その声を、きかせて 中編


窓から外を覗けば、激しい雨が降り続いていた。雨は、嫌いではなかった。良くも悪くも僕の身体には飛水流の血が流れていたし、こうして嫌がおうでも『水』と言うものにある種の懐かしさを感じるようになっていたから。だからと言って飛水流を認め受け入れていると言う訳でもなかったが…。
僕は祖父に似ていると言われた。実際自分でも嫌と言うほどに実感する事がある。飛水流と言う執着しないモノが無い頃の祖父は、きっと僕の性格に生き写しだったのだろう。
ただ僕と祖父とでは決定的な違いがあった。彼には執着するものがあって、僕には無かった。そして。そして最大の違いは、僕には護るべきものが何もない。家と血と言うモノに全ての執着と人生を懸けたあの人とは違い僕には何も無い。何も、無かった。
―――無かった……
自分が過去形で思ったことに苦笑を隠しきれない。護るべきものなんて何もない。執着するものなんて何もない。ただ。ただ、欲しいものがある。
「…壬生…紅葉…か……」
欲しいとは執着ではないだろうか?護りたいものではないのだろうか?そこまで考えてそれでも僕は否定する。否定しなければ、ならない。その感情を今の君に僕は向けてはいけない。そして僕もその想いを君へ募らせてもいけない。それではどうにもならない。

――――今の君を手に入れても、永遠に本当の君は手に入らない。

多分君はもっと、もっと綺麗だ。
もっと純粋で、もっと無垢だ。
流され空っぽの、君の中に在る。
本当の君が、僕は欲しいんだ。

…だって本当に君が空っぽだったら…そんな綺麗な瞳をしていないだろう?……

降り続ける雨。まだ止まない雨。僕はそれをずっと、見ていた。
落ちてゆく雫をただ何をする訳ではなく、ずっと。ずっと見ていた。



その声を、聴かせて。
心の奥に閉じ込めている。
その叫びを、その想いを。

その声を、きかせて。


何時しか雨は上がっていました。それと同時にうっすらと空も明けてゆき、睫毛の先に光を零してゆきました。
「…帰らないと……」
結局僕は消えませんでした。あれからずっと雨に当たっていたのに、雨は僕を溶かしてはくれませんでした。立ち上がって、初めて寒さに気付いてひとつ身体を震わせて。その時になってやっぱり僕は生きているんだなと、ぼんやりと思いました。
髪先から、服の裾からぽたりぽたりと雨の雫が堕ちて行きます。でも不思議と気にはなりませんでした。ただ寒いなと、それだけを思いました。
他の人から見たらきっと僕は狂っていると見えるのでしょうね。傘もささずに、雨に打たれたまま。何時間もコンクリートの上に座ってぼんやりと時を過ごして。ただ身体に付いた血が流れてくれればいいと。流れて消え去ってくれればいいとそれだけを思って。
「…寒い…な……」
こんな時に館長の腕を思い出す僕は哀れなのでしょうか?愛とか、恋とかそんなモノは僕とあの人の間にはありません。ただ僕は生きてゆくにはあまりにも子供で、何も持っていなかっただけなのです。僕が持っているのは僕自身以外にありませんでした。この身体以外にありませんでした。だからそれをあの人に差し出した、ただそれだけなんです。
―――オカシイと、他人は言うでしょうね…可哀想だと、言うでしょうね。
でもただの15、6才の、病気の母親を抱えた子供が生きる手段が他にあるでしょうか?
もしも僕が死を選ばずにこうしてただ流されながらも生きているとしたら…きっと母親と言う枷があるからなのでしょうね。
もしかしたら僕は。僕は母親の為に生きているのかもしれませんね。

―――何の為に、生きている?

僕を見据える真っ直ぐな瞳。
反らされる事の無い視線。
何もかもを見透かすような瞳。

―――何の為に、生きているのか?

