか。
「ハハハハハそうさ、お前なんかで満足するものか」
俺のものだ。俺のものだ。
お前なんかには渡しはしない。
俺のものをお前なんかには。
―――お前だけには、渡しはしない。
少しづつ忍び寄る、破滅への幻想。
「…紅葉…そろそろ部屋に戻ろうか?…」
僕の答えを聴く前に貴方は僕の身体を抱き上げ、室内へと戻る。静寂だけが包む室内。貴方と僕だけが存在するこの部屋。
貴方が僕を布団の上に降ろすと、そっと襖を閉めた。そして僕の隣へと偲び込む。
「如月さん」
僕の頭の下に腕を廻して、そのまま抱き寄せられる。髪を撫でてくれる優しい指先に、僕の意識は柔らかく溶かされた。
「…如月さん……」
「おやすみ、紅葉。また明日」
「…はい、おやすみなさい……」
また、明日。明日目を開いたらまた。また貴方に逢える。貴方を見つめていられる。だから平気。こうして目を閉じて眠る事が。こうして何も考えずに眠れる事が。
「…おやすみ…なさい……」
次に目を開ければ、また。また貴方の笑顔に逢えるから……
―――けれどもそれは、叶わなかった……
足音が聴こえる。
微かな足音が。
でもそれは。それは僕の耳には容易く届いた。
―――来たな、と思った。
奴が来たのだと。
僕に殺される為に、やってきたのだと。
「紅葉、すまないが…少しの間だけ…独りで眠っていてくれ……」
すぐに帰って来るから。
君の眠りを護る為に。
すぐに。すぐに僕は君のもとへと。
帰って来るから。
だから。だから待っていてくれ。
僕は君にひとつ口付けると、そっと君から離れた。
君は身じろぎもせずに眠っている。
――ごめんね、君に口付ける時僕は君に睡眠薬を飲ませたんだ。
どうしても。どうしても僕の手で決着をつけたかったから。
この手で、全ての決着を。
君をもう巻き込みたくはないから。
もう君をこれ以上傷つけたくないから。
僕は、僕は君を。
―――僕自身の手で、君を護りたいから……
部屋の四隅に結界を張る。不法な侵入者が入らないようにと。
ただそこまでの力と賢さがあの男に残っているか?
僕を殺す事以外、何も見えなくなっているあの男にそんな冷静な判断が出来るだろうか?
それでも僕は結界を張った。それがどれだけ体力を消耗するか分かっていても。
それでも僕は、構わなかった。
「ククククク、来るがいい如月翡翠…もう俺には何もないぞ。何もないんだ…」
お前には護るべき者がある。そしてそれによっての強さもある。けれども俺にも。俺にも別の強さを手に入れたんだ。
―――全てを捨てた、強さをな。
俺にはもう何もない。失うものは何もないんだ。
だから何でも出来るさ。何でも、出来る。
何だって、出来る。
「さあ来い…俺のもとへ……」
僕は村正を取りだすと、奴の待つ場所へと向った。
奴の待つ、地獄へと。
何時しか頭上の月が雲に隠れていた。
月すらも、その先を見る事は叶わなかったのだろうか?
ACT/30
全てを、失った。
何もかもを、失った。
今まで手に入れた物全てを。
俺が意地になって奪ってきたものを。
あれほど手を汚して、それでも掴んだものを。
全て、失った。
お前が奪ったんだ。俺から奪ったんだ。
俺が築き上げてきたもの全てをお前が壊したんだ。
だから俺が壊してやる。
お前の全てを壊してやる。
その綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして。
お前の唯一愛した『紅葉』を。
この世のもっとも残酷な仕打ちを与えてやる。
お前のことだ。
どうせ自分よりも。
自分よりも紅葉が大事だと言うのだろうな。
何よりも大切とでもぬかすんだろうな。
だったらその大切な物を無残に。
無残に引き千切ってやるよ。
―――この腕で、な……
初めてその手を血に染めた時、お前はただ無表情に死体を見つめていた。
泣き叫ぶかと思ったのに。恐怖で怯えるかと思ったのに。お前はそのどちらでもなかった。ただ。ただその硝子玉のような瞳で、屍を見下ろすだけだった。
――――そう言えばお前の口から悲鳴を聴いたのは一度きりだな。
初めて。初めてその身体を犯した時。お前は必死で叫んだ。必死で抵抗した。けれどもそれだけだ。それだけだった。
頭のいいお前は気付いたのだろう。幾ら叫んでも助けはこないと。幾ら声に出しても誰もその言葉を聴かないと。
それ以来お前は俺の従順な玩具になった。手となり足となり、俺の欲望の捌け口になった。
どんなに酷い事をしても、どんなに残酷な事をしてもお前の身体は受け入れた。生まれつき男なしでは生きられない身体だったんだろう?
