ひとは、独りで生まれて。独りで、生きてゆく。
認めたくなかったのは、何もない僕自身なのか?
それとも何もないことに気付いて惨めになる僕なのか?
どっちだったんだろう?どっちだったのか?
それとももっと別の。心の奥底で叫んでいた言葉を認めたくなかっただけなのか?
『ひとはしあわせになる為に、生まれて来たんだ』
自分がその言葉を云える人間だと、胸を張っていられるだろうか?
そんな言葉を云えるほどの事を自分はしているのだろうか?
何処かで何かが、割れる音がしました。けれども目を開けようとしても、瞼が重たくて開けることが出来ません。開けようとしても、身体を動かそうとしても。何だか僕の身体の上に重たいものが圧し掛かっていて、潰されてしまいそうでした。潰される…このまま潰されたなら、僕は。僕は、消える事が出来るでしょうか?
―――壬生…お前はまだ死ねない……
声が聴こえてきました。誰の、声?誰の…ああ、これは館長の声……
―――どんなにぼろぼろになっても『生きて』貰わないと困る。
でも僕少し疲れてしまいました。このまま眠って、永遠に眠ってしまいたいんです。
―――このままでは廃人だな…どうするか?
…廃人…?違う…貴方は館長じゃない…誰?…誰ですか?
―――記憶を消せばいい。そしてすり替えればいい。簡単な事だ。
記憶を、消す?すり替える?
―――さあ、忘れるんだ。今起きたことを全て。そして。そしてお前はこれから俺の手となり足となれ。暗殺者としてしか、生きられないように。
…違う…僕は…僕は…人殺しになんて…なりたくない…人殺しなんて…人殺しなんて……
―――キャアアアアアっ!!!!!
悲鳴が、聴こえる。女の人の悲鳴。
ああ、僕は。僕はこの声を知っている。
よく、知っている。知っている、声だ。
―――……あ…さ…ん……
お願いです、このまま僕を。
僕を眠られせてください。
もう僕は目覚めたくは無いんです。
現実を見たくは無いんです。
真実を、見たくは無いんです。
―――何も、何も、見たくはないんです……
死なせて、もう。
―――は……
僕を、死なせて。
―――れ…は……
お願いだから、もう僕を。
―――くれ…は……
…もう僕を、解放して……
「―――紅葉っ!」
ひかり、一面のひかり。
強い、強い、ひかり。
眩しい光。ああ、目を。
目を、開ける事が出来ない。
「紅葉っ!!」
でも、でもでも。
ああ、どうして?
どうして?こんなにも。
こんなにも目を開けたいの?
目を開けて、顔を。
貴方の顔を、見たいの。
―――貴方を真っ直ぐに見つめ返したい……
そこは高校生が独り暮らすには、不似合いなほど大きなマンションだった。龍麻から聴いた事はただひとつ。―――このマンションに独りで壬生は暮らしている、と。
紙に書かれた部屋に辿り着けば、そこは最上階の奥まった部屋だった。立地条件と場所から言ってただ一介の高校生が払える額ではない。
それに噂好きの誰かから聴いた事がある。彼は病気の母と二人暮しで、その入院費を稼ぐ為に拳武館の暗殺者になったのだと。だとしたら、考えられる事は一つ。
「ゲスの勘ぐりでありたいけどね」
―――誰かが資金を援助している。彼の何かを代償に。そして何も無い筈の彼が代償に出来るものとすれば。
「もしも君に億単位の金を積む男がいたら…僕がその倍を出して君を買い取ろうか?」
口に出したら乾いた笑いが零れた。実際に自分はその札束を積み上げる事は出来るだろう。けれども、それは自分が最も嫌悪する金ではなかったのか?
