―――俺等はずっと、永い事夢の中にいた。
そこはひどく優しくて、とても心地好かったから。
だからその夢が終わりへと、向かっているのを分かっていても。
俺はわざと気付かない振りをしていた。
もうすぐ世界の終わりが来ると、分かっていても。
――――もうすぐ世界の終わりが、くると。
「……龍麻、紅葉だ…今日からお前の弟だ……」
そう言って父親は産まれて間もないような、小さな赤ん坊を抱えていた。
「……弟?………」
龍麻はその父親の手の先に有る小さな命を見つめた。その途端幼すぎる黒い瞳が、真っ直ぐに龍麻を見つめ返した。その色彩はまるで、綺麗な夜空の色を切り取ったようだった。
「……く、れは?………」
龍麻は確かめるようにその名を呼んだ。その途端、彼はまるで天使のように微笑ったのだ。
「……紅葉………」
その日以来、龍麻の世界はいつも夜空が、存在していた。
―――差し延べる腕に指を絡めたのは、他でも無い自分だった。
ここには何も傷付けるものが無いから。ふたりはまるで水底に住む魚のように、眠っていた。
手足が延びても、骨の形が少しづつ変わっても、ふたりは気付く事無く水底で眠り続けるのだ。
もうすぐこの世界に、終わりが来る事も気付かずに……。
―――出ておいで、紅葉。
初めてその声を聞いた時、空にはバナナ・ムーンがぽっかりと浮かび上がっていた。
――――もうすぐ世界は終わるんだ。
大きな手が差し出され、紅葉を導く。しかし紅葉はこの手を取る事は出来なかった。この手を取ってしまったらもう、二度とここには戻る事は出来ないから。
この閉鎖された『子供』だけの空間に。
――――おいで、紅葉。
けれども、そう言って優しく微笑む笑顔も。柔らかい眼差しも。その全てが。
その全てが紅葉の心を魅きつけて、離さなくて。そして。
瞳の奥に焼きついた残像を、消すことは出来なくて。
ここには自分たちを傷付けるものも、自分たちを叱ってくれる大人も居ない。ここは子供だけの楽園。誰にも邪魔される事の無い閉鎖された空間。
「紅葉、御飯食べよう」
「はい」
自分を呼び出す龍麻の声に紅葉は頷くと、ぺたぺたと音を発てながらキッチンへと向かった。
「今日は君の大好きなハンバーグだよ」
そう言うと龍麻はテーブルにおかずを並べてゆく。まるで魔法を使うように龍麻は、様々な料理を作るのだ。そしてそれらはどれもがとても、美味しくて。
「いただきます」
紅葉は一言告げると、素早く食事に取り掛かる。そんな彼の仕種に自然と龍麻の口元に笑みが敷かれる。まるで子供みたいだと。
そう、自分たちは子供なのだ。この家に居る限りずっと、子供でいられるのだ。無邪気なままの子供で。
自分たちに両親は居ない。血の繋がらない兄弟である自分たちは、ずっとふたりだった。
産まれた時からずっとふたりで育って来た。この小さな家でずっと、ふたりで。
そしてこれからも。ずっと、ふたりきりだった。
四角く区切られた空間から満月がぽっかりと覗き込む。それをぼんやりと眺めながら、紅葉は窓枠の上に腕を組んで『彼』を、待っていた。
生まれてからずっと、この家の空間だけが紅葉の全てだった。そして龍麻だけが自分の世界の全てだった。なのに。
なのに、そんな紅葉の世界に彼は突然に現れた。それは本当に突然に。
そしていつのまにか『彼』は紅葉の世界の全てを。自分の全てを、占めてしまうようになってしまったのだ。
「如月さんっ」
窓の外から自分を覗く人物に、紅葉の顔が途端に嬉しそうになる。そんな彼に柔らかく如月は、笑って。
「待っていたの?僕を」
鍵の掛かっていない窓を開けると、目の前の紅葉の髪にそっと指を絡めた。その大きな手はひどく、優しくて。
「うん。ずっと、待っていました」
紅葉はそう言うと、窓から上半身を乗り出して如月の首筋に腕を絡める。そんな彼を如月は広い腕で支えてやった。
「……もう来ないかと…思っていたから………」
紅葉はぽそりと呟くと、耐えきれずにぎゅっと如月にしがみつく。そんな動作がひどく子供のようで、如月の口元に笑みを浮かばせた。