その先を、知りたくない。
僕は何も考えたくない。
何も、何も、何も。


本当は昔から、欲しいものがひとつだけあった。どうしても欲しいものが、あった。



何時ものように龍麻に呼び出され、人外のモノと戦い終わって一息付いた時に気が付いた。
「―――壬生は?」
つい声にしてしまい後悔した。僕と彼の接点は何も無く、まして僕がその名前を呼ぶ事事態が稀だったからだ。更に今自分はつい素に戻って声に感情を込めてしまった。今までひたすらにペルソナを被っていた僕にとって、それは些細でありながら致命的な失敗だった。
「驚いた…如月が壬生の事を気にするなんて」
予想通りに龍麻が驚いたように僕に近付いてきた。よっぽど僕は普段とは違う声で彼の名を呼んだのだろう。龍麻の顔は本当に、驚いた表情をしている。
「仲間だから、当然だ」
「そうだよな如月は仲間思いだからな。うーん俺も壬生の事は気になっていたんだよ。携帯に掛けても繋がらないし…あいつ絶対に連絡きちんとくれる奴だから……」
―――仲間思い…その言葉の白々しさに心の中で笑った。決して表面には出さないけれど。こんなにも他人に対して冷たい人間を目の前にして、と。でも僕は今までそうやって生きてきたし、きっとこれからも。これからもそうやって生きてゆくのだろう。
「心配だな…壬生の家に寄ってみようかな?…」
「―――家?龍麻は知っているのか?」
「一応、でも言った事は無いけど。あいつはプライベートを覗かれるのがイヤなタイプみたいだから。そう言う所…如月に似ているよね」
何処まで本気でこの台詞を言っているのか判断しかねたが、取り合えず微笑って曖昧に誤魔化した。別に龍麻が僕をどう思おうが別に、構わなかったが。それよりも。
「僕が行こうか?」
「如月?」
「龍麻はこれから何時ものように蓬莱寺達とラーメンを食べに行くのだろう?僕はもう今日はする事が無いから変わりに様子を見てこよう」
自分でもよく言うなと思った。よくもこんな事を言っていると。でも今はそれよりも自らの欲望の方が勝った。―――彼を知りたいと言う欲望が…
「下心アリかな?」
「――え?」
「ううん、何でも無いよ。ただ如月って壬生を見ている目が他の人と違うから」
「…そんな事は無いと思うが…」
「俺はね、策士と面の皮の厚い狸は見破るのが得意なんだ…ってまあいいけど…。でも本音言うと…二人は近付いて欲しくないな」
―――見破られていたのか…僕にとっては君のほうが面の皮の厚い狸に見えるけど…でもまあ、だからこそ君は『黄龍の器』なのかもしれないね。
「どうしてだい?」
「どちらかが壊れる…いや二人とも壊れるから」
「僕が壊れると思うかい?僕が、壊すんだよ」
「そうだね、違う。如月が壬生を壊すんだ―――それは…困る…」
「―――何故?」
「俺と壬生は表裏一体だから。彼は俺の半身だから。壬生が壊れれば俺が壊れる」
「………」
「知らなかっただろう?でも本当の事だよ。壬生はもう一人の黄龍の器。俺の半身…」
「それは、焼けるな」
「やっと本音を言ったね。でも壬生には無数の枷が掛けられている。だって彼は絶対に殺せない、けれども生きさせられない」
「つまり生殺しとでも言うのかい?」
「壬生に死んでもらっては困る。けれども力を持ってもらっても困る。あくまでも壬生は裏の存在だから。彼が黄龍の器になったら…世界は破滅だ。彼は俺が生きている間は…ずっとこのままでいてもらわないと困るから」
「そうか…そう言う事か…」
「頭のいい如月になら分かるよね。今この時代に黄龍の器は一人でいいんだ」
「―――つまり壬生は……」

「君の『代用品』だと言う事だ」

「今ここで君を殺したら、壬生が黄龍の器になる」
「怖いな、如月は。だから言いたくなかったんだよ。壬生を近づけたくなかったんだよ」
「君を僕が殺すとでも思っているのかい?」
「―――如月が壬生を本当に手に入れようとするならば…そうするだろう」
「………」
「そうすれば『本当』の彼に逢えるだろう?」


生かされず、殺されず。
ただ息をしていればいいだけの存在。
無数の糸と枷に捕らわれた身体と心。
だからなのか?
だから僕は君に惹かれるのか?
その鎖と枷を解きたいと思うからなのか?

――――いや、違う…そんな事じゃない……


「ああでもきっと如月は、そんな事はしないね」
「どうしてだ?」
「だって壬生を独占したいだろう?そうしたら彼を龍の生贄なんかにはしないだろう?」
「生贄…君はそれでいいのか?緋勇龍麻と云う自分の入れ物を龍に渡しても」
「いいんだよ、器はそうやって生まれ消費される運命なのだから。それが力の代償なのだから」
「壬生も消費されている…君の代用品として…」
「でも如月も消費されているんだよ」

「―――飛水流の血と、そして四神の血に」

消費される、運命。消費される、魂。
そこに個人の意思などなく、ただあるのは。
あるのは世界の意思のみ。
その中で個人は抹殺される。
ただ、抹殺されるだけ。

――――淋しい子供が、欲しがるもの……

「俺は力を得る為に、後悔も何もない。緋勇龍麻の意思は黄龍にある。でも、如月にはない。そして壬生にも無い…同じだね」
―――淋しい子供が、欲しがるものを求めて……
「ふたりは、同じなんだよ。こんなにも違うのにね」
―――ただひとつのものを求めて……
「全然違うけど、一緒なんだね」
―――たったひとつの、ものが欲しかった……
「ここに書いてあるよ、壬生の家。行って来て、確かめてきたら」
「…ああ……」

僕は龍麻からメモを受けとって、そのまま真っ直ぐに彼の家へと向かった。

 

End

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