扉をノックするが、反応は無かった。ブザーを鳴らしても無駄だった。セキュリティーの強化されているこのマンションでは侵入も容易くないのかもしれない。
「こんな時に飛水流の血とはね」
屋上へと移動し、そのまま壁伝いにベランダへと潜入した。窓から部屋の様子が伺える。驚くほど何も無い部屋だった。外見の豪華さとは正反対の質素な部屋。いや、違う。とにかくモノが無いのだ。必要最小限の物以外に何も無い部屋。そこに『生活』は何も感じられなかった。唯一感じたのは無意味に大きなペッドだけ。一人で眠るにはあまりにも大きな……。
―――どくんと、胸が騒いだ。ああ、今自分は。自分は見た事も無い人間に嫉妬している。彼をこのベッドの上で自由にしている誰かを。
僕はどうしようもない程に、見えない誰かを殺したいと思った。
窓から見える範囲で彼の姿を探したがその姿は見当たらなかった。もう一度視線を送る。
「―――っ!」
カーテンの陰に隠れた場所に黒い髪が見えた。床に零れている髪。僕はそれを見た瞬間、何もかもを忘れて窓をぶち破った。
「紅葉っ!!」
初めて。初めて、彼の名前を呼んだ。
どうしてだろうか?一度も呼んだ事など無かった。
そう君を呼んだ事はなかった。
でも今この瞬間。この瞬間迷わずに零れたのは。
―――零れたのは、君の名前だけだった。
「紅葉、紅葉っ!」
床にうつぶせに倒れている君の身体を抱きあげる。ひんやりと冷たい身体だった。ただ額と頬だけが異常に蒸気していた。
「紅葉っ!!」
身体を揺さぶっても反応が無い。ただ耳を近づけて微かにした呼吸音だけが、唯一の安堵の材料だった。
「紅葉、目を開けてくれっ」
ひんやりとした身体がどうしようもなくイヤだった。イヤだったから強く…きつく、抱きしめた。君の体温ぬくもりを少しでも感じたくて。感じたかったから。
「紅葉っ―――!」
失いたくないと。失いたくない、失いたくない。君を失いたくない。やっと。やっと見付けたのに。やっと探し出したのに。君を、君だけを。やっと、僕は見付けたのに。
―――見付けた?……
見付けた?見付けた?僕は、何を見付けたのか?
僕の生まれてから一番最初の記憶は、真っ赤な血の海だった。一面に広がる血の海を、僕はぼんやりと見ていた。
白い壁に血飛沫が飛び散って、床にはぽたりぽたりと真っ赤な花びら。僕の頬にも身体にも大量の血が浴びせられ、そして。そして、真っ白に目をひん剥いて倒れている祖父。
血塗れで胸から大量の血を流して。流して倒れていた祖父。そして。そして…
…そしてそこには…僕と同じくらいの…子供が…いた………
『―――キャアアアアアっ!!!!!』
どうして、ねえ。ねえ、お母さん…お母さん…僕…僕お母さんを護ったのに…護ったのにねぇどうして…どうしてそんな怖い顔で僕を見るの?…どうして僕を見て怯えているの?
…ねぇ…ねぇ…ねぇ…お母さん…どうして?
――――どうしてなのですか?お母さん…答えてください……
「いやだああああああああああああっ!!!!!!!!!!」
ああ、ああ、ああああ…そうだ僕は…僕は僕は…僕は……僕は……
…殺したんだ…殺したんだ…殺したんだ……
お母さんに襲いかかった老人を手に持った包丁で胸を刺して、刺して、刺して……
……刺して…そうして…そうして…僕は…僕は…あああ……
僕は…ただ…ただ、ただ…お母さんを…助けたくて…助けたくて…助け…たく…て……
『ヒイイイーーっ!!悪魔っ!!!!人殺しーーっ!!!!』
ねえ、お母さん、僕は貴方の子供ではないのですか?
貴方の子供ではないのですか?貴方の産んだ子供ではないのですか?
それならば、僕は。僕は何処から産まれて来たのですか?
何の為に産まれて来たのですか?どうして僕は産まれて来たのですか?
――――いらない命なら、どうして生んだのですか?
鬼のような目で、お母さんは僕を見て。
そして。そして僕の首をきつく締めました。
「ああ、僕は…僕は…僕は…僕は…あああ…僕は………」
「―――紅葉……」
「…ああああ…ああああああ…僕は…僕は…僕は…うあああああああっ!!!!」
「紅葉っ!!」
きつく、抱きしめた。骨が折れるまで。君を、君をきつく抱きしめた。
このまま壊れるなら、紅葉。紅葉、僕が君を壊す。
―――僕の腕で、君を壊すから……
祖父の死体前で女の人が暴れていた。狂気の瞳で目の前の子供をなじっていた。突き飛ばし、蹴り上げそして。そして首を締めていた。そうだ、そうだ僕は。
―――僕はその女の人を、落ちていた包丁で刺した……
祖父がその部屋で何をしているのかは幼い僕でも想像が付いた。薄暗い部屋の中で女の人の泣くような声が、祖父の荒い息が聞こえてきた。
『君は、誰?』
その部屋の外で何時も。何時も小さく膝を抱えていた少年。僕と同じくらいの年の少年。ぽつりと独りで、膝を抱えていて。淋しそうで…淋しそうだった、から……。
『…紅葉……』
漆黒の瞳が僕を見上げてきた。深くて哀しい瞳が。綺麗で哀しい瞳が、僕を。
―――僕を真っ直ぐに、見ていた……
小さな子供が、欲しがっているもの。
『紅葉、いい名前だね』
『―――でも嫌い』
『どうして?』
『しあわせになれないから』
『―――?』
『お母さんが言ってた…血の色が入っている名前…決してしあわせになれないって』
『でも君の両親がつけてくれた名前だろう?』
『お父さんは…いない…僕は『私生児』だって言っていた』
『…紅葉……』
『だから僕にはお母さんだけ』
そう言って、微笑った君。とても綺麗に笑った君。
僕は。僕はその時君にそんな笑顔をさせる人間が憎かった。
ただ。ただ、憎かった。
―――お前はわしにそっくりじゃ…翡翠……
今になって分かった。その言葉の意味が僕は分かった。
僕は君の心を独りいじめしている、あの女が憎かった。
そして。そして君の命さえも奪おうとしているあの女が。
ただ、ただ憎かった。
―――執着するものだけに捕らわれて、ただそれだけの空しい人生。
それは。それは僕自身だ。
本当の僕は。本当の、僕は。
ずっとずっと君に捕らわれていた。
君に執着していた。ただの。
ただそれだけの為に、生きていた。
―――淋しい子供が、欲しがるもの。
「…紅葉…紅葉……」
「…あああ…ああ………」
「…紅葉…僕は……」
「……うああああ…ああああ……」
「…僕はずっと…ずっと…」
ああ、そうだ。そうなんだ。
僕が探していたもの。僕が欲しかったもの。
それは剥き出しの君。本当の君。
それは、この。この壊れた。
壊れた君、なのか?