―――何も、知らない紅葉。大人から叱られた事も、他人と付き合った事も、学校にすら行った事の無い紅葉。
この閉じられた空間の中で何者にも傷つけられず、何事も知らずに、育ち続けた彼。無邪気な子供のままで。
でもそれは、間違っている。いつまでも子供のままではいられないのだ。そして、いつかはここから出て行かなければならない。紅葉が気付かなくても、確かに指の形は去年とは違うし、世界も少しつづ変化しているのだ。だからこのままでは、いられない。
「―――紅葉………」
如月の低く微かに掠れた心地好い声が、紅葉の耳元に響く。自分は如月に名前を呼ばれるのが何よりも、好きだった。
「何?」
「―――おいで、紅葉」
如月の手が紅葉の細い腰を掴み、そのまま抱き上げる。そして大きな窓から彼の身体を外へと出してしまう。
「……如月、さん………」
戸惑いながら縋るような瞳で、紅葉は如月を見つめた。今までこの家から一歩も出た事の無い紅葉にとって『外』は未知の世界なのだ。不安になる心を抑えられる筈が無い。
「大丈夫だよ、紅葉。僕が居るから」
そう言って如月は笑う。その顔はとても、綺麗で。だから紅葉は如月の腕を拒む事は出来なかった。
―――例え、この世界に二度と戻れないと分かっていても……。
それは漠然とした、予感だった。
けれどもその予感は正しかった。何故ならば。
紅葉は知ってしまったから。『外』の世界を。
危険で強かな『大人』の世界を。でも。
でもそれは。決して怖いものではなかった。
如月がいたから。如月が傍にいてくれたから。
「わあー」
紅葉は余りの人の多さに、驚きを隠しきれなかった。生まれてからずっと龍麻以外の人間を知らなかったのだ。
漠然と知識として人が沢山居ると知ってはいたが、こうして実際の目で見てみるとそれは想像以上の驚きだったのだ。
「凄いかい?」
「うん、凄いです」
如月の問いに紅葉は素直に頷く。彼は純粋に感動していた。本当にこの世界は紅葉の知らないものだったから。だから。
「今は夜だからそれ程でも無いが、昼になればもっと凄いよ。こんな風に気軽には歩けない程にね」
「へー想像付かないです」
首を傾げて考える紅葉に如月は、くすりと笑う。
―――このままでいさせてあげたいと、如月は思う。このまま何も知らないままで純粋に。でも当麻が外の世界を知っていく以上このままでは居られないだろう。
それでも。それでも、如月は。そんな紅葉の心が壊れないように、護ってやりたいと思う。その心が傷ついてしまったら、癒えるまで拭ってやりたいと思う。
それは自分勝手な想いかもしれないけれども。それでも。
「教えてあげる、僕が。君の知らない事は全部」
「本当ですか?」
「ああ、何でも教えてあげる。だから………」
―――だから、僕の傍にいてくれ…………。
――――それは切実な想い。哀しい程の。
「―――紅葉………」
「何?龍麻」
ソファーの上に寝そべって本を読んでいた紅葉に、龍麻はゆっくりと近づくとその名を一つ呼んだ。
「昨夜、何処へ行っていたの?」
龍麻の言葉に紅葉の身体が目にも分かる程、ぴくりと震える。そして不安気な瞳で、龍麻を見つめ返した。
「駄目だよ、そんな瞳をしても。ここから出ちゃいけないってあれ程言っただろう?」
「……だ、だって………」
「だってじゃない。お前の場所はここしか無いんだ。ここに居る限り、お前の安全は保証されているのだから」
「―――安全?」
「そうだよ、お前はずっとここに居ればいいんだ。俺が護ってあげるから。ずっとずっと、護ってあげるから」
そう言って龍麻は紅葉をそっと抱きしめた。その腕は優しかったけれど。けれども紅葉の欲しい腕では、なかった。
――――僕が、欲しい腕じゃない。
「……離して…龍麻………」
紅葉は弱々しく首を振ると、龍麻の腕から逃れようと身体を捩る。しかし龍麻の腕は容易に紅葉を離してはくれなかった。
「駄目だよ、俺から逃げちゃ。お前を護れるのは俺しかいないのだから」