そうでなければあんなガキがあれだけ事をされて耐えられる訳がない。発狂するか壊れるか、だ。
……違う…違うな…お前は初めから壊れていた…壊れていたんだな……
真っ白い部屋の中で、狂った母を待ち続けたガキ。手首を切り刻んで血を流して、待ち続けたお前。お前と血は、幼い頃から一緒だったじゃないか。
だから手を血に染めようと、その手を染めようとそんな顔をしていたんだな。
けれど。けれど俺はつまらなかった。つまらなかったよ。
泣き叫ぶお前が見たかったのに。絶望に狂うお前が見たかったのに。
何をしても、何をしてもお前はただその硝子玉の瞳で俺を見るだけ。いや本当は何も映してはいなかった。からっぽの瞳は何一つ。何も映しはしなかった。
どうしたらお前の口から悲鳴が聴ける?どうしたらお前の目から涙が零れる?どうしたらお前は俺を見るのか?
―――答えは、出た
如月翡翠、その名前を呼び続けるお前。あの男だけを信じ切ったお前。初めて俺に逆らったお前。
面白かったよ。面白かったさ。与えられた玩具が初めて逆らった。それが面白かった。
俺は見たいんだ。もっともっとお前が絶望に堕ちてゆくのを。お前の口から悲鳴を、泣き叫ぶお前を。見たくて見たくてたまらないんだ。
―――血……
手のひらに零れ落ちる血。
―――他人の、血……
僕に跳ね返りぽたりと頬に付いた。
―――僕以外の、血……
初めて他人を切り刻んだ。初めて他人を傷つけた。
―――痛い…な……
痛いよ。痛いよ、こころが痛いよ。
―――痛い…よ……
痛いよぉ…でも…でも…ここで叫んでも、ここで泣いても。
誰モ助ケテクレナイ。
だから痛みから目を閉じる。
痛みから耳を塞ぐ。
全てを閉じ込めて、そして。
そして少しずつ。
少しずつこころを、壊してゆく。
ダッテ…誰モ…僕ノ声ヲ聴イテクレナイ……
『紅葉、君の声が聴きたい。君の本当の声が』
染み出す、血。
溢れ出す、血。
それは僕の涙。
紅い、涙。
他人の血で汚し続けた分だけ。
僕の瞳からは紅い涙が零れ落ちる。
それを。それを、貴方は。
―――全てを、受け止めてくれた。
たとえば、もしも。
もしも君が普通の綺麗な道を歩んでいたならば。
当たり前の家族の愛を与えられ。
そして平凡な高校生だったならば。
僕も飛水流の末裔ではなく、如月家の跡取ではなかったならば。
どうなっていたのだろうかね?