『…如月…翡翠?……』
あどけない瞳で、君が僕の名を呼んだ。少しだけはにかんで、そして。
そしてそっと微笑った。そっと、微笑んだ。
――――僕は君のその笑顔が、欲しかった……
しあわせに、なりたいかときかれたら。
きっとぼくはいいえとこたえます。
しあわせになんてなれなくていいから。
そんなものいらないから。だから。
だから、ぼくをけしてください。
このよからぼくをけしてください。
―――ぼくはもうそれだけでいいんです。
「僕を、殺してください」
狂った瞳で、それでも。それでもそこだけ正気で君はそう言った。それが。それが君の心の声なのか?君のずっと閉じ込めていた声なのか?
「ころして、ください」
もう一度君は微笑って、そう言った。ひどく綺麗に微笑って。それは僕がずっと。ずっと欲しかった君の笑顔。こんな形で手に、入るのか?こんな形で、僕は。僕は欲しかったものを手に入れるのか?
記憶を、消された。僕と君は幼い頃の記憶を全て消された。君が僕の祖父を殺した事も。僕が君の母親を刺して…刺して…そして殺した事を。
―――そう、もう君の…君の母親は何処にもいないんだ……
「駄目だ、殺さない」
「…どうして…ですか?……」
「君はまだ本当の君じゃない。まだ最期の事実を見ていない」
「…最期?……」
「よく聴くんだ、紅葉」
「君の母親はもう何処にもいない。僕が殺したからだよ」
生きている理由?何の為に生きているのか?
きっと病気の母親を助ける為。助ける為に人を殺して、そして。
そしてあのひとに抱かれる。それが、僕。
――――それが今の僕の全て。今の僕の、全て。
「僕が殺したんだ。だから、君は生きて…生きて僕を憎むんだ」
淋しい子供が欲しがっているもの。
淋しい子供が欲しかったもの。
それは。それはただひとつ。
―――たった、ひとつ。
「…それは…できない…できない…ぼくは……」
「―――紅葉?」
「…できない…だって……」
「…だって…貴方が…好き……」
怖かったのは、貴方の瞳が怖かったのは。
向き合うのが怖かったのは。
認めたくなかったから。
認めたく、なかったから。
―――貴方を、好きだと云う事を……
そして、僕がどうして記憶を呼び戻すのを恐れていたか。
それは、僕は。あの時母親を殺した貴方を。貴方を、僕は。
母親よりも貴方へと救いを求め、そして。
そしてその手を求めた事への罪の意識。
初めから僕は。僕は母親よりも、貴方を想っていた。
―――淋しい子供が欲しがるもの…それは…愛情………
どちらが罪深いのか?
どちらが許されないのか?
もう今となっては分からなかった。
今となっては、分からない。
ただ。ただ一つだけ。
ひとつだけ、分かった事がある。
たったひとつだけ、分かった事が。
―――僕等は同じものを求め、そして同じ罪を背負っている……
君は壊れなかった。僕は君を壊せなかった。そこに見出したものは確かに互いのへの執着心と、それ以上の。それ以上の互いへの想いならば。それ、ならば。
その声を、聴かせて。
貴方の声を、聴かせて。
本当のこころの声を。
――その声を、きかせて。
今言える事はただひとつだけだった。僕が君を愛していると云う、その事実だけ。
End