ずっとずっとふたりきりだった。ずっとずっと自分が紅葉を護っていた。自分たちの父親から。自分たちの母親から。この血の繋がらない可愛そうな弟を。ずっと、自分が護ってきたのだ。
「やだっ龍麻っ離してっ!!」
しかし紅葉は抵抗をする。この腕から逃れようとする。この世界から、飛び立とうとする。その背中の白い翼で、自分の知らない世界へと。
「やだっ!!」
咄嗟に龍麻を突き飛ばして紅葉は、その場を駆け出した。龍麻は追い掛けようと走り出す。
―――その時、だった。
「…迎えに来たよ、紅葉……」
突然茫然と立ち止まった紅葉の目の前に。追い掛けて来た龍麻の視界に。彼が現れたのは。
「……如月、さん………」
紅葉はやっとの事でその名を呟く。夜空の瞳は未だ、茫然としたままで。
「どうしたんだい?そんな顔をして」
そんな紅葉に如月はひどく優しく笑うと、そっと彼の髪を撫でてやった。紅葉が大好きな、大きくて優しいその手で。
「―――誰ですか?貴方は。人の家に勝手に上がり込んで」
そんな二人に割り込むように龍麻は強い口調で言った。許せなかった。自分以外の人間が紅葉の名前を呼ぶ事に。そして紅葉に触れる事に。
「失礼、僕はこういうものだ」
如月はそう言うと一枚の名刺を差し出す。それを見た途端、龍麻の身体がぴくりと震える。
「……龍麻?………」
その只事では無い龍麻の様子に気付いた紅葉が、不思議に思って尋ねてくる。しかし龍麻はそんな紅葉の言葉に気付く余裕すら無く、彼にしては珍しく感情を剥き出しの瞳で如月を睨み付ける。
「何で今更来るんだよっ!俺等は幸せにやっていたのに、何で今更っっ!!」
「先日、紅葉の母親が亡くなられた」
「―――え?………」
「その時の遺言だ」
そう言うと如月は龍麻にそれを差し出した。その紙には、一言―――紅葉を、頼みます…と。
「……な、何を今更………」
「お母さんはいつも気にしていた。十六年前に捨てた自分の息子を。とても、気にしていた」
「だからって、捨てたのはあんた達のせいだろっ?!それを今更っ!!」
「それは痛い程、分かっている。だから僕は償いたいと思う」
「償うだって?笑わせるよ。一体貴方に何が出来るって言うんだ?何も知らないくせに何が出来るって言うんだっ?」
「少なくとも、この想いがある」
如月の瞳がふたりの会話の意図が掴めずに、戸惑っている紅葉へと向けられる。その瞳はとても、とても優しくて。紅葉はひどく胸が、震えた。そして。
「おいで、紅葉」
そう言って再び紅葉に手を差し出した。彼は躊躇う事無くその手を取る。紅葉は、知っていた。自分がこの手を離す事が出来ない事に。昨夜差し出した腕を取ってしまった時から。
いや、初めて如月にその腕を差し出された時から。ずっと、自分は。
「行くなっ紅葉っ!」
「……龍麻………」
「ここから出て行ったらお前は傷付くだけだ。何も知らないお前が、あんな汚い社会に耐えられる筈が無い」
ずっと無垢なまま。子供のままの、無垢な魂の紅葉。醜いものを汚いものを、何も知らない紅葉。そんな彼が、外の世界に耐えられる筈が無い。傷つくだけだ。綺麗な心を傷つけるだけだ。それならば。それならば、このままで………。
「龍麻、君は気付いている筈だ」
しかしそんな龍麻の心情を見透かしたように、如月は言う。いや見透かしているのだ。その綺麗な漆黒の瞳は、真実しか映さない。
「『このまま』でいられる筈が無いと、気付いている筈だ」
いつまでも、このままで。このままでいられる筈がない。何故ならば、自分は確実に大人になって行く事に気付いているから。紅葉だけが子供のまま、ここに居るから。
少しづつずれ始めた時間は、いつしか取り返しの付かない所まで来てしまう。今は、自分が紅葉を護る事が出来るけれども、自分が大人になってしまった時にそれは可能なのだろうか?子供のまま置き去りにしてしまった、紅葉を。
「本当に紅葉を護りたいと思うなら、何故一緒に連れて行ってやらない?紅葉だけを子供のまま取り残して、それで紅葉を護れると思うのか?」