でも。それでも、やっぱり。
やっぱり、僕らは出逢って恋をしているだろう。
たとえどんな出逢い方をしても。
たとえどんな場所にいても。
運命とか、宿命とか。
そんな言葉ではどうにも出来ない場所で。
そんなものが及びもしない場所で。
僕らは惹かれあい、そして巡り逢うのだろう。
もしも運命の赤い糸があるとしたら、きっと。
きっと僕らはそれすらも引き裂いて。
――そして互いを捜し出すだろう。
運命すらも、侵す事の出来ない想いだから。
―――何時しか頭上の月は雲に隠されていた。闇。ただの闇だけになる。静寂と闇だけが支配する空間。
その中を如月は無言で歩き出す。特に気配を消そうとも、息を殺そうともしなかった。ただ普通にごく自然にその場を歩いていた。
かさりと、草を踏む音がひとつ響く。けれども如月はそんなものに気を止めなかった。そんな事はどうでもよかった。
―――幾らでも向って来るがいい……
自分は逃げも隠れもしない。ただここに立っている。自分と言う名の獲物を目掛けてくればいい。そうしたらこの手で、殺してあげるから。
殺す価値すらもない人間の屑。正気を失っていた瞳。自分にとってはどうでもいい存在。
どうなろうとも所詮虫けらでしかない。けれども。けれども紅葉を縛りつけ、傷つけた人間ならば。僕は決して許しはしない。
僕がこの手で殺してやる。絶対に殺してやる。君の眠りを護る為に。
「…隠れていないで…来い。僕は逃げも隠れもしないさ……」
風がひとつ吹いて髪を揺らす。そこから見えるのは額の傷。消える事のない、傷。綺麗な顔に付いた唯一の傷。
「早く来いよ。望み通り殺してやるから」
―――永遠に消える事のない、傷。
当たり前のことかもしれない。
それは本当に当然の事なのかもれない。
けれども。
けれども僕は知らなかったから。
こうやって誰かと食べるご飯がこんなにも美味しいのだと言う事が。
こうやって一緒にただ眠るだけで安心出来るのだと言う事が。
そして。そしてこうやって身体を重ねることで、愛を確認出来るのだと言う事を。
僕は、知らなかったから。
なにひとつ、知らない事だった。
独りでは、出来ない事でも。
独りでは、越えられない事でも。
ふたりだったら。
ふたりだったら、出来る。
ふたりだったら、乗り越えられる。
ふたりでいられれば。
何でもない景色がひどく綺麗に見えたり。
ふとした瞬間に優しくなれたり。
見えなかったものが、気づかなかった事が、分かるようになったり。
些細な事で。本当に些細な出来事で、しあわせになれたり。
それは貴方だけが僕に教えてくれた事。
生きていると。
生きていたいと。
生きているんだと。
思うのは全部。
全部貴方とふたりで分け合ったから。
闇の中。お前の声だけが、風に運ばれる。
こんな瞬間でさえ、お前はまるで別世界の住人のようだ。
俺らが地面でもがいて、あがいているのを。
ただ冷めた瞳で見下ろしている。
見下しているだけ。
所詮凡人は天才には勝てないとでも言うように。
平凡な人間は所詮平凡でしかなく。
生まれながらに選ばれた人間は違うのだと。
違うのだと、そう言っているようで。
いや、そうなんだ。
所詮俺は雑草でしかない。その他大勢の屑でしかない。
けれどもお前は違う。お前は神に選ばれた。
どんな場所にいても埋もれる事はない。
どんな時間軸の中にいてもその存在が埋もれる事はない。
そんな存在を、俺は。
―――俺は決して許しはしない。
生まれながらに選ばれた人間の存在なんて絶対に認めはしない。
見せてやる。見せてやる。
選ばれなくても。
運命に、神に、選ばれなくても。
主役になれるんだと言う事を。
――見せて、やる。
「殺すのは俺のほうだ、如月翡翠」
「…やっと現われたか……」
殺してやる、殺してやる。
俺がこの手で。
この手で、殺してやる。
ACT/31
ただひとつだけの、真実。
どんな言葉で飾りたてても。
どんな形容詞も並べても。
決して叶う事のない。
叶う事のない、ただひとつの。
―――ただひとつの、剥き出しの真実。
「貴様がここに現われたと言う事は…あの『鳴滝』は、館長になったのか?約束通りに」
闇夜の中でもその美貌は何一つ、影響しない。その怖い程に綺麗な顔は。
「そうさ、俺は何もかもを失った。何もかもをな」
何もない。何もかもをなくした。生きてきた基盤を。奪った空間を。全部、なくした。そして。そして俺に残ったのはこの『復讐』だけだった。
お前に対する復讐。お前に対する憎しみ。それだけが。それだけが俺の持っている全てになる。
―――憎しみだけが、俺を生かしている全てだ。
「約束は護った。やはり敵には廻したくない」
高校生のガキとは思えない顔でお前はそう言った。その相貌は生まれながらの王者の証。
上に立つものの、支配するものの顔。俺が必死で手に入れようとして、そして決して手に入らなかったもの。
それを。それをお前は容易く手に入れた。いや違う…生まれながらにそれを持っていた。
人間には生まれながらに役割がある。奪う人間、奪われる人間。平凡な人間、非凡な人間。その中で。その中でお前は一番綺麗な星のもとに生まれてきた。誰もが欲しがるその全てを生まれながらに手に入れていながらも、それに一切興味がない顔で。溢れんばかりの才能を自らの意思で使おうとは決してしない。
―――気に、いらない。お前が気に入らない。
そのすました顔が気に入らない。何もかもを当然だと当たり前だと平然としているお前が。そんなお前が許せない。
生まれながらに持った才能なら、それを最大限に使うのが義務じゃないのか?
それだけ綺麗な星の下に生まれたならば、それを最大限に利用して。そして光臨するのが筋じゃないのか?
「鳴滝はきっとお前から紅葉を奪うさ」
その言葉に初めて、お前が人間らしい反応を返した。静かに見下ろす瞳は相変わらず鏡のように俺を反射するだけだったが。それでも。それでも『紅葉』という名前には。
「そうしたらどうする?お前は奴と戦うのか?」
「ああ戦うさ。僕にとって紅葉以上に大切なものはない」
迷いなく澱みもなく答えるお前。そんなに大切か?そんなに愛しているのか?それでお前は満足なのか?
あれは人形。穢された人形。壊れた人形。お前みたいな完璧な人間には随分と相応しくないんじゃないか?
―――それとも、それが完璧なお前の唯一の弱点なのか?
「どんな理由であれ紅葉は優秀な暗殺者だ。本人の気持ちには関係なく。少なくとも…今の拳武館の中では最も優秀だろう。そんな人材を鳴滝はみすみす見逃しはしないさ」
完璧なお前の人生を狂わせたのは紅葉の存在があったから。あいつを愛して全てが狂った。その手を血で穢してまでも奪いたかった相手。
「鳴滝は何よりも合理主義者で、そしてリアリストなんだ」
「そうなのか、残念だな」
「僕はロマンチストなんだよ」
君を護る為に生きている。
その為だけに今、生きている。
君と一緒にいたいから生きている。
君とともにいたいから今、生きている。
それ以外どうでもいい。
笑っちゃうくらいロマンチストだろう?
「だから紅葉を渡さない」
「色男なセリフだな、今までどれだけの女に言ってきた?」
「生憎だね、こんなセリフを紅葉以外に言った事はないさ」
「今まで相当女を玩んできた男のセリフか?」
「勝手に寄って来たから付き合っただけさ」
「俺の娘もか?」
「そうさ、愛していなくてもいいからと言った。僕はそんなセリフを聴きたくはなかった」
「――どうしてだ?」
「初めから愛さなくてもいいなんて…僕とまともに恋愛をする気がないからさ」
「…お前には…都合のいいセリフじゃあ、ないのか?……」
「都合がいい?まさか…」
「―――うんざりしていたよ」
同じ言葉しか言わない女達。
僕が欲しいのはそんな言葉じゃない。
どうして誰も。
誰も僕と対等に向き合おうとしなかったのか。
どうして僕と同じ位置に立とうとしなかったのか。
それなのに。
それなのに僕の愛を得ようなんて随分自分勝手じゃないのか?