いつしか自分はこの家から、去っていかなければならない。その時になっても紅葉は子供のままならば、確実に今よりも彼は傷付くのだ。苦しむのだ。それがどんなに残酷な事か。
「ならば、貴方は紅葉を連れていけるのですか?貴方は『大人』ではないですか?」
「連れて行ってやる。僕の全てを懸けて、紅葉を」
「……如月さん………」
縋るような夜空の瞳が、如月を見上げてくる。そんな紅葉を安心させるように彼は微笑した。そう、その言葉は嘘ではないのだ。昨日、如月は紅葉に言ってくれた。
―――知らない事は全部、教えてあげると。如月は紅葉に言ってくれた。
「……僕…如月さんと、いたいです………」
ぼそりとしかし紅葉ははっきりと言った。今まで自分の意思を殆ど持っていなかった紅葉が。ちゃんと、自分の意思で。
「…ごめんなさい…龍麻…僕龍麻の事大好きだけど…でも………」
紅葉の手が如月のワイシャツを掴むとぎゅっと、握り締める。そして。
「……でももっと…如月さんが…好きなんです………」
今までの日々を全部、失くしてしまっても。それを引換えにしても、紅葉にとって如月の存在は大きかったから。大きくて、紅葉ですらどうする事が出来ないくらいに。
「…如月さんが…大好き……なんです………」
「……紅葉………」
如月の手が紅葉を宥めるようにそっと、髪を撫でてやる。何度も、何度も。
「…狡いね、紅葉………」
そんな紅葉に龍麻は何とも言えない笑みを浮かべて。そして。
「……お前こそ、俺を置いていくんだね………」
「………たつ…ま……」
「分かってる、これは俺の我が儘なんだ。なんだかんだ理由を付けて、お前を誰にも渡したくないだけなんんだ。だってお前は、俺のたった一人の弟だからね」
本当は、違うけれども。本当の気持ちを言えば紅葉が困るだけだろう。それだけは、したくなかった。
「……ごめんなさい、龍麻………」
「いいよ、もう行きな。如月はお前の本当の兄だ。十六年前にお前を捨てた父親の息子だ」
「……えっ?………」
龍麻の言葉に驚いて紅葉は、如月を見上げる。それは全く紅葉の想像しえなかった事だった。自分の兄は龍麻だけだと、信じていたのだから。
「……嘘………」
「お前は幼い頃俺の家に引き取られたんだ。妾の隠し子だった為にね。御陰でお前は両親の愛情を知らないで育った」
そんな紅葉を龍麻の両親は良く思っていなかった。確かに自分の上司の頼みとはいえ、彼は厄介な存在でしかなかったのだから。そんな紅葉の扱いに耐えられなくて、龍麻は紅葉をこの家に連れてきた。両親からも汚い社会からも護る為に。
学校すら行かせて貰えなかった紅葉に勉強を教えたのも、彼の世話をしたのも全部自分だった。
「でも俺はお前を閉じ込めてしまった。お前の世界を閉鎖してしまった」
幾ら紅葉を大切に思っても、幾ら彼を大事にしたくても、これは只の押しつけでしかなくて。エゴでしか無くて。だから。
「―――行きなよ、紅葉。もうこの世界は閉じてしまおう」
「……龍麻………」
「さよなら、紅葉」
そんな龍麻に泣きそうな瞳を見せて、紅葉は彼の腕を取って消えた。そんな紅葉を見届ける龍麻に、一度だけ如月は頭を深く下げて。そして。
―――俺たちの子供の時間に、終わりを告げた。
いつまでもこのままでいられたらと。何度願った事だろうか?
―――紅葉、ずっと俺が護ってあげるよ。
俺が全てのものから、護ってあげるから。だから。
ずっと、ここにいるんだよ―――
カチャリと金属音が響いて、扉に鍵が掛けられる。もう二度と開く事のない、扉に。
この家に全てを閉じ込めてしまおう。自分の子供の時間と、自分の紅葉への想いと。
―――この空間に、全てを。
いつしか時が過ぎて自分が『大人』になった時に、優しい思い出として振り返られるように。いつしか、暖かい想いとして。
「………さよなら、俺の―――」
――――夢が夢のままでいられた、俺等の子供の時間に………。
End