「でも俺の娘だ」
「僕にとってはその他大勢でしかない」
「それでも俺の」
「俺のたった独りの娘なんだ」
分かっている、これは因果応報。
俺が紅葉の今までを奪ったから。
お前が娘のこれからを奪った。
どちらが罪深いなんて俺には分かりはしない。
けれども。
けれども確かにお前が娘を殺したんだ。
―――それだけが俺の事実だ。
「ここで謝る程僕は出来た人間じゃない。僕は今までの僕を否定しない」
「随分な言い方だな。今まで全てどうでもいいと言う顔をしていたくせに」
「そう、どうでもよかった。全てがどうでもよかったさ。けれども分かった事がある」
「―――何を分かったと言うんだ?」
「簡単だよ。僕の今までの人生はやっぱり僕にとって必要だったと言う事さ」
「必要?」
「そうさ、紅葉に出逢う為に。紅葉を愛するために、やっぱり僕の今までの人生は必要だったんだ」
「本当にロマンチストなんだな…じゃあ俺の娘が死ぬ事もお前にとって必要だったのか?」
「そうかもしれない。全ての要素が僕にとっては」
「人の命すらもか?」
「貴様も同じだろう?その手でどれだけの人間を殺してきた?その手で紅葉をどれだけ犯してきた?」
「ハハハハハハ所詮同じ穴のムジナとでも言いたいのか?」
「まさか…貴様などと同じにされては困る」
「そうさなぁ、俺とは違うさ。お前は選ばれた人間。神に選ばれた人間だからなぁ、ハハハハ」
「―――選ばれたくはなかったさ」
「それは選ばれし者の驕りでしかない」
「それでも僕は平凡な人生を歩んでみたかった。無理だとは分かっていても」
「その欲のなさが俺には許せない。凡人がどんなに努力しても得られないものを思っているお前が…許せない」
「別に貴様がどう思おうが僕はどうでもいい。誰にどう思われてもどうでもいい」
「紅葉以外、見えないか?」
「見えないさ。恋する男は盲目と言うだろう?」
「どうでもいいんだよ、僕にっては。紅葉以外の全てがね」
どうでもいい。
どうなろうと構わない。
廻りの景色がどれだけ変化しても。
そこに君と僕がいれば。
君と僕さえ在れば。
それ以外の事はどうでもいい。
誰がどうしたかなんて、僕には関係のない事だ。
「まあいい、無駄なお喋りが過ぎたようだ」
お前が自然な動作で刀を地面に降ろした。そして。そしてその鈍く光る刃先に自らの指を切って血を吸わせる。
「特別に僕の血を吸ったこの刀で切ってやろう――― 一瞬だ」
一瞬か?一瞬。それは実に甘美な言葉に聞こえる。俺の人生が一瞬で終われるならば。それはそれでもしかしたら最高のフィナーレかもしれない。
けれどそれ以上に魅惑的に俺の耳元で悪魔は囁く―――その綺麗な顔を切り刻んでしまえと。
ずたずたに切り刻んで無残に捨ててしまえと。そうしたら。そうしたら満たされるのだと。
―――俺は、満たされるのだと……
「切るか?構わん切れよ、俺を」
「ならばそうさせてもらおう」
その前に仕掛けた罠が発動するがな、クククククク。
刀を振り落とそうとした、その瞬間。
その瞬間結界に何者かが引っ掛かった。
「―――甘いな、貴様は」
「何がだ?」
「今お前の部下が独り僕の結界にはまって足を切り落とされた」
「…読んでいたのか?そこまで……」
「正直貴様にそこまで頭が廻るとは思えなかったが…正解だったよ」
「舐められたモノだな」
「やってくるぞ、貴様らの部下がこっちにな―――」
「館長っあ、足が…こいつの足が…――うぎゃあっ!!」
「ぎゃあああっ!!!」
お前は無表情に、俺の部下達を殺した。
その刀で。躊躇う事なく。
「これで全員か?手応えがなさ過ぎる」
「――そうでもないぞ…ほら」
俺が指を指したその方向をお前が見た一瞬。
その一瞬を俺は見逃さなかった。
そのまま俺は、俺自身の全ての力を込めてお前に技を掛けた―――
「……くれ…は?……」
それでも立っていたお前は流石としかいいようがなかった。ただその瞳は俺を通り抜け、闇の先にあるたったひとりの愛する者へと向けられていた。
「…館長…コレデ…イイノ?…マリィ…ハ…コレデ……」
金色の髪。そこには人形のような小さな女の子が独り立っていた。その手に紅葉を抱きながら。小さな手で、紅葉の身体を抱きながら。
「よくやったぞ、マリィ。流石だな…流石ジルが寄越しただけある…結界すらも破ったぞ」
―――小さな女の子。でも何故か。何故か、近い。ひどく血が騒ぐ。
「マリィ、そのまま。そのままそいつを殺すんだ」
―――ひどく血が、惹き合う。これは、なんだ?……
「そのままそいつを殺せ」
硝子玉のような瞳が僕を見つめる。
命令している声を通りぬけ。
そして僕を見つめる。
その瞳が何故か。何故か僕にはひどく懐かしかった…
ACT/32
声なき声で、その名を呼ぶ。
君の名を。
君だけの、名を。
運命の回路。
逃れる事の出来ない運命。
血よりも深い絆。
古代から流れゆく、逃れられない運命。
逃れない運命なら受け入れるしかない。
受け入れてそして。そして、全てを終わらせて。
―――終わらせて、君のもとへ……
それは冷静に考えれば不可思議な光景だっただろう。
人形のような少女。小さな少女。
その少女が自分の倍くらいある男を腕に抱いている。
軽々と、まるで。
まるで人形を抱くように。
でもその腕に抱いているのは人形じゃない。
生きている、人間だ。
命在る、存在だ。
「…貴方…誰?…マリィ…ニ…近イ……」
僕を見つめるその瞳は。僕が以前していた瞳だ。空っぽで鏡のようにただ世界を反射するだけの瞳。そこには何も映し出してはいない瞳。
―――僕が紅葉…君と出逢う前の……
「…誰?…マリィニ…近イ……」
「何を言っている、殺せっ殺すんだっ!!」
「死ぬのは、貴様だ」
僕は態勢を立て直すと、再び村正を握り締めた。そしてそれを館長の首筋に充てる。
「ハハハハ、俺を殺すか?殺すか?殺す前にマリィの手がお前の愛しい者を引き裂くぞ」
「殺せないさ『マリィ』には」
「何故そんな事が言える?」
「言える、僕らは匂いが近すぎる」
「…近イ…マリィ…ニ…マリィト…同ジ……」
「近くてもなぁ、こいつは俺の命令には絶対に逆らわないんだよ。こいつも紅葉と同じ人形なのさっ。持ち主は違ってもな」
「紅葉は人形なんかじゃない」
「ああそうだな。あいつはお前に逢って、お前に恋をして人間になった。愛が空っぽの心に命を吹き込んだ…俺が一番大嫌いなラブストーリーだよ」
「だから貴様は永遠にクズなのさ」
「そうさ俺はクズさ。クズで何が悪い。クズならクズなりの生き方があるのさっ!」
「クズは所詮クズだ。生き方すらも、必要ないね」
「―――う、うるさいっ!!マリィっ!!」
「…同ジ…血…?……」
「マリィ、殺せっ殺すんださあっ!!」
「殺せぇぇーーーっ!!!!!」
「コロス…コロス……」
―――マリィ…お前の力は人を殺す為の力。
「…コロス…コロス……」
―――それ以外必要ない。それだけあればいい。
「…コロ…ス……」
―――お前はその為だけに……
「―――殺ス……」
「駄目だっ!!」
僕は咄嗟に彼女の傍へ駆け寄った。もう何も映ってはいなかった。
ただ君を、君のことしか目に入らなくて。僕は。僕は……。
「…如月…さ…ん……?」
ああ、どうして。
どうして?
絡みあった糸は。
螺旋を描いて。
そして。
そして崩れてゆく。
互いの血を吸い続けて。
引き千切れそうなほど、重い。
どうして、こんなにも絡み合わなければならないの?
羽が、散らばる。
白い羽が。引き千切られた羽が。
無数に散らばって。
空から降って来る。
その時の事を、僕は一生忘れないだろう。
貴方が忘れてしまっても、僕だけは。
僕だけは覚えているから。
他の誰もが忘れてしまっても。
僕だけが、覚えている。
それが僕の永遠の償いならば。
それが僕の永遠の罪ならば。
―――それが僕に架けられた永遠の十字架ならば……
気が付いた時、僕は小さな女の子に抱きかかえられていた。
幼い女の子。そんな女の子が何故?
そんな疑問符も貴方の叫び声で掻き消された。
僕の視界に映ったのは、貴方と館長。
―――どうして?
そう思う間もなく、貴方の背中から血飛沫が飛ぶ。
館長が背後から放った攻撃が貴方の背中を引き裂いた。
そして、それを全て自分の視界に収める前に。
収める前に、僕の身体は炎に包まれた。
少女が放った火に僕は包まれた。
そして。そして少女も包まれた。
僕らの身体が炎に包まれ、そして焼かれてゆく。
けれども。けれども不思議と僕はその時熱さを忘れていた。
そんなモノを、忘れていた。
ただ僕にとって。僕にとっての唯一の事は。
唯一の事は貴方の事だけで。
―――貴方の事、だけで……
僕は、叫んだ。
叫んだ、叫んだ。
ただ貴方の名前だけを。
貴方の名前だけを呼び続けた。
あの時のように。
あの時の、ように。
ただひとり、貴方の名前だけを。
……如月…さ…ん……
僕の声は。
僕の想いは。
貴方に。貴方に届いただろうか?
僕のこの想いは。
貴方の場所まで届いたのだろうか?
僕のこの声は。
貴方のこころまで届いたのだろうか?
―――届くと、いいな……
俺はその時、本物の修羅を見た。
炎を背中に、何よりも残酷な顔で笑う悪魔を。
綺麗だ。綺麗だ、綺麗だ。
―――そして怖い。
怖い、怖い、怖い。助けてくれ。
助けてくれ、助けてくれ。
―――助ケテ…クレ……
「やはり貴様は僕に殺される為だけに生まれてきたんだ」
―――殺される為に?お前に殺される為だけに?
「さようなら」
―――お前に、お前に、殺される為……
「ぎゃあああああああああっ!!!!!」
血。血、血。
俺の血。
俺の血が。
俺の血が降り注ぐ。
降り注ぐ、断末魔の叫びに。
ああ、俺は死ぬんだな。
死ぬのか。
そうか死ぬのか。
死ぬのか。殺されたのか。
そうだよなぁ、俺は。
俺はお前に殺される為に生まれてきたんだからな。
そうだ、お前に殺される為だけに。
殺される為だけに、生まれてきたんだ。
俺が自分の玩具に紅葉を選んだのも。
俺の娘がお前を愛したのも。
その全てがただ。
ただお前に殺される為に布かれた運命。
そう、全部が。
全部が、その為だけに。
こうやってボロ雑巾のように殺されるのが。
それが俺か生きてきた意味。
お前に殺されるのが、俺にとっての意味。
―――それが…俺の…生きていた理由……
それは。
それは…しあわせ…なのか?……
…いや…違う……
…クズである俺に…そんな事を言う権利はないんだ……
「……死んだか…ゲスめ……」
血まみれの屍を見ても僕は何の感傷も沸きはしなかった。いやただ今僕にとって存在するのは『死んだ』と言う事実だけだった。それ以外になにひとつ浮かんではこなかった。
それよりも。それよりも僕は。―――僕は……
「…紅葉……」
背中の激しい出血のせいで頭がくらりと廻る。それでも僕は気力を振り絞って自らの最後の力を振り絞って。
―――地上に『雨』を、降らせた……
ああ、これで。
これで君が助かれば。
君が助かれば、それで。
それで僕はいい。
君を。君を傷つけるものはもう何もないよ。
僕がこの手で始末したから。
だから、紅葉。
―――紅葉…もう君は…自由なんだ……
どさりと、音が聴こえた。
それ以外の音は僕には聴こえなかった。
もう何も。何も聴こえなかった。
「如月さんっ!!」
駆け寄ろうとして。
そして、身体が思うように動かない事に気付く。
その時初めて。
初めて、身体が焼けるように熱いと。
熱いと、気が付いた。
「…如月…さんっ……」
手を、伸ばす。
貴方に少しでも届くようにと。
手を、伸ばす。
貴方に少しでも触れられるようにと。
―――一生懸命に手を、伸ばした……
「…玄武……見ツケタ……」
少女の声が何処か遠くから聴こえてきた。けれどももう。
もう僕にはその言葉を理解する事は出来なかった。
「…四神ノ血…惹キ合ウ…ソレガ運命…」
貴方に手が届く前に、僕は。
―――僕は、その場に崩れ落ちた。
「……黄龍ノ器…護ル為………」
―――雨は、降り続ける。
全てを。全てを洗い流すように。
……そして、君の涙のように……
End